日本史ミニ事典

あ行。

・上知令(あげちれい)
・・・・・行き詰まりかけた改革を推進しようと1843(天保14)年水野忠邦は江戸城と大阪城の10里(約40Km)四方を直轄地としてこの地域に領地を持つ大名や旗本に代わりの土地を与えて転封させようとしました。肥沃な私領と低い幕領との交換により幕府財政の増収を図るとともに各種の所領が入り組んでいる江戸・大坂周辺の幕領を集中させて支配力の強化と共に、あわせて江戸湾の入口の三浦半島と房総半島の防備を強化しようとしたものです。

・阿衡事件
・・・・・887(仁和3)年藤原基経が関白に任命された時、任命の詔に「阿衡の任をもって卿の任とせよ」とありましたが、基経は”中国では阿衡とは名ばかりの仕事で関白の仕事を侮辱したものである”としてこの詔を作成した橘広相を朝廷から追放させました。
 この事件は基経の権威を天皇に認めさせ、橘氏を没落させたものとして知られています。

・飛鳥文化
・・・・・仏教が伝来(538年)してから大化の改新(645年)までの文化で,以後奈良朝以前の文化を白鳳文化といいます。
 飛鳥文化は仏教中心の文化ですがその特徴は①豪族中心の文化で当時の人々の大半を占める部民(べのたみ)には無縁のものでした。
 ②国際的な文化であり中央アジアやギリシャ。

・インドの文化の影響が見られます。
 伝えられた唐草模様は古代オリエントに起源を持ち、法隆寺の柱の中ふくらみはギリシャ神殿の柱の技術からきたとされます。
 法興寺、四天王寺、法隆寺などはこの時代の建立で救世観音像(法隆寺)、弥勒菩薩像(広隆寺)などの仏像や玉虫厨子、天寿国繍帳などの工芸品も飛鳥文化の代表的なものです。。

・安保条約の改定
・・・・・1960(昭和35)年に行なわれた日米安全保障条約の改訂は1、日本の防衛力を強化すること2、条約の期限は10年とすること(その後は自動延長により継続)3、在日米軍の軍事行動の事前協議制の確認4、アメリカの日本防衛義務を明記したことなどが要点です。。

・異国船打払令
・・・・・19世紀になってイギリス、ロシアなどの外国船の来航が増加したのに対して幕府は海防策として、1825(文政8)年清国、オランダ以外の日本の沿岸に近づく外国船に対し無差別に砲撃を加えて撃退する命令を出しました。
 その後清国がアヘン戦争でイギリスに敗れた事を知り、幕府は外国の侵攻をおそれ、穏便な方針に転換1842(天保13)年外国船に薪・水・食料を与えて帰らせる「薪水給与令」を発令しました。

・磐井の乱
・・・・・527年継体天皇は任那へ進出を図る新羅に対して、朝鮮半島へ出兵しようとしましたが筑紫(九州北部)の国造(長官)磐井が反乱をおこし出兵を妨害しました。
 大和朝廷は反乱を収めるため大連の物部麁鹿火を送り磐井を滅ぼしましたが、この間任那の領土は新羅に攻め取られ、やがて日本は任那を失うことになります。

・宇佐八幡宮神託事件
・・・・・769年九州の太宰府で神事を担当していた習宜阿曾麻呂が宇佐神宮の八幡神から「道鏡を天皇にしたら天下が太平になる」との御告げを受けたとの話がもたらされました。
 天皇は和気清麻呂を使いに出して、この話を確認させたところ、八幡神の御告げは「わが国の天皇は皇族がなることになっており臣(家来)で天皇になろうとするものがあったら追い出してしまえ」というものでした。
 清麻呂はこの御告げを天皇に報告、伝え聞いた道鏡は怒り清麻呂を大隅国(鹿児島)に流しましたが天皇も道鏡を天皇の地位につけることを断念し、天皇の死後、道鏡は失脚します。

・撰銭令(えりぜにれい)
・・・・・室町時代とくに応仁の乱以後、流通していた通貨の主体は唐や宋の古銭で長期の使用と戦乱の連続などで破損したり擦り減ったりする一方新しい明銭が輸入され、また私鋳の悪銭が増えたりして取り引きが上手く行かないので通用する銭やその交換比率を定めて、銭の流通を良くしようとしました。

・延喜式
・・・・・養老律令の施行細則として905(延喜5)年藤原時平らによって編集がはじめられ、時平の弟忠平らによって927(延長5)年に完成、40年後の967(康和4)年に施行されました。。

応永の外寇
・・・・・1419(応永26)年6月朝鮮の兵1万7千余人が227隻の船団で日本の対馬を襲った事件。
 九州探題や守護たちはこれと戦い撃退しました。
 この事件より前の5月には日本の倭寇の船団が朝鮮を襲い遼東まで進んで明と戦って敗れていますが,朝鮮兵の来攻はその仕返しと言われています。

