大東亜戦争の正体

大東亜戦争の正体

  ~アメリカとソ連・中国共産党の侵略戦争だった~

 

 

 

 [大東亜戦争の正体]から抜粋しました。

 明治維新から大東亜戦争までの、世界的視野に立った人類の価値について、堂々と述べておられ、また非情に分かり易く平易に説明されています。是非、一読をお勧め致します。

 一番興味深かったのは、米国が非を認めていることです。しかも、自虐史観から救おうと、ブッシュ大統領が小泉首相と一緒に靖国参拝を申し出ていた!! これが実現していれば、東京裁判史観=自虐史観は誤りだったことを世界に宣言できたのだ。これからは、日本は自力でこれと戦い跳ね返さねばならないと思いました。

 
まえがきより抜粋

 

 戦後日本の常識は、ことごとく世界の非常識と言われて久しい。それは世界史の常識をすべてアペコベに認識するよう、白人侵略者の常套手段である偏しのテクニックに乗せられて、そのことに日本人がまったく気がつかずにきたからだ。

 
 「一国を亡ぼすのに刃物はいらない、その民族の記憶(歴史)を消し、その上に新しい歴史を捏造、発明して押し付ければ足りる」という蔵言がある。アメリ
カとソ連・中国は巧みにこの手を使った。日本側の大東亜戦争史観(八紘一宇、大東亜共栄圏実現の理想)が否定され、デッチ上げ、押し付けた太平洋戦争史観
(侵略、植民地支配、残虐性を日本の三悪と規定、マッカーサ憲法)が正当とされ、これが戦後の日本を縛り上げた東京裁判史観、自虐史観の基本になってし
まった。反省と謝罪を国是とする卑屈な戦後体制が構築されてしまった。

 連合軍は占領期間に七年もかけて、このアベコベ侵略戦争史観を、日本人の骨の髄までたたき込んだ。広島、長崎の原爆は一回限りで終わったが、この「魂の原爆」は、その後長く、戦後の日本を暗く覆うことになった。

 その結果、太平洋戦争は侵略戦争だったとの誤った信念は、上は首相から、下は偏向教科書で学ぶ小学生にまで及んでしまったのである。

 
 また国を愛する心の 「愛国心」 という文字を入れると、先の悪い戦争につながるからと、これを「国を大切にする心」に変えよと公明党委員は要求してい
る始末である。「愛国心」に不安を感ずるのは議論の参加者すべてが、先の戦争を侵略争争だと意識しているからである。だか「国を愛す」と「国を大切にす
る」とは、まったく異なる概念である。生徒に「ゴム消しを大切に使え」とは言っても、「ゴム消しを愛せよ」とは言わない。(※米国人は”I
 Love
Sushi”など良く口にする。最初はいろいろなものにLoveを使うことに戸惑い、外国人と日本人の違いと思っていましたが、この説明を読んで一面では
納得しました。登録者より)

 戦前を悪と考える立場で憲法や教育基本法を改正する論議に参加することは、危険な結果が生まれるはずだ。真の改正には、「戦前善」の立場でなければ、真の日本の憲法も基本法も生まれないと知るべきである。

 
 戦後アメリカは、自らの日本への侵略を反省する事実や談話を次々発表して、日本を目覚めさせようと努力している。帰国後のマッカーサー発言、「東京裁判
は誤りだった、日本が戦争に立ち上がったのはセキュリティ(自存自衛)のためのものだった(裏を返せばアメリカこそが侵略者であったということ)」からも
それが見て取れるし、フルブライトも同様の趣旨の発言をしている。インドのパール判事の日本無罪論もよく知られるところである。また戦勝国が、日本に賠償
金を要求しなかったことは、なによりもその間の事情を、雄弁に物語っている。

 

ルーズベルトとスターリンの

野望に挟み撃ちされた日本

 

 
 当時日本の直接の仮想敵国は、東側の太平洋からはルーズベルトのアメリカ、西側からは陸の侵略者スターリンのソ連であった。この覇権主義の好戦者二人が
日本征服を虎視眈々と狙っている限り、戦争は絶対避けられない時代で、その中にあって日本は、強力な富国強兵で対抗する以外になかった。その意味からも大
東亜戦争は、日本の軍国主義、軍部の暴走が戦争を起こしたのでは絶対にないといえる。

 
 スターリンは、日露戦争の仇を討つべく、一貫して孫子の兵法を画策していた。っまり、敵同士を戦わせるため、中共をそそのかし、蒋介石と日本を戦わせ、
また、日本と米国を鉢合わせさせて、漁夫の利を得る。このとおりを実行して、ソ連がひとり勝ちしたのが大東亜戦争であった。この点からみると、支那の蒋介
石も、米のルーズベルトも、日本の東条も、スターリンの掌の上で踊らされたことになるのである。

 以上のような当時の国際情勢、米ソが日本を戦争に巻き込み、侵略征服する意図がある限り、日本側の努力だけでは絶対に大東亜戦争は避けられない状況だった。

大東亜戦争史観

 

 
 オーストラリアの先住民アボリジニー族やアメリカ・インディアンは白人の狩猟の対象となり、またたくまに絶滅近くにまで、追い込まれてしまった。近世白
人の世界制覇植民地化、人身売買奴隷化は人類史上、人道上の最大の犯罪である。にもかかわらず現在まで世界を我が物顔で闘歩している白人は、この大犯罪を
反省することもなければ、謝罪する気配もまったくない。

 日本でも早くから西洋野蛮論を唱えた達人がいた。それは明治維新の元勲の一人西郷隆盛である。明治維新で人は世を挙げて文明開化に酔い痴れている中で、西郷は、西洋文明の影と闇の部分に気がついた唯一人の日本人であった。『西郷南洲遺訓』には、次のようにある。

「予かつて或人と議論せしこと有り、西洋は野蛮ぢやと云いしかば、否な文明ぞと争ふ。否な野蛮ぢやと畳みかけしに、何とて夫
れ程に申すにやと推せしゆゑ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導く可きに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程む
ごく残忍の事を致し己れを刺するは野蛮ぢやと申せしかば、その人口をつぼめて言無かりきとて笑はれける」

 戦争は正義が勝つとは限らない。正義は常に勝者が一方的に創るものである。日米戦争は東京裁判で、アメリカの立場で日本を侵略国と断定したが、これはまったく逆で、日本の立場からすると明らかに英米のはうが日本への侵略戦争を仕掛けてきたのである。

