慕容廆、夫余国、宇文部

慕容廆、夫余国、宇文部

tokyoblog  2015/04/06 No Comments

慕容 部(ぼよう ぶ)は、4世紀前半より5世紀中期にかけて、中国の東北方、遼東・遼西地方より、華北地方にかけての地域で勢力を有した鮮卑系の部族である。五胡十六国時代には前燕、後燕、西燕、南燕の各王朝を建国した。慕容氏とも呼ばれる。

『晋書』慕容廆戴記では、魏の初めに莫護跋という者が諸部を率いて遼西に入居し、景初2年(238年)、司馬懿の公孫淵討伐に功があって率義王を拝命され、棘城の北に建国したとある。

また、『太平御覧』三百五十五所引述異記にて、「慕容廆の遠祖の乾羅は、金銀鞍勒の白馬に乗って天より降り立った」との伝説がある。

3世紀初頭には、大凌河流域の地域より遼西地方の奉天(瀋陽)付近に移動し、慕容渉帰が晋朝によって鮮卑単于に封ぜられている。が、その後、北方に居た宇文部に迫られて、遼東地方に移動した。慕容廆の代になって、再び遼西地方の奉天付近に戻り、遊牧生活と同時に農耕も実施するようになった。この変化には、東方に居た農耕民である夫余が関与しているものと思われる。同時に、漢民族の亡命者から、賢良なる者を抜擢して政務に当たらせ、漢制を吸収し、国家体制を整備しつつあった。またこの時期には、慕容廆が慕容吐谷渾(中国語版)を追放し、吐谷渾が建国された。
慕容廆の死後、慕容皝が継承し、337年に燕王を自称し、河北地方を領有し、漢族支配を開始した。その後、前燕から、後燕・西燕・南燕の4つの王朝を建国したが、その中心は華北に移動し、またその制度は魏や晋の体制に倣っており、漢化の度を増していった。 

夫余国

武帝(在位:265年 – 290年)の時代、夫余国は頻繁に西晋へ朝貢した。太康6年(285年)、鮮卑慕容部の慕容廆に襲撃され、王の依慮が自殺、子弟は沃沮に亡命して「東夫余」を建国した。そこで武帝は夫余を救援する詔を出したが、護東夷校尉の鮮于嬰が従わなかったため、彼を罷免して何龕をこれに代えた。明年(286年)、夫余後王の依羅が遣使を送って何龕に救援を求めてきたので、何龕は督郵の賈沈を遣わして兵を送り、今の遼寧省開原市に夫余国を再建させた。賈沈は慕容廆と戦い、これを大敗させると、夫余の地から慕容部を追い出すことに成功し、依羅を復国させることができた。しかしその後も慕容廆は夫余に侵入してはその民衆を捕まえて中国に売りさばいた。そのため武帝は夫余人奴隷を買い戻させ、司州,冀州では夫余人奴隷の売買を禁止させた。

宇文部

普回の子の莫那は、陰山の南から移動し、遼西に住み始める。〈『周書』帝紀第一〉

匈奴の宇文莫槐は遼東の塞外の出身である。平帝(拓跋綽)の7年(293年)、莫槐はその民をむごく扱うので、部民に殺され、代わりにその弟の普撥が大人となると、拓跋綽は、普撥の子の丘不勤に自分の娘を娶らせた。普撥が死ぬと、子の丘不勤が立ち、丘不勤が死ぬと、子の莫圭が立った。

太安元年(302年)、宇文莫圭は弟の屈雲を遣わして慕容廆の辺城を襲うが敗れてしまう。屈雲とは別に素延を遣わして諸部を攻略、慕容廆は親撃しこれを破る。素延は怒り、10万の兵を率い棘城を囲むが敗走し、捕虜・戦死者は1万余人にのぼった。しかし、当時の宇文部は強盛で、莫圭は自ら単于と称したという。莫圭が死ぬと、子の遜昵延が立った。

そのころ、平州刺史・東夷校尉の崔毖は南州の名門望族を自認し、流亡中の名士を集めようとしたが、赴く者はいなかった。崔毖は慕容廆が彼らを拘留しているのだと考え、高句麗、宇文部、段部らと密かに結び、慕容廆を滅ぼして、その領地を分けることを謀った。

太興元年(318年)、三国連合軍は棘城の慕容廆を攻めた。しかし、慕容廆は連合軍が烏合の衆であることを見抜き、閉門して戦わず、遣使を送り、宇文部だけに牛や酒をもてなした。この離間の計により、疑心暗鬼となった三国連合軍は解散し、高句麗と段部は兵を引いて帰った。宇文部だけは残って戦ったが、慕容廆の子の慕容翰の策謀により敗退し、崔毖は高句麗に逃走した。このとき慕容廆は、宇文部に伝わる「三紐の玉璽」を手に入れ、太興3年(320年)3月、元帝に奉送したという。

