埴輪研究法を考える(Historical)

古代史の論点(Historical)?

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埴輪研究法を考える

目次

   塚田良道「人物埴輪の形式分類」
   橋本博文「埴輪研究の動静を追って」
   まとめ

埴輪の研究を進めるに当たってどのような方法を取るべきか、塚田良道と橋本博文の対照的な方法を比較しながら考える。
1. 塚田良道「人物埴輪の形式分類」

塚田良道は、従来の埴輪の分類は、型式学的な体系性は意識されていないと批判した上で、人物埴輪の世界が何を表わしているかの議論の前に、分類を再検討すべきであるとして、基礎的な研究として形式分類を行ない、人物埴輪を女子34形式、男子58形式に分類した。また、各形式の配置関係を検討することで、形式による一定の配置規則を見出した。

塚田は、これらの分類、分析の結果をもとに、所謂「踊る埴輪」について、後藤守一の解釈を批判した上で、次の点を指摘する。

   「これらの事例から指摘されるのは、従来の人物埴輪の分類は、一部の特徴的な形態を恣意的に解釈したものであって、配置関係や形態的同一性を考慮に入れていない、ということである」

塚田は、今後の研究について「各形式の衣服と装備の研究をおこない、それぞれの役割や性格を明確にしていくことがまず必要」とし、「さらに、人物埴輪の形式とその配置の地域ごとの展開を具体的に考察していくことは、埴輪祭祀の歴史的展開を考える上で今後重要な作業」であるとする。

つまり、第一に個々の埴輪の形式、次に埴輪と埴輪の関係(配置関係)の把握が、埴輪を理解する上で重要であると言っているのである。言い換えれば、埴輪と古墳の関係や、或いは被葬者との関係よりも先に、埴輪という閉じた世界において何が表現されているかを追求することが埴輪の研究にとって大事である、ということである。塚田は冒頭で「さまざまな姿形の人物埴輪は、古墳に配置されることによって一つの世界を形成する」と述べており、その「世界」が何を表わしているのかを議論しようとしているのである。
2. 橋本博文「埴輪研究の動静を追って」

一方の橋本論文は、表題のとおり、埴輪研究の様々な動向を概観することに主眼が置かれているが、塚田論文との比較という意味で、橋本が示した「埴輪祭式」の解釈について見てみることにしたい。

橋本が解釈を試みたのは、群馬県塚廻り4号墳の「大刀をもつ巫女」とされる女子の埴輪である。

まず、橋本は記紀の天孫降臨の条における天忍日命と天津久米命が頭椎大刀を佩いて前駆したという記述に着目し、『紀』の一書第一の対応する部分の記述に天鈿女が登場することから「巫女が頭椎大刀をもつということはありえないことではない」と言い、巫女とされる女子埴輪が、「鎮魂祭」や「即位儀礼」との関係を考えるのである。

率直に言って、このような記紀の解釈は牽強付会以外の何者でもない。記紀には、大刀を天鈿女が持つと言う記述は存在しない。天孫降臨条で瓊瓊杵尊に随行するのは、いくつかの記述があり、その役割も、天忍日命と天?津大来目命(記では天津久米命)は、武装して瓊瓊杵尊(記では邇邇芸命)を先導するのに対し、天鈿女は武装する役割は負っていない。両方が登場する記や古語拾遺の存在を考えれば、天忍日命と天?津大来目命と天鈿女が、説話における役割として自由に交換可能であるとはとても言える状況ではない。つまり、文献の解釈の方法として無理があるのである。

しかしながら、それ以前に、この埴輪の「解釈」に際して、記紀の天孫降臨条を使うことの蓋然性についての説明が一切ない。これでは、記紀が橋本の解釈の根拠である、とは到底言えない。

なぜ、このような記紀の利用をするのか、その意図を汲んでみると、恐らくこういうことであろう。橋本は、「記紀を根拠にして埴輪を解釈する」というつもりはまったくないのである。彼は解釈のアイデアを記紀に求めているだけなのである。もちろん、そのこと自体が問題であるとは思わないが、結局のところ、橋本は、問題の女子埴輪が「巫女」で、「即位式」や「鎮魂祭」にかかわりのある役割を演じているとすることの根拠は一つも挙げていないことになる。まさに塚田の言うように「一部の特徴的な形態を恣意的に解釈したもの」であると言う他はない。
3. まとめ

こうしてみると、塚田の採ろうとしている方法のほうが、埴輪の研究法としてあるべき方法であるように感じられる。しかし、恐らくことはそう単純ではない。

埴輪表現の閉じた世界において、役割や性格を明確にしていくという方法は、ゆくゆくはそれを製作した人々の世界観を引き出し、ひいては文化や社会を見出すことが究極の目標であろう。しかし、科学的なアプローチによってそれを目指すならば、プロセス考古学と同じような限界にぶつかることを覚悟しておくべきである。個別の分析結果をつなぎ、より高次の分析を行なう為には考古学における一般理論が見出されなければならないが、その理論的発展の問題として、安斎正人は次のように述べている。

   「人類学者や社会学者と違って、考古学者は自身ではもはや経験不可能な、過去という未知の世界の異文化を取り扱わねばならない。言い換えれば、考古学的記録からのデータ収集とは、既知のパラメータのない社会あるいは集団からのサンプリングということである。…(中略)…。つまり、考古学者にとっては、自分が全体に占めるどの部分を見つけ出したか、正確に決める手だてさえないのである。こうした知識の部分的状況下では、集めたデータが全体として記録の何割くらいを表わしているかを決定し得ないのであるから、既存のデータを使って有意味で検証可能な一般法則を引き出すことなど、望みようがないのである」(安斎正人『現代考古学』1996年、同成社、p.14)

安斎正人は、考古学者と科学者を比較して、科学者が自然界の普遍的法則を見つけようとするのに対し、考古学者は過去の人間社会の動態に迫ろうとするのであるから、分析が科学的であるべきだとしても、分析から過去の人間社会を読みとるに至る推論が科学的であるべきかどうかは不明であると指摘した後、

   「考古学者が掘り出す考古資料それ自体は、製作者の心性については何も語らない。考古資料から製作者の意図を読み取るのは、現代に生きる私たち考古学者なのである」(安斎前掲書、p.10)

と言っている。

問題は、現代に生きる考古学者が、考古資料から製作者の意図を読み取るとすれば、少なくとも当時と同じような価値観、あるいは世界観を、現代の考古学者がある程度共有しなければならない、ということである。

橋本の採った方法は、記紀の世界観をヒントに埴輪の解釈を考えるというものである。これは伝統的な手法であるが、科学的アプローチが限界に達した時に有効な一つの手だてである、と言えるかもしれない。

とはいえ、埴輪の研究に関して言えば、それはまだ先のことであると言えるだろうし、記紀の解釈についても、「文献から当時の世界観を正確に読みとる」確実な方法が確立されているわけでもない。

いずれにせよ、限界に達するまでは、塚田のように埴輪の世界で閉じて分析を深めるほうが、成果は得られると思われる。

   塚田良道「埴輪の形式分類」『考古学雑誌』81-3、1996年
   橋本博文「埴輪研究の動静を追って」『歴史公論』63号、1981年
   安斎正人『現代考古学』同成社、1996年