・王政復古の大号令
・・・・・1867(慶応3)年12月9日天皇は御学問所において親王以下諸臣を集め次のような大号令を発しました。
 「幕府はもちろん摂政、関白などは廃して代わりに総裁、議定、参与の三職を置き、天皇自ら政治を行う。そしてこれからは昔に戻って公家も武家も協力して公議をつくして新しい政治を行うことにする」ここに幕府の廃止が宣言され三職の任命が行われ、新政府が発足しました。

・岡本大八事件
・・・・・長崎奉行に仕えていた岡本大八は1609年ポルトガル船を長崎で撃沈(デウス号事件)した有馬晴信に恩賞を斡旋するといって晴信から賄賂をもらいました。
 この事がばれると大八は逆に晴信の長崎奉行暗殺事件をあばき、結局1612年晴信は火刑晴信は甲斐国に流され斬罪に処せられました。
 両者ともキリシタンであったことからこの事件は禁教令発布の糸口となりました。
 か行。

・海援隊
・・・・・土佐(高知県)出身の坂本竜馬は1864(元治1)年長崎の亀山で各地の浪人20余人を集めて貿易商社を作り、薩長両藩のために各地の物産や様式武具、船を輸入し対立していた両藩の間をとりもつという大きな役割を果たしました。
 この組織ははじめ社中とか亀山隊とか言いましたが、のち土佐藩に属してからは海援隊と名を改め、活発に活動しましたが、1867(慶応3)年竜馬が暗殺されてからは不振となり翌年藩命によって解散しました。

・改革組合村
・・・・・幕領・私領にかかわらず近隣3~6ヶ村で小組合を結成、小組合を10組(40~50ヶ村)で大組合を結成し小組合には村役人の中から小惣代を選び、大組合には小惣代の中から大惣代を選び、関東取締出役の支配下におきました。
 また組合村全体の中で有力な村を寄場として組合村運営の中心としました。

・廻国雑記(かいこくざっき)
・・・・・室町時代後期の紀行歌文集。
 近衛房嗣の子で聖護院門跡の準后道興が1486(文明18)年京都を出発、北陸から東北、関東一円を廻り各地で詠んだ歌。

・俳句。

・漢詩などが記されています。

・開拓使官有物払い下げ事件
・・・・・1881(明治14)年明治政府は1819年以来1400万円を投じた北海道開拓事業の国有財産(鉱山など)を僅か39円無利息30ヵ年賦で開拓使長官の黒田清隆と同郷の薩摩出身の政商五代友厚に払い下げしようとしている事が明らかになり、政府の不正を非難する声が高まり政府は払い下げの中止、国会開設の詔書の発表と引き換えに払い下げを非難した大隈重信を辞職させることにより危機をのり越えました。。

・臥薪嘗胆(がしんしょうたん)
・・・・・薪(たきぎ)に臥(ふ)し肝(きも)を嘗(な)めるということで中国の故事に由来する言葉で苦労を耐え忍びながら大きな目的を達するまで頑張ろうという意味です。1895(明治28)年5月15日の新聞「日本」に掲載された論文の中で三宅雪嶺が日本が遼東半島の領有を断念したこと対してこの挫折が将来日本を大成させる為に意義ある事だと説いて国民の奮起を促しました。。

・華族制度
・・・・・1869(明治2)年に藩籍奉還によって従来諸侯と呼ばれてきた大名(藩主)は藩士との主従関係が無くなり、公家と共に華族という呼称が与えられました。
 その後1884(明治17)年に出された華族令により華族は公・候・伯・子・男の五爵に分けられ上級公家・旧諸侯に加えて、新たに維新前後に功績のあった者も新華族として肩を並べることになりました。
 この華族制度は第二次大戦後の日本国憲法施行とともに廃止されました。

・株仲間
・・・・・ここでの株とは商工業者の営業上の独占権のことで、江戸時代の幕府や大名が同業者の仲間に与えたものを株仲間といいます。
 商工業者は見返りとして幕府や藩に運上金や冥加金を納めるといった仕組みです。

・川中島の戦い
・・・・・1541(天文10)年6月に家督相続をした武田信玄は北信濃に出兵,さらに越後を狙う勢いでした。
 一方越後の戦国大名上杉謙信は関東への勢力拡大を図るため,北信濃へ進出する必要があり川中島での戦いとなります。
 戦いは1553(天文22)年から64(永禄7)年の11年にわたり5回戦われましたが,信玄と謙信が直接戦ったのは第4回目の戦いで,江戸時代に頼山陽が作った漢詩「鞭声粛々夜河を渡る
・・・・・」はこの時の合戦の模様を詠んだものです。
 長期にわたる戦いで武田,上杉両氏は兵力を大きく消耗させ京都への上洛は織田信長に先を越されることになりました。

