尚家

尚家

(しょうけ)
琉球藩(国) 左三つ巴 9万4230石
琉球首里城(沖縄県那覇市首里)
               薩摩藩島津家の付属国

移封加減増履歴 ・慶長16年→8万9086石・寛永6年→8万3085石・寛永12年→9万883石・享保7年→9万4230石

専売品&専売開始年・砂糖/鬱金(うこん 正保4年、薩摩藩へ販売し薩摩藩は大坂と堺の市場へ転売)
江戸城詰席・無席 侯爵(明治18年)      
藩邸・飯田町檎木坂(明治5年~明治12年)
家数・5389軒
人口・2万4922人(首里城下 /明治13年現在)
家数・6万3000余軒
人口・約31万人(藩内/明治12年現在)
7代寧王より20代前の舜天王は、「三国通覧」には六条判官源為義の八男為朝の子で、母は琉球国大里按司の妹との所載があるという。

■慶長11年(1606)6月、薩摩藩島津家久は琉球王国を通して明との貿易を策すが、琉球国の尚寧王はこれに応じなかった。島津家久は徳川家康に琉球征討を願い出、これが許される。
慶長14年(1609)4月、薩摩藩は琉球征討を行い、同年5月に尚寧王を捕虜として薩摩に連れてくる。
慶長15年8月、島津家久は尚寧王を伴ない駿府にて大御所家康に拝謁し、翌月には将軍秀忠に聘礼する。
慶長16年9月、島津家久が尚寧王に知行目録を布達。薩摩藩は慶長14年に本島と諸島を検地しており、総石高を8万9086石余りと規定し、薩摩藩へ年貢米9000石の他に芭蕉布、莚、牛皮などの上納を命じた。
ただし、薩摩藩が幕府へ届け出た琉球王国総石高は12万3700石であった。喜界島以南の道の島五島(喜界島・大島・徳之島・沖永良部島・与論島)を薩摩藩直轄領とし、それ以南を琉球王国領としたことを隠したのである。
尚寧王への知行目録布達以後に若干の増減があるが、これは検地の誤算や新開墾田によるものである。

薩摩藩が当初目論んでいた琉球王国と明の間で行われていた朝貢貿易の支配であるが、琉球征討3年後の慶長17年の朝貢貿易は10年1貢となっていた。琉球王国が明との朝貢貿易を始めたのは洪武5年(1372)、活発に行われた頃は1年2貢、間隔が空いても2年2貢であったことから、薩摩藩は貢期を旧例に復すよう琉球王国へ明に対して請願運動をするように命じ、元和8年(1622)に5年1貢、寛永10年に2年1貢となり、清になっても同貢期だったが延宝6年(1678)に貢船一艘の増加となる。貿易の内容は、日本の銀貨幣をもって生糸・反物・薬種・調度品などを購入して日本で売るというものである。
銀貨幣は幕府鋳造のものであり自ずから制限があり、売るにあたっても貞享5年(1688)に京都に琉球唐物定問屋が設けられ、内侍(ないじ)原善兵衛の店を琉球唐物問屋と定め、その封印がないと販売できないこととした。

琉球王国は中国の明・清両朝廷と朝貢冊封の関係にあることから、幕府は琉球王国を直接支配せず薩摩藩を介して間接的に支配する形であった。
従って琉球王国は参勤交代はしなかったが、それに類した慶賀使(徳川将軍就任時)と謝恩使(琉球国王就任時)を薩摩藩の参勤時に同行派遣していた。こうした使節派遣は明・清両朝廷に対しても行っていた。

那覇には薩摩藩の仮屋(かりや)が設置され、ここに在番奉行が詰めて琉球王国の統治にあたった。一方薩摩藩には琉球王国の仮屋(現・鹿児島市立長田中学校)が配置され、ここに在番親方が詰め対薩摩関係の政治経済用務にあたった。
また中国福建には柔遠駅(じゅうえんえき)と呼ばれる琉球王国の出先機関が設置されていた。

明治4年(1871)明治政府は廃藩置県の際に鹿児島県の管轄下に置くが、琉球王国の日本・清国の両属問題を解決するため翌5年に「琉球藩」として明治政府の所管に移す、琉球国19代尚泰王は琉球藩王に叙せられ、華族に列せられた。
明治12年(1879)琉球藩は廃され沖縄県となり、初代沖縄県令に侍従鍋島直彬が任命され、旧藩王尚泰は東京府麹町区富士見町(現・都立九段高校)に新たに与えられた2000坪の邸宅へ移住する。
 

