新石器時代について

#author("2020-04-13T08:54:23+09:00","","")

新石器時代について

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先史/ホモ・サピエンス

新石器時代の一番簡単な説明は「農耕・牧畜の始まりをもって新石器時代とする」というものだ。しかし縄文時代のように農耕・牧畜が始まっていないのに新石器時代とされているものもある(そうしない学者もいる)。

新石器時代はそれより前の時代より複雑なので、少し深く調べる必要がある。

   そもそも石器時代とはなにか
   新石器時代の定義
       主流の考え方
       農耕・牧畜の始まりを絶対条件としない場合の新石器時代の説明
   新石器文化
       農耕・牧畜
       磨製石器
       土器
       定住
       巨石建造物
       組織・社会
   おまけ:縄文時代について

そもそも石器時代とはなにか

関連記事「旧石器時代/中石器時代/Epipaleolithic - 歴史の世界」

石器時代とは↓

   考古学の時代区分の一つ。
   先史・古代の歴史の区分の一つ。
   人類の文化の発展段階の一つ。

文字がまだ発明されていない先史・古代では証拠となるものは石器や土器、骨、遺跡などになるが、この中で数百万年前まで遡れて連続性や文化の違いが分かるものは石器だけなので、石器が時代区分の基準になった。
新石器時代の定義
主流の考え方

高校の歴史の授業では「獲得経済」とか「生産経済」という用語を使って新石器時代説明されているらしい。

つまり、獲得経済(狩猟・採集で野生の食糧資源を獲得する方法)から生産経済(農耕・牧畜で生産して食糧を得る方法)に移行したのが新石器時代だ、という。

(こういう用語を使うと理解したような気になるのが不思議だ。)

こういう考え方が考古学の学界でも主流らしい。ただしこれは厳格な定義ではなく、農耕・牧畜が始まっていない文化でも新石器時代に区分できるとする学者もいれば、できないとする学者もいる。そういうわけで厳格な定義はない。
農耕・牧畜の始まりを絶対条件としない場合の新石器時代説明

この場合、農耕・牧畜を指標(物事を判断したり評価したりするための目じるしとなるもの*1)の一つとする。指標は必須条件ではなく判断材料。ただし農耕・牧畜の有無は最も重要な指標である。

その他の指標としては↓

   磨製石器
   土器
   定住
   織物(亜麻の生産も含む)
   巨石建造物(ギョベクリ・テペが有名)

繰り返しになるが、これらは判断材料であって必須条件ではない。学者は指標の有無を手がかりに遺跡を研究してどの時代に割り当てるかを決める。全ての学者が一致するとは限らない。

農耕・牧畜をしていない場合の食料で重要なのは、ドングリなどの堅果類や野生の穀類、あとは魚介類だ。

採集や漁業が可能な場所に定住・半定住することがある。定住型文化では定置漁具を使う場合がある*2。

堅果類や穀類を調理する石器の多くは磨製石器だ。

ネットには「磨製石器があるから縄文時代は新石器だ」と書いてあるサイトがあるが、他の指標を見ずにこのように判断するのは間違いだ。

旧石器時代との比較↓

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   出典:いっきに学び直す日本史 【合本版】 - 安藤 達朗 - Google ブックス

上にあるように旧石器時代の文化に新石器時代は新しい要素が加わっている。新石器時代は新しい時代だが、旧石器時代の文化は色濃く残っている。連続しているのだから当然だ。
新石器文化

上の指標その他を含めて、新石器時代の文化を見ていこう。
農耕・牧畜

上述したように最重要の指標。

始めはおそらく、狩猟・採集の食糧獲得の不足分の補完的な役割であっただろうが、時を経て農耕・牧畜の需要のほうが強くなり、それらの技術も発展していった。

その結果、生産が急激に増加、それに対応して人口も増加した。

新石器時代より後のことになるが、生産・人口増加により階級ができ、人口を統治するシステムが必要になり、文明社会が形成されるようになる。
磨製石器

旧石器時代は打製石器を使っていた。

磨製石器は新石器時代より前に発明されたようだが、この時代に種類・用途が増えて新石器時代の指標となったようだ。

代表的な磨製石器は石斧で木の伐採に利用された。もうひとつ、石皿はドングリなどの堅果類を粉砕して、製粉にするための道具。また土器などに塗る顔料を作るため、それ用の石を粉砕するために使われた。
土器

天然の粘土で作った。煮込み、貯蔵、運搬などが用途。

西アジアで農耕が発明された時は土器は無かった。
定住

ホモ・サピエンスは誕生して約20万年ほどは狩猟採集民として移動しながら生活していた。

定住の最初の例は西アジアのナトゥーフ文化だ。ナトゥーフ文化は狩猟採集文化で農耕・牧畜はやってなかった(やってたと主張する学者もいるが)。

ナトゥーフ文化と定住については、以下の記事で書いた。

先史:定住型文化の誕生~ナトゥーフ文化 - 歴史の世界

先史:ナトゥーフ文化~「定住革命」 - 歴史の世界

農耕・牧畜でなく狩猟・採集で生活をする場合、普通なら定住すれば周囲の食料資源を食べ尽くしてしまう。しかしナトゥーフ人が住んでいた森林は温暖湿潤の環境にあり、一年で食料資源を再生させた。

