従軍慰安婦問題の真実!アメリカ報告書でも潔白が証明!

従軍慰安婦問題の真実!アメリカ報告書でも潔白が証明!

2014/11/26 2016/1/6 わかりやすい国際, わかりやすい歴史, 第二次世界大戦, 韓国 24

今回は、嬉しく重要なお知らせがあります。

日本敵視政策をとる韓国が、大きな声で叫ぶ
「従軍慰安婦問題」についてです。

この従軍慰安婦の問題で、日本は長い間、
劣勢に立たされてきました。

アメリカには、従軍慰安婦の碑や慰安婦の少女像が設置され、
国際社会でも「やった」事になっています。


しかし強制連行の証拠も、性奴隷にした証拠も
出てきていません。


慰安婦の根拠は、元慰安婦と「自称」する方からの証言と、
朝日新聞の誤報、河野洋平元官房長官の発言です。

具体的な証拠は、1つもありません。


それが今回、ある素敵なアメリカ人男性のおかげで、
米国が1944年に行った、調査(尋問)の報告書が広まりました。


この調査の目的は、ズバリ、

日本政府・軍は、朝鮮人女性を性奴隷にしているのか?

です。


さあ、実際はどうだったのか?

従軍慰安婦問題の真実を、証拠付でご紹介しますね!

Contents 目次 [非表示]

   1 従軍慰安婦問題とは?
       1.1 従軍慰安婦問題の日本の主張
       1.2 従軍慰安婦問題の韓国の主張
   2 強制連行はなかった!アメリカの証拠が見つかる
       2.1 テキサス親父さんの快挙
   3 従軍慰安婦問題の真実!米国の報告書
   4 この報告書の本当の価値
   5 最後に

従軍慰安婦問題とは?

アメリカの慰安婦像


まず、さらっとおさらいします。

従軍慰安婦問題とは、第二次世界大戦(太平洋戦争)当時、
日本政府と軍が、朝鮮人女性を強制連行し、
無理矢理に性奴隷にした、とする問題を言います。

そしてこの問題のおかげで、加害者である日本は、いつまでも、
賠償※と謝罪を、被害者である韓国に求められています。
※1965年の日韓基本条約において、日本から韓国への莫大な経済協力が決まり、それに伴い韓国から日本に対する、一切の請求権は解決されました。
つまり、色々あったけれども、全ての過去を水に流し、今後は前を向いて、お互い歩んでいきましょう、という国と国の約束事ですね。
このことも、韓国は反故(ほご)にしようとしています。


さらに、韓国のロビー活動(広報活動)に伴い、米国には、
慰安婦の碑や慰安婦像が、公園などの公共の場に設置されました。

そこには、
「日本は、うら若き朝鮮人女性を、20万人も性奴隷にした。」
と書かれています。

そして、そんな像や碑を見たアメリカ人の子供たちの中には、
信じる子もいて、米国在住の日本人の子が、いじめに合ったりもしているようです。


さらに今後も、アメリカの別の都市や、
オーストラリアでの設置が、検討されています。


続いて、日韓両国の主張を、見てみましょう。
従軍慰安婦問題の日本の主張

民間業者が、慰安婦の募集を行い、
応募に応じた女性を、給料を払って雇用した。
実際には、あからさまな性の職業という書き方はしていなかったようです。
しかし、異常な高給での募集のため、普通はどんな仕事か、ピンとくる内容だったようです。


そして、政府や軍の関与はない。

もちろん強制はしていないし、性奴隷ではない。


また、実際の慰安婦には、日本人女性も多く含まれていました。


しかし、朝日新聞も認めた有名な誤報で、愚かなことに、
日本自らの手で、慰安婦問題を国内外に発信してしまいました。

そして、河野洋平元官房長官は、河野談話という
公式文書の記者会見で、「軍による強制性があった」ということを、
なぜか証拠もないのに、認めてしまっています(涙)


その後、日本の政権はずっと、河野談話を継承するとしています。

しかし安倍政権では、河野談話は継承するけど、
性奴隷の証拠はなかった、というのが政府の見解です。


そのため、日本を海外から見ると、
「やったのかやってないのか、どっちなのよ?」という状態です。


また、当ブログでは、
あくまで、「従軍慰安婦問題の真実がどうなのか?」
について記事にしています。
決して、慰安婦を正当化したり、女性の尊厳を傷つけるような意図はありません。


続いて、韓国の主張です。

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従軍慰安婦問題の韓国の主張

日本軍が若い朝鮮人女性20万人を強制連行して、

戦場を連れ回し、性奴隷にした( `ー´)ノ


日韓基本条約は、個人の賠償までは含めていないので、
今後も謝罪と賠償を請求していきます!


非常にシンプルです。

日本の主張と、だいぶ開きがありますね(--;
強制連行はなかった!アメリカの証拠が見つかる

日韓の主張には、だいぶ開きがありますが、
本当のところはどうなのでしょうか?

そこで、今回の本題です。


なんとこの答えが、

アメリカの報告書にありました!
テキサス親父さんの快挙

テキサス親父


問題の、米国の報告書ですが、

テキサス親父さんという方が、発見し、
紹介してくれたことで大きく広まりました。


テキサス親父さんとは、トニー・マラーノさんという、
アメリカのテキサス州に住む、63歳の、
義理と人情に厚い親日家のナイスガイ(^▽^)


最初、この米国の報告書を、ネット上で発見されたそうです。

この興味深い報告書の真偽はどうなのか?


