尼子氏
尼子氏
あまごし
尼子氏の発展 守護京極氏の守護代として出雲に勢力を拡大。
尼子氏は京極氏の守護代として出雲に入国した持久以後、守護代職を世襲し、京極氏の出雲支配を助けた。しかし、応仁の乱以来、京極氏は出雲を不在にし、領国の政治は尼子氏に任せた。
持久の子清定は応仁以来の乱世のなかを隣国の山名氏の出雲侵入を撃退し、また、国内の反京極勢力の平定に従事し、京極氏の勢力安泰に努めた。
●尼子清定の活躍
応仁の乱が起こると守護京極持清は、東軍の有力武将として京都・近江に転戦し、出雲は守護代尼子清定に全面的に一任せざるを得なかった。
清定の妻は出雲仁多郡の豪族真木上野介の娘であった。かれは、「出雲タタラ」の本拠地である仁多郡を押さえる真木氏と結び、また、出雲美保関の代官職として山陰・北陸方面との貿易を利用し勢力を固め、一方、京極氏の守護代として京極家臣を統率、次第にその勢力を強化していった。応仁の乱以前の出雲大社・日御埼神社 の社領紛争では、京極家臣を統率してその解決につとめた。
応仁二年(1468)六月、安来庄の十神山城を根拠とする松田備前守が富田庄堺村に攻め込んだ。出雲東部きっての豪族松田氏の富田城攻撃は西軍の山名氏の後押しによったらしい。こうして、広瀬月山富田城と安来十神山城の合戦がはじまった。清定は名ある被官ら数名が負傷したが、松田勢を撃退することができた。この松田氏の先制攻撃により清定は兵を動かす名目ができた。いよいよ、尼子清定の領国形成のための制服戦が開始されることになる。
手始めに十神山城の攻略にかかり、応仁二年七月の戦で出雲・伯耆・隠岐の国人ら百余人を討ち取った。ついで岩坂・外波の諸城を攻め、三沢氏の代官福頼十郎左衛門を討ち取ったが、出雲郷の春日城攻略は失敗し、神保・西木らの被官を失った。八月、矛先を転じて再び十神山城を攻め、八幡・富尾の両城を陥れた。
九月、清定は一隊を大原郡に派遣して馬田城を攻略し、自らは出雲郷に出陣して春日城を落とした。さらに湯郷の岩屋城の糧道を断って孤立無縁とし、山名六郎や松田備前守らの立て篭る十神山城を陥落させた。ついで、美保関に出陣し、山名党を蹴散らした。まさに東奔西走、神出鬼没の大奮戦であった。
この尼子清定の健闘に対し、守護京極持清は、兵糧を貯えて富田城を厳重に守備せよ、と命じ、しきりに感状を発し、 さらに恩賞として飯石郡多久和庄知行分、島根郡生馬郷、能義郡利弘庄、同中次闕所分、同郡舎人保内松田備前守 買得田畠屋敷、松田備前守買得分、安来庄領家分代官職、能義郡奉行職、美保関代官職といった所領・所職を与えた。 ここに尼子氏の戦国大名への道が開けたのである。
・奥出雲の強豪-三沢氏が拠った三沢城址
●戦国大名への途
明くる文明元年(1469)も清定の国内制服戦は続行される。七月、尼子軍は牛尾一族を主力として大東草尾に進軍したが大敗北を喫した。そこで清定は軍忠状を上申し、牛尾一族に京極持清からの感状をもらってやった。同月、大東野田原に戦い、八月中城進山では清定自ら軍配をふるい、名ある出雲・伯耆の武士数十人を討ち取った。清定の要求により、持清が感状を与えたのはいうまでもない。
翌年、仁多郡横田庄地頭で横田藤ケ瀬城を本拠とする三沢対馬守が与党を集めて国一揆を起こした。これに対し清定は三沢一味の知行差押えを持清に要求した。その結果、知行を押さえられた国人は、三沢をはじめ多胡・山佐・佐方・飯沼・下笠・野波・小境の各氏で、これから仁多・大原・能義・八束の各郡にわたる広範な地域的連合の一揆であったことがわかる。清定はこの国一揆を守護京極持清の権威を背景に鎮圧したのである。
文明二年八月守護持清が没したが、長男勝秀はすでに亡く孫の孫童子が京極の主となり、叔父政経が後見した。しかし、孫童子は病弱であったようで、翌文明三年政経は、出雲・隠岐・飛騨の三国の守護、文明五年近江守護を加え、京極氏の実権を握った。
この間尼子清定は、伯耆境松の合戦、美保関の合戦、井尻の難波城の戦いと連戦した。そして、伯耆の山名党は清定の奮戦の前に月山富田城を奪うことはできなかったのである。
