廃絶大名一覧表

廃絶大名一覧表

将軍期間内容
家康時代慶長5年(1600)9月~慶長10年(1605)4月除封104家 減封6家 分封1家
秀忠時代慶長10年(1605)4月~元和9年(1623)7月除封50家 減封10家 還付5家
家光時代元和9年(1623)7月~慶安4年(1651)4月除封48家 減封14家 分封6家 還付1家
家綱時代慶安4年(1651)8月~延宝8年(1680)5月除封17家 減封12家 分封1家 還付1家
綱吉時代延宝8年(1680)8月~宝永6年(1709)1月除封27家 減封18家 分封1家 還付8家
家宣から家茂まで宝永6年(1709)5月~慶応2年(1866)8月除封16家 減封27家 還付5家
新政府による大名処罰明治元年(1868)9月~明治2年(1869)8月除封1家 減封22家

解説

本表は、慶長5年から慶応2年までの間に、江戸幕府によって改易された大名家を将軍の治世別に分類したものである。明治初年に戊辰戦争の敗戦などで新政府から処罰を受けた大名23家の一覧も加えた。

江戸幕府の大名処罰は、慶長5年、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、戦後、敵対した西軍大名106家を除封・減封に処したことから始る。家康はこれによって得た約650万石の没収地を、自分に味方して功のあった外様大名に分配する一方、徳川家の直轄領を増大させ、新たに親藩・譜代大名を創設して各国の枢要の地に配置するなど、幕藩体制の基礎を固めていった。これ以後、大名廃絶政策は江戸幕府の大名統制の根幹をなすものとしてさかんに実施され、草創期には旧主家の豊臣家や福島家・加藤家・堀尾家・蒲生家・生駒家といった豊臣色の濃い外様大名、松平忠輝・徳川忠長ら徳川一門の中の反宗家勢力が、幕府の安泰と権威拡大のために取り潰されていった。こうして家康・秀忠・家光の初期3代だけで実に122家の大名が改易・減封に処せられ、4代将軍家綱の頃には幕府の脅威となる勢力の掃滅はほぼ完了し、徳川宗家=将軍家の諸大名に対する絶対的な優位が確立された。5代綱吉の時代になると、廃絶政策の重点は譜代大名に向けられていく。これは、外様大名への処理が初期3代で一段落ついたことと、幕府要職に就くことの多い譜代大名の過失・怠慢、職務上のいざこざから起こる刃傷沙汰などが増加せいである。6代家宣以後、体制の安定により大名処罰と国替えは激減し、大名の領国は次第に固定化されていった。江戸時代を通じて処罰された大名の総数は248家で、取り潰された大名の親藩・譜代と外様の割合はほぼ五分である。改易の理由については、初期には末期養子が許されていなかったこともあって無嗣による断絶が多かったが、慶安4年(1651)に末期養子の禁が緩和されると族制的な理由によるものは減少し、代わって武家諸法度の違反などの法律的なもの、また、時代が安定期に入るにしたがって不行跡や狂疾乱心による処分も増加している。なお、幕府の廃絶政策に武力で抵抗した大名は1家もなく、大坂の役で滅ぼされた豊臣家、幕末の毛利家を除いて全て平和裏に城を明け渡している。

附:豊臣時代の廃絶大名

凡例
対象は除封・減封された家、分封によって大名の資格を失った家(1万石以下になった家)、別家を相続した後、それまでの旧領を収公あるいは本家に還付された家とした。
排列は年次順に、石高の多い家からとし、同石高の場合は苗字の五十音順とした。
家康時代には将軍就任以前に処罰した関ヶ原敗戦大名を含む。
秀忠時代には大御所家康によって処罰された大名を含む。
家光時代には大御所秀忠によって処罰された大名を含む。
分封・還付は除封・減封と違い処罰にはあたらないが、『廃絶録』に収録されているためあえて記載した。
本表は、『廃絶録』『徳川加除封録』『新訂幕藩体制史の研究』『日本史総覧』を参考に作成した。