宋書

宋書・夷蛮・倭国(付・南斉書・東夷・倭)

宋書』は梁王朝(502~555年)の史官・沈約(?~513年)が著した。
宋が滅亡したのは479年(第8代・順帝3年)のことであるから、ほぼ同時代史といってよい。

 次の正史『南斉書』も、梁の史官である瀟子顕(?~537年)の編纂であり、これも同時代史と言って差し支えない。
『南斉書』の倭の記事は数行の僅かなものなので、『宋書』にまとめて載せることにした。

   〈 宋書・夷蛮・倭国 〉

西暦421年を皮切りに、倭国からの貢献は6回行われている。それを次に一覧表にして示す。
西暦 宗 主 内   容 備  考
1 421年 初代・武帝
 永初2年 ・倭の讃が万里を遠しとせず、修貢して来たので、除授した。 421年は、書紀では仁徳天皇時代とされる。
2 425年 第3代・文帝
 元嘉2年 ・讃がまた司馬曹達を遣わし貢献した。
・讃が死んで弟の珍が立ち、貢献した。珍に「安東将軍・倭国王」を詔除した。
・珍はまた、倭隋ら13人の詔除を求めてきたので、平西・征虜・冠軍・輔国の各将軍号を授けた。 425年は、書紀では仁徳天皇時代とされる。
宋書・百済伝によれば、この年、百済王はすでに「使持節・都督・百済諸軍事・鎮東大将軍」を詔除されている。
3 443年 同
 元嘉20年 ・倭国王・済が貢献した。珍と同じ「安東将軍倭国王」を詔除した。 443年は、書紀では允恭天皇時代とされる。
4 451年 同
 元嘉28年 ・「安東将軍・倭国王」に「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加えて詔除する。
・その他、上記の13人にもそれぞれ除授した。
・世子・興が貢献した。 451年は、書紀では允恭天皇時代とされる。
5 462年 第4代・孝武帝
 大明6年 ・孝武帝は詔書で「倭王の世子・興は忠節を尽くし、辺土を安んじてきた。今回、新たに王位を継いだ。」と述べながらも、授爵は「安東将軍・倭国王」だけであった。 462年は、書紀では安康天皇時代とされる。
6 478年 第8代・順帝
 昇明2年 ・興の弟倭王・武の上表文の要求に対して「百済」を除く六国諸軍事を詔除。すなわち武を
「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」に除した。 478年は、書紀では雄略天皇22年に当たるとされる。
(注)
倭の讃・・・西暦413年に「倭が方物を献じる」(晋書・安帝紀)とあってから、宋王朝になって初めての倭(国)に関する記事で、ここでは倭王の名「讃」が登場する。
 「讃」以下「珍」「済」「興」「武」を称して「倭の五王」とするが、その王の比定をめぐっては、いまだに定説を見ない。ただ、最後の「武」だけは書紀の「雄略天皇」の本名である「幼武(ワカタケル)」で、ワカタケルが全国をほぼ掌中に収めていたことは、 ①埼玉古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣銘に刻まれた「ワカタケル」という文字、 および ②熊本県の江田船山古墳出土の鉄剣銘の「ワカタケル」刻字 により雄略天皇は実在であり、雄略天皇が宋に遣使し、除爵を求めたのは確実だろうとされている。 
 (私見でも「武」は雄略天皇だと考えるが、ただし、書紀の記述する雄略天皇は人格が前半と後半でいちじるしく分裂しており、もしかしたら当時の二人の統治者をむりやり一天皇に纏めてしまったのかもしれないと思っている。)
 さて、「讃」だが、通説では「仁徳天皇」または「応神天皇」とされている。その理由は仁徳天皇の和名「おおさざき」を中国風に漢字で書いたとき、「大讃々岐」のように当て字され、それを中国側が一字で「讃」としたのであろうという。また応神天皇と考える場合は和名が「誉田別」であり、この「誉む」を「讃(ほめたたえる)」の一字で表現して上表したゆえにそう史書に載せられたのだろうとする。
 いずれにしても「漢字の語呂合わせ」のような解釈でしかない。といって別案があるかと言えば、思いつかない。とにかく書紀にも古事記にもまったく遣使のことは記述されていないのである。
 ひょっとしたら大和王朝の王ではなく、九州の王(を名乗って)の遣使かもしれない。1世紀あまり後に、八女に本拠を持つ「岩井」が「筑紫の君」として九州に君臨し、新羅と通じていたことを考慮に入れると、そのような九州に覇権を持った王が半島を経由して大陸王朝へつながっていた可能性は捨てきれない。

