日本と朝鮮半島の交流史~今だからこそ知っておきたい!

日本と朝鮮半島の交流史~今だからこそ知っておきたい!

10/18(金) 12:05配信

PHP Online 衆知(歴史街道)
日本と朝鮮半島の交流史~今だからこそ知っておきたい!

知っておきたい!日本と朝鮮半島の交流史 ※写真はイメージです

日韓関係は戦後最悪といわれるが、そもそも有史以来、日本は朝鮮半島といかなる関係を築いてきたのだろうか。現在発売中の月刊誌「歴史街道」11月号では、「日本と朝鮮半島の2000年史」と題して、その実相に迫っている。ここでは、古代から近世に至るまでの交流史を、歴史研究家の河合敦氏に解説していただこう。

河合敦(歴史研究家)
昭和40年(1965)、東京都生まれ。 第17回郷土史研究賞優秀賞、 第6回NTTトーク大賞優秀賞を受賞。 高校の日本史教師を経て、現在、多摩大学客員教授。著書に 『ニュースがよくわかる教養としての日本近現代史』 『読めばすっきり!よくわかる日本外交史 ─弥生時代から21世紀まで』など、 近著に『逆転大名 関ヶ原からの復活』がある。
鉄、出兵、敗北…古代の交流の始まり

日本と朝鮮半島は、海によって隔てられていますが、太古の昔から交流がありました。

一般的には、日本列島に縄文人が住んでいて、そこに朝鮮半島や中国から人々がやってきて、混血していくことで日本人が形成されていったと考えられています。

紀元前108年、中国の漢が朝鮮半島に楽浪郡(現在の平壌を含む地域)を設置しました。中国の記録によると、倭と呼ばれる日本列島には小さな国々が分立していて、その使節が楽浪郡にやってきています。

なおこの頃の東アジアには、漢だけでなく現在の中国東北地方から朝鮮半島北部にかけ、高句麗が存在しました。

また57年には、倭の奴国が漢に使節を派遣していますが、恐らく、朝鮮半島を経由してのものでしょう。

当時、朝鮮半島南部で鉄資源が豊富に得られたことから、倭(日本)はそれを求め、交流をしていたと考えられます。

3世紀には、朝鮮半島南部に馬韓、弁韓、辰韓という小さな国の連合体があり、四世紀になると、高句麗が徐々に南に勢力を拡大し始めました。それに影響されるかたちで、馬韓から百済、辰韓から新羅、弁韓から加耶諸国が生まれてきます。

一方、日本では4世紀にヤマト政権が全国を統一し、朝鮮南部の加耶諸国と密接な関係を結び、鉄資源を入手していました。

さらにヤマト政権は百済と外交関係を結び、4世紀から5世紀前半にかけて朝鮮半島に出兵し、高句麗と戦っています。

538年には、百済を通じて日本に仏教が伝来。当時、文化面では朝鮮半島のほうが進んでおり、そうした文化や技術を取り入れるために、日本は朝鮮半島の人々を国内に受け入れたりしていたのです。

ところがその後、日本と加耶の関係が悪化し、562年には新羅が加耶を吸収。日本は、朝鮮半島における足場を失ってしまいます。

また589年には、隋が中国を統一。漢以来、実に約四百年ぶりに統一王朝が出現したことにより、日本も対応を迫られることになります。時の指導者である推古天皇聖徳太子(厩戸王)は遣隋使を派遣し、隋と対等な関係を結ぼうとしました。

618年には隋に代わって唐が成立しますが、そうした強大な帝国の成立を受け、日本は支配下に置かれないよう中央集権化を進め、律令国家としての体制を整備していくこととなるのです。

当時の日本の置かれた状況は、欧米列強の圧力に危機感を抱き、近代化を目指した幕末維新期の日本と似ているといえるかもしれません。

朝鮮半島の国々も中央集権化を進めていきますが、北部の高句麗が唐と対立する一方で、東部の新羅が唐と結んで百済を圧迫。百済は、日本と結んで対抗しようとします。

しかし660年、唐と新羅の連合軍によって、百済は滅亡。その遺臣たちは復興を目指し、日本にいた百済の王族を擁立し、日本に援軍を求めました。

日本はこれに応じて朝鮮半島に出兵しますが、663年、白村江で唐・新羅連合軍に大敗してしまいます。指導者である中大兄皇子(天智天皇)は、唐・新羅連合軍の侵攻に備えるために、大宰府に水城や山城を築くなど西日本の防衛を強化しました。宮を飛鳥から大津へ遷したのも、敵の襲来に備えたとする説もあります。

しかし天智天皇が薨去すると、672年、壬申の乱が起こり、弟の大海人皇子(天武天皇)が天智天皇の息子・大友皇子を倒し、政権を掌握することとなります。乱が起きた要因は諸説ありますが、防衛のための軍事費がかさんだことで、天智天皇に対する不満がたまっていたことも一因でした。つまり、朝鮮半島に介入したことが、国内の動乱をまねいたともいえるのです。

一方、朝鮮半島では、668年に高句麗を滅ぼした唐と、新羅との関係が悪化。日本との挟撃を恐れる新羅は、日本に対して低姿勢で外交関係を求めてきます。壬申の乱後の体制整備を急ぐ日本も、それを受け入れました。

しかし、676年に唐を朝鮮半島から撤退させた新羅が半島を統一。唐との関係も一段落してくると、新羅は日本に対する外交姿勢を変えます。自ら「王城国」、つまり仏教の中心地と称する使節を派遣してきます。日本はそれに反発し、両国の関係は悪化することとなるのです。