普通は疑問に思って終わりですが、行動力バツグンの
テキサス親父さんは、アメリカのワシントン郊外にある、
国立公文書館へ問い合わせを行います。

もう、本当に素晴らしい(涙)

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従軍慰安婦問題の真実!米国の報告書

米国の報告書


そして、この報告書が本物であるかどうか問い合わせたところ、

国立公文書館の回答は、「本物」でした( ´∀`)


米国が1944年に、ビルマ(現在のミャンマー)で、日本軍の慰安婦を捕まえ、
取り調べを行った時の「尋問(調査)報告書」でした。


全文はこちらです。

※htmlファイルがダウンロードされます。ファイルを開くとページを見ることができます。

または、↓からzipファイルがダウンロード可能です。
Icon
米国国立公文書館よりテキサス親父へ送られて来た封筒と手紙 5.21 MB
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内容を一部抜粋しますね。

日本語訳に、誤字もありますが、そのまま掲載します。

   ~引用ここから~
   この報告は、1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮人「慰安婦」と2名の日本の民間人に対する尋問から得た情報に基づくものである。
   (中略)
   多くの女性が海外勤務に応募し、2~3百円の前渡金を受け取った。
   (中略)
   彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡された金額に応じて 6ヵ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した。
   (中略)
   ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。
   (中略)
   欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きはよかった
   (中略)
   彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演奏会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音機をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された。
   (中略)
   慰安婦は接客を断る権利を認められていた。接客拒否 は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった。
   (中略)
   1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める胸の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。
   (中略)
   これらの慰安婦の健康状態は良好であった。彼女たちは、あらゆるタイプの避妊具を十分に支給されており、また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうからもって来る場合が多かった。
   ~引用ここまで~


ざっとまとめますと、次のようになります。

   彼女らは大金を稼いでいた
   彼女らは街で買い物に出かけていた
   彼女らは借金を返し終わったら朝鮮に帰った
   彼女らは将兵とスポーツやピクニックや夕食会に出席した
   彼女らは接客を断る権利を持っていた


驚きの事実が浮かび上がりませんか?

強制連行されたのに、大金をもらって将兵と遊ぶ?

接客を断る権利を持っていた?

借金を返し終わったら、朝鮮に帰った・・・!

この報告書の本当の価値

特筆すべきは、この報告書は1944年のアメリカのもの、

ということです。


終戦の1年前ですね。

日米は激しい戦争真っ只中なので、お互い
相手の不利になることなら、何でもやってやろう

という気持ちのはずです。


つまり、今の日本の同盟国であるアメリカではなくて、
当時はバリバリ戦争中の、敵国であるアメリカです。

当時、次のように考えていたはずです。

   「朝鮮人女性はヒドイめにあっている!」
   「日本人はとても非人道的なやつらだ!!」
   「よって、徹底的に日本をぶちのめそう!!!」


このように、国際的な非難を、日本に向けたかったハズです。

でも、できませんでした。

なぜなら、そんな事実はなかったからです。


これが、この慰安婦問題の真実です。
最後に

従軍慰安婦問題の真実、いかがでしたでしょうか?

この、強制連行を否定する、アメリカの報告書は、
これ以上ないくらい強力な証拠といえます。


やはり、真実が明らかになることも、ちゃんとあるんですね。


あとは、日本はこの資料を機会がある毎に、
配り、きちんと反論すれば良いと思います。

テキサス親父さん、本当にありがとうございました!!

この件に関する、テキサス親父さんの動画です。


しかし、この事実を、日本人でも知らない方は
いらっしゃいます。

もし、ブログやツイッターなどをお持ちであれば、
この情報を、日本のために拡散していただけると有難いです。
<追記>
その後、日韓でこの問題に関する進展がありました。

⇒「慰安婦問題で日韓合意!でも像を撤去する気はなさそうな件」


Envelope sent by National Archives to confirm the validity of the following documents.

Recipient Mr. Tony Marano (PropagandaBuser : Texas Daddy : テキサス親父)

Click each photo for larger image

Click HERE to download full archives in zip file. 米国国立公文書館よりテキサス親父へ送られて来た封筒と手紙

左の写真をクリックで拡大

全てのファイル一括ダウンロードするには ここをクリック

	OFFICE OF WAR INFORMATION

Psychological Warfare Team
Attached to
U.S. Army Forces
India-Burma Theater
APO 689

Japanese Prisoner
of War Interrogation
Report No. 49.

	

Place interrogated: Ledo Stockade
Date Interrogated: Aug. 20 - Sept. 10, 1944
Date of Report: October 1, 1944
By: T/3 Alex Yorichi

	

Prisoners: 20 Korean Comfort Girls
Date of Capture: August 10, 1944
Date of Arrival: August 15, 1994
at Stockade
PREFACE

This report is based on the information obtained from the interrogation of twenty Korean "comfort girls" and two Japanese civilians captured around the tenth of August, 1944 in the mopping up operations after the fall of Myitkyin a in Burma.

The report shows how the Japanese recruited these Korean "comfort girls", the conditions under which they lived and worked, their relations with and reaction to the Japanese soldier, and their understanding of the military situation.

A "comfort girl" is nothing more than a prostitute or "professional camp follower" attached to the Japanese Army for the benefit of the soldiers. The word "comfort girl" is peculiar to the Japanese. Other reports show the "comfort girls" have been found wherever it was necessary for the Japanese Army to fight. This report however deals only with the Korean "comfort girls" recruited by the Japanese and attached to their Army in Burma. The Japanese are reported to have shipped some 703 of these girls to Burma in 1942.

