崇峻天皇

天皇家

名前 第32代 崇峻天皇(すしゅんてんのう)、泊瀬部(はつせべ)、長谷部若雀尊(はつせべのわかさざき)
                     
親族 父親 欽明天皇(きんめいてんのう)
  母親 蘇我小姉君(そがのおあねのきみ)
  妃 大伴小手子(おおとものこてこ)
                     
皇居 倉梯柴垣宮(くらはしのしばがきのみや)
                     
陵墓 陵名 倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)
  古墳 形状=円丘
  場所 奈良県桜井市倉橋

蘇我馬子の命により東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)という人物に暗殺された不運な天皇で す。遺骸は即日「倉橋岡陵」に葬られたというから御陵はすでに出来上がっていた事になります。治定は明治22年。金福寺跡にあった径約35mの古墳らしきものを無理に充てたらしい。
本来の崇峻陵は赤坂天王山古墳というのが定説のようです。
赤坂天王山古墳は、一辺50mの三段築成の方墳で、約15mの巨石使用の横穴式石室。玄室には水平六突起形石棺が安置され、墳丘形態、内部構造、位置関係ともに崇峻陵である条件をすべて満たしているといわれています。
                     
略歴(6世紀)
587- 丁未-用明02年04月09日 用明天皇崩御
587- 丁未-用明02年06月07日 蘇我馬子は炊屋姫尊(推古天皇)を奉じて佐伯連丹経手、土師連磐村、的臣真噛に「穴穂部皇子と宅部皇子を殺せ」と命じる。その日のうちに穴穂部皇子は殺される。
587- 丁未-用明02年06月08日 宅部皇子が殺される
587- 丁未-用明02年07月 蘇我馬子を筆頭とする軍により物部守屋は滅ぼされれる。
587- 丁未-用明02年08月02日 即位
蘇我馬子を大臣とする。このつきのうちに倉橋に柴垣宮を造る。
587- 丁未-用明03月 大伴小手子(おおとものこてこ)を妃とする。
588- 戊申-崇峻01年 この年、蘇我馬子が飛鳥衣縫造(あすかのきぬぬいのみやつこ)の樹葉の家を壊し、初めて法興寺(ほうこうじ)をつくり、この地を真神原(まかみのはら)と名付けた。
591- 辛亥-崇峻04年04月13日 敏達天皇を河内磯長中尾陵に葬る
592- 壬子-崇峻05年10月04日 奉られた猪を指差し「いつの日かこの猪の顎を斬るように憎いとことの人を斬りたいものだ」と言った。蘇我馬子の耳にも届いた。
592- 壬子-崇峻05年11月03日 蘇我馬子の命で東漢直に暗殺される。その日のうちに倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)葬られる。