後漢書

後漢書東夷伝・倭(後漢書倭伝)

 倭(倭人・倭国)伝を初めて中国正史に載せたのは、この後漢書である。もちろん倭人に関する記事がすでに史記以下かなりの史書・金石文などに散見されることは見てきた通りであるが、「伝」として一項が立てられたのは後漢書を嚆矢とする。
 ただし、後漢書の編纂(五世紀前半=范曄 ?~445年が編纂)は、時代的には下る魏志倭人伝を収めた『魏書』の編纂((3世紀後半=陳寿 ?~297年の編纂)より新しく、しかも倭人に関してはその魏志倭人伝の記事を参照し、取り入れていることは明白なので、重複する部分は取り上げず、魏志倭人伝には無い後漢書倭伝特有の記事のみを考察の対象とした。

 後漢書倭伝本文は800字足らずで、魏志倭人伝の三分の一ほどでしかなくほとんど倭人伝と重なるのであるが、つぎの4点で倭人伝とは大きく違う。はじめの3つの記事は倭人伝には無く、4つ目の記事は際立って違う点である。

  ① 建武中元2(紀元後57年)、倭の奴国、奉貢朝賀す。使い人、自ら大夫と称す。倭国の極南界    なり。光武、賜うに印綬を以ってす。

(注)・・・倭の奴国(倭奴国)を「イト国」とする説もあるが、光武帝(後漢初代=AD25~57)から授与されたことが確実視される「金印」が、奴国(博多)領域の志賀島で発見されたことにより、「倭の奴国(博多)」という解釈は揺るがない。第一、私見では「イト(伊都)国」は存在せず、「イツ(伊都)国」なのである。
 「大夫」という言葉は、漢と国交を開く以前にすでに半島に進出していた航海系倭人の知見の内にあったのだろう。倭人が使ったからといって特段おどろくには価しまい。
 この奴国を「倭国の極南界」としたのは、魏志倭人伝上、二つ挙げられている中の最後の「奴国」と思ったため、最南部であるとしたに違いない。

  ② 安帝の永初元年(AD107年),倭の国王帥升等、生口160人を献じ、請見を願う。

(注)・・・後漢6代目の安帝(106~125年)の即位の歳に倭国王たちが朝見を乞うてきた。「帥升ら」とあるので、帥升を代表とする何人かの王たちが共同で160人という大量の生口を調達し、またそれだけの規模の船団を組んで朝貢に行ったのだろう。もちろん安帝の皇帝就任を祝賀する使節でもあったろう。
 生口を単なる奴隷的な貢納品と考える向きが多いが、私見では後世の「留学僧・留学生」のようなタイプの者もいたと考えている。
 また、国王「帥升」だが、これを私見では「ソツシオ」の中国語(漢字)表記と見る。「ソツシオ」とは「襲津之男」で、「襲の男」すなわち「南九州(投馬国)由来の王」と捉えるのである(南九州は魏志倭人伝によれば「投馬国」の領域で、投馬国とは「ソツマ国」→「ツマ国」というように「ソ」音の脱落表記であった)。
 この南九州投馬国は航海部族「鴨族(鴨=半島まで往来する海人)」の故地で、当時、北部九州沿岸部にも拠点を設けていた(一種の分国)。それゆえ同じ九州北部の奴国系国王たちと共同で即位したばかりの安帝に朝賀使を派遣し、自らは船団を提供したのだろう。
 この派遣事業が大陸の進んだ統治機構を取り入れる基盤となり、その結果として「投馬国東征」を引き起こし、また九州北部が「桓(帝)・霊(帝)の間(147~188年)、倭国、大いに乱れ、こもごも相攻伐すること暦年」というような混乱に陥った原因となったと思われる。

  ③会稽の海外に、東テイ(魚へんに是)人あり。分かれて20余国となる。また、夷洲およびセンさんずいに亶)洲あり。
   伝に言う「秦の始皇(帝)、方子の徐福を遣わし、童男・童女数千人を将(ひき)いて海に入り、蓬莱の神仙を求めしむれども得ず。徐福、誅(殺)を恐れ、あえて還らず。ついに此の洲に止まる」と。
   世々相承けて数万家あり。人民、時に会稽に至りて市す。会稽東冶の県人、海に入り行きて風に遭い、流移してセン(さんずいに亶)洲に到る者あり。所在絶遠にして往来すべからず。

