新石器時代

新石器時代
(しんせっきじだい)

石器時代のうち新しい時代。本来の定義では、完新世に属することと精巧な打製石器および磨製石器の存在を重視したが、現在では、西アジア・ヨーロッパ・中国などで農耕や牧畜など食料生産を開始した時代をいう。日本の縄文時代をこの名でよぶのはふさわしくない。

石器時代のうちの最後の時代。磨製石器を用い、土器の製作や紡織などの技術が発達し、一部では農耕・牧畜が行われた。日本では縄文時代がこれにあたる。

考古学における年代区分の一つ。イギリスの J.ラボック (1834~1913) が提唱したもので,打製石器を旧石器時代,磨製石器を新石器時代として分けたものである。今日では,更新世末期に氷河が後退し森林地帯が発達したので,この環境に適応するために生れた新しい文化全体の呼称となっている。西アジアに起源をもつとされ,農耕生産がその基底をなす。農耕のほかに,磨製石器の出現,土器の発明,牧畜の開始,織物,編物などの発明,一定期間の定住に伴う住居の改善と集落の形成,巨石記念物の構築などの総体をさす。この場合の農耕は穀物の栽培をいい,牧畜は有蹄類を主とする。最古のものは,前8千年紀といわれ,イラクのジャルモ,パレスチナのエリコなどが代表的遺跡である。エジプトでは前6千年紀のターサ,ファイユームが代表的である。ヨーロッパ,インド,中央アジアには西アジア起源のものが前6千~5千年紀に波及。中国では前6千年紀に,淮河流域と長江流域に独自に発生したとされるが,この年代はより古く修正される可能性が高い。アメリカ大陸では前4千~3千年紀に,中央アメリカおよびアンデス北部で,真の意味での農耕文化が興ったといわれる。

イギリスの考古学者J.ラボックによって設定された時代名。打製石器に加えて磨製石器が出現し,土器も用いられた。気候が温暖となり,農耕,家畜飼育が行われた。人類は定住・集団生活に移り,ムラ国家を経て氏族国家を形成するようになる。ジャルモ遺跡,イェリコ遺跡,ファイユームなどが知られる。

考古学の時代呼称。石器時代の新しい部分。イギリスのラボックJ.Lubbock(ロード・エーブリー)が《先史時代Prehistoric Times》(1865)で,石器時代を旧石器時代と新石器時代とに二分したことに始まる。旧石器時代が洪積世(更新世)に属するのに対して,新石器時代は沖積世(完新世)に属し,旧石器時代には打製石器のみを用いたのに対して,新石器時代は磨製石器によって特徴づけられ,また石英の一種であるフリント製の精巧な打製石器も使用している。

石器時代を古いほうから旧石器時代、中石器時代、新石器時代と三分した場合の一つ。三時代法によって、遠古の歴史は、石器時代、青銅器時代、鉄器時代に三分されるが、石器時代もさらに細分される。新石器時代の標識は、石器が磨研法、啄敲(たくこう)法(敲打法)によって製作されることである。もちろん打製法も、前代以来引き続いて採用されていた。大部分の新石器文化では、土器が製作・使用され、あるいは農耕が営まれていた。しかし土器、すなわち製陶術の存否、あるいは農耕の有無は、新石器時代を規定するものではない。なぜならば、新石器時代というのは、石器の製作法のいかん(磨研法、啄敲法)によって設定された時代概念であって、製陶法または農耕とは直接関係していないからである。また等しく新石器文化といっても、旧大陸と新大陸とでは様相が異なっているし、新・旧両大陸とも新石器文化には、獲得経済(採集、狩猟、漁労)に基づく停滞的な文化と、生産経済(農耕、牧畜)に立脚する先進文化との区別があって、生活様式が異なるから、両者はそれぞれ別個に考察する必要がある。これら多数の新石器諸文化のうちで、歴史的にみてもっとも重要であり、かつ主流をなすものは、旧大陸の生産経済を営んだ新石器諸文化である。[角田文衛]