倭の珍・・・「讃」の弟。西暦425年、「讃」が再び貢献してきたが、宋書ではそれに続けて「讃死して、弟・珍立つ」とある。
死の間際にあった「讃」が貢献したあとすぐに亡くなり、今度は後継者となった弟「珍」が貢献してきた―ということである。つまり同じ年にそう時を隔てずに2度の貢献があったということであろう。
 「珍」は自ら「使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」を称して除爵を求めたが、結果としては「安東将軍・倭国王」のみであった。
 「珍」は「讃」の弟であるので弟のいない「応神天皇」が「讃」であることは否定されるが、さりとて「讃=仁徳天皇説」でも、弟で次の天皇になった者はいないので、これも成り立つとは言えない。
 だが、西暦425年と言えばまさしく仁徳天皇時代であり、古事記の没年干支によれば仁徳天皇は427年に没しているので、年代的には合わないことはない。
 しかし、この王・珍も九州の王であった可能性が否定できない。

倭の済・・・西暦443年に貢献した倭王。珍と同じ「安東将軍・倭国王」を詔除された。
「済」も「讃」と同様に、2回貢献している。2回目は西暦451年である。
 このとき、ついに加除(除爵を加えられること)され「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東将軍・倭国王」という長い爵号を得た。
 一見すると「珍」が求めた爵位と同じに見えるが、①「百済」がないこと ②「加羅」が加わっていること、の2点で違っている。①の「百済」がないのは、百済王がすでに425年の段階で「百済王」に除爵されているので、宋王朝が省いたのは当然のことである。
 しかし②「加羅」が加えられた、のはなぜなのか?
 これについては「百済」がダメな代わりに加えられたのだろう、と、まずはみなすことができよう。だが、「珍」が求めた中に入っていない国を「百済」は無理だが「加羅」ならいいだろう―というように軽々しい除爵などできるものだろうか?
 「加羅」は「金官伽耶(金海市)」を指し、魏志倭人伝で言う「狗邪韓国」のことである。
 「珍」が「加羅」を除爵の内に入れなかったのは、「珍」はすでに「加羅」を掌中に収めていたからではなかったか。ということは、「珍」は九州を本拠地とし、半島南部の「加羅」をもその領域内にもつ「九州王」だったと言うことを意味しよう。
 それに対して「済」は、九州王の「珍」とは別系の畿内に本拠を持つ「畿内王」であり、「珍」が貢献した425年から「済」が貢献した443年の20年足らずの間に、列島における覇権を畿内に招来した王だったのではないだろうか?
 『宋書』で「珍」と「済」との間柄を書かないのは、そのためなのかもしれない。
  
倭の興・・・「済」の子。西暦451年に「済」が貢献したあと、同じ年に貢献している。
しかし、このとき、孝武帝に詔除されたのは「安東将軍・倭国王」だけであった。何のことはない,
せっかく父「済」に対して加えられた重要な爵号が、ばっさりと削除され「元の木阿弥」になってしまったのである。
 その理由は書かれていないので、推測するしかない。一つ考えられるのは、高句麗も百済も孝武帝が即位してすぐに朝賀貢献を行っているが、倭国は記録に見えていないので、貢献のタイミングを逃したからではなかろうか(大明6年では、即位後すでに6年も経っている)。つまり、臣下の国でありながら皇帝の即位を祝おうとしない無礼な国である―との怒りを買ったのであろう。
 「興」は「こう」で、これは「安康天皇」の「康(こう)」から取られたのだ、とする論者が多いが、「安康天皇」という漢風諡号は平安時代初期に淡海三船によって創作された諡号であるから、それは理由にならない。また安康天皇の和名は「あなほ(穴穂)」であり、これも「興」とは結びつかない。
 孝武帝の詔書(大明6=462年)に「興」が「新たに王位を継いだ」とあるが、安康天皇の即位は454年であるから、この点からも「興」は安康天皇ではありえない。
 しかし、「済」の子「興」も畿内系の王であることは間違いないだろう。

倭の武・・・「済」の子で「興」の弟。西暦462年(孝武帝の大明6年)の記事に「興死して、弟・武立つ」とあり、父・済の爵号に「百済」を加え、さらに「安東将軍」を「安東大将軍」とした上で「七国諸軍事・倭国王」を自称して貢献してきた―とある。
 第8代順帝の昇明2(478)年、次のような上表文をもたらした。

    <倭王・武の上表文>(原文をかな交じりにし、割注を入れてある)