RECRUITING;

Early in May of 1942 Japanese agents arrived in Korea for the purpose of enlisting Korean girls for "comfort service" in newly conquered Japanese territories in Southeast Asia. The nature of this "service" was not specified but it was assumed to be work connected with visiting the wounded in hospitals, rolling bandages, and generally making the soldiers happy. The inducement used by these agents was plenty of money, an opportunity to pay off the family debts, easy work, and the prospect of a new life in a new land, Singapore. On the basis of these false representations many girls enlisted for overseas duty and were rewarded with an advance of a few hundred yen.

The majority of the girls were ignorant and uneducated, although a few had been connected with "oldest profession on earth" before. The contract they signed bound them to Army regulations and to war for the "house master " for a period of from six months to a year depending on the family debt for which they were advanced ...
Click HERE to download this page アメリカ戦時情報局
心理作戦班
アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属
APO689
戦時
日本人
捕虜尋問報告
第49号 尋問場所:レド捕虜収容所
尋問期間:1944年8月20日~9月10日
報告年月日 1944年10月1日
報告者 T/3 
アレックス・ヨリチ

 	捕虜 朝鮮:人慰安婦20名

捕獲日:1944年8月10日
収容所到着日:1944年8月15日
はじめに
この報告は、1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦において捕らえられた20名の朝鮮;人「慰安婦」と2名の日本の民間人に対す る尋問から得た情報に基づくものである。

この報告は、これら朝鮮;人「慰安婦」を募集するために日本軍が用いた方法、慰安婦の生活および労働の条件、日本軍兵士に対する慰安婦の関係と反応、軍 事情勢についての慰安婦の理解程度を示している。

「慰安婦」とは、将兵のために日本軍に所属している売春婦、つまり「追軍売春婦」にほかならない。「慰安婦」という用語は、日本軍特有のものである。この 報告以外にも、日本軍にとって戦闘の必要のある場所ではどこにでも「慰安婦」が存在してきたことを示す報告がある。しかし、この報告は、日本人によって雇用され、かつ、ビルマ駐留日本軍に所属している朝鮮;人「慰安婦」だけについて述べるものである。日本は、1942年にこれらの女性およそ703名を海上 輸送したと伝えられている。

募 集;

1942年5月初旬、日本の斡旋業者たちが、日本軍によって新たに征服された東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮;人女性を募集するため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、それは病院にいる負傷兵 を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。これらの周旋業者が用いる誘いのことば は、多額の金銭と、家族の負債を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地シンガポールにおける新生活という将来性であった。このような偽りの説明 を信じて、多くの女性が海外勤務に応募し、2~3百円の前渡金を受け取った。

これらの女性のうちには、「地上で最も古い職業」に以前からかかわっていた者も若干いたが、大部分は売春について無知、無教育であった。彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡された金額に応じて 6ヵ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」のための役務に束縛した。

	

Approximately 800 of these girls were recruited in this manner and they landed with their Japanese "house master " at Rangoon around August 20th, 1942. They came in groups of from eight to twenty-two. From here they were distributed to various parts of Burma, usually to fair sized towns near Japanese Army camps.
Eventually four of these units reached the Myitkyina. They were, Kyoei, Kinsui, Bakushinro, and Momoya. The Kyoei house was called the "Maruyama Club", but was changed when the girls reached Myitkyina as Col.Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina, objected to the similarity to his name.

PERSONALITY;

The interrogations show the average Korean "comfort girl" to be about twenty-five years old, uneducated, childish, and selfish. She is not pretty either by Japanese of Caucasian standards. She is inclined to be egotistical and likes to talk about herself. Her attitude in front of strangers is quiet and demure, but she "knows the wiles of a woman." She claims to dislike her "profession" and would rather not talk either about it or her family. Because of the kind treatment she received as a prisoner from American soldiers at Myitkyina and Ledo, she feels that they are more emotional than Japanese soldiers. She is afraid of Chinese and Indian troops.

LIVING AND WORKING CONDITIONS;

In Myitkyina the girls were usually quartered in a large two story house (usually a school building) with a separate room for each girl. There each girl lived, slept, and transacted business. In Myitkina their food was prepared by and purchased from the "house master" as they received no regular ration from the Japanese Army. They lived in near-luxury in Burma in comparison to other places. This was especially true of their second year in Burma. They lived well because their food and material was not heavily rationed and they had plenty of money with which to purchase desired articles. They were able to buy cloth, shoes, cigarettes, and cosmetics to supplement the many gifts given to them by soldiers who had received "comfort bags" from home.

While in Burma they amused themselves by participating in sports events with both officers and men, and attended picnics, entertainments, and social dinners. They had a phonograph and in the towns they were allowed to go shopping.

