扶余の末裔

扶余の末裔
 2010年02月28日 16:30
 
 以前に、「僕自身のゲノムに関して言うと、どちらかというと中国では東北(旧満州)の人達と肌が合う気がする。自分の先祖は渤海、高句麗の流れじゃないかなどと思う一方、上海の人達を見ていると、あっ、結構日本にもこういうタイプのゲノムを持った人達がいるなと感じる。」とブログに書いた。
 
 高句麗のことは、皆知っているだろうけど、渤海(ぼっかい)ってなんだと思われる方も多いよね。
 
 渤海自体は、満州から朝鮮半島北部・ロシアの沿海地方にかけて698年から 926年まで存在した国。高句麗滅亡後にその遺民である大祚栄により建国され、周囲との交易で栄え、唐からは「海東の盛国」と呼ばれた。最後は契丹(遼)によって滅ぼされた。
 天平時代の727年に、平城京に渤海国王・大武芸の国書同国から使節が参内してから、日本との国交も200年続いた。
 
 さて、せっかくヒトゲノムの話を続けているので、渤海という国家だけをとりあげてどうこうではなく、扶余族という民族の話から始めたい。そして最後に、この扶余族と日本の関係について触れたい。
 
 高句麗、渤海を構成した民族は扶余族と云う。満洲に存在した民族の一つ。ツングース語族の一派だ。粛慎・勿吉・靺鞨・女慎・満州族と同じ仲間だ。形質的には以前に触れたヒトゲノムのタイプ1の影響を最も受けている民族だろう。
 
 1. アジア最古のゲノム(北方蒙古系)
 バイカル湖西部周辺で約6万年前誕生。日本人の34%に影響(或いは日本人に34%影響)。長寿で寒さに強い。体温を逃がさないように、皮膚や瞼が厚く、細目・小太り・胴長体型が多い。寒さから水分の蒸発を守る皮脂腺が発達した人が多い。中央アジア・東アジアでもっともメジャーなゲノム。ベーリング海峡を渡って、アメリカ大陸に到達した人達と共通。
 
 扶余国 BC3世紀 - AD4世紀
 扶余は、遅くとも紀元前3世紀には満州地方に同名の国家を形成していた。前漢の時代は玄菟郡に属し、その後三国時代に入ると遼東半島の公孫氏の支配下に入った。その版図は、中国三国時代には、万里の長城の北、南は高句麗に西は鮮卑に接し、方約900Km範囲に及んでいた。唐の史料によれば、扶余族は、勇敢だが他国への侵略はせず、歌舞飲酒を好み、慎み深く誠実であったと記録されている。(僕のようだ。)
 
 しばしば西の鮮卑や南の燕の攻撃を受けて衰亡し、最後は同じツングース系の勿吉によって滅ぼされた。ただし、北扶余は豆莫婁国と称して唐代まで続いた。東の沃沮も扶余と同族であったとされており、扶余族は満洲のみならず朝鮮半島北西部両江道にかけて広く分布していたということになる。
 
 「三国史記 高句麗本紀・東明聖王紀」に拠れば、高句麗の始祖 朱蒙(紀元前1世紀)の誕生以前の話として、扶余国の宰相の阿蘭弗が扶余王 解夫婁に「天の神の子孫がいずれ国を作ります。東海に迦葉原という地があり、そこは五穀が良く実ります。ここを離れ、その地に都を遷してください。」と進言し、解夫婁はその地へ遷都し、東扶余を建国したとあり、解夫婁が東方に移った後に、天帝の子を名乗る解慕漱が扶余に現れ、扶余王となった。
 
 高句麗 BC37年 - AD668年
 解慕漱の死後に金蛙王が扶余王となり、金蛙王のもとで育った朱蒙が扶余国から逃れて卒本扶余で高句麗を建国した。この国のことは、歴史書を読めばいくらでも書いてあるので、多くは書かない。一言だけ言って置くなら、この国は朝鮮民族が建国したのではなく、ツングース系扶余族が建国した。
 
 高句麗は百済を滅ぼし強大化した新羅と、唐の挟撃により668年に滅亡した。
 
 百済・日本
 百済王家も扶余系であったと見られている。百済の建国神話は系譜の上で扶余とつながりがあり、百済王の姓も扶余または余だ。百済は26代 聖王が国号を「南扶余」と称していたこともある。
 
 南夫余の中には更に南下し、対馬海峡を渡って日本に来た者もいた。その時、日本に渡った南夫余の王・依羅(イリ)が、崇神天皇になった云う説もある。
 
 「依慮王、鮮卑の為に敗れ、逃れて海に入りて還らず。子弟走りて北沃沮を保つ。明年、子・依羅立つ。自後、慕容魔、又復(ふたた)び国人を掃掠す。依羅、衆数千を率い、海を越え、遂に倭人を定めて王と為る・・・」
 