人々は多種多様な食料資源を持っていた。ノウサギ、ガゼルなどの動物、穀物・マメ類・堅果類などの植物が絶えることなく、ナトゥーフ人の生活を守った。

注目すべきは、彼らが穀物を集約的に(選別・集中して)大量に採取して保管していたことだ。穀物は商品貨幣(貨幣の代わりになる商品)だった。

商品貨幣となる植物。栽培する動機としては十分だろう。
巨石建造物

ギョペクリ・テペの巨石建造物は何らかの宗教的な意味が込められているらしい。ナブタ・プラヤ(エジプト西部砂漠)の巨石建造物は墓という説もあるが、こちらも詳しく解明されていない。

いずれにしろ、これらの巨石建造物は多くの人々の協業なくしては建造できない。

旧石器時代までは人々は小集団でバラバラに生活していたが、新石器時代以降は多くの人々が一ヶ所に集まる、あるいは定住して大集落をつくるようになる。

このように協業ができるようになって初めてあらゆるインフラ事業が可能になる(インフラ事業は文明誕生に不可欠)。
組織・社会

「Neolithic#Social organization<wikipedia」によれば、複数の血縁関係にある人々でまとまって生活していた。つまりは氏族社会だ。

氏族の長がリーダー(首長)で、協業を指揮し、争いごとを仲裁した。

平等社会と言ってよく、階級ができるのはこの後の時代以降になる。
おまけ:縄文時代について

興味深い説明を二つ。小学館デジタル大辞泉と三省堂大辞林

   しんせっき‐じだい〔シンセキキ‐〕【新石器時代】
   石器時代のうち新しい時代。本来の定義では、完新世に属することと精巧な打製石器および磨製石器の存在を重視したが、現在では、西アジア・ヨーロッパ・中国などで農耕や牧畜など食料生産を開始した時代をいう。日本の縄文時代をこの名でよぶのはふさわしくない。
   出典 小学館デジタル大辞泉
   しんせっきじだい【新石器時代】
   石器時代のうちの最後の時代。磨製石器を用い、土器の製作や紡織などの技術が発達し、一部では農耕・牧畜が行われた。日本では縄文時代がこれにあたる。
   出典 三省堂大辞林 第三版
   出典:新石器時代(しんせっきじだい)とは - コトバンク

「農耕・牧畜の有無で新石器時代か否か」を決められるか否かが問題となっている。
「農耕」の始まりは弥生時代ではなく縄文時代だ! 『タネをまく縄文人 最新科学が覆す農耕の起源』 古代歴史文化賞大賞受賞記念・著者インタビュー

社会

2017/12/12
『タネをまく縄文人 最新科学が覆す農耕の起源』(小畑弘己/吉川弘文館)

 縄文時代は狩猟・採集、弥生時代になって稲作が始まった――そう教えられてきた私たち日本人。だが最新の考古学の世界では、その常識を覆す「縄文時代から農耕が始まっていた」という新事実が発見されたという。このたび、その新事実をつきとめた『タネをまく縄文人 最新科学が覆す農耕の起源』(吉川弘文館)が第5回古代歴史文化賞大賞を受賞。すべては著者の小畑弘己先生が「レプリカ法(土器に残る植物の圧痕などからシリコーン樹脂を用いたレプリカを作り観察する方法)」という研究方法で、縄文土器から一粒の「ダイズ」を発見したのがはじまりだったという…。
小畑弘己先生

■はじまりは一粒の「ダイズ」

小畑 私はもともと遺跡の土を洗って種を探すということをやってきたんです。遺跡の土壌の中には当時の家が焼けて炭になったり、米がこげてそのまま土の中にはいっていたりして、昔の食べ物や種が残っているんですよ。つまり土を調べれば当時の暮らし方が見えてくる。でも誰もが「当然お米を食べているのだろう」で思考が止まっていて研究しない。だったらやろう、と始めたんです。

 今回の発見につながった「圧痕法」自体は80年代から始まった調査法ですが、2003年くらいから仲間がその方法で縄文土器を調べ始めていろいろ発見していて、興味は持っていたんです。で、たまたま卒論に悩んでいた学生に「こんなのあるよ」って紹介したら食いついてきた。それで一緒に島原半島を調査したら、最初に出てきたのが「ダイズ」だったんですね。実はそれまで縄文時代には「ダイズ」はない、弥生時代に伝わってきた作物だと言われていましたから、自分もそれを信じていました。それが目の前の縄文土器から出てきたわけです。

――すごい「運命のダイズ」ですね!

小畑 実はそれまで枝豆がダイズだと知らないくらい、ダイズのことなんて知りませんでした。もともと「形を見る」のは得意だったので、遺跡の土を洗っていたときも出土した種の形をわけて、あとは植物学者に何か同定してもらおうと考えていたくらいで。今回は自力で(注:穀物屋からありったけのマメを購入し観察)「縄文時代から大豆はあった。しかも大きさからいっても栽培していた」との発見にいたりましたが、最初に出会った圧痕がダイズであったというのは非常にラッキーでしたし、おかげで人生も変わりました(笑)。

――すごい新発見ですが、周囲はすぐに納得するんですか?