PRIOR SYSTEM;

The conditions under which they transacted business were regulated by the Army, and in congested areas regulations were strictly enforced. The Army found it necessary in congested areas to install a system of prices, priorities, and schedules for the various units operating in a particular areas. According to interrogations the average system was as follows:

Click HERE to download this page これらの女性およそ800人が、このようにして徴集され、1942年8月20日ごろ、「慰安所の楼主」に連れられてラングーンに上陸した。彼女たちは、8人ないし22人の集団でやって来た。彼女たちは、ここ からビルマの諸地方に、通常は日本軍駐屯地の近くにあるかなりの規模の都会に配属された。結局、これらの集団のうちの四つがミッチナ付近に到達した。それ らの集団は、キョウエイ、キンスイ、バクシンロウ、モモヤであった。キョウエイ慰安所は「マルヤマクラブ」と呼ばれていたが、ミッチナ駐屯部隊長の丸山大 佐が、彼の名前に似た名称であることに異議を唱えたため、慰安婦たちが到着したさいに改称された。

性 質;

尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮;人慰安婦は25歳くらいで、無教育、幼稚、気まぐれ、そして、わがままである。慰安婦は、日本的基準から いっても白人的基準からいっても、美人ではない。 とかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。見知らぬ人の前では、もの静かでとりすました態度を見せるが、「女の手練手管を心得ている」。自分の 「職業」が嫌いだといっており、仕事のことについても家族のことについても話したがらない。捕虜としてミッチナやレドのアメリカ兵から親切な扱いを受けた ために、アメリカ兵のほうが日本兵よりも人情深いと感じている。慰安婦は中国兵とインド兵を怖がっている。

生活および労働の環境;

ミッチナでは慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋(普通は学校の校舎)に宿泊していた。それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし、業を営ん だ。彼女たちは、日本軍から一定の食料を買っていた。ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえるほどであった。この点はビル マ生活2年目についてとくにいえることであった。食料・物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの 暮らし向きはよかった。彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うこ とができた。
彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演奏会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音機をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された。

優先順位料金等;

 慰安婦の営業条件は軍によって規制され、慰安所の利用どの高い地域では、規則は厳格に実施された。利用度の高い地域では、軍は料金、利用優先順位、および 特定地域で作戦を実施している各部隊のための利用時間割り当て制を設ける必要があると考えた。尋問によれば普通の料金は次のとおりであった。

	

1. Soldiers

	

10 AM to 5 PM

	

1.50 yen

	

20 to 30 minutes

2. NCOs

	

5 PM to 9 PM

	

3.00 yen

	

30 to 40 minutes

3. Officers

	

9 PM to 12 PM

	

5.00 yen

	

30 to 40 minutes

These were average prices in Central Burma. Officers were allowed to stay overnight for twenty yen. In Myitkyina Col. Maruyama slashed the prices to almost one-half of the average price.

SCHEDULES;

The soldiers often complained about congestion in the houses. In many situations they were not served and had to leave as the army was very strict about overstaying. In order to overcome this problem the Army set aside certain days for certain units. Usually two men from the unit for the day were stationed at the house to identify soldiers. A roving MP was also on hand to keep order. Following is the schedule used by the "Kyoei" house for the various units of the 18th Division while at Naymyo.

Sunday

	

18th Div. Hdqs. Staff

Monday

	

Cavalry

Tuesday

	

Engineers

Wednesday

	

Day off and weekly physical exam.

Thursday

	

Medics

Friday

	

Mountain artillery

Saturday

	

Transport

Officers were allowed to come seven nights a week. The girls complained that even with the schedule congestion was so great that they could not care for all guests, thus causing ill feeling among many of the soldiers.

Soldiers would come to the house, pay the price and get tickets of cardboard about two inches square with the prior on the left side and the name of the house on the other side. Each soldier's identity or rank was then established after which he "took his turn in line". The girls were allowed the prerogative of refusing a customer. This was often done if the person were too drunk.

PAY AND LIVING CONDITIONS;

The "house master" received fifty to sixty per cent of the girls' gross earnings depending on how much of a debt each girl had incurred when she signed her contract. This meant that in an average month a girl would gross about fifteen hundred yen. She turned over seven hundred and fifty to the "master". Many "masters" made life very difficult for the girls by charging them high prices for food and other articles.

In the latter part of 1943 the Army issued orders that certain girls who had paid their debt could return home. Some of the girls were thus allowed to return to Korea.

The interrogations further show that the health of these girls was good. They were well supplied with all types of contraceptives, and often soldiers would bring their own which

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1.兵 	午前10時~午後5時 	 1.5 円 	20~30分
2.下士官 	午後5時~午後9時 	 3 円 	30~40分
3.将校 	午後9時~午後12時 	 5 円 	30~40分

以上は中部ビルマにおける平均的料金であった。将校は20円で泊まることも認められていた。ミッチナでは、丸山大佐は料金を値切って相場の半分近くまで 引き下げた。

利用日割り当て表;

兵士たちは、慰安所が混んでいるとしばしば不満を訴えた。規定時間外利用については、軍がきわめて厳しい態度をとっていたので、多くの場合、彼らは用を足さずに引き揚げなければならなかった。この問題を解決するため、軍は各部隊のために特定日を設けた。その日の要員として、通常当該部隊員二名が、隊員の確 認のために慰安所に配置された。秩序を保つため、監視任務の憲兵も見まわった。第18師団がメイミョーに駐留したさい、各部隊のために「キョウエイ」慰安 所が使用した利用日割表は、次のとおりである。
日曜日――第18師団司令部。
月曜日――騎兵隊
火曜日――工兵隊
水曜日――休業日、定例健康診断
木曜日――衛生隊
金曜日――山砲兵隊
土曜日――輜重隊
将校は週に夜7回利用することが認められていた。慰安婦たちは、日割表どおりでも利用度がきわめて高いので、すべての客を相手にすることはできず、その 結果、多くの兵士の間に険悪な感情を生みだすことになるとの不満をもらしていた。
  兵士たちは慰安所にやって来て、料金を支払い、厚紙でこしらえた約2インチ四方の利用券を買ったが、それには左側に料金額、右側に慰安所の名称が書かれて いた。次に、それぞれの兵士の所属と階級が確認され、そののちに兵士は「列をつくって順番を待った」。慰安婦は接客を断る権利を認められていた。接客拒否 は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった。