・冠位十二階
・・・・・603年聖徳太子が定めたもので、豪族達に十二種類の位を定めてあたえました。
 姓(かばね)が家に与えられたものに対して、冠位は個人に与えられたもので個人の才能や功績を認めようとするものです。
 冠位の名称は儒教で重視される「仁」「礼」「信」「義」「智」徳」にそれぞれ大小をつけて十二としたもので以後豪族達は冠位と姓の両方を名前につけます。
 (例)小野妹子の場合大礼小野臣妹子と呼ばれましたが、大礼は冠位、小野は氏(うじ)、臣は姓(かばね)、妹子は名前となります。
 冠位は位によって色分けされた冠(頭のかぶりもの)をつけさせ、「仁」は青、「礼」は赤、「信」は黄色、「義」は白、「智」は黒、「徳」は紫だったとされています。

・関東ローム層
・・・・・…更新世の後半、火山活動が活発になり各地に赤褐色の火山灰の堆積層が出来ましたが、関東地方のものは主に富士山や箱根山、浅間山の火山活動によって出来たものと考えられており、下から順に多摩、下末吉、武蔵野、立川の四層に区分されています。

・魏志倭人伝
・・・・・中国では漢のあと魏(220~265)の時代となりましたが、この国の歴史書である「魏書」の中の”東夷伝倭人”の部分に当時の日本についての記述があり、これを「魏志倭人伝」と言っています。
 その中には卑弥呼のことや邪馬台国へ行く道筋や人々の生活の様子が記されており、まだ文字のなかった当時の日本を知る有力な手がかりとなっています。

・格式の編纂
・・・・・律令の決まりだけでは世の中を治められなくなり、新しい法律(格=きゃく)や律令や格を実施するための細かい規則(式)の見直しが必要になり、今まで出された格と式を整理して編纂する仕事が進められました。
 820(弘仁11)年に出来た「弘仁格式」9世紀後半に出来た「貞観格式」10世紀はじめの「延喜格式」を三大格式といいます。

・公事方御定書(くじかたおさだめがき)
・・・・・徳川幕府八代将軍徳川吉宗の命令で編纂された幕府の基本法典で上下二巻から成り上巻は評定所における司法関係の事務及び警察に関する法規81ヶ条、下巻は訴訟手続きと裁判手続き、刑罰規定など103ヶ条を収めています。
 主として庶民を対象とするもので庶民勢力の台頭という時代の大きな動きを示すものとされています。

・郡代と代官
・・・・・郡代が置かれたのは関東・美濃(岐阜県笠松)・飛騨(岐阜県高山)・西国(豊後の白田)の四ケ所で10万石以上の広い領地を支配しました。
 代官は5~10万石の領地を預かり定員は40~50人でした。
 ともに勘定奉行に属し任地に陣屋を置いて手代等10数人の下役人を使って領民を支配していました。

・検見法と定免法
・・・・・検見法はその年の収穫高を調べて年貢を定め、定免法は過去数年~十数年の収穫高を平均として一定期間は一定の年貢とするもので、検見法の場合は凶作の時は農民はたすかりますが幕府の財政は安定せず、代官の不正も起こりやすかったといわれます。

・現役武官制
・・・・・日本の軍隊は明治憲法の下で天皇に直属するというかたちがとられましたが内閣の一員である陸軍大臣と海軍大臣は現役の大臣がなるものとする慣習が続き、1900(明治33)年山形有朋内閣はこれを制度化し政党内閣が軍隊を思い通りに動かすことが出来ないようにしました。とこらがこの制度は次第に軍部の発言力を強め、かえって政府をゆさぶる武器に使われるようになり、昭和に入ると日本ファシズムの形成に一役買うようになりました。。

・遣随使
・・・・・600年を第一回として計4回派遣されましたが、607年の第2回目小野妹子が派遣されたときの国書には「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に到す、恙無きや
・・・・・」とあって隋の国王煬帝は不愉快だったようですが、ここにも聖徳太子の対等外交を目指す意気込みがあらわれています。
 遣随使には留学生、留学僧が随行していますが、こうした中から高向玄理、僧旻、南淵請安など大化改新に重要な役割を果たした人々が出ます。

・遣唐使
・・・・・630年に第一回遣唐使が派遣され以後9世紀末に停止されるまで、十数回派遣されました。
 新羅との関係が悪くなり東シナ海を横断するようになってからは危険が大きく、4隻のうち全船無事のことはまれだったといいます。
 717年留学生として派遣された阿部仲麻呂は船の遭難により帰国に失敗、唐の朝廷に仕え異国の地で73歳の生涯を終えましたが故郷を偲んで詠んだ次の有名な歌が古今和歌集に収められています。
 天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも。