小畑 本物であることをきちんと証明する必要があります。もちろん不安はありましたが、今回は豆の形を調べて水につけたら同じ形になったので証明できたんですね。土器の中から出てくるということは「当時のモノそのもの」なんです。たとえば土の中のものというのは、新しいものをアリが運んだりすることもありますが、土器の中は製作時に練り込まれるので疑いようがないんです。証明ができれば「モノ自体」を疑うことはありません。本にも書きましたが資料というのは「見ようとしないと見えない」。みんな土器にあいた穴をたくさん見てきたはずで、そこにはきっとダイズもアズキもあったでしょう。でもそれを「ダイズやアズキ」と誰も思わなかったし、証明できなかったわけです。

――最近の考古学では科学的な分析方法も進んでいるようですね。

小畑 そうですね。出てきたものに科学的な裏付けがあれば認めざるをえないですし、その意味では考古学は自然科学に近い面があるかもしれません。もちろん今回は「これが本当に栽培なのか」と資料を基に社会を語っていくときには異論が出るでしょう。私としては今回、仮説を投げかけたつもりなので、これを波紋にいろんな議論がおこればいいし、客観的な証拠も集まればいい。

 よく科学捜査で昆虫組成から死亡推定時刻を割り出すというのがありますが、私は古墳や甕棺などのお墓の土を洗って昆虫を調べたいんですよ。人骨の上にハエがたかったかもしれないし、甲虫がいたかもしれないし、それを探れば埋葬までの期間がわかる。まあ、私自身が楽しんでやっていることですが、考古学の世界はまだまだいろんなやり方があるというのを訴えたいですね。

――先生は「考古学科捜研の男」なわけですね!

小畑 そうかもしれません(笑)。ちなみに『CIS』っていうアメリカのドラマがありますが、あれは大人買いしています。科学捜査は面白いですよ。殺人の現場は、考古学でいう埋葬址と同じですから。いろんな小さな痕跡から探っていこうとするあの姿勢と技術力をどこまで応用できるかわかりませんが、昆虫だけはできるので。今はハエとかゴキブリの虜になっています(笑)。
■私たちの陥りやすい罠はひとつのイメージに
つい押しこめてしまうこと

――これから先生の学説で教科書が変わるかもしれませんね。

小畑 たしかに縄文人というのは植物や動物をかなり育てていたと思います。ただ私はひとつのステレオタイプにそれを刷り込みたくないんですね。大きく考えると西日本より東日本のほうが栽培植物への依存度が高いんですが、それは寒い冬を越すために食料を生産でまかなう比重が高くなるから。現在のような化学農法はありませんから、どこでもうまく栽培できるわけがありませんし、必要のないところでは栽培はしなかったでしょう。一口に縄文といってもひとつの文化や生活様式ということではなく多様性があるんです。おそらく「どこでもできるわけではない。必要なければしない」というのが縄文の農だったと思います。

 私たちの陥りやすい罠は「弥生=稲」のように、ひとつのイメージについ押しこめてしまうこと。実際には弥生時代の土を洗っても出てくるのは麦とかアワとかキビなんですよ。教科書には「弥生=稲」と大きく書いてあるけれど、そうじゃない地域と時代があるんです。私はそういうステレオタイプの歴史観ががらがら崩れていくのが面白いし、興味があるんです。

――そういう考古学の視点は私たちの暮らしを考えるヒントにもなりそうです。

小畑 私自身はなるべく過去のことを現代におきかえて説明したいと思っているんです。自分の生活の中にアレがあるならきっと昔はこうだろうとか、そういう思考を持つと遠くの物が近くに見えるし、新しい発見もありますからね。

 たとえば縄文人はカラスザンショウを貯蔵していたクリやドングリなどのコクゾウムシ除けに使ったりしていたようなんですが、それは今の生活と同じ発想ですよね。ただし今のように薬品で徹底的に排除なんてできませんし、「コクゾウムシさん、もうこないで」くらいの意識だったんだと。実は近代に「害虫」という概念は作られたようで、その前はイナゴがきても札をたてておくとかいう程度。殺せると思っていないし、ましてや壊滅させようなんて思考はなかったわけですよね。

 私たちは科学の力で押さえつけて排除していこうという流れを強めてきて、共存ではないですが、一緒にどうにかするという姿勢を、もしかすると考古学が教えてくれるのかもしれません。一見、幸せそうに思えても長い人類史の中では耐性のできた虫との闘いを続けているわけで。最近は全部は殺さないソフトな農薬散布も出てきていますが、そうした発想の転換は大事でしょう。なんでも力で押さえつけてしまうとその裏に負の部分は必ずできます。そうであれば、もっと調和した無理をしない、ちょっとぐらい我慢する暮らしをする。それはたしかに縄文人が教えてくれるのかもしれません。

取材・文=荒井理恵