推古天皇

第33代 推古天皇は、史上初の女帝で欽明天皇の第3皇女。異母兄 敏達天皇の皇后で蘇我馬子の姪にあたる。、豊浦宮で即位、甥の聖徳太子を摂政として治世37年に及んだ。
官位12階、17条の憲法の制定など体制維持に努め「国記」や「天皇記」等の国史関係の編纂、斑鳩寺(法隆寺)の造営などを行った。
遣隋使の派遣、百済僧や高句麗僧の招聘により海外の制度文物を積極的に取り入れた天皇であったといわれる。

名前 第33代 推古天皇(すいこてんのう)
幼名:額田部皇女(ぬかたべのみこ)
豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめ)
                     
親族 父親 欽明天皇(きんめいてんのう) 母親 蘇我堅塩媛(そがのきたしひめ)
  配偶者 敏達天皇(びたつ)          
                     
皇居 豊浦宮(とゆらのみや)、小墾田宮(おわりだのみや)
 

略歴(6世紀)(7世紀)
554- 甲戌-欽明15年 欽明天皇と皇太夫人(蘇我堅塩媛)の第三皇女(用明天皇の同母妹)として生誕。
576- 丙申-敏達05年03月10日 敏達天皇の皇后となる(18才)
585- 乙巳-敏達14年08月15日 敏達天皇崩御(このとき34歳)
586- 丙午-用明01年05月 敏達天皇の殯の宮で穴穂部皇子に犯されそうになるが三輪逆(みわのさかう)に助けられる。
三輪逆は穴穂部に命じられた物部守屋に殺されてしまう。
592- 壬子-崇峻05年11月03日 崇峻天皇蘇我馬子の謀略で殺される。(このとき39歳)
592- 壬子-崇峻05年12月08日 第33代天皇として即位
593- 癸丑-推古01年01月15日 仏舎利を法興寺の心礎の中に安置。
593- 癸丑-推古01年01月16日 法興寺の塔の心柱を建てる。
593- 癸丑-推古01年04月10日 聖徳太子を皇太子とし、摂政とする
593- 癸丑-推古01年01年09月 用明天皇を河内磯長原陵に改葬する。
596- 丙辰-推古04年11月 法興寺落成
599- 己未-推古07年04月27日 地震
601- 辛酉-推古09年11月05日 新羅を攻める軍議
602- 壬戌-推古10年02月01日 来目皇子を新羅攻略の将軍とし軍兵 25000人が授けられる。
603- 癸亥-推古11年10月04日 小墾田宮へ移る
603- 癸亥-推古11年12月5日 冠位12階の制定
大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智、の12階。階毎に色が決まっていた。
604- 甲子-推古12年01月01日 諸臣に冠位を授ける。
604- 甲子-推古12年04月03日 憲法17条を発表
605- 乙丑-推古13年04月01日 丈6尺の仏像を造ると詔
607- 丁卯-推古15年07月03日 遣隋使の派遣。
小野妹子が、隋の皇帝に宛てた「日出づる處の天子、日没する處の天子に致す。恙なきや」の国書を持参
620-庚辰-推古28年12月01日 蘇我馬子らとともに『天皇記』『国記』を編纂
621- 辛巳-推古29年02月05日 甥であり摂政の聖徳太子が薨去
624- 甲申-推古32年10月01日 蘇我馬子が葛城の県を自分の土地に払い下げるよう要請するが断る
626- 丙戌-推古34年05月20日 大臣蘇我馬子歿
628- 戊子-推古36年03月06日 田村皇子(舒明天皇)と山瀬大兄(やませのおおえ)を呼び群臣の言葉を良く聞きこれに従うよう命ずる。
628- 戊子-推古36年02月27日 病臥につく。
628- 戊子-推古36年03月07日 75歳で崩御
628- 戊子-推古36年09月24日 竹田皇子陵(植山古墳)に追葬される。これは天皇の遺勅であったという。
古事記の記述によれば、その後磯長山田陵に改葬されたとある。(現在大阪府太子町にある山田高塚古墳)