文明六年、清定は長男の又四郎を上洛させ、これまでの所領を京極政経に確認してもらった。同時に主家の実力を打診させたのであろう。又四郎はのちの経久で、ときに十七歳であった。
出雲にあっては、文明八年の四月から五月にかけて、能義郡土一揆が富田城を急襲した。これは、美保郷の領有問題で争い、不利になった松田三河守を張本人とする国一揆であったようである。このとき守護京極政経は、前年十月末、江北の一戦に敗北したため出雲に下向していた。清定は政経に一揆征伐の感状を要求している。そして、清定は一揆征伐の戦功により、美保関代官職を安堵された。しかし、いまだに清定の背後に守護京極氏の権威のあることは見逃せない。
文明九年、又四郎二十歳のころ、民部少輔経久と名乗り家督を継ぎ、京都から帰国したようである。おそらく、この前後に清定は没したものと思われる。そして、尼子氏はこの経久の時代に戦国大名化をとげることになるのである。
■参考略系図
尼子氏系図に併せて、尼子氏の被官となった出雲佐々木氏流諸氏の系譜を掲載。
尼子氏
生没年:1363-1391
父:出雲守護 京極高秀
刑部少輔
備前守
近江守護代
妻:
尼子詮久
1381-1437 尼子持久
生没年:1381-1437
父:尼子高久
上野介
1392-1437? 出雲守護代
1395- 月山富田城主
妻:
1410-1477 尼子清定
1404-1458 山中幸久
生没年:1410-1477
父:出雲守護代 尼子持久
通称:又四郎
刑部少輔
1437?-1477 出雲守護代
-1477 月山富田城主
妻:(父:真木朝親)
1458-1541 尼子経久
1473-1541 下野守 尼子久幸
生没年:1458-1541
父:出雲守護代 尼子清定
幼名:又四郎
出雲守護代
伊予守
民部少輔
1477-1537 月山富田城主
1508-1537 出雲守護
室:(父:吉川経基)
1488?-1518 尼子政久
1492-1554 尼子国久(新宮党へ)
-1535 塩冶興久
娘(北島雅孝室)
生没年:1488?-1518
父:月山富田城主 尼子経久
幼名:又四郎
民部少輔
妻:(父:山名兵庫頭)
娘(松田誠保室)
男
1514-1560 尼子晴久
生没年:1514-1560
父:尼子政久
幼名:三郎四郎
初名:詮久
1537-1560 月山富田城主
従五位下
民部少輔
修理大夫
出雲守護
隠岐守護
伯耆守護
因幡守護
美作守護
備前守護
備中守護
備後守護
正室:
正室:(父:尼子国久)
1540-1610 尼子義久
1546-1623 尼子倫久
-1609 尼子秀久
娘(三沢為清室)
娘
生没年:1546-1623
父:月山富田城主 尼子晴久
通称:九郎兵衛
正室:(父:山内元通)
-1622 尼子元知
娘(宍道就兼室)
生没年:1540-1610
父:月山富田城主 尼子晴久
幼名:三郎四郎
1560-1596 出雲富田城主
出雲守護
正室:京極氏
-1622 (養子)尼子元知
尼子智久
生没年:-1622
父:尼子倫久
義父:月山富田城主 尼子義久
通称:久佐将監
正室:(父:井原伯耆守)
-1659 (養子)佐々木就易
生没年:-1659
父:宍道就兼
義父:尼子元知
別名:久佐孫三郎、九郎兵衛尉
妻:
1646-1710 (養子)佐々木氏久
生没年:1646-1710
父:宍道元兼
義父:佐々木就易
別名:佐々木広高
妻:
-1730 佐々木元氏
娘(粟屋元興室)
娘(粟屋元興室)
生没年:-1730
父:佐々木氏久
別名:佐々木光久
佐々木舎人
妻:
1690-1752 佐々木時久
佐々木信賢
娘
生没年:1690-1752
父:佐々木元氏
備前
妻:
男
娘(土屋直次室)
1721-1788 (養子)佐々木就清
生没年:1721-1788
父:粟屋常方
義父:佐々木時久
別名:佐々木胤久
将監
妻:
1754-1827 佐々木房高
男
男
生没年:1754-1827
父:佐々木就清
別名:佐々木紀久
九市郎
妻:
於満志
(養子)佐々木元久
生没年:
父:佐々木元久
妻:
-1907 (養子)佐々木道介
生没年:-1907
父:
義父:佐々木親辰
妻:
-1935 (養子)佐々木寅介
尼子氏
→ 尼子 家・氏 系図