日出処天子(Historical)

九州王朝(Historical)?

4.日出ずる処の天子

隋書には、倭([イ妥]-以降隋書原文に従えば「倭」ではなく「[イ妥](タイ)」だが、ここでは、フォントの関係で「倭」で代用します-かわにし注)王が隋の煬帝に「日の出ずる処の天子、書を日の没する処の天子に致す。恙無きや」と記した国書を送り、煬帝は怒ったのだと記されている。この時「日の出ずる処の天子」を自称した人物は、通常、聖徳太子であると言われている。だが、この解釈には根本的な矛盾が有る。隋書には以下のように記されている。

   開皇二十年(600)、倭王有り。姓は阿毎。字は多利思北孤。阿輩[奚隹](「鶏」と同義)弥と号す。使を遣わして闕に詣る。…王の妻は[奚隹]弥と号す。後宮に女六、七百人有り。太子を名づけて利歌弥多弗利と為す。

開皇二十年(600)の当時の天皇は、推古天皇である。女帝だ。だが、ここに現れた「倭王」は明らかに、男だ。「妻」がいるからだ(「後宮」の六、七百人の女を「妾」と見なすべきではないだろう。妻である「[奚隹]弥」の侍女や幼い王子の世話役などではないか)。

さらに、以下の記事を見よ。

   倭王、小徳阿輩臺を遣わし、数百人を従え、儀杖を設け、鼓角を鳴らして来り迎えしむ。後十日、又大礼可多毘を遣わし、二百余騎を従え、郊労せしむ。既に彼の都に至る。其の王、清(隋の煬帝の使者、裴世清-かわにし注)と相見え、大いに悦んで曰く、「我聞く、海西に大隋礼儀の国有り」と。

これによれば、隋の使者裴世清は、倭王と直に会っている。これは、以下の事実を表す。

   女である推古天皇を男だと思った等と言うことはありえない。
   倭王を別人(舒明天皇など)と取り違えてしまった等と言うこともありえない。

そこで、聖徳太子説が浮上する。だが、これも、矛盾が尽きない。明らかに「倭王」と言いきっている上に倭王には「利歌弥多弗利」という「太子」がいる。その上、裴世清は、「倭王」に会っている。このとき、聖徳太子はいかにも自分が「王」、つまり、「倭国の最高権力者」であるかのように、振舞ったのだろうか。それとも、裴世清が「勝手に」見間違えたのか。

いずれにしても、恣意的な想像に過ぎぬ。

これも、「倭王」=「天皇家」という構図に、無理矢理結びつけた為の矛盾である。「倭王」=「天皇家」では矛盾するのだから、「倭王」≠「天皇家」と考えるほかない。

さて、ひとつ確認しておくことがある。よく、倭王や倭国の使者に関して、以下のような説明を耳にする。

   「これこれは、倭国の使者が中国に行った際(或は中国の使者が倭国を訪れた際)、中国の役人の質問に答えたものを、中国側で記録したものである」と。

具体的には、「多利思北孤」という名は、倭国の使者が隋で聖徳太子の名を聞かれ、天皇に準じる地位にいた太子のことを「タラシヒコ」とも呼んでいたので、そう答えたものだ、などである。この想定は、妥当だろうか。隋書に依れば、「倭王」は隋に対して国書を送っている。国書とはつまるところ、国家間の「手紙」だ。当然、「宛名」と「署名」は不可欠である。そう考えれば、「多利思北孤」という名は、「倭王自身の自署名」と考えるべきである。国書に記されていた名前をそのまま載せたのだ。これが、一番自然な理解である。つまり、「中国役人への口頭での回答」説に見られるような、曖昧さが許されるような名前ではない。となれば、推古天皇代に、「倭王・多利思北孤」などと名乗りうる存在は天皇家付近には皆無である。

さて、では隋書に山積する数多い「問題」を挙げよう。これは、通説どおりに隋書の内容が隋と推古天皇聖徳太子との交渉を述べたものと見なした場合の「問題点」である。
1)姓

「倭王有り。姓は阿毎」とある。これも、名と同じく「国書の署名」であろう。だが、天皇家で、代々一貫して姓を「あめ」「あま」などと名乗った形跡はない。推古天皇に限っても、ない。
2)政治思想