日本は唐に対しては、630年から遣唐使を派遣していましたが、894年に停止。この後、907年に唐が滅び、935年に新羅が高麗に屈服すると、日本の朝廷は外交には積極的ではなくなります。こうして、大陸文化をふまえた上で日本の風土にあった国風文化が培われるのです。

蒙古襲来、倭寇…激動の中世

936年、朝鮮半島を統一した高麗が、日本に国交樹立を求めてきます。しかし日本は、これを受け入れませんでした。

こう見ると、日本は海外との交流を絶ったかのように見えますが、そうではありません。 中国では960年に宋が成立しますが、海商を中心として、日本は宋や高麗と貿易を進めていくのです。公的関係はなくとも、民間交流はかなり活発でした。

また12世紀になると、平清盛が日宋貿易を振興していきます。

ところが13世紀に入ると、モンゴル(元)が台頭し、中国や朝鮮半島に侵攻し、アジア情勢が変化していきます。

モンゴルは1231年から高麗への侵攻を開始。1259年に、高麗を従属させます。しかし、高麗の武人たちはその後も抵抗運動を展開しました。この三別抄の乱によって、モンゴルの日本への侵攻が遅れたとする見方もあります。

やがて朝鮮半島を押さえたモンゴルは、1274年と1281年の二度にわたって、日本に遠征軍を派遣していきます(蒙古襲来)。その中には高麗軍も多数含まれていました。

日本側は鎌倉幕府が防衛にあたり、二度とも撃退することに成功します。しかも驚くべきことに、幕府もモンゴルの撃退後に、二度にわたって高麗への遠征を計画しています。

この計画は実現こそしなかったものの、仮に行なわれていれば、日朝関係もまた別の局面に突入していたかもしれません。

ともあれ、モンゴルの存在が日本に影響を及ぼしたように、日本と朝鮮半島は、中国大陸の動向と無関係ではいられないのです。

さて、日本が室町時代に突入すると、外国との間で、倭寇の存在が問題となってきます。

この時期の倭寇は、対馬、壱岐、松浦の人々が中心だったと見られ、朝鮮半島や中国の沿岸部で食料の略奪や、場合によっては住人を拉致して、売買することもありました。

倭寇が発生した要因としては、特に対馬では米がほとんどとれないため、飢饉が起きると、食料調達のための略奪に走るという背景があったようです。政治的にも南北朝時代に入っていたために、国の統制が取れにくくなっていたという面もあります。

被害を受けた高麗は1367年、日本に倭寇の禁止を求めました。その一方で、倭寇退治で活躍した李成桂が、1392年に高麗を滅ぼし、朝鮮王朝を樹立することとなります。倭寇の存在が、朝鮮半島における国家の興亡に影響を与えたといえるのです。

なお中国では、1368年に明が成立し、モンゴルは北方に追いやられました。

足利義満が室町幕府の将軍になると、明とも朝鮮とも正式な外交関係を持つようになります。しかし1419年、朝鮮が倭寇を退治するために対馬を攻める事件が起きました(応永の外寇)。

この事件後、対馬を治める宗氏が、朝鮮とのやりとりを主に担うようになります。

朝鮮出兵から朝鮮通信使へ…衝突と国交回復の近世

戦国時代になると、対馬の住民を中心に、朝鮮の三浦に住んで貿易をするようになりました。

しかし1510年には、貿易を制限しようとする朝鮮と対立。三浦の住民が、対馬の宗氏と連携して武力蜂起する事件が起きます。この蜂起は鎮圧され、以後、日朝貿易は衰えていくこととなりました。

16世紀後半になると、豊臣秀吉が全国統一し、1592年に朝鮮へと出兵します。

もっとも、秀吉は当初から、朝鮮出兵を計画していたわけではありません。

秀吉の目的は中国の明を征服することにあり、朝鮮には最初、明征服の先導役を求め、それが断られると、明への道を貸してほしいと依頼しました。それも断られたために、朝鮮を攻めることにしたのです。

序盤戦では、朝鮮内が一枚岩でなかったこともあり、戦馴れした日本軍が快進撃を見せました。しかし、明からの援軍に加え、朝鮮水軍や義兵(有志)の活躍により日本の進撃は止まり、戦線は膠着します。

結局、6年に及ぶこの戦いは秀吉の死によって終結しますが、日朝双方に大きな被害を出すだけでなく、朝鮮の人々に日本への恨みを残すこととなりました。

また朝鮮出兵は、豊臣政権の弱体化にもつながり、関ケ原の戦いを経て、徳川家康が幕府を樹立します。

家康も宗氏も朝鮮との早期講和を目指しており、宗氏が奔走し、1607年に朝鮮の使節が来日して国交は回復しました。

1609年には、朝鮮と宗氏の間で、己酉約条が結ばれ、貿易が再開されます。

また江戸時代には、将軍の代替わりを中心に、朝鮮通信使という使節団が、12回にわたり日本を訪れています。

日本の学者は朝鮮のほうが学問が進んでいると考えていたので、まれに訪れる通信使から様々な情報を得ようとして、積極的に交流を求めました。通信使が「もう、いい加減にしてほしい」と記録に残すほど、当時の日本人は熱心でした。

ただ一方で、朝鮮の人々に対する蔑視もありました。

中国には華夷秩序といって、中国が世界の中心で、周辺の国は未開であるとする思想があります。それと似たように、当時の日本にも、日本こそが世界の中心とする、日本型華夷秩序というべき考えがあったのです。

しかし朝鮮にも、朝鮮を中心とする同様の思想があり、当時から両国の間には複雑な感情があったと見ていいでしょう。

河合敦(歴史研究家)

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