(注)・・・会稽とは長江下流地方の浙江省・江蘇省あたりを指す。その海外とは南西諸島(沖縄・奄美)のことだろう。東テイのテイの意味が不明だが、魚へんが使われていることで、そこの住民が漁撈や航海を生業としているらしいことが窺われる。
 夷洲・セン(タン)洲のうち、夷洲は「台湾」で、セン(タン)洲は「種子島」とする説が強い。つまり沖縄諸島と奄美群島を挟む南と北の島を指すというわけだが、言い得て妙ではある。後者のセン(タン)洲=種子島説は「広田遺跡」(弥生中期~後期)から発掘された「貝符」の文字らしきトウテツ文様からも、大陸との直接的な繋がりが連想されるが、『三国志・呉書・呉主伝・孫権条』には、土着して数万家になった――とあり、種子島には到底収まりきらないので、九州島全域を指すとしたい(ただし、夷洲=台湾説については確たる証拠は持てないでいる)。

 ④ 女王国より東、海を渡ること千余里、狗奴国に至る。皆、倭種と言えども女王に属さず。

(注)・・・ここは魏志倭人伝では「女王国の東、海を渡ること千余里、また国あり。皆、倭種。」と記す。後漢書はそもそも倭人国への道程は書いていないが、なぜここに「狗奴国(正確には狗を拘と表記しているが誤記だろう)」を置いたのか不明である。
 倭人伝では狗奴国は女王国の南にあるとしているが、邪馬台国畿内説論者は倭人伝の方角記載上の「南」をすべて90度半時計回りの「東」に改変して考察するので、南にあると書いている狗奴国は女王国の東にあることになる。するとこの後漢書の「東、海を渡ること千余里」の狗奴国はまさしく「伊勢湾を渡った所の尾張国」のことだとばかり自説の補強に取り込むのだろうが、残念なことに後漢書にはもうひとつ

    女王国より南四千余里、朱(侏)儒国あり、人長三、四尺・・・。

 という記事で南方の朱儒国という身長が3~4尺しかないという国民の存在を示しているが、それは倭人伝も同じく「南にある」と記しているので、この後漢書の狗奴国記事はそれと整合せず、誤りであることが分かる。

 次に、意外なところに「倭人」が登場する。
 それは『後漢書・巻90・烏桓鮮卑伝』の中の、鮮卑の大人「檀石槐(ダン・セッカイ)」伝である。檀石槐は後漢の桓帝(147~167)、霊帝(168~188)時代にかけて中国北部を侵攻して脅かした鮮卑族の首領だが、彼が遼河に騎馬を進めたとき部族の食糧難に苦しみ、東方にいた「倭人」を千余家連行して河の魚を捕らせたという。

  東して倭人の国を撃ち、千余家を得る。徒(うつ)して(烏侯)秦水の上に置き、魚を捕らせて以っ  て糧食の助けと為す。
                               (『後漢書・巻九十・烏桓鮮卑伝』)  

 「烏侯秦水」がどの河を指すかについては定説が無いが、少なくとも遼河の一支流であろうとはおおむね一致している。すると、その東の倭人国とはどこか? これが列島倭人でないことは明白だろう。
 遼河を擁する今日の「遼寧省」の東は、北東から南西に走る「長白山脈」によって北朝鮮と隔てられており、長白山脈の山中に漁撈にすぐれた倭人が居ようはずは無いから、山を越えた鴨緑江(ヤールー河)流域か、まだ東の清川江流域あたりに「漁撈する倭人」がいたとすべきだろうか。
 そうなると、次に紹介する『魏書東夷伝』の「ワイ(さんずいに歳)伝」の「ワイ」の所在がこれに重なってこよう。「ワイ人」を直ちに「倭人」とするには証拠不十分であるが、可能性がゼロとは言い切れない(詳しくは『魏書東夷伝』に譲ることにする)。

 以上から、「後漢書東夷伝・倭(後漢書倭伝)」で採るものがあるとすれば、それは①と②および「檀石槐伝」の記事であるが、短文ながらも以上の三点は、1~2世紀の倭人の動向を見る上で大変貴重な史料となっていることは間違いない。

                                        (後漢書倭伝・終り)