・建武式目
・・・・・1336(延元1,建武3)年足利尊氏が京都で幕府政治を復活するに当たって制定した法令で幕府の所在地に関する意見(幕府所在地は鎌倉でなくても良い)と17条の政道(施政方針)からなっており,尊氏が諮問し評定衆の二階堂是円・真恵が答申した形をとっています。

・元老(げんろう)
・・・・・天皇を助けて重要な国政上の決定に大きな影響力をもつ人達のことで明治維新以来の主に薩長両藩出身の大物政治家で政治の第一線を退いてからもなお発言力を持つ長老たちです。元老と呼ばれた人は黒田清隆、伊藤博文、山形有朋、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌、西園寺公望、桂太郎の9人で内閣総理大臣を推薦したり、重要な外交問題に参画するなど事実上国家運営の最高指導者でした。。

・好太王の碑
・・・・・高句麗の長寿王が父の好太王(広開土王ともいいます)の偉大な業績を記念して5世紀に建てたものでその四面の碑文には、4世紀末に倭が朝鮮に出兵し高句麗を相手にたびたび戦ったことが刻まれています。
 但し倭は日本を指すのか、任那をさすのかなど議論が分かれています。
 (画像はこちら)。

・広義国防国家
・・・・・満州事変の強行や二・二六事件ののち軍部によって提唱されたもので、日本は東アジア大陸と西太平洋・南洋方面にまで進出することが出来るくらいま迄軍備を拡大するという考え方で予算面にも大きな影響を及ぼし、1937(昭和12)年公債と増税により30億円という大型の予算が組まれ、その中で陸海軍費は14億を占め前年の二倍に増えました。

・五箇条の御誓文
・・・・・明治維新の基本方針となったもので長い間の幕府の専制封建政治から抜け出そうとする革新的なものでした。
 1、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ1、上下心ヲ一にして盛ニ経綸ヲ行フヘシ1、官武一途庶民ニ至ルマデ各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス1、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道に基クヘシ1、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ。

・米騒動
・・・・・第一次世界大戦中の経済の発展により都会人口が増え農業に携わる人が減り、米の消費と生産のバランスが崩れた上にシベリア出兵による軍用米が大量に買い付けられ地主や米商人の思惑買いが重なり米相場が暴騰しました。
 1918(大正7)年7月富山県魚津の主婦らによる県外移出積込阻止(越中女一揆)が発端となって各地で労働者や被差別部落の人々が先頭に立ち地主や米屋を襲撃、政府は軍隊や警官を出動させようやくこれを鎮圧しました。

・健児制(こんでんせい)
・・・・・律令制による兵士の制度は農民の負担が大きすぎた割には兵士の戦力が弱かったため、兵士の制度を全面的に改め、郡司や豪族などの豊かな家から兵士を出し少数でも強力な兵士を集めることにしました。
 さ行。

・財閥
・・・・・三井、三菱、住友、安田の四大財閥本社は戦前の日本の資本総額の約19%を占める企業を支配しており全国銀行資本の約48%がその支配下にありました。
 また軍需工業の進展につれ軍や官僚と深いつながりを持ちながら急速に成長した新興財閥として日産、日窒、森、日曹、理研などがありました。

・薩長同盟
・・・・・1866(慶応2)年1月京都薩摩藩邸で坂本竜馬が証人となり小松帯刀、西郷隆盛と木戸孝允との間に締結されました。
 盟約は六ヵ条から成り、幕府と長州との間に再び戦争が起こった時には薩摩藩は長州藩を応援することを内容としており、のちの王政復古や明治の藩閥政治の成立につながりました。

・薩摩閥
・・・・・元老の黒田清隆、松方正義、西郷従道ら薩摩藩の出身者による薩摩閥は長州閥とともに明治時代の中央政界の二大派閥でした。
 特に西郷従道(隆盛の弟)は第一次伊藤博文内閣以来長く海軍大臣を務め、のちに総理大臣になった山本権兵衛も海軍大臣を務めましたが、これら海軍の長老たちによって海軍の実権が握られていたため薩摩閥は長州陸軍閥に対して薩摩海軍閥と云われました。。

・三世一身の法
・・・・・人口の増加などによる口分田の不足を補うために政府が723年発布したもので「田を開きそこに新しく水路を作った人には三代(本人、子、孫)の間それを使うことを認める、既存の水路を利用する人には本人一代だけの使用を認める」というものでしたが、これにより新しく開墾できるのは余裕のある貴族や寺院,豪族のみで、しかも政府に田を取られる期限が近づくと耕作の意欲をなくし、折角開いた田も荒れてきました。
 そこで政府は743年「墾田永世私財令」を発布して、開墾した田は永久に所有を認めることにしましたが、勢力のある貴族や寺院,豪族が逃亡してきた農民などを使って野山を切り開いてますます土地を増やすだけになり、土地公有制がずれ荘園になっていきます。

