尼子高久

尼子高久

あまご たかひさ
1363-1391
別:〇刑部少輔、備前守、近江守護代
父:◇出雲守護 京極高秀の次男
子:尼子詮久、1381-1437 尼子持久

近江の守護大名・京極氏の一族。
はじめて近江尼子郷に住み、尼子氏を称した。尼子氏初代。

 尼子高久は、尼子氏の初代であり、近江(滋賀県)の大名・京極高秀の子です。高秀の嫡男は高詮といい、これが京極氏を継ぎますが、高久はその弟にあたります。
 京極氏は、宇多天皇を祖とする佐々木氏の庶流で、近江の北半分を領していました。南半分はおなじく佐々木一族の六角氏が治めていました。
 高久は、父・高秀より領地として尼子郷を与えられ、この地に住みます。そして在地名をとって尼子を名乗り、備前守を称しました。

 高久が尼子郷を領したのには、次のようないきさつがありました。
 高久の祖父で、バサラ大名として知られる京極高氏(道誉)は、康安四年(1345)、戦功の賞として将軍・足利尊氏から犬上郡甲良荘を与えられます。この甲良荘に尼子郷があり、これを高久(秀久)に与えるように置文を残し、世を去りました。
 高氏には長男・秀綱、次男・秀宗、三男・高秀と、3人の子がいました。
 しかし長男、次男とも高氏に先だって相次いで死亡し、残る高秀とは確執を深めるなど、不遇の晩年を過ごしたと言われています。

 跡を継いだ高秀は、内訌をさけたのか、それともひとかどの人物であったのか、ともかく父のこの置文を守ります。そして応永五年(1398)、高詮の代にいたって高久に尼子郷を給与されます。
 このとき高久に与えられた領地は、尼子郷のほか、出雲国大原郡(島根県雲南市)の一部も含まれていたと言われています。

尼子氏発祥異説

 一般には上記ごとく高久こそが尼子氏の初代であるとされていますが、『羽衣石南条記』という書物によれば、尼子氏は塩冶高貞を祖とする、ということになっています。
 どういうことなのか、くわしく見てみましょう。

 塩冶高貞は京極氏・六角氏と同じく佐々木氏の一族です。
 高貞は足利尊氏に仕えて室町幕府成立に貢献し、出雲国守護に任じられました。ところが、尊氏の執事・高師直と不仲になったために讒言され、山名時氏によって討伐されてしまいます。

 『南条記』によると、高貞の嫡男はこのとき高貞とともに死にましたが、次男はひそかに逃れ、長じて南条貞宗を名乗ったとされています。
 さらに、この貞宗の三男・経時を「尼子経時」とし、その子孫が尼子経久である、と記されているのです。
 つまりこの説によれば、尼子氏初代は高久ではなくて経時、ということになります。

 さらに、興味深いのは『出雲私史』に出てくる記述です。
 この史料では、『南条記』の記述と同じく塩冶高貞の次男は山名時氏の追っ手を逃れます。彼は楠木正成の子・正行にひきとられ、その後、出雲国守護となった山名氏の庇護を受け、元服して玄貞を名乗ります。
 そして玄貞はやがて近江に赴いて京極高秀のもとに身を寄せ、人々から『出雲殿』と呼ばれた、とあるのです。
 『出雲私史』にはちゃんと尼子高久が登場しますが、強引に解釈すれば玄貞=高久という説も出てきます(ホント強引かも)。

 これらの説の信憑性はあまり高くないと思われるので、ここでは異説もある、ということだけを述べるにとどめておきます。
 が、この異説どおり、出雲にゆかりの塩冶氏の家系が出雲に返り咲いたとすれば、なかなか興味深いものがありますね。


京極高氏━┳━
     ┣━
     ┗━京極高秀━┳━京極高詮
            ┗━尼子高久━┳━尼子詮久
                   ┗━尼子持久


尼子氏


→ 尼子 家・氏 系図