本稿では、旧大陸の生産経済に立脚する新石器諸文化をA群、獲得経済の段階に停滞した新石器諸文化をB群と仮称する。A群に属する諸文化のうちでもっとも古いものは、イラン西部、イラク北部、アナトリア(小アジア)南部、シリア、パレスチナにまたがる、いわゆる「肥沃(ひよく)な三日月地帯」で育成された諸文化である。イラク北部のカリム・シャヒル文化、パレスチナのナトゥーフ文化(3期に細分される)、エリコの先土器新石器A文化、アナトリア南西部のハジュラル文化などはその例であって、この地帯において紀元前9000~前7000年ごろに行われた諸文化は、原新石器文化proto-neolithic cultureと総称されている。
 原新石器文化の様相は、まだ十分に究明されていない。その大略の性格を述べると、生活は狩猟、採集、漁労に依存しながらも、穀草(エンマ小麦、大麦)の栽培や有蹄(ゆうてい)類動物(羊、ヤギ)の飼育が部分的に営まれていた。居住に関しては定住性が濃厚となり、河岸、湖畔、沃地を前にした丘陵などに小規模な集落がつくられ、洞窟(どうくつ)はあまり居住に使用されなくなった。石器には、細石刃(さいせきじん)を組み合わせて刃とした石鎌(いしがま)、ナイフのほか、半磨製の石斧(せきふ)、啄敲法でつくった石容器、石皿、小さい石杵(いしきね)などがみられ、骨角器の製作・使用も盛んであった。土器はまだつくられなかった。遺骸(いがい)は、副葬品とともに竪穴(たてあな)住居や食物貯蔵用の穴に屈葬された。「肥沃な三日月地帯」における新石器時代前期文化は、前7000年ごろから前6000年ごろにかけて行われた。イラク北部のジャルモA文化、パレスチナ、エリコの前土器新石器B文化、アナトリアのベルディビ文化、キジルカヤ文化などは、その代表的な例である。この文化の特色は、採集、狩猟などに伍(ご)して農耕と牧畜が生業として確立されたこと、磨製石斧の製作が一般化したことである。貯蔵穴の内側はしばしば焼き固められたが、この時期の後半になると、貝殻押捺文(おうなつもん)などの施された深鉢形丸底の素文の(彩文のない)土器が現れている。
 新石器時代前期文化に続いた新石器時代中期文化に比定されるのは、イラクのジャルモB文化、ウム・ダバギヤー文化、イランのシアルク第一期文化、シリアのアムクA文化、アナトリアのチャタル・ヒュユク文化などである。トルクメニア南部のジェイトゥンも中期に擬せられる。中期文化の特色は、農耕、牧畜(羊、ヤギ、牛)の盛行、偶像(石、粘土製)の増加、製陶術の確立、磨製石器の増加などである。簡単な施文の彩文土器も考案された。人々は、日干しれんがで構築した家屋に居住するようになった。この地帯の中期文化は、前6300~前5000年ごろに行われた。
 次に、新石器時代後期に比定されるのは、イラクのサーマッラ文化、ハッスーナ文化、ハラフ文化、イランのシアルク第二・第三期文化、シリアのアムクB文化などである。トルクメニア南部のアナウA文化、ナマーズガ第一期文化なども、後期に該当している。年代的にはそれらは、前5000~前4500年ごろに行われた。後期文化の特色は、大規模な集落の形成、神祠(しんし)の造営、美しい彩文土器の製作などである。農耕、牧畜の隆盛に反比例して、狩猟の占める役割は激減した。ハラフ文化やアナトリアのハジュラル文化では、わずかではあるが銅製のピンがつくられている。またハラフ文化に属するアルパチヤー遺跡では、集落に防御用の環濠(かんごう)がみられる。
 前述した「肥沃な三日月地帯」の新石器文化は、もっとも先進的なものであり、A群の新石器文化としてもっとも典型的な様相を顕示している。この地帯で発明された農耕、牧畜、彩文土器の製作など画期的な文化は、いち早く西方に波及し、東ヨーロッパにみごとな新石器文化を育成させた。ここでいう東ヨーロッパとは、ギリシア、旧ユーゴスラビア地域、ブルガリア、ルーマニア、南ロシアなどを包括している。もっとも古い新石器文化はギリシアの単色土器文化であって、前6000~前5000年ごろに比定されている。
 ギリシア、テッサリア地方のアルギッサ・マグラ遺跡の最下層を基準とするアルギッサ・マグラ文化は、しばしば先土器新石器文化とみなされているが、これは誤解によるものであろう。この文化は、大幅に農耕(エンマ小麦、一粒小麦、スペルツ小麦、インゲンマメ)と牧畜(羊、豚、牛)に立脚しており、狩猟のもつ比重は著しく低下している。にもかかわらず、土器はまだ製作されなかったし、石器の磨製法も知られていなかった。その意味では、アルギッサ・マグラ文化は中石器文化と認められる。新石器時代を規定するのは、石器の磨製法そのものの存在であって、農耕もしくは牧畜の有無ではないのである。
 さらにセルビアの北西部のドナウ川河畔に所在するレペンスキ・ビル遺跡の中・下層によって設定されたレペンスキ・ビル文化を原新石器文化とみる学者もいる。この文化は、石製の神像、神祠、プランが扇形の住居址(し)などで知られる独自な文化であるけれども、これまた中石器文化であって、生産経済、土器の製作、石器の磨製法などは、まったく知られていないのである。