・三殿台遺跡
・・・・・1961年大がかりな発掘調査により、250戸を超える竪穴式住居(縄文時代8、弥生時代151、古墳時代43、不明50)などの遺構や土器、石器、金属器などの膨大な量の遺物が発見され、縄文、弥生、古墳の三時代に亘る集落跡として、国の指定史跡に指定されています。
 出土された遺物は遺跡北側の「横浜市三殿台考古館」(画像はこちら)に保存、公開されています。
 (所在地横浜市磯子区岡村)。

・サン・フェーリペ号事件
・・・・・1596(慶長)1年マニラからメキシコへ向かうスペイン船サン・フェリーペ号が土佐(高知県)に漂着しました。
 秀吉が積み荷を没収して取り調べをさせましたがその時、船員が「スペイン国王は外国で布教をした上で軍隊を送って国土を広げる」という話をしました。
 これを聞いた秀吉は驚いて近畿地方の宣教師、信者ら二十六人を捕えて長崎に送って処刑した事件です。
 (二十六聖人殉教事件)。

・サンフランシスコ平和条約
・・・・・日本と連合国48カ国との間に結ばれた第二次大戦終結のための平和条約でその内容は1、日本は主権を回復する1、日本は朝鮮の独立を認め、台湾・千島(クリル)・南樺太などの領土を放棄する1、沖縄と小笠原諸島はアメリカの信託統治下におく1、日本は国際連合の方針に協力し、国際間の紛争は平和的手段で解決する。
 が主なものです。

・讒謗律(ざんぼうりつ)
・・・・・1875(明治8)年制定された言論統制令で8条から成りますが、政府の役人を讒毀(ざんき=人をそしり傷つけること)と誹謗(ひぼう=悪口を言うこと)になるような文書や絵、肖像などを売ったり展示することを罰することを目的としたもので、「朝野新聞」の成島柳北や植木枝盛らが処罰されました。

・紫衣事件(しえじけん)
・・・・・1627(寛永4)年将軍家光の時、皇室から京都大徳寺・妙心寺の僧に贈られた紫衣を幕府が公家諸法度に違反するとして取り上げ、この処置に反対した大徳寺の沢庵和尚は流罪となりました。
 後年沢庵和尚は赦されて家光らの帰依をうけますが、秀忠の娘和子が嫁いだ後水尾天皇は1629(寛永6)年突然和子との間に生まれた幼い一宮(明正天皇)に位を譲ってしまいました。

・七支刀(しちしとう)
・・・・・刀身とその両側の三つづづの枝からなる宝刀で刀身には「泰和4年に鉄を鍛えて七支刀を作った。
 百済王と皇子は倭王への恩返しにこの刀を贈るので代々伝えることを願う」と刻まれています。
 泰和4年は369年で、日本が百済を助けるため、朝鮮に出兵したことに対するお礼と考えられています。
 (画像はこちら)。

・七分金積み立て
・・・・・1791(寛政3)年老中松平定信は江戸の地主が負担する町費を節約させ、そのうちの70%を積み立て天災や飢饉に備えることにしました。
 この制度はその後継続して明治政府に引継がれ東京府の庁舎建築、ガス、上水道などの公共事業に活用されました。

・幣原外交
・・・・・ワシントン会議の全権団に加わった幣原喜重郎は、1924(大正13)年6月、護憲三派の加藤高明内閣の外務大臣に就任してから、1931(昭和6)年12月、第二次若槻内閣の退陣によって其の地位を去るまで、立憲政友会の田中義一内閣時代(1927年4月~29年7月)を除いて5年余りにわたり憲政会・立憲民生党系内閣の外務大臣をつとめ、対外協調を中心とする外交を推進し、対米協調と対中国内政不干渉の実施に努力しました。この時期の幣原外相によって進められた協調外交を幣原外交と云いますが、右翼や軍部からは軟弱外交と非難されました。

・霜月騒動
・・・・・1258(弘安8)年11月(陰暦11月を霜月といいます)に起こった安達氏が滅亡した事件。
 景盛以来北条氏と密接なつながりを持って執権を補佐してきた北条貞時の外祖父安達泰盛と内管領(北条得宗家=本家=の直属の家来を御内人といいその頭を内管領といい権勢をふるいました)の平頼綱は当時鋭く対立していましたが、頼綱は泰盛父子鎌倉にを急襲、一族を滅ぼしました。
 この事件で御家人勢力は幕府中枢から完全に排除され得宗体制は更に強化されました。
 平頼綱はこののち独断を強めたため、1293(永仁1)年貞時に討たれます(平禅門の乱)。