 次に日本人の多くは、あの戦争は無謀な負けいくさだったと認識しているが、世界的、長期的にみると勝ちいくさだったのである。

 
 戦争の勝敗は個々の戦闘にあるのでなく、目的を果たしたかどうかで決まるものだと、ドイツの哲学者で軍事評論家のクラウゼウィッツは『戦争論』で明言し
ている。この点からみると、この戦争で白人たちは植民地をすべて失い、西洋の古巣に帰り、アジア・アフリカの植民地はすべて解放され、人種差別なき世界地
図が実現した。正に日本

 にとっては 「負けるが勝ち」の結果に終わったのである。

 かくて大東亜戦争を大観すると、日本は戦闘(戦術・手段) には敗れたが、その戦略(目的)では勝った。昭和時代とは暗い戦争の時代ではなく、日本民族が人類解放のため独り「天に代わりて不義を討ち」、大勝利した誇るべき明るい「勝和」の時代だったのである。

 東大名誉教授の小堀桂一郎氏は、「日米戦争の目的達成度」という論説の中で、米国はこの戦争で何ら得るところがなかったのに、日本のはうは開戦の目的である、アジアの解放と帝国の自存を達成したことで、はるかに目的を達しているではないかと断言しておられる。

明治の国難を支えた精神は、どこで培われたか

 

 
 明治維新を担った偉人たちは、明治生まれではない。すべて江戸末期に出生した人たちだ。西郷隆盛、大久保利通、勝海舟らをはじめ、吉田松陰、門下の志士
高杉晋作、木戸孝允、久坂玄瑞、伊藤博文、乃木希典、山県有朋、福沢諭吉、新渡戸稲造、内村鑑三、森鴎外など、明治の精神を創った文化人たちも江戸末期の
生まれである。

 明治維新は、江戸期に育まれた道徳、教養、武士道精神や大和魂が見事に花開き、明治に結実したものと見ることができる。

 
 徳川家康によって開かれた江戸時代は、幕府の絶妙な政策(武家諸法度・参勤交代制度・五街道の整備・厳格な身分制度・鎖国政策[※拡張ではなく鎖国した
ことは、古来日本人には侵攻の気質はない])によって三〇〇年近くも戦乱のない、世界史に珍しい平和安定の時代を作り上げた。士農工商の身分の最上位にあ
る武士階級は、戦乱がないので、武芸は武道として心身修養の道となった。そのゆとりが儒学や国学、蘭学などの学問的教養を積ませ、日本独得の「もののふの
道」とかサムライの道とか言われる武士道精神が洒養されたのである。

 
 本居宣長が『古事記伝』を著わし、国学を大成させた。水戸光囲は『大日本史』を編纂し、勤王思想を鼓舞した。この日本学を水戸学といって、多くの維新の
志士を水戸に集めた。水戸学に最も影響を受けた人々を挙げると、吉田松陰とその門下生の久坂玄瑞、桂小五郎、伊藤博文、坂本龍馬、頼山陽、高山彦九郎、佐
久間象山、西郷南洲、平野国臣、橋本左内など、幕末から明治維新にかけて日本国を揺さぶった志士たちだった。彼らは水戸学を知ることによって、天朝の尊厳
性を崇め、鼓舞し、奮い立ったのである。

 
 また、商業や交通が発達して、多くの都市が繁栄した。十八世紀の初めには江戸はロンドンを超えて一〇〇万人の世界一の大都市に、大坂は「天下の台所」と
いわれ商業の町として栄えた。町人階級が生まれ、歌舞伎、人形浄瑠璃、俳譜、浮世絵、友禅染といった日本独自の芸能・工芸も、この時代に生まれたものであ
る。

 武士は藩校で学び、農民、町民の一般庶民にも寺子屋が普及し、読み、書き、そろばんができ、当時すでに日本は世界一識字率の高い国になっていた。

 武士や浪人は寺子屋の先生として、国民の教養を高めるのに貢献した。サムライという「侍」 の字が 「人」と「寺」 によって構成されているのでも分かる。明治維新になって寺子屋は尋常小学校に発展し、近代国家日本の基礎となっていったのである。

 
 幕末になって白人植民地帝国主義の侵略の波がアジアに、そして日本の岸辺に押し寄せること必至とみた先覚者や武士たちは、挙国一致、この国難に当たるに
は、今の幕藩体制ではだめだと直観した。特に阿片戦争(一八四〇-四二年)による支那の惨憺たる敗北の事実に驚愕、次は日本が襲われるはずだと危機感を募
らせた。

 
 その後一〇年にして米国艦隊のペリーの黒船が江戸湾口の浦賀に来航(一八五三年)た。国内はあわてぶりを露呈し、緊急対応を迫られた。それから明治元年
(一八六八年)を迎えるまでの一五年間、尊皇摸夷派、開港派、佐幕派など入り乱れての幕末大動乱期が続くことになった。

 
 この生みの苦しみを蒐服して、国家を統一し、大政奉還と王政復古の見事な明治維新を迎えられたのは、江戸時代に培ってきた国学・日本学による勤王思想
と、武士道精神、大和魂がもたらした愛国・憂国の情の結果といって間違いない。このように明治維新のバックボーンは、江戸時代に生まれたのである。

 

 明治天皇は明治元年に「五箇条の御誓文」を発布し、新生民主国家・日本の進むべき目標を示された。続く明治二十三年の帝国憲法も、教育勅語も、その精神を具体化したもので、戦前日本の精神と行動は、すべてこれによって貫かれたのである。(※明治天皇を見習い、昭和天皇の新日本建国に関する詔書]は神武天皇の精神に戻った。)

広く会議を興し、万機公論に決すべし
上下心を一にして、盛に経綸を行うべし
官武一途庶民に至る迄、各其の志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す
旧来の晒習を破り、天地の公道に基くべし
智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし

 明治、大正、昭和一ケタ生まれまでの日本人は、この誓文と教育勅語をお経のように諳んじていた。この思想は、民主政治を天皇自ら示したもので、デモクラシーの考え方と実践は、明治維新にすでに始まっていたのである。

 

 

 ■日本の生命線、朝鮮の独立を勝ちとった日清戦争

 

 
 日清、日露戦争の大勝利は、明治維新の成果が見事に花開いたもので、極東の小国日本の存在を世界に印象づけた世界史上の大事件であった。国内的には、国
民の自信と誇りを高め、国際的には非白人植民地民族を感奮興起させ、白人らには「黄禍論」の不安を与えた。この戦争が世界史の流れを変える出発点となった
ことは言うまでもないことである。