 <封国は偏遠にして、外に藩を作す。昔より祖禰(ソデイ)みずから甲冑を貫き、山川を跋渉して寧処にいとまあらず。東は毛人の55国を征し、西は衆夷の66国を服し、渡りて海北95国を平げり。
 王道は融泰(安泰)にして、土(国土)ははるかに畿内(都=宋王朝)を廓(へだ)て、累葉(何世代も)、朝宗(朝貢)して歳をたがへず。臣(わたくし)は下愚といえども、かたじけなくも先緒(先祖)を胤(つ)ぎ、統ぶる所を駆率(なんとか率いて)せり。天極(宋朝)に帰祟し(あがめ)奉れり。
 しかるに句麗(高句麗)は無道にして、見呑を図らんと欲し、邊隷(ヘンレイ=百済のこと)を掠抄(侵略)せんとして虔劉(ケンリュウ=掠奪・殺害)することやまず。毎(つね)に、稽滞(ケイタイ=押し留める)を致し、以って良風を失へり。路を進ましめんと曰うといえども、或は通じ、或は通ぜず。
 臣が亡考(亡父)「済」は実に寇讎(コウシュウ=仇敵)の天路(宋王朝への朝貢の道筋)を擁塞せるを忿(いきどお)り、控弦(コウゲン=兵士)百万(を揃え)、義声(仇敵をやっつけようという声)は感激し(ふるいたち)ていた。
 しかし方(まさ)に大挙せんと欲したれど、奄(にわか)に父兄を喪ひ、垂成の功をして一箕をも獲ざらしめたり。居るところ、諒闇に在りて、兵甲を動かされず。是を以って、堰息(ため息)してやまざりし。
 今に至りて甲を練り、兵を治め、父兄の志を申(かさね)んとす。義士(高句麗をやっつけようとする兵士)・虎賁(勇士)、文武に功を(効)あらわし、白刃の前に交わすをもまた顧みざる所となせり。
 若し、帝徳を以って覆戴(フクタイ=後ろ盾)せば、此の強敵を摧(くじ)き、よく方難を靖んぜしかば、前功に替える無けん。
 ひそかに自ら開府儀同三司(カイフギドウサンシ=将軍府を開くことのできる三司と同じ地位)を假し、其の余もすべてそれぞれ假授せしめ、以って忠節を勤めんとす>

 これに対して順帝は倭王・武を「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王」と除爵した。自称の「開府儀同三司」は与えられず、「百済」も除外されたが、ただの「安東将軍」が「安東大将軍」に昇格しており、父「済」を超えた地位を得たことになる。
 因みに、このころ、高句麗王は既に「開府儀同三司」号と「車騎大将軍」号を除正されており、また百済王は「鎮東大将軍」であったから、倭王は此の時点で百済と並んだが、高句麗の地位には及ばなかった。

 さて、上表文の主・武が「ワカタケル」つまり「雄略天皇」であるとすると、「方(まさ)に大挙せんと欲したれど、奄(にわか)に父兄を喪ひ・・・・・、居るところ、諒闇に在りて、兵甲を動かされず。」と書かれている部分が、雄略紀からは全く伝わってこないという点で合致しない。この上表文では「高句麗を征伐しようとしていたら、にわかに父も兄も失ってしまい、その諒闇を静かに過ごさなければならないため、兵を動かすことができなかった」というのだが、雄略天皇の父・允恭天皇の死は「允恭紀」によれば453年であり、兄の安康天皇の死は456年で、そこには3年の間隔がある。これを「奄(にわか)に」つまり「突然ぱたぱたと」死んだ―とするには無理があろう。

 したがってこの上表文を献じた「武」は雄略天皇ではない誰か別の人物としなくては整合を得ないのである。
 それでは誰なのか? 私見では「志幾大県主」で安康天皇の使いとして大草香皇子のもとへ行き、騙して「押木の玉蔓(金の王冠)」を手に入れた「根使主(ねのおみ)」ではないかと考えている。
 この河内・志幾の根使主(ねのおみ)と大和の王の二人を、雄略天皇という一人格に合成したのが「雄略紀」の内容ではないだろうか。再考を要する極めて重要な問題である。

   <南斉書・東南夷・倭>

 斉の始祖「高帝」の建元元年(479)に倭王・武に対して詔除が行われている。この時、倭から貢献があったとは書かれていないので、一般的には「新しい王朝が成立すると、前王朝の除爵も踏襲されるので、貢献がなくても、いわば自動的に除爵が行われる。だから、武の貢献がなくても前代の爵号が与えられる」という理由で、そのように記載されたのだろう―とされている。
 しかしよく見ると、前代つまり宋の爵号を微妙に変えているのだ。次に示そう。

  <倭王・武への除爵>

 建元元年(479)、進めて新たに「使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭王武を号して「鎮東大将軍」となす。

 
 もし遣使も無いのに代が替わって新王朝が樹立されたら、めくら判的に前代の爵号を踏襲するのであれば、この記事のように「安東大将軍」を「鎮東大将軍」に代えることはあり得ない話だ。
 雄略天皇の死は479年の8月であるが、大陸の新王朝によしみをつなぐには雄略の死の諒闇をおしてでも貢献した方がよいと判断したものだろう。
 その熱意に対し、斉の高帝が一ランク上の「鎮東大将軍」の除正を以って応えたと考えてよいと思う。

                (宋書・南斉書の項・終り)