・下関条約
・・・・・1895(明治28)年4月17日下関で伊藤博文・陸奥宗光と李鴻章・李経方をそれぞれ全権大使として調印された日清戦争の講和条約で、要点は次の通りです。
 1、朝鮮の独立を認めること。(清国の支配を認めない)2、日本に遼東半島・台湾・澎湖列島を譲り渡す。
 3、清国は日本に2億両(当時の金で約3億円)の賠償金を支払う。
 4、沙市、重慶、蘇州、抗州の四つの都市と港を日本に開き貿易と自由な活動を認める。

・自由民権運動
・・・・・自由民権とは人民の自由と権利を意味し、運動を支えた自由民権論はルソーの社会契約説やフランス革命思想の影響を受けた植木枝盛や中江兆民らによって唱えられ明治前半に国会開設、地租改正、条約改正、地方自治の確立などを要求する政治運動になりました。

・守護。

・地頭の設置
・・・・・源頼朝は弟の義経や叔父の行家と対立し、これを追討することを理由に1185年全国に設置を計画したものです。
 守護の任務は朝廷から任命される国司の仕事のうち一般政務を除き軍事、警察に関することを担当し国内の御家人たちを指図することです。
 地頭は公領や荘園に置かれ、年貢の取りたてや土地の管理を任務としました。
 守護。

・地頭には鎌倉方の有力な御家人が任命されましたが、地頭の設置には荘園の領主である公家、寺院の反対にあい、全国的に任命されるようになったのは承久の乱(1221)のあとのことです。

・貞永式目(じょうえいしきもく)
・・・・・御成敗式目ともいい北条泰時が中心となり評定衆とともに作成したもので、公平な裁判を行うことを目的に作られました。
 鎌倉幕府の基本法典となり、守護地頭の職務内容から民事、刑事、訴訟手続きなど多彩な内容をもち51ケ条から成っています。
 この式目は公家側の法律である律令に代わったものではなく、武家の間だけに適用されたものです。

・将軍の継嗣問題
・・・・・十三代将軍家定は病弱で後継ぎがなかったため幕府内部で後継将軍を巡って意見が対立、血統を第1条件とする保守派では家定の従兄弟にあたる紀州藩の慶福を立て、幕政を改革しようとする革新派は水戸の徳川斉昭の一橋慶喜を立てて争いました。
 革新派は尊皇攘夷を主張する人々で条約締結と慶福擁立に反対し、保守的で開国を認めない攘夷派の公卿と結んで条約を認めないように働きかけました。
 井伊直弼は一橋派の役人を要職から外し慶福をたてて十四代将軍家茂とし勅許なしに条約締結にふみきりました。

・続日本紀(しょくにほんぎ)
・・・・・日本書紀のあとを受けて作られたので「続」の名がついた歴史書で797年に作られました。
 697年の文武天皇の即位から桓武天皇の791年に至る95年の歴史を編年体で記述した奈良時代の根本史料です。
 前半は菅野真道ら、後半は藤原継縄らによって別々に編纂されました。

・人類の歴史
・・・・・今から400万年ほど前にもっとも原始的な人類が地球上に姿を現わしました。
 アウストラロピテクスと言われる猿人で南アフリカや東アフリカで多くの骨が発見されています。
 つぎに今から170万年ほど前に現れたのが原人でジャワで見つかったホモ。

・エレクトスや中国で見つかった北京原人です。
 第三氷河期の始まる前後の今から20万年前に生きていたのはには旧人(ネアンデルタール人)ですが、頭骨は現代人と変わらないくらいに大きくなります。
 今から6~5万年ほど前には現在の人類と同種の新人(ホモ。

・サピエンス)が現れますが、日本で発見された浜北などの古い人骨はこの新人の子孫のものと見られています。
 (図像はこちら)。

・震災手形
・・・・・関東大震災のため決済困難になった被災地関係の手形で震災以前に銀行割引したものを1億円限度の政府の補償で日本銀行が再割引することとしたもの。この法案の審議をめぐる議会での片岡蔵相の失言問題が金融恐慌勃発の引き金になったとされています。

・親藩・譜代・外様
・・・・・親藩は徳川家康以降、将軍家の子弟で大名となった家で尾張・紀伊・水戸家を御三家、田安・一橋・清水家を御三卿といいました。
 譜代は1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い以前より徳川氏に仕えていた家臣が大名となったもので彦根井伊氏の35万石を筆頭に酒井、本多、榊原、水野など百数十家を数え、老中などの要職につきましたが10万石以下の小大名が殆どでした。
 外様は織豊時代からの戦国大名で関ヶ原の戦いで徳川方に従ったもの、及びその後徳川方に服属したもので前田102万石を最高に島津伊達、細川、黒田、浅野、毛利などの大藩を含め100家ほどとなりました。

