岩城貞隆

岩城貞隆【いわきさだたか(1583~1620)】

佐竹義重の三男。岩城常隆の養子。

 1590年「小田原の役」の参陣中に父岩城常隆が病死し、岩城家の家督は羽柴秀吉の介入で、佐竹義重の三男岩城貞隆が相続した。1600年「関ヶ原の役」では、兄佐竹義宣の命に従って、越後長尾景勝征伐に参加しなかったため、1602年、兄佐竹義宣と共に処分を下された。佐竹家は減封で済んだが、岩城貞隆は全ての所領を没収された。岩城貞隆はこの不当な仕打ちに対して、兄佐竹義宣に挙兵まで促したが拒絶された。岩城貞隆は室の実家の相馬家が再興したことに希望を見出し、自らも岩城家再興を願うべく江戸に登り、浅草で浪人し、再興運動に尽瘁、飯野八幡宮に度々祈願した。土井利勝の内意を受け、松平元康に再興を嘆願した結果、本多正信の組となり300人扶持となる。1616年、信濃国中村に10,000 石を与えられ、大名として復帰した。