報酬および生活状態

「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦 が、契約を結んだ時点でどの程度の債務額を負っていたかによって差はあるものの、慰安婦の稼ぎの総額の50ないし60パーセントを受け取っていた。これ は、慰安婦が普通の月で総額1500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。慰安婦は、「楼主」に750円を渡していたのである。多くの「楼主」は、食 料、その他の物品の代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難に陥った。
 1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を認める胸の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。
さらにまた、尋問が明らかにしているところによれば、これらの慰安婦の健康状態は良好であった。彼女たちは、あらゆるタイプの避妊具を十分に支給されてお り、

	

had been supplied by the army. They were well trained in looking after both themselves and customers in the matter of hygiene. A regular Japanese Army doctor visited the houses once a week and any girl found diseased was given treatment, secluded, and eventually sent to a hospital. This same procedure was carried on within the ranks of the Army itself, but it is interesting to note that a soldier did not lose pay during the period he was confined.

REACTIONS TO JAPANESE SOLDIERS;

In their relations with the Japanese officers and men only two names of any consequence came out of interrogations. They were those of Col. Maruyama, commander of the garrison at Myitkyina and Maj. Gen.Mizukami, who brought in reinforcements. The two were exact opposites. The former was hard, selfish and repulsive with no consideration for his men; the latter a good, kind man and a fine soldier, with the utmost consideration for those who worked under him. The Colonel was a constant habitué of the houses while the General was never known to have visited them. With the fall of Myitkyina, Col. Maruyama supposedly deserted while Gen. Mizukami committed suicide because he could not evacuate the men.

SOLDIERS REACTIONS;

The average Japanese soldier is embarrassed about being seen in a "comfort house" according to one of the girls who said, "when the place is packed he is apt to be ashamed if he has to wait in line for his turn". However there were numerous instances of proposals of marriage and in certain cases marriages actually took place.

All the girls agreed that the worst officers and men who came to see them were those who were drunk and leaving for the front the following day. But all likewise agreed that even though very drunk the Japanese soldier never discussed military matters or secrets with them. Though the girls might start the conversation about some military matter the officer or enlisted man would not talk, but would in fact "scold us for discussing such un-lady like subjects. Even Col. Maruyama when drunk would never discuss such matters."

The soldiers would often express how much they enjoyed receiving magazines, letters and newspapers from home. They also mentioned the receipt of "comfort bags" filled with canned goods, magazines, soap, handkerchiefs, toothbrush, miniature doll, lipstick, and wooden clothes. The lipstick and cloths were feminine and the girls couldn't understand why the people at home were sending such articles. They speculated that the sender could only have had themselves or the "native girls".

Click HERE to download this page また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうからもって来る場合が多かった。慰安婦は衛生に関して、彼女たち自身についても客についても気 配りすように十分な訓練を受けていた。日本軍の正規の軍医が慰安所を週に一度訪れたが、罹患していると認められた慰安婦はすべて処置を施され、隔離された のち、最終的には病院に送られた。軍そのものの中でも、まったく同じ処置が施されたが、興味深いこととしては、兵士は入院してもその期間の給与をもらえな くなることはなかったという点が注目される。

日本の軍人に対する反応;

慰安婦と日本軍将兵との関係において、およそ重要 な人物としては、二人の名前が尋問から浮かび上がっただけである。それは、ミッチナ駐屯部隊指揮官の丸山大佐と、増援部隊を率いて来た水上少将であった。 両者の性格は正反対であった。前者は、冷酷かつ利己的な嫌悪すべき人物で、部下に対してまったく思いやりがなかったが、後者は、人格のすぐれた心のやさし い人物であり、またりっぱな軍人で、彼のもとで仕事をする人たちに対してこの上ない思いやりをもっていた。大佐は慰安所の常連であったのに対し、後者が慰 安所にやって来たという話は聞かなかった。ミッチナの陥落と同時に丸山大佐は脱出してしまったものと思われるが、水上将軍のほうは、部下を撤退させること ができなかったという理由から自決した。

兵士たちの反応;

慰安婦の一人によれば、平均的な日本軍人は、「慰安所」にいる ところを見られるのをきまり悪がり、彼女が言うには、「慰安所が大入り満員で、並んで順番を待たなければならない場合には、たいてい恥ずかしがる」そうで ある。しかし、結婚申し込みの事例はたくさんあり、実際に結婚が成立した例もいくつかあった。
すべての慰安婦の一致した意見では、彼女たちのと ころへやって来る将校と兵士のなかで最も始末が悪いのは、酒に酔っていて、しかも、翌日戦前に向かうことになっている連中であった。しかし、同様に彼女た ちが口を揃えて言うには、日本の軍人は、たとえどんなに酔っていても、彼女たちを相手にして軍事にかかわる事柄や秘密について話すことは決してなかった慰 安婦たちが何か軍事上の事柄についての話を始めても、将校も下士官や兵士もしゃべろうとしないどころか、「そのような、女にふさわしくないことを話題にす るな、といつも叱ったし、そのような事柄については丸山大佐でさえ、酒に酔っているときでも決して話さなかった」。
しばしば兵士たちは、故郷か らの雑誌、手紙、新聞を受け取るのがどれほど楽しみであるかを語った。彼らは、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、歯ブラシ、小さな人形、口紅、下駄などが いっぱい入った「慰問袋」を受け取ったという話もした。口紅や下駄は、どう考えても女性向きのものであり、慰安婦たちには、故郷の人びとがなぜそのような 品物を送ってくるのか理解できなかった。彼女たちは、送り主にしてみれば、自分自身つまり「本来の女性」を心に描くことしかできなかったのであろうと推測した。