   「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天、未だ明けざる時出でて政を聴き、跏趺して坐し、日出ずれば便ち理務を停め、云う「我が弟に委ねん」と。」

ここには、(A)「天-未明-兄」と(B)「日-日出-弟」の二系列が描かれている。ここで、「政を聴き」「理務を停め」「『我が弟に委ねん』と云う」の主語は、倭王だ。だから、(A)が倭王に当たる。そして、「日出後」の「理務」は倭王の弟に委ねられている、というのだ。これは、かなり特異な政治思想だ。だが、このような政治思想を天皇家が持っていた形跡は、ない。
3)坐相

先の「跏趺」は通例「あぐら」と読まれているが、これは、「結跏趺坐」即ち仏教(座禅)の正しい坐相である。倭王は自分の使者をして次のように言わせている。

   「聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶと」

ここで、「日の没する処の天子」に向かって「海西の菩薩天子」と呼んだとき、「日の出ずる処の天子」である自らを「海東の菩薩天子」に位置付けていたのだ。
4)官位

隋書倭国伝の「官位十二階」と推古紀の「官位十二階」は内容が異なっている。これも、確実に倭王=天皇家であれば、どちらかの誤りとして処理できるが、不確定である現在は、両者が異なる王朝に属したことをうかがわせる史料である。
5)官名

隋書に記された官名、「軍尼」「伊尼翼」について、これを「くに」「いなぎ」として、「国造」「稲置」に結びつける論者があるが、これは牽会付強である。
6)国交

 もっとも基本的な矛盾は国交記事である。

隋書、倭国伝 推古紀
開皇二十年(600)「使を遣わして闕に詣る」 推古八年(600)記事無し
大業三年(607)「使を遣わして朝貢す」(沙門数十人を帯同)○「海西の菩薩天子」の口上○「日の出ずる処の天子」の国書 推古十五年(607)(七月)「大礼小野臣妹子を大唐に遣わす。鞍作福利を以って通事とす」
大業四年(608)「上、文林郎裴清を遣わして倭国に使せしむ」 推古十六年(608)(四月)妹子帰国。裴世清筑紫に至る。天皇、難波吉士雄成を遣わして、裴世清等を召す。(六月)裴、難波津に至る。(八月)裴、京に入る。中国側の国書「皇帝、倭皇を問う」
同年(608)「復た、使者をして清に随い来って方物を貢せしむ」 同年(608)(九月)裴、帰国。妹子を再派遣。(学生、学問僧八人を伴う)推古天皇の国書「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す。…」
 「此の後、遂に絶つ」 推古十七年(609)妹子帰国。福利は帰らず。
大業十年(614)記事無し 推古二十二年(614)犬上君御田鍬を派遣。推古二十三年(615)御田鍬帰国。

表のように、推古紀には、「記念すべき」第一回の遣使が記されていない。次に大業三、四年の場合、一見両者は同一のようだが、内実がまったく異なる。表に示すように、倭国伝では、隋の使者裴世清は、国書を携帯していない。一方、推古紀では、明らかに国書がやり取りされている。両者は別事件である。

さらに、推古紀に見える中国側の国書には、注目すべき一句がある。「朝貢」である。ここでは、「中国(天子)-推古(臣)」である。この立場を推古は容認したようだ。この国書の返報の国書が推古紀に載っている。

   「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す。使人鴻臚寺の掌客裴世清等至りて、久しき憶い、方に解けん。季秋、薄冷、尊、如何に。想い清[余/心]」

とあって、この関係を容認したことが伺えるのである。

いままで、推古紀には「推古天皇聖徳太子と隋」の交渉が描かれていると見なされてきた。だが、事実は、「推古紀の交渉相手はすべて『唐』」である。それをすべて列挙しよう。

(A)