 新石器時代前期に比定されるのは、ギリシアでは、セスクロ前期文化、バルカン半島方面では、スタルチェボ・クリシュ文化である。この文化では、農耕(小麦、アワ、インゲンマメ)や牧畜(羊、豚、牛、ヤギ)も盛んであって、プランが方形で、木造ないし土壁の家屋がつくられ、彩文土器や磨製石器も製作された。テッサリアのセスクロ遺跡では、日干しれんが造の家屋群からなる集落が早く発掘調査されている。中期に比定されるのは、ギリシアのセスクロ後期文化(セスクロ遺跡第1・第2層)、バルカン地方のカラノーボ文化、ビンチャA文化、ボイアン文化などであるが、ブルガリア東部においてカラノーボ文化は大いに盛行した。中期、後期においてバルカン地方各地、南ロシアの新石器文化はその精華を競った。後期に該当するのは、ビンチャB文化(セルビア)、グメルニッツァ文化(ブルガリア)、ディミニ文化(ギリシア)、ククテニ文化(ルーマニア東部)、トリポリエ文化(南ロシア)などである。いずれも流麗な彩文土器で知られている。ディミニ遺跡(前四千年紀)の集落は、中央に首長の家とみなされるメガロンを有し、周壁で防備されており、この文化が原生国家の段階にあったことを証示している。
 ルーマニア北部のトランシルバニア地方のトゥルダシュ文化は、ビンチャB文化に親縁な文化であるが、この文化に属するタールタリア遺跡からは、文字を刻した3個の泥章(粘土版)が発見されている。それらの年代は、前2800~前2750年に比定されている。多くの学者たちの意見では、これらの泥章は、メソポタミアのジェムデト・ナスル文化(前3100~前2900)のはるかな影響の下にバルカン地方で考案されたものと推測されている。「肥沃な三日月地帯」を中核とするオリエントの新石器文化は、バルカン半島やギリシア方面ばかりでなく、各方面に伝播(でんぱ)もしくは刺激を与え、エジプトのバダーリ文化のように、各地に独自なA群の新石器文化を成立せしめた。みごとな彩文土器を伴う中国の甘粛(かんしゅく)省の半山(はんざん)文化や河南省の仰韶(ぎょうしょう)文化の成立については、自生説も唱えられてはいるが、基本的な成因は、やはり西方からの文化伝播に求められるべきであろう。
 ヨーロッパ中部の線文土器文化では、バルカン半島の新石器文化の彩文土器は受容されず、彩文の曲線文だけが刻文として採用されている。イベリア半島、イギリス、フランス西部、北ヨーロッパなどでは、環状列石や巨石墳(ただし共同墓)といった巨石記念物を伴う新石器諸文化の存在が知られている。これは、生産経済の採用によって蓄積された社会的な富力を背景としたもので、その巨石思想がオリエントから伝播した結果ではない。
 新石器時代というのは、技術史的な時代区分によった時代であるから、等しくA群の新石器文化といっても、文化的、社会的にかなり様相を異にする諸文化がそのなかに包摂されている。前記のように、ギリシアのディミニ遺跡は防壁を外周に巡らしているし、ルーマニアのハバシェシュテイ遺跡(ククテニ文化)は環濠高城をなしていた。イラクのハラフ文化なども政治史的にディミニ文化と同じ段階にあった。これらに対してイギリスのウィンドミル・ヒル文化では、長形墳(共同墓)こそみられるが、生活には移動性(むろん一定の領域内においてである)が強く、粗末な素文土器のみが使用され、生活水準はきわめて低劣であった。また地域によっては、初めB群の新石器文化が行われ、ついで生産経済に基づくA群の新石器文化に移行したような場合もあった。有名なタッシリの岩壁画を残したサハラ砂漠(当時は草原)東部の新石器時代の住民は、前期には主としてカモシカを対象とする狩猟民であったが、後期にはイベリア牛を飼育する牧民となっていた(ただし農耕は営まれなかった)。中央アジアのホラズム地方などもその例であって、最古の新石器文化(ケルチェミナール文化)はB群、これに続いたタザバック・ヤーブ文化はA群に所属しているのである。
 いうまでもなく、文化の発展は地域によって速度を異にしている。オリエントではだいたい前4500年ごろに新石器時代は終わっているが、他の地域では程度の差はあれ、新石器文化の停滞がみられた。アフリカ北西部のモウレタニア(モロッコ)の奥地の住民は、ローマ人の支配下に入った前1世紀の後半まで、中石器時代のカプサ文化の伝統の強い新石器時代(ただしA群)の段階にとどまっていた。また中国東北部の吉林方面の住民は、紀元後3世紀に至ってもなお新石器文化(A群)を担っていたと記録されている(『後漢書(ごかんじょ)』東夷伝(とういでん))。
 なお、パキスタンやインドでは、中石器時代が長く停滞し、新石器文化の形成がみられなかった。たとえば、パキスタン西部(バルーチスターン)のキリ・グル・モハマッド遺跡最下層では、牧畜(羊、ヤギ、牛)の営為は盛んであるが、製陶術も石器の磨製法もみられず、技術史的には中石器文化の様相がみられる。同遺跡の中層では精粗両様の土器が存する。そして上層は前ハラッパー文化に該当し、早くも銅製品が現れ、彩文土器が隆盛に向かっている。しかし依然として石器の磨製法は知られず、パキスタンやインドの住民は、中石器時代から銅器時代に移行したのである。技術史的な時代区分による限り、そうした不整合的な編年も不可避的なのである。[角田文衛]