 清国は阿片戦争に敗れ(一八四二年)、西洋列強の分割に屈した。それを弱い朝鮮で取り戻そうと企てた。清は朝鮮を属国と心得、朝鮮の内乱につけ込んで軍を進め、支配を強化した。

 日本にとって朝鮮は一番近い隣国で、生命線であった。朝鮮の独立を守るために日清戦争が勃発した(一八九四年)。戦争は予想外の日本の連勝で、半年足らずで終わった。下関で講和条約が結ばれ(一八九五年)、下記が締結された。

一、清は朝鮮の独立を認める。

 二、遼東半島、台湾、膨湖島を日本に譲った。

 三、賠償金三億円余を支払うことを認めた。

 しかし、その六日後に、満州進出の野望を持つロシアは、ドイツ、フランスと組んでいわゆる三国干渉を行ない、遼東半島を清に返還させた。その後でロシア
は、遼東半島を清から譲り受け、旅順に大要塞を築いた。かつては「眠れる獅子」と恐れられていた清国だが、中国は列強にずたずたに分割されてしまった。

 このような列強の侵略は中国国民の民権運動を刺激して「扶清滅洋」を掲げる義和団運動が起こった(一九〇〇年)。そこで列強は居留民を守るため軍隊を派遣し、北清事変となった。

 ところが事変が鎮圧されたのに、ロシア軍は満州に居座り、続く朝鮮まで勢力を伸ばしてきた。日本はロシアに対抗するため日英同盟(一九〇二年)を結び、日本の生命線の朝鮮半島を救うためロシアに宣戦布告した(一九〇四年)。

 

 

 ■最大の国難、日露戦争に勝利した原因とは

 

 陸軍はただちに満州に出兵し、ロシアの極東の大要塞、難攻不落を誇った旅順の二百三高地を、乃木大将は六万人もの死傷者を出しながら陥落させた。続く奉天大会戦にも勝利した(この三月十日を記念して陸軍記念日として祝った)。

 さてロシアは陸軍の劣勢を挽回すべく、ロシア海軍の主力、バルチック艦隊を極東に回航させることを決めた。ここに日本の国運を賭した日本海海戦の幕が切って落とされたのである。

 
 なお参謀秋山が「本日天気晴朗なれども波高し」を加えて打電したのはなぜか。これは波こそが日本を完全勝利に導く神風であることを、彼は悟っていたから
だ。敵艦は長い航海で疲れ果て、その間砲撃の訓練もしていない。加えて不慣れな海で波が高くては、まず照準が定まらないことは明らかだ。一方、味方は勝手
知った海で、猛訓練の成果を発揮するには、荒れた海はもってこいである。秋山は、これこそ待ちに待った神風だと直感したのであった。

 
 日本大勝利の報は、固唾を呑んで見守っていた世界の人々を驚嘆させた。ちょうどその一〇〇年前、英国のネルソン提督がフランス・スペイン軍を破ったトラ
ファルガー沖海戦(一八〇五年十月)以上に、世界海戦史上に名声を留める完勝となった。日本国内では三日三晩の提灯行列と万歳、万歳の喜びの声が津々浦々
に鳴りひびいた。

 世界の国々で、このニュースを聞いて最も喜んだのは、それまでロシアに占領されたり、圧迫されていたフィンランド、ポーランド、トルコなどの国々であった。この勝利をわがことのように喜び、日本国と東郷平八郎を称賛した。

 トルコのイスタンブールには「東郷通り」があり、さらに「乃木通り」、さらには陸軍大将で満州軍総参謀長だった児玉源太郎にあやかった「児玉
通り」もある。ポーランドでは、トーゴーやノギが人名になっているなどだ。フィンランドには「アドミラル・トーゴー」と銘打った東郷ビールが発売されてい
た。

 日露戦争は有色人種が白色人種に勝った初めての戦争で、当時の列強の植民地にされていた世界中の被抑圧民族を感動させ、独立の夢へと駆り立てた。この戦いこそ、人類解放の出発点であり、その終結点が大東亜戦争であったのである。

 
 ところが戦後の日本の歴史教科書では、東郷平八郎の名も乃木希典や名参謀・児玉源太郎などの名も挙げず、日露戦争の事実をわざと軽く扱っている。中国の
中学校用歴史教科書では、日露戦争があった事実にも触れていない。あの時、日本がロシアを極東から追い出さねば、今の中国はないというのに。

 

 

 ■乃木大将が敵将に示した武士道精神

 

 
 日本の戦争における勝利は、その背後に武士道精神か深く根を下ろしていた。その典型的な例証が、旅順攻略で勝ったあと、乃木大将が敵将ステッセルとの終
戦交渉に臨んだ「水師営の会見」である。戦闘が終われば、勝敗に関係なく「昨日の敵は今日の友」である。外国記者がステッセルの写真撮影を望んだのに、乃
木は「あとあとまで恥辱が残るような写真を撮らせることは、日本の武士道が許さない」と断わって外国の特派員を感動させた。

 後日ステッセル将軍は、ロシアの軍法会議で死刑が宣告された。これを知った乃木は将軍の戦い振りを称え、死刑の取り消しを求める歎願書をヨーロッパの諸国に送った。その結果、ステッセルは死刑を免れた。

 その後ステッセルは宗教者になって世捨て人同然の生活を送っていたが、のちに乃木将軍が明治天皇の崩御を知って殉死したことが伝わると、ロシアの無名の僧から金一封と弔辞が送られてきたとのことである。

 これに反して、大東亜戦争終結後、敵将マッカーサーは、東候大将以下日本の将軍の多くを裁判にかけて絞首刑に処した。白人の野蛮性をはっきり示した事例である。

 
 なお東郷元帥も、日本海海戦後、敵将ロジェストウエンスキー将軍が負傷して佐世保の病院に入院中であったところを見舞っている。また松山では捕虜になっ
た将兵を手厚くもてなし、不幸にも収容所で死んだ兵をねんごろに葬り、今日でも松山郊外の来迎寺のロシア人墓地は、市民が毎日清掃して、これを守ってい
る。日本の武士道精神は世界のカガミである。

 

大東亜戦争へ

 

 

 
 昭和二十年八月、日本のポツダム宣言受諾を知ったニューヨーク・タイムズは「太平洋の覇権をわが手に」という大見出しの下に「われわれは初めて、ペリー
以来の野望を達した。もはや太平洋には邪魔者はいない。これでアジア大陸の市場と覇権は、我が物になったのだ」との記事を載せた。これはアメリカは長年の
願望が叶えられたことに対する偽らざる喜びの声であった。

 

 

 ■米国の西進

 