   (推古十五年七月)大唐に遣わす。
   (十六年夏四月)大唐より至る。
   (同上)大唐の使人…。
   (同上)唐客の為に…。
   (十六年六月)「…唐帝、書を以って臣に授く。…」(妹子臣)
   (十六年八月)唐客、京に入る。
   (同上)唐客を海石榴市の術に迎ふ。
   (同上)唐客を朝庭に召す。
   (同上)大唐の国の信物を、庭中に置く。
   (同上)唐客等を朝に饗す。
   (十六年九月)唐客裴世清…。
   (同上)唐客に副えて之を遣わす。
   (同上)爰に天皇、唐帝を聘う。
   (同上)唐国に遣わす学生…。
   (十七年秋九月)大唐より至る。
   (二十二年六月)犬上君御田鍬・矢田部造を大唐に遣わす。
   (二十三年秋九月)大唐より至る。
   (三十一年秋七月)大唐の学問者・僧…。
   (同上)唐国に留る学者…。
   (同上)且つ、其の大唐国は、法式備定の珍国なり。
   一方、中国に対する「唐」以外の表記は以下のようだ。
   (B)
   (十七年夏四月)「百済王、命じて以って呉国に遣わす。…」
   (二十六年秋八月)高麗、使を遣わして方物を貢す。因りて以って言う。「隋の煬帝、卅万の衆を興して我を攻む。返りて我が為に破らる。…」
   (三十二年夏四月)是に於て、百済の観勒僧、表上して以って言う。「夫れ仏法は、西国より漢に至るまで、三百歳を経…。」

21.の「呉」については、後述するが、22.23.の例では「隋」「漢」といった具体的な国号で、中国側を呼んでいる。それと比すれば、(A)グループの「唐」が他でもない唐を指すことは道理である。22.では、「隋の煬帝」という固有名詞まで出ている。これを考えれば、例えば、5.や13.の「唐帝」が実は「隋の煬帝」を示すなどとは、凡そ考えられないのである。「推古朝の遣隋使」など、始めからなかったのである。

このような「誤解」はなぜ生まれたか。それは、日本書紀の年代のずれが原因であると思われる。その例をいくつか挙げよう。

1)

   (舒明三年、631に当たる)三月庚申朔、百済王義慈、王子豊章を入れて質と為す。

舒明三年は、百済では「武王三十二年」にあたる。義慈王元年は641である。だから明らかにここは十年以上のずれが生じている。このあたりの百済側史料は、中国側の年代を基準にしている。したがって、この誤差は、『日本書紀』が同時に中国側と比べても十年以上ずれていることを示す)

2)

   (推古十七年、609に当たる)「百済王命じて以って呉国に遣わす。其の国、乱れ有りて入ること得ず。更に本郷に返る。忽ち暴風に逢い、海中に漂蕩す。然るに大幸有りて聖帝の辺境に泊す。以って歓喜す」

これは、百済僧道欣・恵弥らが、肥後国葦北津に漂着した時の、彼らの言である。ところが、609年は中国では、隋の煬帝の大業五年にあたる。煬帝の最も得意だった時代だ。こんな時代に「乱有り」とは、不審だ。さらに、隋の時代なら、たとえ江南地方に赴いても、それを「呉」と称するのはおかしい。たしかに、書紀には「呉」という表現が多く出るが、これはすべて、南北朝時代の南朝を指したものだ。統一後の隋の時代には適切ではない。

では、これを十年以上繰り下げてみよう。すると、これは、唐初の動乱期にあたっている。隋末唐初は、群雄割拠の動乱時代だった。唐の高祖・李淵もそのうちの一人だった。李淵の他には、以下のような人物が天下取りに名乗りをあげていた。

   (義寧元年、617、十二月)薛挙、自ら天子を称す。
   (義寧元年、617、十二月)桂陽の人、曹武撤、兵を挙げて反し、「通聖」と建元す。
   (義寧二年、618、三月)化及、秦王浩を立てて帝と為し、自ら大丞相と称す。
   以上『隋書』
   (武徳二年、619、四月)王世充、越王[イ同]の位を簒ぎ、僭して天子を称す。国、鄭と号す。
   (武徳二年、619、九月)賊師、李子通、江都に拠り、僭して天子を称す。国、呉と号す。
   以上『旧唐書』

さて、最後の李子通の立てた国が「呉」である。これが滅んだのが、武徳四年だから、619~621は、江南に呉国が実在していたのである。推古十七年の記事を十年以上繰り下げると、まさにこの動乱の時期に当たる。そして、十二年ずらした場合、まさに621年に当たり、「呉国に乱有り」の当時に的中するのである。以上によって見れば、『日本書紀』が「唐」と書いているところは、まさに中国側の唐朝期に当たっているのである。