 朝鮮の史料「太白逸史」中の「大震国本紀」に、南夫余の王・依慮はモンゴル系鮮卑族との戦に敗れ戦死した。翌年、王子の依羅が新たな王となり、北沃沮を領有したと言っている。更に、宿敵・慕容氏に再び攻められ、新王 依羅は民を引き連れて対馬海峡を渡り、日本に入って「倭人の王」となったと言っている。
 
 夫余----高句麗----渤海
     l  
   南夫余----------百済------ 日本
 
 1
 崇神天皇
 
 以下は崇神王朝に関するWIKIの説明
 
 崇神王朝(三輪王朝)
 崇神王朝は大和の三輪地方(三輪山麓)に本拠をおいたと推測され三輪王朝とも呼ばれている。この王朝に属する天皇や皇族に「イリヒコ」「イリヒメ」な「イリ」のつく名称をもつ者が多いことから「イリ王朝」とよばれることもある。この名称はこの時期に限られており、後代に贈られた和風諡号とは考えられない。崇神天皇の名はミマキイリヒコイニエ、垂仁天皇の名はイクメイリヒコイサチである。他にも崇神天皇の子でトヨキイリヒコ・ヨキイリヒメなどがいる。ただし、崇神・垂仁天皇らの実在性には疑問視する人も多い。
 
 渤海 AD698年 - AD926年
 ①建国
 668年の高句麗滅亡後、高句麗の遺民たちは唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)に強制移住させられていたが、696年、モンゴル系契丹人・李尽忠、ツングース系靺鞨人・乞四比羽らと共に、高句麗王族 乞々仲象も営州を脱出して唐に対して反旗を翻した。この乞々仲象の子の大祚栄の指導の下に高句麗の故地に帰還、東牟山(吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市)に都城を築いて大震国、後の渤海国を建てた。大祚栄は唐の討伐を凌ぎながら勢力を拡大し、唐で712年に玄宗皇帝が即位すると、713年に唐に入朝する事で独立を認めさせることに成功し、「渤海郡王」に冊封された。
 
 渤海は建国時から唐や新羅と敵対関係にあった。唐と対立して一時山東半島の登州(山東省蓬莱)を占領したこともあった。 大武芸が没するとその子大欽茂が即位し、唐との対立した政策を改め文治政治へと転換する。唐へ頻繁に使節を派遣し恭順の態度を示すと共に、唐文化の流入を積極的に推進し、漢籍の流入を図ると同時に留学生を以前にも増して送り出すようになった。これらの政策を評価した唐は大欽茂に初めて「渤海国王」と従来より高い地位を冊封している。
 
 その後、国勢の発展と衰退があったが、大祚栄の弟である大野勃の4世の孫大仁秀が即位すると渤海は中興する。唐との関係を強化し、留学生を大量に唐に送り唐からの文物導入を図った。渤海の安定した政治状況、経済と文化の発展は、続く大虔晃、大玄錫の代まで保持されていた。
 
 10世紀になると渤海の宗主国である唐が藩鎮同士の抗争、宦官の専横、朋党の抗争により衰退し、更に農民反乱により崩壊状態となった。唐が滅びた後、西のシラムレン河流域において耶律阿保機によって建国されたキタイ(契丹国。のちの遼)の強い圧迫を受け、渤海は926年に滅亡した。
 
 ②日本との関係 - 渤海使・遣渤海使
 727年に平城京に渤海国の使節が訪れ、大武芸王の国書を聖武天皇に奉呈した。
 
 大武芸王は、なぜ日本に使節を派遣したのか? 第一の目的は軍事同盟」の締結だった。渤海は建国当時から、唐と統一新羅の圧力を受けていた。特に統一新羅に対して、北の渤海と南の日本で、南北双方から牽制し、新羅が迂闊に軍事行動に出れないようにする為だった。
 
 しかし、渤海が日本と同盟を結んだ最大の理由は別のところに在った。
 
 伏惟大王天朝受命、日本開基、奕葉重光、本枝百世。武藝忝當列國濫惣諸蕃、復高麗之舊居、有扶餘之遺俗。
 
 本枝百世。国書には日本と渤海国はともに扶余を同祖とする兄弟国だと述べ、高句麗と靺鞨で共立した渤海国では、日本の王統を、扶余の王族の末裔とみていたことが示されている。以後、約2百年間に渡って、実に37回も渤海国使節が日本に来訪した。
 
 大武芸王は、安全保障上の理由だけでなく、かつては一つの国であった日本と、兄弟の誼を通じて友好の為に使節を派遣して来た。大武芸王は、「復高麗之舊居」、つまり、渤海の前身・高句麗の領土を回復し、「有扶餘之遺俗」、夫余の伝統を継承したと言っている。
 
 駄目押しとなるが、渤海と日本の関係を語る上で、物部氏が扶余族であったという説を紹介する。この方が纏めた考察は、民族のトーテムとしての鹿の話(扶余とはツングース語の鹿を意味する「プヨ」を漢字にあてたものと思われる。)、タケミカヅチノカミ(建御雷神)を介した物部氏と鹿島大社の関係の記述等、とても興味深い。