 星条旗の星の数が当初の一三からあっと言う間に五〇に増えたのは、侵略の歴史があったからである。日本に仕掛けた大東亜戦争もその一つにすぎない。

 
 米の侵略史の第一ページは先住民の殺致・征服である。アメリカ・インディアンはアメリカ大陸に一万年以上の歴史を持つ先住民族で、当時約二〇〇万人から
五〇〇万人と推定されたが、奸計を以て殺致を繰り返し、一八九〇年(明治二十三年)には、先住民の人口は二〇万人にまで減少した。この残虐な行為をアメリ
カ史では、アメリカ人の勇敢な開拓者精神、パイオニア精神の発揮と誇っている。

 この西部侵略が東から西へと向かい太平洋岸に達した時、今度はその矛先を太平洋に向け、ハワイ、グアム、フィリピンと進み、ついに日本列島に達したのが大東亜戦争であった。

 今度はメキシコと戦端を開くに当たって、有名な「アラモのとりで砦を忘れるな」の合言葉を以て戦意昂揚を図った。これは後の「真珠湾を忘れるな」に通ずる、アメリカ侵略戦争開始の常套手段となっていった。

 
 一八三六年、アメリカは当時まだメキシコ領だったテキサスのサンアントニオに、独立運動の象徴アラモの砦を築かせた。これはメキシコ軍が襲ってくるのを
見越した上のことだったが、案の定、龍城した二〇〇人の人々はたちまちメキシコ軍の攻撃を受けて全滅してしまった。アメリカはこの事件を「リメンバー・ア
ラモの砦」という合言葉で、国民の戦意を鼓舞し、戦争を正当化して侵略戦争を起こした。この戦争の勝利で、米国はニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニ
ア州など当時のメキシコ領の半分にあたる広大な領土を併合し。

 
 メキシコ戦に味をしめた米国は、一入九八年(明治三十一年)、同じ手口でスペインと戦端を開くことになった。今度は「メーン号を忘れるな」であった。米
国はキューバのハバナを表敬訪問中の戦艦メーン号を自ら爆沈させ、二六〇名はどの犠牲者を出した上で、これを敵の仕業だと因縁をつけ、スペインに戦線布告
した。これによってカリブ海のスペイン領プエルトリコなどを占領し、カリブ海だけでなく、太平洋、極東において、アメリカがスペインを押さえてアジア、太
平洋の覇権を握る一大契機となった。

 

 

 ■太平洋を越えた征服事業の数々

 

 
 米艦隊は極東のスペイン領のフィリピンを侵略するに当たって、フィリピン民族独立軍のアギナルド将軍に対し、スペイン撃退後のフィリピン独立を約束し、
その協力をとりつけた。ところが、スペインが敗退降伏すると、アメリカは約束を反故にし、フィリピン併合を宣言し、それどころかアギナルド軍を攻撃し、将
軍を処刑してしまった。明らかに裏切りである。

 アギナルドは米軍との戦いに先立ち、その援助を日本に求めてきた。彼は日本亡命中の孫文を介して日本の志士たちと接触し、犬養毅などによって、武器弾薬の支援もあったが、一九〇二年(明治三十五年)鎮圧されてしまったのである。

 この結果スペインは、「パリ条約」でキューバを放棄、プエルトリコ、グアム、ミッドウェー、ウニーク、フィリピンをアメリカに割譲させられた。

 
 ハワイはアメリカの手のこんだ謀略工作でカメハメハ王朝が崩壌し、一八九八年に併合されてしまった。当時ハワイでは、日本人が人口の半分(二万二〇〇〇
人)を占めていたので、女王は明治天皇に援助を依頼してきたが、当時の日本には米国と戦う力はなく、みすみす事態を見過ごすしかなかった。

 

 

 ■対日侵略戦争の布石

 

 
 アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトも日露戦争では日本を応援し、ポーツマス講和会議を仲介してくれたが、一方心の底では日本のアジアでの発展は、米
の太平洋やアジア覇権には必ず障害になると考え、日本を仮想敵国に位置づけることになった。ここに早くもオレンジ計画という日本打倒の国策が打ちたてられ
た。これは米国の日本に対する黄禍論である。

 
 第一次世界大戦の終結で、パリ講和会議(一九一九年)が開かれた。戦勝国側の日本は、この会議で存在感を示そうと人種差別撤廃を強く提案した。人種平等
の理想論には表向き反対できないので、投票の結果、過半数の賛成を得られた (委員一九名中、一一名賛成)。ところが議長のアメリカ大統領ウィルソンは、
英国と組んで、このような重要な決定は、全員一致でなくてはならないと難癖をつけ、可決したはずの提案を否決してしまった。植民地を多く持つ白人列強に都
合が悪いからであった。日本に対するあからさまな挑戦であった。

 日本の提案の成功を心待ちにしていた、世界中の多くの植民地民族は、否決と聞いて、改めて白人の横暴を非難し、日本に同情し、解放の時を目指して決意を新たにした。

 
 日米戦を予想していた米国は、その戦力を日本より優位にしておく必要から、ワシントンでの軍縮会議を提唱してきた(一九二一年、大正十年)。日米戦は海
軍力の競争になるとの予想から、海軍主力艦の日英米比率が三・五・五に決められた。日本側、特に海軍は猛反対だったが、当時の政府は財政上、軍縮計画を歓
迎した。次に、アメリカは補助艦艇についても制限しておく必要から、ロンドン会議で海軍軍縮条約を提案した(一九三〇年)。平和を望む日本政府は、財政上
も軍備縮小を歓迎した。かくて英米対日本の争力は一〇対六・九七に抑えられた。こうしておけば、英米はいつ日本と開戦しても負けるはずがないものと安心し
た。

 日露戦争後、日本を仮想敵国とする戦略を明確にしていたアメリカは、日英同盟の廃案を両国に迫った。日本政府は反対したが、英国はすでにその使命が終わったとして、米国の提案に賛成した。

 

 

 ■シナ事変で、日本と国民党を戦わせた

 

  支那事変の発端となった慮溝橋事件は、スターリンが後ろで糸を引き、中国共産軍に仕掛けさせた罠であった。目的は蒋介石軍と日本軍を無理欠理戦わすことにあった。日本側がいくら隠忍自重、不拡大方針を採っても、中共軍は日本人虐殺の通州事件(⇒[通州事件][蒋介石軍])、上海事件といったテロ事件を次々起こし、日本軍を大陸のドロ沼に誘い込んでいった。日本軍は完全にはめられたのである。

