惟宗氏

惟宗氏

 讃岐国(現、香川)の帰化氏族。渡来人秦氏(はた)のうち讃岐国を本拠地としていた一族が、京都に移り9世紀に惟宗氏を名乗るようになる。平安時代以降、名法律家や名医家を輩出、陰陽道を専門とする一族も現れた。惟宗忠久の母丹後局が嫁いだ惟宗広言(異説あり)や忠久の実父の説がある惟宗広言は近衛家に仕えた人物であり、中世以降も惟宗氏一族は朝廷に仕える人物としてしばしば見られる。


 惟宗氏(これむねうじ/し)は、「惟宗」を氏とする氏族。 平安時代に始まる氏族で、秦氏の子孫。中央では明法家(律令の法律家)として栄えたほか各地の在庁官人などに名が知られ、島津氏などの祖先ともされる。

 家系としては朝臣または宿禰の姓をもつもの、また伊統(これむね)と称するものもあるが、中でもよく知られるのは惟宗直宗・直本兄弟らに始まる惟宗朝臣である。彼らは讃岐国香川郡を本貫とする秦公(はたのきみ)であったが、本貫を京に移し、883年に同族の秦宿禰・秦忌寸とともに惟宗朝臣の姓を賜った。惟宗直本は律集解と令集解の著者として名高い。彼の子孫は明法家あるいは医家として知られ、『本朝月令』を書いた惟宗公方、『政事要略』を書いた惟宗允亮(律令にちなみ「令宗(よしむね)朝臣」を賜った)が有名。 また系譜は必ずしも明らかでないが在庁官人や郡司などに多くの名が見える。惟宗広言もしくは惟宗忠康の子・忠久は日向国に下って土着し、当地にあった荘園「島津荘」により島津を名乗るようになったとされる。ただし忠久は源頼朝の落胤と後世に称され(伝説)、島津氏は(名目上は)清和源氏ということになっている。 また対馬の宗氏も惟宗氏の子孫とされる(のち桓武平氏を称する)。そのほか神保氏や長宗我部氏、安芸氏などが惟宗氏の出とされる。


惟宗氏
 元慶七年、秦氏の裔たる秦宿禰永厚、直宗、永家ら男女19人に惟宗朝臣姓を賜うに始まる。
 惟宗氏は代々明法家、典薬として名高い。薩隅の島津氏(清和源氏説、藤原氏説も存す)、市来氏、川原氏、上松(植松)氏、河俣氏、越中の神保氏、対馬の宗氏(平氏説も存す)などは惟宗姓と伝える。
 ほか惟宗氏の出自が、醍醐天皇の皇子保明親王後裔との異説も存在する。

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秦氏】【惟宗氏】【中山氏】【伊統氏】【神保氏】
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惟宗氏】【島津氏】【三方氏】【津々見氏】
島津家