・新編鎌倉志
・・・・・徳川光圀が延宝年間(1673~81)に家来の河合恒久らに命じて編纂させた鎌倉に関する地誌で貞享2年(1685)年に刊行されました。
 鎌倉を中心に現在の江ノ島。

・逗子。

・葉山。

・横浜金沢地域の古社寺の由緒、名所旧跡をことごとく調査の上編纂されたもので鎌倉に関する基本的な貴重な資料です。

・赤報隊
・・・・・官軍の本隊より前を途中の民衆をにひきつける役目を持って進軍し「今年の年貢は半分に減らしてやる」という約束は重い税に苦しんでいた農民たちを喜ばせましたが、財政難から新政府はこれを否定、偽官軍として隊長の相楽総三ほか幹部は信州(長野県)の諏訪湖の近くで処刑され、赤報隊も解散させられました。隊員は全国32の国から集まりその3分の2は農民であったことからこの事件を農民による倒幕改革運動とする人もいます。

・側用人
・・・・・常に将軍のそばにいて将軍の命令を老中に伝え老中の上申を将軍に取り次いでいました。
 1684(貞享1)年大老の堀田正俊が城中で殺される事件がおき、将軍に危害が及ぶのを怖れ大老・老中の執務部屋を将軍の部屋から遠く離したため将軍と老中の間を連絡する側用人が勢力を増すようになりました。
 新井白石のほか綱吉の側用人の柳沢吉保や家宣の側用人となった間部詮房などが有名ですが「かねさは」の米倉昌尹も綱吉の側用人となって短期間で大名になりました。

・尊皇攘夷運動
・・・・・「尊皇」(天皇を尊び天皇を中心に国を統一しようとする考え)と攘夷(外国の勢力を武力で打ち払うこと)は本来別個のものでしたが、井伊直弼の日米修好通商条約の調印より両者は結びつきました。
 薩摩藩の尊皇運動は天皇の権威を借りて幕府を立て直そうとする公武合体の思想でしたが長州藩は国学の復古思想の影響が強く倒幕して天皇の政治を復活させることを主張して両藩は対立します。
 他藩でも藩主や藩の家老などの上級の武士は薩摩藩の考えに同調するものが多く、一方下級武士の中には長州藩の考えに賛成する者が多かったと言われます。
 攘夷の考えは薩英戦争や下関事件で外国の力を知り次第に下火になりました。
 た行。

・大逆事件
・・・・・1910(明治43)年5月に起きたこの事件は長く謎に包まれていましたが第二次大戦後にようやく明らかになってきました。それによると宮下太吉、管野スガ(幸徳秋水の内妻)ら数人の急進的な無政府活動家が天皇をすべての社会悪の根源としてその暗殺を計画し、爆弾の製造に当たっていたことが発覚し逮捕されました。政府はこれを機会に大量の社会主義者を検挙し、うち26名を非公開の裁判にかけ幸徳秋水ら12名を死刑、14名を懲役刑としました。
 しかし実際には幸徳は天皇暗殺計画には消極的で、今日では処刑された人々の中には無実だった人もあったと見られています。

・大日本帝国憲法
・・・・・明治憲法とも云われプロシャ憲法を参考に作られたもので三権分立の原則、臣民(国民)の権利・自由などが定められましたが、万世一系・神聖不可侵の天皇が統治権を持つ天皇主権が原則で天皇が議会の関与なしに行える緊急勅令や陸海軍の統帥(指揮)などが天皇の大権に含まれました。

・平忠常の乱
・・・・・将門の乱ののち関東の各地では平氏の一門が勢力をふるっていましたが、そのなかでも特に強大なのが平忠常で上総。

・下総を地盤にしていましたが、遂に朝廷に反抗1028(長元1)年上総の国府をを襲撃、安房にも攻め入り国守を殺害しました。
 朝廷は源頼信を派遣、これを平定しましたが源氏はこの事件をきっかけに関東での勢力をのばします。

・足高(たしだか)
・・・・・各役職ごとに役高を定め役職に就任する者がその家禄(支給される米高)に達しない場合、在職中に限ってその差額を支給することにしました。
 これにより低い家禄の者も才能と努力次第で上級の職につくことが出来るようになり伊勢(三重県)の山田奉行だった大岡忠相が越前守となって江戸の町奉行として活躍したのも吉宗に登用されたためです。。