 これは、米国の真珠湾と同じく、ソ連、中共によって作られた計画的な謀略戦争であったのだ。

 
 次に米国は、やがて始めようとする日本戦に備えて蒋介石軍に肩入れし、大量の援薄物資を送って、日本軍を疲れ果てさせようとした。直接的には、アメリカ
の正規軍である「フライング・タイガー」と名乗る三〇〇人の空軍兵士を送り、戦闘にも参加させているのである。この段階ですでにアメリカは、対日戦争に突
入していたのである。

 
 日本政府はこの望まざる戦闘行為を北支事変といっていたが、逆に全支に拡大されて、これを支那事変といわざるをえなくなった。だから日本にとっては正式
な国家の対支宣戦布告もなく、事件として処理しょうとしているのに、支那側はこれを日本の中国侵略の「日中戦争」に格上げして内外に宣伝していった。

 

 

 ■ルーズベルトの執念

 

 彼は生まれながら、叔父のセオドア・ルーズベルトによる日本打倒のオレンジ計画を信奉して、着々とその策略を実行していったのである。当時ホワイトハウスには、ルーズベルトの外に陸軍長官ヘンリー・スチムソンがいた。

 彼らは「欧米人は人類の支配者」という独善的信条を持つがゆえに、日本は決して対等の相手ではありえず、協調、共存を拒絶し、日本に屈従と隷属のみを求めたのである。

 
 アメリカの日本叩き政策の第一弾が、一九二四年(大正十三年)の排日移民法の制定である。元来移民歓迎を国是とする移民受け入れ大国が、日本移民だけを
締め出したのである。さらに日本の在米資産を凍結する挙に出た。後に昭和天皇は後日談の中で、この移民法の制定が大東亜戦争の第一の遠因であると述懐され
ておられるほどである。

 ルーズベルトは何とか日本を戦争におびき出すため、今度は石油と屑鉄の日本への輸出禁止である。石油の大半をアメリカに依存していた日本の打撃は致命的であった。

 日本は生きるために、東南アジアの石油資源に頼らざるをえず、南方進出はやむをえない措置だった(※国内の共産主義者も南進を進めた。)。さらに米国は英中蘭の三国をそそのかして、いわゆるABCDラインという経済封鎖を敷いて、日本を封じ込めた。

 
 日本はこの危機を脱するため、誠意をもって日米交渉を進めた。野村駐米大使とハル国務長官の日米交渉は昭和十六年三月八日から十一月二十六日まで、九カ
月にも及んだ。もとよりアメリカに交渉をまとめる意図はさらさらなく、戦争を準備する時間稼ぎにすぎなかったのである。米側は日本側が到底呑めないことを
承知で、次々難題を突きつけ、開戦せざるをえないように挑発しっづけた。

 そして十一月二十六日、最後通牒としてハルノートを突きつけてきた。これは明らかに一方的な宣戦布告であった。日本よ大陸から出ていけ、日本よ死ねと迫ったのである。

 一方当時ヨーロッパ西部戦線では、英国がヒットラーの攻撃を受けて苦戦中であって、チャーチルは一刻も早い米国の参戦をルーズベルトに懇願していたのである。

 
 ルーズベルトは国民に対し、「私は二度でも三度でも繰り返して言いたい。皆さんの息子さんたちを、決して外国の戦争に引き出すことはない」と言いつづ
け、国民を偏して大統領に当選した。この言をくつがえして国民を戦争に立ち上がらせるためには、日本がパールハーバーを攻撃するよう挑発し、自国の兵士を
二〇〇〇人余り見殺しにした。こうして彼は米国民と日本国民の両方を偏して、まんまと念願の戦争に突入できたのである。

 
 以上によって、今次日米戦争は、アメリカが計画的に日本に侵略戦争を仕掛けてきたものであることが明らかである。戦後マッカーサーの捏造した東京裁判史
観の、日本の軍国主義者が共同謀議して、中国大陸に対する侵略戦争を起こしたという歴史認識も誤りであることが分かる。

 

 

 ■世界中のどこの国にも歓迎された日本の真珠湾攻撃

 

 
 戦後、日米戦がルーズベルトが巧妙に仕掛けた謀略であることを告発した書物は、数多く出版されている。その中でも第一級の資料は、ルーズベルトの長女の
夫であるカーチス・B・ドールが身内から告発した書で、『操られたルーズベルト』(馬野周二訳)である。真珠湾攻撃の前日、家族との朝食の席で大統領は
「私は決して宣戦はしない、私は戦争を造るのだ。明日戦争か起こる」と話していたという。

 
 実は、日本の真珠湾奇襲の成功は、世界中を感動させこそすれ、悲しんだり、困ったりした国は一つもなかったのだ。チャーチル、仏・蘭などの連合国側も米
国同様に歓迎した。スターリンも敵同士の開戦を大歓迎し、枢軸国のヒットラーもムッソリーニも、仲間が立ち上がったことを喜んだ。

 奇襲成功による日本国民の感動はもちろんだが、アジア・アフリカの被抑圧植民地の民は、有色人種の代表日本が白人を攻撃して、大成功したニュースを聞いて、植民地解放近しと奮い立ったのは当然であった。

 タイの元首相プラモート氏は、「これはアジアの忠臣蔵だ。十二月八日の昭和天皇の決断を忘れてはならない。アジアの独立国を生んでくれるお母さんの日本に感謝しょう」と叫んでいた

 

 

非を認め謝罪しているアメリカ

 

 判事ではオランダのレーリンクも、仏のベルナールも、東京裁判自体の不当性を強く訴えている。ウェッブ裁判長も、当時鬼の検事と言われたキーナン検事も、揃って、あれは行き過ぎだったと反省している。

 
 当のマッカーサー自身も帰国後、二回にわたって公の席で日本の過去の戦争はすべて自衛のための戦いで、自分が実行させた東京裁判は間違っていたと述懐し
ている。日本の戦争が自衛のための戦いだったということは、裏を返せぼ、アメリカが侵略戦争を仕掛けたことを腕曲に認めていることになるのである。

 
 さらにアメリカが日本に悪い戦争を仕掛けてしまったという反省、謝罪の事実は、米国上院議員のフルブライトが創設した対日留学生制度にもみられる。彼は
原爆投下など日本に与えた残虐行為に対する慨悔の印としてこの制度を始めたと、はっきり明言しているのである。この制度の下で、竹村健一氏ら多くのリー
ダーが育てられた功績は大きい。フルブライトの気持ちは、米国の多くの識者に共通の心情であろう。