7代・寧(ねい)
6代尚永の子 
生没・天文7年(1538)~元和6年(1620)
家督・天正17年(1589)相続
世子時代の受領名・浦添(うらそえ)王子
称号・琉球国中山王
子女・8代豊

8代・豊(ほう)
寧の子
生没・天正18年(1590)~寛永17年(1640)
家督・元和7年(1621)相続
世子時代の受領名・中城(なかぐすく)王子
称号・寛永13年(1636)琉球国中山王の号を薩摩藩から禁止され、「国司」となる
子女・9代賢 質(賢養子、10代)

9代・賢(けん)
豊の子
生没・寛永2年(1625)~正保4年(1647)
家督・寛永18年(1641)相続
世子時代の受領名・中城王子
称号・国司
子女・養子質(10代)

10代・質(しつ)
賢の弟 
生没・寛永6年(1629)~寛文8年(1668)
家督・慶安元年(1648)相続
世子時代の受領名・中城王子
寛文6年(1666)に摂政となった向象賢(しょうしょうけん・羽地朝秀はねじちょうしゅう)は綱紀粛正に努めるとともに、編纂した琉球最初の歴史書「中山世鑑」(ちゅうざんせかん)にて日琉同祖論を展開する
称号・国司
子女・11代貞

11代・貞(てい)
質の子 
生没・正保2年(1645)~宝永6年(1709)
家督・寛文9年(1669)相続
世子時代の受領名・中城王子
称号・国司
子女・養子益(12代)

6代・益(えき)
貞の子純の子 
生没・延宝6年(1678)~正徳2年(1712)
家督・宝永7年(1710)相続
世子時代の受領名・中城王子
称号・国司
子女・13代敬

13代・敬(けい)
益の子
生没・元禄13年(1700)~宝暦元年(1751)
家督・正徳3年(1713)相続
世子時代の受領名・中城王子
享保13年(1728)に三司官になった蔡温(さいおん)は農政・治水・植林・土木などの改革を進める
称号・正徳2年(1712)琉球国中山王の号に復すを薩摩藩から許される
子女・14代穆

14代・穆(ぼく)
敬の子 
生没・元文4年(1739)~寛政6年(1794)
家督・宝暦2年(1752)相続
世子時代の受領名・中城王子
称号・琉球国中山王
子女・養子温(15代)

15代・温(おん)
穆の子哲の子
生没・天明4年(1784)~享和2年(1802)
家督・寛政7年(1795)相続
世子時代の受領名・中城王子
称号・琉球国中山王
子女・16代成
16代・成(なおあきら)
温の子 
生没・寛政12年(1800)~享和3年(1803)
家督・享和3年(1803)相続
子女・養子灝(17代)
17代・灝(こう)
成の叔父
生没・天明7年(1787)~天保5年(1834)
家督・文化元年(1804)相続
受領名・具志頭(ぐしちゃん)王子
称号・琉球国中山王
子女・18代育
18代・育(いく)
灝の子    
生没・文化10年(1813)~弘化4年(1847)
家督・天保6年(1835)相続
世子時代の受領名・中城王子
称号・琉球国中山王
弘化元年(1844)フランス軍艦が那覇に入港し和親貿易と布教を要求し、宣教師ホルカードを残して去る
弘化2年イギリス艦が八重山地方を測量する
弘化3年フランス艦が開国を要求し、ホルカードを乗せて去る、イギリス艦が来航し、ベッテルハイムが定住する
弘化4年ホルカードとベッテルハイムが逗留したことを薩摩藩へ報告する
子女・19代泰
19代・泰(たい)
育の子 
生没・天保14年(1843)~明治34年(1901)
家督・嘉永元年(1848)相続
世子時代の受領名・中城王子
称号・琉球国中山王
嘉永6年(1853)ペリーが来航し、外交交渉の席に薩摩藩役人が琉球衣装を着けて参加する
安政元年(1854)1月6日ペリー再来航、200人の兵を率いて首里城を訪れる、同年同月13日プチャーチンが来航する、同年6月ペリー三度来航し、修好条約を調印する
安政2年フランスと修好条約を結ぶ
安政6年(1859)オランダと修好条約を結ぶ
文久2年(1862)幕府がイギリス琉球王国の領土権を表明する
明治4年(1871)鹿児島県の管轄下に入る
明治5年9月14日琉球藩となり尚泰は藩王となり華族に列せられる、同年同月28日琉球王国の締結した修好条約を以後外務省の管轄とすることになる、同年同月29日新政府から東京藩邸を与えられる