さらに、関連する項目を挙げておこう。
裴世清の称号

   1)(大業四年)明年、上、文林郎裴清を遣わして倭国に使せしむ。隋書、倭国伝
   2)(推古十六年八月)「…故、鴻臚寺の掌客裴世清等を遣わして、稍く往意を宣す。推古紀、大唐の国書
   3)(推古十六年九月)「…使人鴻臚寺の掌客裴世清等至りて、久しき懐い、方に解けん。推古紀、推古天皇の国書

以上のように、隋書は「文林郎」、推古紀は「鴻臚寺の掌客」と裴世清の称号が違う。通例、「兼務」「併称」「一方は旧称、もしくは通称」といった解釈がされてきたが、不審であった。なぜなら、「文林郎」は従八品(大業以降)。「鴻臚寺の掌客」は開皇令では正九品下、唐令では正九品上。であって、品を異にしている。しかし、これも、推古紀が十二年ずれていることを考えれば、矛盾はなくなるのである。(隋代に従八品だったのが唐代に正九品上に「降品」しているのは、隋→唐の王朝交代による、論功行賞の為であろう)
「宝命」

推古紀に載せる「大唐の国書」に次の一節がある。

   朕、宝命を欽承し、区宇に臨仰す。

この「宝命」とは、「天帝から下された天命」をあらわす。根本の典拠は『書』だ。

   嗚呼、天の降せし宝命を墜す無からんことを。尚書、金縢

周の初代・武王の言葉だとされている。武王は、武力によって殷の紂王を打倒し、みずから天子の座についた。早い話が、「簒奪」である。これに対して、その行為が「天帝から降された天命だったのだ」という主張。それが、「宝命」の語に集約されているのだ。この語のもつ背景を見るとき、推古紀の「国書」の送り主が、「隋の煬帝」だったとすれば、まことに奇異である。よ煬帝は、隋の第2代だ。「宝命」の語は第2代の彼にはふさわしくないのである。隋書によって隋の高祖(第1代)と煬帝の詔勅を検証すると、高祖は「天命」の語を好んで用いているが、煬帝は「天命」「宝命」を主張することは無い。ただし、煬帝も父である高祖の業績を語るときには、「霊命」という語を用い、みずからの治世とは別の表現を用いている。一方、旧唐書によって、唐の高祖らの用例を検証すれば、唐の高祖は、「宝命」の語を用いている。これは、先の「宝命」の語の歴史的意義から言っても、(煬帝の悪行を鳴らして隋を滅ぼし、天子となった)彼にふさわしいものである。したがって、ここでも、推古紀が十二年ずれていることが追証されるのである。

これらの事実から、隋書倭国伝の倭王は天皇家ではないことが明らかと為るのである。

次に、隋書の記述から、「多利思北孤」の王朝がどこにあったのかを検証しよう。

   阿蘇山有り。其の石、故無くして火起こり、天に接する者、俗以って異と為し、因りて祷祭を行う。

ここで、『隋書』倭国伝中、倭国の山河名勝として、この「阿蘇山」だけが挙げられている。もしも、隋使が近畿まで至っていたなら、「瀬戸内海」「琵琶湖」「奈良盆地」などなど、挙げるべき風景は存在するはずだ。だが、「阿蘇山」のみの記述であるのは、なぜなのか。それは、倭国の中心に阿蘇山があったからである。これは、倭国伝の里程記事によっても明らかだ。

   百済を度り、行きて竹島に至り、南に[身冉]羅国を望み、都斯麻国を経、迥に大海の中に在り。又東して一支国に至り、又竹斯国に至り、又東して秦王国に至る。其の人華夏に同じ。以って夷州と為すも疑うらくは明らかにする能わざるなり。又十余国を経て海岸に達す。竹斯国より以東は、皆倭国に附庸す。

竹斯(筑紫)から東へ秦王国と十余国を経て、「海岸」に達するというから、この「海岸」は九州の東岸である。ここには結局九州内部しか描かれていない。ここで、「竹斯以東」と言っているのは、「秦王国」→「十余国」だ。だから、倭王は「竹斯」に都している、と見なさざるを得ないのだ。

#menu(): No such page: menu_Historical