獲得経済の段階に停滞した新石器諸文化(B群)は、先進文化圏から遠く離れた周辺地帯や、農耕、牧畜の営為に不適当な地域にみられた。その好例は、西はフィンランドから東は沿海州、朝鮮半島北部に及ぶ広大なユーラシア北方地帯で行われた諸文化であって、櫛目文(くしめもん)土器文化の名で総称される。日本の縄文文化も、その末期はともかくとして、B群に属する新石器文化である。日本列島の住民は、西方から農耕、牧畜が伝えられない限り、いかにその地が農耕に適し、牧畜が可能であっても、自力でB群の新石器文化から離脱することはできなかった。
 アフリカのコンゴ(湿潤な森林地帯)の住民は、前一千年紀にスーダン方面より新石器文化の洗礼を受け、磨製石斧や土器の製作、使用を始めた。しかし猟獣や動物性食糧に恵まれていたためか、彼らは牧畜を採用しなかった。また小麦やモロコシは湿潤な気候に不適当であったため、彼らは農耕から栽培技術だけを学び、原生のヤマイモの一種の栽培を始めた。単なる植物栽培は農耕ではないから、コンゴの新石器文化はB群に入れられるのである。こうした事例は、インドネシア諸地域の新石器文化についても指摘されるのである。[角田文衛]