	

REACTION TO THE MILITARY SITUATION;

It appears they knew very little about the military situation around Myitkyina even up to and including the time of
their retreat and capture. There is however some information worth nothing:

"In the initial attack on Myitleyna and the airstrip about two hundred Japanese died in battle, leaving about two hundred to defend the town. Ammunition was very low.

"Col. Maruyama dispersed his men. During the following days the enemy were shooting haphazardly everywhere. It was a waste since they didn't seem to aim at any particular thing. The Japanese soldiers on the other hand had orders to fire one shot at a time and only when they were sure of a hit."

Before the enemy attacked on the west airstrip, soldiers stationed around Myitkyina were dispatched elsewhere, to storm the Allied attack in the North and West. About four hundred men were left behind, largely from the 114th Regiment. Evidently Col. Maruyama did not expect the town to be attacked. Later Maj. Gen. Mizukami of the 56th Division brought in reinforcements of more than two regiments but these were unable to hold the town.

It was the consensus among the girls that Allied bombings were intense and frightening and because of them they spent most of their last days in foxholes. One or two even carried on work there. The comfort houses were bombed and several of the girls were wounded and killed.

Click HERE to download this page 軍事情勢に対する反応;

慰安婦たちは、彼女たちが退却し捕虜になる時点まで、さらにはその時点においても、ミッチナ周辺の軍事情勢については、ほとんど何も知らなかったようで ある。しかし、注目に値する若干の情報がある。

「ミッチナおよび同地の滑走路に対する最初の攻撃で、約200名の日本兵が戦死し、同市の防衛要員は200名程度になった。弾薬量はきわめて少なかっ た。」
「丸山大佐は部下を散開させた。その後数日間、敵は、いたる所で当てずっぽうに射撃していた。これという特定の対象を標的にしているようには思われなかっ たから、むだ撃ちであった。これに反して、日本兵は、一度に一発、それも間違いなく命中すると判断したときにのみ撃つように命令されていた。」 

ミッチナ周辺に配備されていた兵士たちは、敵が西滑走路に攻撃をかける前に別の場所に急派され、北部および西部における連合国軍の攻撃を食い止めようとし た。主として第114連隊所属の約400名が取り残された。明らかに、丸山大佐は、ミッチナが攻撃されるとは思っていなかったのである。その後、第56歩 兵団の水上少将がニ箇連隊〔小隊〕以上の増援部隊を率いて来たものの、それをもってしても、ミッチナを防衛することはできなかった。
 慰安婦たち の一致した言によれば、連合国軍による爆撃は度肝を抜くほど熾烈であり、そのため、彼女たちは最後の時期の大部分を蛸壺〔避難壕〕のなかで過ごしたそうで ある。そのような状況のなかで仕事を続けた慰安婦も1、2名いた。慰安所が爆撃され、慰安婦数名が負傷して死亡した。

	

REQUESTS

None of the girls appeared to have heard the loudspeaker used at Myitkyina but very did overhear the soldiers mention a "radio broadcast."

They asked that leaflets telling of the capture of the "comfort girls" should not be used for it would endanger the lives of other girls if the Army knew of their capture. They did think it would be a good idea to utilize the fact of their capture in any droppings planned for Korea.

Click HERE to download this page 宣 伝;

慰安婦たちは、使用されていた反日宣伝リーフレットのことは、ほとんど何も知らなかった。慰安婦たちは兵士が手にしていたリーフレットを2、3見たことは あったが、それは日本語で書かれていたし、兵士は彼女たちを相手にそれについて決して話そうとはしなかったので、内容を理解できた慰安婦はほとんどいな かった。一人の慰安婦が丸山大佐についてのリーフレット(それはどうやらミッチナ駐屯部隊へのアピールだったようであるが)のことうを覚えていたが、しか し、彼女はそれを信じなかった。兵士がリーフレットのことを話しあっているのを聞いた慰安婦も何人かいたが、彼女たちたまたま耳にしたからといって、具体 的な話を聞くことはなかった。しかし、興味深い点としては、ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との見解を述べたことが注目される。

要 望;

慰安婦のなかで、ミッチナで使用された拡声器による放送を聞いた者は誰もいなかったようだが、彼女たちは、兵士が「ラジオ放送」のことを話しているのを 確かに聞いた。
  彼女たちは、「慰安婦」が捕虜になったことを報じるリーフレットは使用しないでくれ、と要望した。彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、たぶん他の 慰安婦の生命が危険になるからである。しかし、慰安婦たちは、自分たちが捕虜になったという事実を報じるリーフレットを朝鮮で計画されていると盂家に活用 するのは名案であろうと、確かに考えたのである。

