承久の乱後も続いた「三浦氏」「和田氏」の血脈

承久の乱後も続いた「三浦氏」「和田氏」の血脈
「承久の乱」と鎌倉幕府の「その後」③
戦国
日本史
2022.12.05

■宝治合戦と早雲の新井城攻撃で2度も〝北条氏〟に滅ぼされた「三浦氏」
三浦義澄
源頼朝を支え奥州合戦などの功績から鎌倉殿の13人に名を連ねるも、翌年起こった梶原景時の変の平定3日後に病死。義村が跡を継いだ。国立国会図書館蔵

 三浦氏の始祖は、桓武(かんむ)平氏の流れをくむ平良文(たいらのよしふみ)の後裔(こうえい)と称するが、確かなことはわからない。平安時代後期に三浦義明(よしあき)が三浦荘を本拠として三浦氏を名乗ったとみられている。

 義明の子義澄は、早い段階から源頼朝の挙兵に従った。そして、頼朝の子頼家が2代将軍になって13人による評定会議が開かれると、義澄(よしずみ)も一員に選ばれている。

 義澄の死後、子の義村は北条氏と協調して勢威を強めるものの、やがて北条氏と政治の実権をめぐって対立していく。そして、ついには宝治元年(1247)、ときの執権北条時頼の策謀によって義村の子泰村(やすむら)が滅ぼされてしまったのである。

 この宝治合戦において、義澄の弟で佐原氏を名乗っていた佐原義連(さわらよしつら)の孫盛時(もりとき)は、惣領である泰村にはつかず北条氏に従っていた。そのため、こののち盛時が三浦氏を継いで一族を再興している。

 三浦盛時に始まる三浦氏は、南北朝の動乱では足利尊氏に従い、室町時代には鎌倉府の重鎮として相模守護となる。しかし、鎌倉府に反旗を翻した上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう)の乱に加担したことで古河公方足利成氏(しげうじ)によって相模守護を罷免(ひめん)されてしまった。そのため、新たな相模守護となった扇谷(おうぎがやつ)上杉氏に臣従するものの、永正13年(1516)、相模の制圧を図る北条早雲(そううん)に滅ぼされている。

 三浦氏の嫡流はここで滅亡しているが、一族の三浦時綱(ときつな)が里見氏を頼って安房(あわ)に逃れ、里見氏から安房国平群郡正木郷を与えられて正木氏を名乗ったという。

 ちなみに、正木(まさき)を名乗った時綱の孫が頼忠(よりただ)で、頼忠の娘養珠院(ようじゅいん)はのちに徳川家康の側室となり、紀州徳川家の家祖・徳川頼宣(よりのぶ)、および水戸徳川家の家祖・徳川頼房(よりふさ)の母となった。正木氏のなかには、のちに三浦氏に復姓して幕臣となった一族もいる。

 このほか、三浦泰村の兄朝村の子孫は駿河の今川氏に従い、また、泰村の弟家村の子孫は三河の松平氏に従い、それぞれ江戸時代には幕臣となったと伝わる。江戸時代に美作勝山(みまさかかつやま)藩主となった三浦氏も、泰村の弟家村の子孫という。

 なお、佐原盛時の兄光盛の子孫は、相模国三浦郡蘆名(あしな)を本拠として蘆名氏と名乗っている。蘆名氏は、やがて相伝した陸奥会津に移り住み、戦国大名になったが、伊達政宗によって滅ぼされてしまった。

「承久の乱」と鎌倉幕府の「その後」③
戦国
日本史
2022.12.05

■上野和田氏や佐久間氏となり戦国時代以降も活躍した「和田氏

和田義盛
源頼朝の挙兵に際し三浦義澄とともに活躍し侍所別当に。泉親衡の乱に息子2人と甥が連座し、甥の胤長だけが許されなかったことが和田合戦へ繋がった。
国立国会図書館蔵

 和田氏は、三浦義明の孫義盛が相模国三浦郡和田を本拠として、和田氏を名乗ったものである。つまり、三浦氏の一族ということになる。

 当初から北条氏とは協調しており、ともに比企氏を滅ぼすとともに、2代将軍源頼家から北条氏の追討を命じられたときにも、北条氏に味方して頼家を排除している。

 しかし、健暦3年(1213)、北条氏排斥計画に加わったとして子の義直(よしなお)や甥の胤長(たねなが)が処罰されたことを不服として挙兵する。このいわゆる和田合戦において一族は殺されてしまっている。

 義盛の嫡男常盛(つねもり)は、和田合戦で自害に追い込まれたが、常盛の子のうち三浦義明の三男義春(よしはる)の子佐久間家村(さくまいえむら)の養子となっていた朝盛(とももり)は逃れることができた。しかし、承久の乱で後鳥羽上皇方について没落し、幕府方についた朝盛の子家盛(いえもり)が尾張国愛知郡御器所(ごきそ)に恩賞を与えられている。こうして、尾張に移り住んだ子孫が尾張佐久間氏となり、戦国時代には佐久間盛政(もりまさ)や佐久間信盛(のぶもり)が、織田信長の重臣として活躍している。

 義盛の三男朝比奈義秀(あさひなよしひで)は、和田合戦で奮戦したのち、逃亡したらしい。義秀の子孫は、やがて駿河の今川氏に仕え、今川氏の没落後は徳川家康に従い、江戸時代には幕臣となっている。

 義盛の六男義信(よしのぶ)は和田合戦で討ち死にするが、義信の子は逃れることができて、子孫は上野国(こうずけのくに)に落ち延びたという。そして戦国時代には上野和田城の城主になったというが、確実な史料からは確認できない。それはともかく和田城主の和田氏は、上野守護となった関東管領(かんれい)上杉氏に従うが、最終的には北条氏に帰服したため、小田原攻めで没落している。

 義盛の末子は、杉本義国といい、和田合戦から逃れて近江に蟄居(ちっきょ)したという。そして、三浦氏の一族である杉本氏という由来から、苗字を杉浦に改めたと伝わっている。杉浦氏はその一族が三河に移って松平氏に仕え、江戸時代には幕臣となった。

 義盛の弟義茂(よしもち)の子高井重茂(たかいしげもち)は、和田合戦において北条氏に味方したため、越後国の奥山荘を安堵されている。その子孫がのちに和田氏に復姓すると、三浦和田氏・越後和田氏とよばれる武士団を形成していく。戦国時代には嫡流が中条氏、庶流が羽黒氏や黒川氏などとして越後守護上杉氏に臣従している。

監修・文/小和田泰経

(『歴史人』2022年12月号「『承久の乱』と『その後』の鎌倉幕府」より)