 
 また、終戦後連合軍が暗に謝罪の意志を間接的に示していたことを示す事実は、サンフランシスコでの講和条約で、不思議にも日本に賠償金を要求しなかった
ことである。当の米英も中(蒋介石の中華民国)も蘭も放棄している。悪いのは自分たちであることを知っていたからである。

 ところが日本と直接戦争をしていない共産党の中国と韓国が、しきりに賠償や戦争責任を取れと日本に迫るのはナンセンスである。それは日本が意味なく謝罪しっづけるから、これ幸いと脅し、たかりの外交カードに使いつづけられるからである。

 

 
  ■世界的な歴史学者、英国のアーノルド・トインビー

 伊勢神宮に参拝し、感動して次の言葉を毛筆で記帳していかれた。「この聖なる地域(伊勢神宮)で、私はすべての宗教の根源的な統一を感じた」と。神道こそ、人類が求める真の世界宗教だと達感したのである。
  ■元フランス駐日大使のポール・クローデル

 「私が決して亡ぼされないように願う一つの民族がある。それが日本民族だ」と言い残して日本を去っている。
  ■米国のウエスト法学博士

 「絶海の孤島の漁師でもいい。山間僻地の百姓でもいい。私は日本人になって、天皇陛下にお仕えしたい」と。これほどまで日本国と天皇を恋慕している外国の文化人がいることを、われわれは知らねばならない。
  ■東京裁判のオーストラリアのウェッブ裁判長

 「日本の天皇は神だ。あれだけの試練を受けても、帝位を維持しているのは、神でなければできない」と述懐している。
  ■英国の政治学者のラスキ

 「王冠は敗戦を生き延びることはできない。ただ一つの例外、それが『昭和天皇』である」と述べ、彼も日本は「天皇を戴く神の国だ」と認めているのである。
 
  ■マッカーサ証言

 [マッカーサ証言]参照

 

■ブッシュ大統領の靖国神社参拝は、なぜ実現しなかったか

 

 小泉純一郎首相の靖国神社参拝についても、文句を言うのは中国と韓国の二カ国だけである。実際に戦った英米は一切これを問題にしないのに。

 米国は、米国にとって最大の友好国の日本が、米国が押し付けた憲法や東京裁判史観を忠実に守って、絶えず近隣の中韓に侵略の歴史を忘れたかといじめられているのを見て、何とか助けてやろうと考えていた。それには米国大統領自身が直接靖国神社をお参りすることだと考えた

 二〇〇二年二月、ブッシュ米大統領が訪日した。訪日に当たって大統領が要望していたのは、小泉首相と連れ立っての靖国参拝だった
。だが打診された外務省も官邸も、近隣諸国との悶着を起こしたくないとの事なかれ主義で、これを拒絶し、明治神官に変更された。

 ブッシュは明治神官でも小泉首相と一緒に並んで参拝したいと思っていたのに、鳥居の前まできて、首相は私は車で待っているから、どうぞ大統領お一人で参拝なさって下さいと、申し入れを蹴ってしまった。

 天皇陛下や日本の首相、大臣が訪米すると国際儀礼として真っ先にアーリントン墓地を訪れる。諸外国を訪問すれば、慰霊塔や無名戦士の墓に献花し、祈りを捧げるのは通例である。

 ところが日本のみ、訪日した国家元首や国王が靖国神社に参拝したいと望んでも、外務省は中韓に気兼ねしてこれを拒否してきた。国家のために尊い命を捧げた英霊に対して、天皇のご親拝はもちろん、首相の参拝もままならない。そんな国はどこにもない。

 ブッシュ大統領の申し出は、このおかしな状況を一気に打開する絶好のチャンスだった。近隣諸国が公人の靖国参拝を非難する根拠は、東京裁判でA級戦犯とされた英霊か祀られているからだ。それを、東京裁判の主導的役割を果たしたアメリカ合衆国の大統領が直接参拝すれば、その根拠はまったく吹っ飛んでしまう。アメリカ自身が戦犯を否定したことになるからだ。

 ブッシュはこのことを知って、小泉首相への「手みやげ」のつもりで、首相と一緒の靖国参拝を断行して、これを内外のマスコミに伝えたかったのであろう。

 この強いブッシュの配慮が実現していれば、戦後半世紀、日本人を蝕んできた自虐史観も払拭される契機となったであろう。ところがこの千載一遇のチャンスを外務省も官邸も見過ごしてしまった。最終的な決定権は小泉首相自身にあったのだ。

 日本を代表する総理大臣の歴史認識が、終戦直後に作為された日本侵略の太平洋戦争史観、自虐史観に洗脳されたままだったからである。その実例は次の発言で証明された。

 
 二〇〇一年六月、首相訪米で、招かれたキャンプデービットの大統領山荘で、打ちとけた気分になった小泉首相は本音を語った。それは「戦争に負けて日本国
民は米国の奴隷になると考えていた。しかし米国が寛大に接し、食糧も提供してくれたため、米国が日本を旧日本軍から解放してくれて有難かった」と。首相は
あの戦争は日本の軍国主義者が始めた侵略戦争で、それを米軍がやっと救い出してくれた。アメリカ占領軍は解放軍だと心底、思い込んでいるからである。

 小泉首相のこの時のコメントは、ワシントンポスト紙や朝日新聞、産経新聞でも報道され、心ある国民を失望させた。

 だが、2013/10/03米国の両国防長官が千鳥ケ淵戦没者墓苑に献花してくれた。これは、米国が日本に対して「自虐史観=東京裁判史観」から回復してくれとのメッセージに他ならない。中韓の反日史観を毅然と否定し、真実を語るときだ!

■米の国務、国防両長官が千鳥ケ淵墓苑に献花
 2013/10/03産経Web
 
 来日中のケリー米国務長官とヘーゲル米国防長官は3日午前、東京都内の千鳥ケ淵戦没者墓苑を献花のため訪れた。外務省は米の閣僚による同墓苑の訪問は「聞いたことがない」としており、外務、防衛担当閣僚がそろって献花するのは極めて異例の対応という。

 
 同墓苑は、第2次世界大戦中に海外で死亡した戦没者のうち、身元が分からない「無名戦士」や民間人の遺骨を納めた国の施設。2閣僚の訪問は、日本との同
盟強化に取り組む米国の姿勢を示す狙いがありそうだ。尚、第2次大戦のA級戦犯を含む軍人、軍属らが合祀されている靖国神社の訪問は予定していない。

  日本の首相や防衛相が訪米する際は、戦死した米軍人らを追悼するワシントン近郊のアーリントン国立墓地を訪れて献花するのが恒例になっている。

■アムステルダム市長による日本擁護論

 