遜昵延が死ぬと、子の乞得亀が立ち、後趙の石勒の要請でふたたび慕容廆を攻めるが、慕容廆は子の慕容皝を派遣してこれを防いだ。代の恵帝(拓跋賀傉)の3年(323年)、乞得亀は砦に立てこもって戦わず、兄の悉跋堆を派遣して慕容廆の子の慕容仁を柏林で襲うが、悉跋堆は慕容仁に斬られてしまう。慕容廆はまた乞得亀を攻撃して勝ち、乞得亀は単騎で逃げ、その衆は皆捕虜となった。慕容廆は勝ちに乗じて、宇文部の国城を占領した。

咸和8年(333年)頃、宇文別部の逸豆帰が乞得亀を殺して後を継いだ。慕容皝はこれを攻撃するが、逸豆帰は講和を申し込んだ。

咸康の初め、慕容部で内乱がおこると、宇文部は慕容仁側に付き、これを支援した。しかし、慕容仁が慕容皝に殺され、段部と宇文部は慕容部に攻め入るも慕容皝の配下の封弈に敗れた。

逸豆帰は国相の莫浅渾を遣わし慕容皝を攻める。莫浅渾は酒を飲んだり狩猟をしたりしたので、警備など全くせず、慕容皝が派遣した慕容翰に破られることとなり、ことごとく捕虜となった。

建元2年(344年)2月、慕容皝は逸豆帰を攻撃、逸豆帰は渉亦幹を派遣してこれを防ぐが、涉亦幹は斬り殺され、慕容皝に敗れることとなり、逸豆帰は遠く漠北に逃れ、そのまま高句麗に逃げた。ここに宇文部は滅んだ。

その後、逸豆帰の子の陵は前燕に仕え、駙馬都尉を拝命され、玄菟公に封じられる。北魏の道武帝(拓跋珪)が中山を攻め、陵は慕容宝に従いこれを防ぐ。宝は敗れて、陵は甲騎五百を率い北魏に降る、都牧主を拝命され、爵安定侯を賜う。天興元年(398年)、豪傑の于代都を従えて、陵は武川に遷る。陵に系が生まれ、系に韜が生まれ、韜に肱が生まれた。

年表 269-333

泰始5年(269年)、慕容廆は慕容部大人の慕容渉帰の子として昌黎棘城(現在の遼寧省義県)に生まれる。

太康2年(281年)冬10月、昌黎を侵略する。11月、遼西を侵略するが、平州刺史の鮮于嬰に討ち破られる。

太康3年(282年)3月、安北将軍の厳詢は昌黎で慕容廆を破り、数万人を殺傷した。 

太康4年(283年)、慕容渉帰が死ぬとその弟である慕容耐が政権を掌握し、嫡男である慕容廆は命を狙われるが、難を逃れることができた。のち

太康6年(285年)に慕容耐が国人に殺害されると、慕容廆は部衆に迎えられ、大人の地位を継承した。

慕容廆は宇文部鮮卑を慕容渉帰の仇敵であるとし、西晋の武帝に報復攻撃の許可を求めたが拒絶されてしまう。そこで慕容廆は西晋に対し反旗を翻し、遼西に入寇し、甚だ民衆を殺略する。武帝は幽州諸軍を遣わし慕容廆を討伐、遼西郡肥如県で戦い、慕容廆の衆は大敗する。その後ふたたび昌黎郡で略奪、その行為は毎年絶えなかった。

太康7年(286年)、慕容廆は遼東を侵略する。

今度は夫余に攻撃対象を変更し夫余王依慮を自害に追いやる。西晋は東夷校尉の賈沈を派遣し夫余を支援、慕容廆の軍勢を撃ち破り、ここに慕容廆は西晋へ帰順することとなり、

太康10年(289年)には西晋によって鮮卑都督に任命されている。この年、本拠地を徒河の青山に遷す。

太安元年(302年)、宇文部大人の宇文莫圭が攻めてくるが、慕容廆は撃退する。

永嘉元年(307年)、慕容廆は鮮卑大単于を自称する。その姿勢は公明なものであり、また多くの人材を保護したことから士大夫や民衆が帰依し国力を増大させていった。自立の動きを強める慕容廆に対し東夷校尉崔毖の猜忌心を惹起させることとなり、宇文部・段部鮮卑と高句麗の連合による反慕容廆運動に発展した。

東晋の太興元年(318年)、慕容廆は三国連合軍を撃破、崔毖を駆逐し遼東の覇権を獲得した。

太興3年(320年)3月、宇文部から奪った「玉璽三紐」を東晋の元帝に奉送。

太興4年(321年)12月、東晋により持節、幽・平二州東夷諸軍事の都督、車騎将軍、平州牧に任じられ、遼東公に冊封された。

咸和8年(333年)、49年の治政の後慕容廆は65歳で病没した。死後襄公と諡され、その孫の慕容儁が帝位に就くと武宣皇帝と追号された。