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	付録A

以下はこの報告に用いられた情報を得るために尋問を受けた20人の朝鮮;人「慰安婦」と日本人民間人2人の名前である。朝鮮;人名は音読みで表記してい る。

    名  年齢   住 所
 1 「S」 21歳 慶尚南道晋州
 2 「K」 28歳 慶尚南道三千浦〔以下略〕
 3 「P」 26歳 慶尚南道晋州
 4 「C」 21歳 慶尚北道大邱
 5 「C」 27歳 慶尚南道晋州
 6 「K」 25歳 慶尚北道大邱
 7 「K」 19歳 慶尚北道大邱
 8 「K」 25歳 慶尚南道釜山
 9 「K」 21歳 慶尚南道クンボク
             (ママ)
 10 「K」 22歳 慶尚南道大邱
 11 「K」 26歳 慶尚南道晋州
 12 「P」 27歳 慶尚南道晋州
             (ママ)
 13 「C」 21歳 慶尚南道慶山郡〔以下略〕
 14 「K」 21歳 慶尚南道咸陽〔以下略〕
 15 「Y」 31歳 平安南道平壌
 16 「O」 20歳 平安南道平壌
 17 「K」 20歳 京畿道京城
 18 「H」 21歳 京畿道京城
 19 「O」 20歳 慶尚北道大邱
 20 「K」 21歳 全羅南道光州

日本人民間人
 1  キタムラトミコ 38歳 京畿道京城
 2  キタムラエイブン 41歳 京畿道京城


慰安婦問題で日韓合意!でも像を撤去する気はなさそうな件

2016/1/6 2016/3/31 第二次世界大戦, 韓国 0

2015年12月28日に韓国で日韓外相会談が行われ、慰安婦問題に関する合意が成立しました。

韓国に対して歴代初めてと言える強気の安倍政権でしたが、満を持しての合意内容は、うーーーん、微妙!という印象も受けます。ただ、この合意のおかげで、日本の立ち位置はとても良くなったように私は思いました(後述)。

まあ、評価は様々です。また日本は騙されるんじゃないの~とか、もっと厳しくても良かったのでは?とか。しかし、韓国のニュースを見ていて2つ気が付いたことがあります。

1つ目は韓国の日本大使館前に設置された慰安婦像は、残念ながら撤去されないだろう、ということと、2つ目は「合意自体を本気で守る気あるのかな?」ということです。

今回はなぜそう思ったのかと、この合意に関する日本のメリットをご紹介しますね。

ちなみに慰安婦への日本軍の強制は存在していません。その証拠はこちらです。
⇒「従軍慰安婦問題の真実!アメリカ報告書でも潔白が証明!

Contents 目次 [非表示]

   1 日韓合意で慰安婦像はどうなる?→撤去されない
   2 合意はいきなり破棄!?
   3 日本にとって日韓合意のメリットとは?
       3.1 それでは10億円払う?払わない?
   4 さいごに

日韓合意で慰安婦像はどうなる?→撤去されない

アメリカの慰安婦像

日韓の合意の結果、「慰安婦問題は最終的かつ不可逆的に解決されたことを確認する」ことになりました(≧∇≦)♪

つまり韓国側から、「今後一切賠償や責任は求めません」という約束をしてもらえたことになります。

そして、パククネ大統領が国際社会の場で、日本がその場にいないにも関わらず日本を非難するという、異常な「告げ口外交」も今後はなくなることになりました。有難いことですね(#^.^#)


そして気になる、韓国の日本大使館前とアメリカに設置されている慰安婦像なのですが、これらはどうなるのでしょうか?

まず、韓国の日本大使館前の慰安婦像については、韓国のユン外相は次のように述べています。

   ~引用ここから~
   ■少女像は「適切に解決されるよう努力する」(ユン外相)
   ソウルの日本大使館前に設置された慰安婦を象徴する少女像に関して、「日本政府が、大使館の安寧・威厳の維持の観点から懸念していることを認知し、韓国政府としても、可能な対応方向について関連団体との協議を行うなどして、適切に解決されるよう努力する」と言及した。
   出典:The Huffington Post 2015年12月28日
   ~引用ここまで~


適切に解決されるよう「努力」してくださるそうです(^▽^)

努力という言葉は尊いものだと思っていますが、政治家の「努力する」ほどあてにならないものはないな~と思う私はヒネくれているのでしょうか(笑)

この日本大使館前の歩道に設置された慰安婦像は、そもそも役所の許可を得ていないそうです。韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)という市民団体が、勝手に置いているだけ。

この時点でかなり驚きですが、普通は法治国家なら、「すぐに撤去しなさい!さもないと強制撤去します!」と役所からお知らせが来るでしょう。逆らえば、強制撤去。悪質なら警察の出番。当然ですよね。

韓国も法治国家(のハズ)なので、政府が本気で撤去する気なら、無許可の像なんて1週間もあれば撤去完了なのではないでしょうか?

これが、「適切に解決されるよう努力する」です・・・( ̄▽ ̄)

なぜ「撤去する」ではなく、「努力する」と言ったのか?これは韓国の本気度がよく伝わりますね!

いい加減ウンザリしつつも、せっかくの大切な隣国なので、私も信じたい気持ちはあります。今度は最終的かつ不可逆的な解決ですしね♪

ところが!

