敏達天皇

敏達天皇

びたつてんのう

(538..~585.8.15)

別名:訳語田渟中倉太珠敷(おさだのぬなくらふとたましき)尊

父:欽明天皇(きんめいてんのう)

母:石比売命(いしひめ)

妻:広姫(ひろひめ) 豊御食炊屋姫命(とよみけかしきやひめ)・・・額田部皇女(ぬかたべ)・・・・推古天皇

子:押坂彦人大兄皇子

第30代天皇

兄の死によって皇太子となり欽明天皇の没後即位する。

息長真手王の娘広姫を后としたが亡くなり、豊御食炊屋姫(後の推古天皇)を后とする。

新羅を討って任那を復興するために高句麗と国交を開いた。蘇我氏と物部氏との仏教問題をめぐる対立は深まり、百済から貢物として届いた仏像を蘇我氏が祀ると再度疫病が蔓延したため物部守屋らに命じて仏像、仏塔などを焼却させた人物 である。

略歴

(6世紀)

538-戊午-宣化03年 生誕

554-甲戌-欽明15年01月07日 立太子

571-辛卯-欽明32年04月15日 父欽明天皇崩御

572-壬辰-敏達01年4月3日 即位。宮を百済大井宮を造る。 物部弓削守屋を大連、蘇我馬子宿禰を大臣とする。

572-壬辰-敏達01年04月 蘇我馬子を大臣に任ずる。 

575-乙未-敏達04年01月09日 広姫(ひろひめ)を皇后とする。 この年宮を訳語田幸玉宮(おさだのさきたま)に造る

575-乙未-敏達04年11月 皇后広姫が薨じる

576-丙申-敏達05年03月10日 豊御食炊屋姫命(とよみけかしきやひめ)を皇后とする。(後の推古天皇

584-甲辰-敏達13年09月 百済から仏像2体がもたらされる。蘇我馬子宿禰はこの仏像を請い受けて深く信仰。 しかし、この年疫病が流行し、多数の死者がでる。

585-乙巳-敏達14年03月01日 物部弓削守屋大連らの排仏の訴えを受け「仏法をやめよ」との詔。 物部弓削守屋大連は自ら赴き、寺や仏像を焼く。焼き残った仏像を集めて難波の堀江に捨てさせた。 難波の堀江

585-乙巳-敏達14年08月15日 崩御 48歳 殯宮での刀を帯びて使者を慕う誅(しのびごと)で物部弓削守屋大連は蘇我馬子宿禰を「矢で射られた雀のようだ」と笑った。
手足を震わせわなないて誅を述べた物部弓削守屋大連を「鈴をつけたら面白い」と笑ったという。

591-辛亥-崇峻04年04月13日 河内磯長中尾陵に葬られる。この陵は母の皇后が葬られた陵であったという。