尼子持久

尼子持久

あまご もちひさ
1381-1437
別:〇上野介、1392-1437? 出雲守護代、1395- 月山富田城主
父:◇尼子高久の次男
子:1410-1477 尼子清定、1404-1458 山中幸久

京極高詮の命で、出雲国守護代となる。雲州尼子氏初代とされる。

 尼子持久は、高久の子にあたります。
 高久には二人の子がおり、長男は詮久(満秀)、次男が持久です。持久は上野介を称しました。
 『佐々木系図』には、注として長男・詮久を「江州尼子」、次男・持久を「雲州尼子」と記述してあります。このことから、詮久が近江の本領を継ぎ、持久が出雲国にはいったことがわかります。
 つまりこの持久が雲州尼子氏の祖となるのです。

 持久は、京極氏の守護代として出雲に入国しました。
 京極高詮が、明徳の乱(1391)によって没落した山名氏に代わって出雲・隠岐の守護に任ぜられましたが、高詮は自らは赴任せず、持久に任せたのです。
 室町時代、多くの守護大名は、このように自らは任地に赴任せず、守護代を置いて領国を治めていました。
 京極氏もこの例に漏れなかったわけですが、京極氏の場合、室町幕府の侍所所司といった要職にあったため、赴任したくても赴任できない、という事情もあったようです。
 ただ、高詮と他の多くの守護大名との違いは、諸大名が任地の有力国人(豪族)を守護代に任じていたのに対し、高詮は自分の一族を守護代として送った、ということです。
 隠岐には左衛門尉清泰、出雲には、はじめ隠岐五郎左衛門、のち尼子持久を守護代として送った、とされています。

 高詮が、このように一族を守護代に送ったのには、理由がありました。
 かつて、高詮の祖父・高氏も出雲国守護を任じられたのですが、このときは在地の国人・吉田厳覚という者をあてて守護代としました。
 ところが、出雲は本拠・近江から離れていることもあり、出雲までは京極氏の影響力は及びにくく、また出雲地方は寺社領などが複雑に入り組んだきわめて治めにくい土地であったため、守護代・吉田厳覚の力だけではどうしても支配力が弱かったのです。
 そのために隣国の山名氏の侵入を許してしまい、出雲は山名氏に抑えられてしまいました。
 この苦い経験を繰り返さないためにも、京極氏の存在を出雲に浸透させる必要性がありました。そのために自分の一族を守護代にあてることになったのです。

 なお、出雲に守護代として入国したのは持久ではなく高久だ、とする説もあります。
 『多胡外記手記』に「高詮の弟高久、江州尼子に居り候を目代として富田へ遣わし、出雲・隠岐の仕置しなされ候」とあるのがその根拠です。
 いずれにしても、京極氏の守護代として尼子氏が出雲に入国した、という事実だけは確かで、雲州尼子氏歴史はここからはじまるのです。


尼子高久━┳━尼子詮久(江州尼子氏
     ┗━尼子持久(雲州尼子氏)━┳━尼子清定
                   ┗━山中幸久


尼子氏


→ 尼子 家・氏 系図