アッサリと、その信じる気持ちを裏切る発表を、韓国政府はしていました。韓国の中央日報のニュースです。

   ~引用ここから~
   <韓日外相慰安婦会談>日本、軍関与の事実と政府責任を明確に…「強制動員」明示的表現は外れる
   (前略)
   少女像の移転又は撤去問題について、尹炳世(ユン・ビョンセ)外交部長官は韓国政府の立場を発表し「韓国政府は日本政府が在韓日本大使館前の少女像について、公館の安寧・危険性の維持という観点で懸念しているとの点を認知し、韓国政府でも可能な対応方向性について関連団体との協議などを通して適切に解決できるよう努力する」と明らかにした。外交部当局者は「これは明確には合意事項とみることもできず、日本側の憂慮の提起について韓国側が承知したということであり、交渉の対象ややりとりをしたというものではない」と説明した。
   (後略)
   出典:2015年12月28日 中央日報より(記事は削除されました)
   ~引用ここまで~


うわお、ビックリ。

外交部当局者は「これは明確には合意事項とみることもできず、日本側の憂慮の提起について韓国側が承知したということであり、交渉の対象ややりとりをしたというものではない」と説明した。


要約すると、
「撤去については合意していません。日本が困っているのは韓国としても十分わかりました。でも、それだけね♪」という意味です。

・・・安定の韓国政府です(涙)

というわけで、すぐに韓国政府がこういった発表を行う以上、設置された慰安婦少女像については、残念ながら撤去する気はないだろう、と予想できます。

さらに、アメリカのグレンデール市の公園に設置された慰安婦像については、触れられてもいません。そのまま設置され続けるのでしょう(涙)


続いては、合意自体がすぐに反故にされるのでは?と思わず思ってしまうお知らせです。

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合意はいきなり破棄!?

韓国国旗

韓国の裁判所が、賠償の訴訟を開始する決定をしました。

   ~引用ここから~
   「最終的かつ不可逆的」は早くも破綻 韓国裁判所が元慰安婦らの賠償訴訟を開始を決定
   慰安婦だった韓国人女性12人(故人を含む)が日本政府を相手に賠償を求める調停を韓国で起こし、10月に正式訴訟への移行を求めたのに対し、ソウル中央地裁は31日までに、訴訟を開始する決定を出した。韓国最高裁が明らかにした。
    決定は30日付。日韓両政府は28日に、日本政府が責任を認め韓国側に10億円を拠出することなどで「最終的かつ不可逆的」な解決が図られると確認したが、政府合意とは別に司法手続きが進むことになる。
   (後略)
   出典:産経新聞ニュース 2015.12.31
   ~引用ここまで~


政府の合意とは、別なんですって。

日韓合意の2日後に訴訟の開始決定ですって。

舌の根も乾かぬ内とはまさにこのことですね(^^;


言いたいことは山のようにありますが、もう一つ見てみましょう。

   ~引用ここから~
   合意に関係なく「記憶遺産登録進める」 韓国民間団体
   慰安婦問題の関連資料を国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産に登録することを目指す韓国の梨花女子大の申恵秀教授は5日、慰安婦問題に関する日韓両政府の昨年末の合意と関係なく、今年5月の締め切りまでに登録申請手続きを行うと表明した。韓国国会でのセミナーで話した。
    申教授は、民間団体が申請主体だとした上で「純粋に記録を保存、維持して後世に(慰安婦問題を)正しく伝えねばならない」と説明した。
    岸田文雄外相は、韓国が合意を受けて申請に加わらないとの見方を示したが、韓国外務省報道官は「事実無根」と否定している。
   出典:
   ~引用ここまで~


合意に関係なく・・・だそうです(笑)


心が折れそうではありますが、このままいけば日本にとっては良い展開になりそうです。この点を強調したいと思います。
日本にとって日韓合意のメリットとは?

今回の合意については、欧米や国連などからも、「慰安婦問題は前進した」と歓迎されました。同時に「最終的かつ不可逆的に解決」という文句も一緒に外国に伝わっています。

この結果、日韓だけでな海外でも「この問題をもう蒸し返さない」という認識が共有されたことになります。

そのため今後は、上記のように韓国政府がこの合意を反故にするような動きを見せると、「韓国って国と国の合意を平気で破る国である」という評価となり、韓国政府の信頼は落ちます。結果、日本の評価は相対的に上がるでしょう。

これが、日本にとってのメリットです。


それでは、日韓合意の条件である、日本政府が10億円を支払う約束はどうなのでしょう?払った方が良いのでしょうか?それとも、韓国政府が約束を守る気がないのなら、日本も払わない方が良いのでしょうか?

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それでは10億円払う?払わない?

合意に基づく10億円は、さっさと支払った方が良いでしょう。

感情的には悔しい面もありますが、日本としては合意に基づき約束をきちんと守りました、という体裁を整えた方が良いでしょう。すると、またモメた時に、約束を守らないのは韓国政府です!と言えばOKですから^^

血税10億円という大金ではありますが、国が動かすお金としてはかなり小さな金額です。これですむなら万々歳ですね。

間違っても同じ土俵に立つだけの、日本も約束を破った、という選択だけはしないでほしいと思います。

本当は慰安婦問題はでっち上げから始まったのが、悲しいところですが・・・
⇒「従軍慰安婦問題の真実!アメリカ報告書でも潔白が証明!


さいごに

慰安婦問題の日韓合意についてでした!

少女像の撤去は、合意のニュースを見た時から無理そうだな~と思っていましたが、この合意は日本にメリットがあるという点で、意味があると思います。

今後どうなるか、のんびりと注意深く眺めていきましょう~