尼子久幸

尼子久幸

あまご ひさゆき
1473-1541
別:〇孫四郎 源五郎? 義勝 下野守
父:◇尼子清定
室:武田元繁女
子:尼子詮幸(尼子経貞?尼子氏久?)

出雲・尼子氏一族。智勇に優れた賢将で兄経久が家督を譲ろうとした程であった。重臣も久幸相続に賛成したが、久幸自身がこれを固辞したという。安芸・毛利氏が離反して周防・大内氏に与した時、これを攻めようとした当主晴久に反対し諫めたが聞き入れられず、むしろ“臆病野洲”と罵られた。結果毛利氏の郡山城攻めにて大敗し、この時晴久を逃がす為、殿を務め、最期は“臆病野洲の最期を見よ”として敵中突撃のうえ討死したという。
尼子氏が毛利家の本拠・吉田郡山城を攻めた「郡山合戦」で討死した尼子家の重臣で,兄はかの有名な尼子経久ですから,重臣中の重臣といえます。

経久が1537年に若い孫の詮久(晴久)に家督を譲ると,補佐役に任じられたとかで,そもそもこの時期に毛利家を攻めることに久幸は反対だったとか。
経久かた詮久(晴久)への代替わりの直後だけに,もう少し毛利周辺の安芸・国人衆を固めてからでも遅くないとの考えもあったのではないでしょうか。

結局,郡山合戦は大内氏が毛利を支援したこともあり失敗。撤退戦の混乱の中で討死し,この地に埋葬された。


尼子清定━━━尼子久幸━━━尼子詮幸
             (尼子経貞?)
             (尼子氏久?)


尼子氏


→ 尼子 家・氏 系図