 
 平成三年、日本の傷痍軍人会代表団か、大東亜戦争の対戦国であったオランダを訪問した折、同国の傷痍軍人代表とともに、首都アムステルダム市長主催の親
善パーティに招待された。その時、同市のサンティン市長は歓迎の挨拶で、実に良心的に大東亜戦争の真実を語った。思いもよらぬ話に、日本の代表団は感激し
た。

「あなた方日本は、先の大戦で負けて、私どもオランダは勝ったのに、大敗しました。

 
 今、日本は世界一、二位を争う経済大国になりました。私たちオランダは、その間屈辱の連続でした。すなわち、勝ったはずなのに、貧乏国になりました。戦
前はアジアに本国の三六倍もの面積の植民地インドネシアがあり、石油等の資源産物で、本国は栄耀栄華を極めていました。

 今のオランダは、日本の九州と同じ広さの本国だけになりました。あなた方日本は、アジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない、諸民族に大変迷惑をかけたと自分を蔑み、ペコペコ謝罪していますが、これは間違いです。

 
 あなた方こそ、自ら血を況して東亜民族を解放し、救い出す、人類最高の良いことをしたのです。なぜなら、あなたの国の人々は過去の歴史の真実を目隠しさ
れて、今次大戦の目先のことのみ取り上げ、あるいは洗脳されて、悪いことをしたと、自分で悪者になっているが、ここで歴史を振り返って、真相を見つめる必
要があるでしょう。

 
 本当は私たち白人が悪いのです。一〇〇年も二〇〇年も前から、競って武力で東亜民族を征服し、自分の領土として勢力下にしました。植民地や属領にされ
て、永い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大にして崇高な理想を掲げて、大東亜共栄圏という旗印で立ち上がったのが、貴
国日本だったはずでしょう。

 本当に悪いのは、侵略して、権力を振るっていた西欧人のはうです。日本は敗戦したが、その東亜の解放は実現しました。すなわち日本軍は戦勝国のすべてを、東亜から追放して終わりました。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成しました。

 日本の功績は偉大です。血を流して戦ったあなた方こそ、最高の功労者です。自分を蔑むのを止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきです」

 
 参加者全員、思いがけない市長の発言に感動したのは言うまでもない。この市長のように、ヨーロッパの文化人や識者は、あの戦争は日本のはうが勝ち、攻め
た白人たちのはうが負けて、虎の子の植民地から追い出され、西洋の古巣に戻されてしまったことを知っているからである。

 
 世界史的に大観すると、大東亜戦争はアジアが西洋に勝ったいくさであり、それはこの戦いをリードした唯一のアジア独立国・日本の功績にはかならない。
「日本は負けて勝った」のである。アムステルダム市長のサンティン氏のように、ヨーロッパ人は東洋の日本に、謝罪し、反省し、感謝しなければならない。こ
のような良心的な正論を吐く市長だから、彼はやがて、全国民に推されてオランダの国務大臣に選ばれたのである。

 

 
■毛沢東、周恩来、劉少云可の証言

 

 ①劉少奇の「盧溝橋事件は中共軍の謀略だった」という発言

 当時中国共産党の副主席であった劉少奇が、戦後になって「慮溝橋事件の仕掛人は中国共産党で、現地の責任者はこの俺だ」と証拠を示して西側記者団に発表した。

 この発表が契機となって、当時戦犯として巣鴨プリズンに拘置中の河辺大将(当時師団長)、牟田口中将(当時北京市に本部のあった歩兵第一連隊長)は理由も告げられずに釈放された。

 
 東京裁判で、慮溝橋事件を起こした罪を、日本軍に負わせるため現地の日本軍指揮官を処罰しょうとしていたところへ、事件を起こした真犯人は中共軍だと発
表され、あわてて右のような処置に出たのである。劉少奇の発表を聞いた時、東京裁判の主席検事だったキーナンはあわてふためき、顔面蒼白になったそうであ
る。

 

 

 ②周恩来の「中共軍が日本軍と国民党軍の両方に鉄砲を撃ち込み、相戦わせた」という発言

 周恩釆首相は昭和二十四年(一九四九年) の中華人民共和国樹立宣言の際、「われわれ中共軍が日本軍と蒋介

 

 ③毛沢東の「日本軍のお陰で、中華人民共和国をつくることができた」という日本に対する感謝発言

 
 右の周恩釆や劉少奇の言と同じように、毛沢東も日本軍と蒋介石軍を相討ちさせたお陰で、中華人民共和国をつくることができたと認めている。昭和三十九年
(一九六四年)七月十日、毛沢東は当時の日本社会党の委員長だった佐々木更三氏と、会見した時の対話の中で、はっきりと、こう述べている。その時の対話は
次のような内容だった。

 

佐々木

 今日は毛沢東主席の非常に度量の大きい話を聞かせていただきました。過去において、日本軍国主義が中国を侵略し、皆さんに多大の損害をもたらしました。われわれは皆、非常に申し訳なく思っております。

 毛 

 
 何も申し訳なく思うことはありません。日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらし、中国人民に権力を奪取させてくれました。皆さんの皇軍なしにわれわれ
が権力を奪取することは不可能だったのです。この点、皆さんと私は意見を異にしており、われわれ両者の間には矛盾がありますね(皆が笑って会場が盛り上
がった)。

 佐々木
:ありがとうございます。

 毛 

 過去のああいうことは話さないようにしましょう。過去のああいうことはよいことであり、われわれの助けになったとも言えるのです。ごらんなさい。中国人民は権力を奪取しました。同時に皆さんの独占資本と軍国主義はわれわれを助けたのです。

 

 要するに毛沢東は「われわれは日本軍のお陰で権力を奪うことができ、中華人民共和国をつくることができた。この点でわれわれは日本軍に感謝している。だから日本人は中国に謝ることはありません」と言っているわけである。

 

歴史から消された通州事件

 シナ事変が日本の一方的な“侵略”ではないことを示す、最も象徴的な出来事が「通州事件」である。この恐るべき虐殺事件は、慮溝橋の事件の約三週間後に起こつた。

 この通州事件については、戦後、ほとんど語られなくなった。なぜなら、この事件のこ

 
とを言い出すと、「中国は善玉、日本は悪玉」という構図が崩壊してしまうからである。ところが、岩波書店の『近代日本総合年表』には、昭和十二年の項に通
州事件のことは一行も書れていない。また同年十二月十四日に、キトウ政府(北シナに成立した政府)が殺された人の弔慰金百二十万円を払ったことにも一行の
記述もない。