アメリカ大陸の考古学では、新石器時代という術語は用いられていない。いまあえてこの観点から眺めると、一、二の例外を別とすれば、前コロンブス諸文化のうち、旧石器文化に属するもの以外は、すべて新石器文化なのである。北アメリカでは、自然銅を加工した銅斧その他の銅製品が少なからず使用されたが、それらは鋳造されたものではないから、正しい意味での銅器文化の存在を示す指証とはならない。冶金(やきん)術が発明ないし採用されたのは、中央アメリカでは後古典期(900ころ~1500ころ)、南アメリカの中央アンデス地帯では、形成期中期middle formative period(前1000ころ~前300ころ)であった。高い文化水準に到達した中央アメリカのマヤ文化などは、技術史的には新石器文化であった。アメリカ大陸の新石器諸文化相互にみられる落差は旧大陸の場合より著しく大幅であったといえる。
 アメリカ大陸の新石器諸文化も、農耕を伴うC群と、獲得経済によるD群とに大別される。C群で栽培されたのはトウモロコシと豆類であったけれども、副業的に営まれることが多く、旧大陸におけるように、農耕は急激な社会的、文化的変革をもたらすことはなかった。概略していえば、アメリカ大陸では、土器の製作が石器の磨製法(新石器時代の開始)と同時または直後に始まる例が少なく、ある期間を置いて開始された場合が多い。新大陸では家禽(かきん)(七面鳥)は飼われたが、食肉を目的とする有蹄類動物の飼育(牧畜)は行われず、それは旧大陸に比べて文化進展の速度を緩やかにする要因の一つをなした。
 カリフォルニアやカナダ方面の新石器諸文化は、ほとんどすべてがD群に所属する。北アメリカ東海岸のフロリダ地方のデットフォード文化もD群に属し、500年ごろ~900年ごろに比定されている。これに続いたサンタ・ローザ文化やクリスタル川文化などは、農耕が副業的に営まれたという点では、C群に入れられる。先のデットフォード文化は、貝類の捕食、したがって貝塚の形成によって著名である。若い時分にこれらの貝塚の発掘調査に従事した生物学者のモースは、外人教師として東京大学に赴任し、東京都の大森貝塚を目ざとく発見した(1877)。モースがこの貝塚を発掘調査して日本における新石器文化の学術的研究に先鞭(せんべん)をつけたことは、周知のとおりである。[角田文衛]

大森貝塚の碑

〘名〙 考古学上の時代区分の一つ。石器時代を旧石器、中石器、新石器と三区分した最後の時期。約一万年前に始まり、古代文明によって終わる。定住生活を営み、磨製石器が普及し生産段階が牧畜・農耕へ移行する。石器と並行して土器が多用される。日本ではほぼ縄文時代にあたる。〔英和和英地学字彙(1914)〕

石器時代の後期で,食糧生産の開始期
磨製 (ませい) 石器を用いる技術史的な時代区分からこの名称がついたが,磨製石器や土器は中石器時代に作られており,現在では農耕・牧畜など,食糧生産開始を示す時代区分として使われている。メソポタミアでは前6750年から前3500年ごろまでの時代がこれに該当する。

旧石器時代に続く,石器時代の最も発達した段階
土器・磨製石器を製作し,農耕・牧畜などの生産経済に移行,巨石記念物が築造された時代。日本では縄文時代がこれにあたるが,農耕は晩期までみられず,牧畜は行われていない。