 
 昭和十二年(一九三七)七月二十九日、北京の東方にあった通州で、シナ人の保安隊(キトウ防共自治政府軍)による大規模な日本人虐殺事件が起こった。殺
されたのは、通州の日本軍守備隊、日本人居留民(多数のコリア人も含む)の二百数十名であり、中国兵は婦女子に至るまで、およそ人間とは思えぬような方法
で日本人を惨殺した。

 東京裁判において弁護団は、通州事件について外務省の公式声明を証拠として提出しようとしたが、ウエツブ裁判長によって却下された。この事件に触れると、シナ事変は日本ばかりが悪いと言えなくなってしまうという判断があったのは、言うまでもない。

 ただ、通州事件の目撃者三人の宣誓口供書だけは受理された。あまりに残虐な内容であるけれども、その一つ、元陸軍少佐の証言をあえて引用したいと思う。

 
「守備隊の東門を出ると、数間ごとに居留民男女の死体が横たわっていた。某飲食店では、一家ことごとく首と両手を切断され、十四、五歳以上の婦人は全部強
姦されていた。旭軒という飲食店に入ると、七、八名の女が全部裸体にされ、強姦射刺殺され、陰部に等を押しこんである者、口中に砂を入れてある者、腹部を
縦に断ち割ってある者など見るに堪えなかった。東門の近くの池では、首を電線で縛り、両手を合せて、それに八番線を通し、一家六名数珠つなぎにして引廻し
た形跡歴然たる死体が浮かんで居り、池の水は真っ赤になっていた。夜半まで生存者の収容に当たり、『日本人はいないか』と叫んで各戸ごとに調査すると、鼻
に牛の如く針金を通された子供、片腕を切られた老婆腹部を銃剣で刺された妊婦などが、そこここの塵箱の中やら塀の蔭から出て来た」(朝日新聞社 法廷記者
団『東京裁判』東京裁判刊行会・中巻。読者の便を考え、読点を増やした)

 
 これが人間のやることだろうか。シナの史書には、生きたまま人の皮を剥ぐとか、あるいは手足を切り落とすというようなことが多数、苦いてある。日本人か
らすれば、とうてい信じがたい話であるが、この証言を読むと「あの記述はやはり真実であったのか」と思わざるをえない。

■シナ人の残虐性

 戦前、シナ人は残虐で、捕虜になれば、死よりも酷い苦痛を受け殺害されるので、死を選んだ方が良いと訓示していた。耳と鼻を
削ぎ、目をくり抜き、陰茎を切り落とし、口に差し込んで殺す。連行する時は針金で生身を突き刺す。通州事件では強姦された日本女性の鼻に針金を通し処刑す
る。通州事件では強姦された日本女性の鼻に針金を通し処刑する。手足の指をすべて切り落とした児童の顔を針金で貫いて、局部に箒を突き刺されて殺された母
親に縛り付けてあった。その十年後、満州で日本人三千人が虐殺された通化事件でも、針金を脛に通して歩かせた。

 

■『紫禁城の黄昏』が明らかにした真実(満州事変)

 

 渡部氏の監修の言葉に「『紫禁城の黄昏』が、極東軍事裁判に証拠書類として採用されていたら、あのような裁判は成立しなかったであろう。もちろん、東京裁判所は、本書を証拠資料として採用せず、却下した」と。

 この本を書いたレジナルド・ジョンストンは、当代一流のシナ学者で、宣統帝薄儀の家庭教師となった人である。この本は、満州事変後のアメリカ・イギリスの対日政策が根本から間違っているということを、動かしがたい証拠を以て言及しているの。

 
 この書が決定的に主張していることを二言でいえば、「満州は絶対シナではない」という点である。ジョンストンの、「シナには近代欧米的な意味での国家
は、かつて存在したことがなく、いろいろな王朝があっただけである」という指摘に驚かされる。考えてみれば周王朝と唐王朝では人種がほとんど別になってい
るといわれているし、元王朝は蒙古民族の王朝であり、清王朝は満州民族の王朝であり、決していわゆるシナ人の王朝ではなかった。これが満州問題を理解する
鍵であったのだ。

 
 そのシナで「滅満興漢」が叫ばれ革命が起こり、満州族最後の皇帝薄儀は紫禁城から追い払われた。皇帝は家庭教師のジョンストンとともに日本公使館に逃れ
た。次に父祖の地である満州に戻って、そこで皇帝になりたいと思っていた。その薄儀の夢を支援したのが日本であったのだ。

 とすると満州というのは日本が侵略してつくったわけではない。満州国は塊偏政権だと言われるが、満州人の正統な皇帝が、先祖が「清」を建国した場所に戻って、大臣も満州人か清朝の家来で構成された。

 東京裁判のさい、梅津美治郎の弁護人だったブレイクニー少佐はこの本を提出したが却下されてしまった。これを証拠として認めると、先に渡部昇一氏の言としても紹介したように、東京裁判の戦犯は誰もいなくなってしまうからである

 
 ジョンストンのこの本には、薄儀が喜んで序文を寄せている。しかし薄儀は東京裁判の当時ソ連軍に捕まっており、脅かされていたので、序文は自分が書いた
ものではないと供述した。もし序文は自ら筆を執ったと彼自身が認めれば、彼は日本政府に拉致されて皇帝になったのでなく、自ら望んで日本に助けてもらって
皇帝になったということを認めることになる。そうすると東京裁判自体が成り立たなくなるのである。だから、この本は証拠として採用されなかったのだ。

 
 ジョンストンは次のように書いている。二十世紀初頭の満州は実質的に、完全にロシアに占領されていた。清朝はロシアを追い払うために何もしなかった。と
ころが日本は日露戦争でロシアを打ち破った。それがなければ遼東半島ばかりか、満州全体がロシア領のマンチェリアスタンになっていたことが明白であった。

 日本はロシアの植民地になりかけていた満州を助けた。そこへ清朝から皇帝が帰ってきた。それを日本が助けて、一体何が悪いかと。

 この論理が成り立たなければ、日本は中国を侵略したという汚名から逃れることができなくなる。だが、この論理はきわめてまっとうなもので、日本が満州を侵略したと言い募るほうが無理だということに、そろそろ気がつくべきである。

 だとすると、柳条湖事件にも、日本は肩身の狭い思いをする必要はまったくない。この事件は満州国をつくるために侵略者で匪賊の頭領である張学良を追い払っただけのことである。

 何度も言うが、満州はシナではないのだ。シナ人にとっては万里の長城の外の化外の地にはかならないのである。


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