・治安維持法
・・・・・すでに1900年に結社、労働運動などを抑える目的で治安警察法がつくられていましたが大正時代後半の社会運動の高まりを見て無政府主義者や共産主義活動を取り締まるために政党内閣が1925(大正14)年3月に成立させた法律です。「国体(国のしくみ)を変革し、又は私有財産制度を否認することを目的とする結社及びそれへの加入は10年以下の懲役に処する…」というものでしたがやがて罰則は死刑又は無期懲役以下に引き上げられ、法の適用も拡大解釈されて様々な反政府活動を弾圧するために用いられました。

・治安警察法
・・・・・1900(明治33)年の山形有朋内閣の時に作られた法律で、この頃から高まってきた労働運動や社会運動をおさえる狙いを持っていました。その主な内容は次の通りです。
 1、軍人・教員・学生・女性・未成年者などが政治上の結社に加入することを禁止する1、集会や結社は届け出制にする1、警官が集会を解散させることが出来る1、内務大臣は結社を禁止(解散)することが出来る。

・地租改正条例
・・・・・1873(明治6)年に出された地租改正条例は①課税の標準を収穫高から地価に変える。②税率は豊作・凶作に関わらず地価の3%とする。
 ③納税義務者は土地の所有者(地主と自作農)とする。
 ④地租は米でなくお金で納める。
 が主な点でしたが土地の価格も政府に都合の良いように決め、それに基づく地租は収穫の40%程度にしました。厳重な調査の結果隠田や入会地もなくなり農民の不満は高まりました。。

・秩禄処分
・・・・・明治時代になってからもしばらくの間は政府が武士たちに俸禄を払っていましたが、この費用が毎年の支出の三分の一にも及んだため政府はこれの整理を行いました。米から貨幣への支給などを経て1876(明治9)年には条例により、5~14ヶ年分の俸禄をまとめた金額の公債証書(金禄公債)を武士に交付し5~7%の利子を毎年支払い元金は5年据え置き後、6年目から毎年抽選で30年間に亘り支払うことにしました。ほとんどの武士はこの利子だけでは生活できず公債を手離したり、必死に職を探さなければなりませんでした。

・長州閥
・・・・・長州藩は幕末に討幕運動を進め、明治維新に際しては薩摩藩とともに中央政界の主導権を握り1871(明治4)年の廃藩置県による藩解体後も同藩出身者の木戸孝允、伊藤博文らを中心に長州閥をつくり長く政界や軍部を支配しました。
 長州閥は長州陸軍閥とも言われ総理大臣になった山形有朋、桂太郎、寺内正毅、田中義一らは陸軍大将だった人でこの長州出身者によって陸軍の実権は握られていました。。

・天津条約
・・・・・甲申の変後の朝鮮問題に関して、日清両国の間に1885(明治18)年天津で伊藤博文と李鴻章をそれぞれ全権大使として調印されました。
 その内容は次の3ヶ条から成っています。
 1、日清両国は朝鮮から軍隊を引き上げる。
 2、両国とも朝鮮に軍事教官を送らない。
 3、今後どちらかの国が朝鮮に軍隊を出す時には必ずそのことを相手国に連絡すること。。

・刀伊の入寇
・・・・・1019(寛仁3)年、沿海地方にいた女真族(ツングース族の一派で刀伊<とい>と呼ばれていました)が50隻の船で対馬。

・壱岐を襲いさらに筑前や肥前に侵入、朝廷の無力さと武士の実力を世に見せた事件です。

・東学党(とうがくとう)
・・・・・ここでの「東学」とは「西学」(キリスト教)に反対する意味でつけられた名で儒教・仏教・道教を混ぜ合わせたような「天道教」という19世紀初めに生まれた朝鮮の新興宗教のことで、農民の一揆と一つになりながら強烈な排外主義を掲げました。東学党の乱は甲午農民戦争ともいいます。。

・統帥権干犯問題
・・・・・統帥権とは軍隊の最高指揮権のことで大日本帝国憲法第十二条に「天皇は陸海軍を統帥ス」とあり、一般国務から独立して大元帥としての天皇の大権とされこの発動には陸海軍から参謀総長と軍令部総長が参与しました。
 ロンドンの海軍軍縮条約では海軍軍司令部の承認なしに調印したものとして天皇の統帥権をおかしたと非難されました。

・虎の門事件
・・・・・1923(大正12)年無政府主義者の難波大助は議会の開会式に臨む摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)を暗殺しようとして狙撃した事件。摂政宮は無事でしたが、この事件は日本の指導者層に対して大きな衝撃を与えました。な行。

・中先代の乱
・・・・・1335(建武2)年北條高時の遺児時行が信濃(長野県)で挙兵,鎌倉に攻め込みました。
 当時相模守として鎌倉の鎮めにあたっていた尊氏の弟足利直義は成良親王とともに逃れ,混乱の中で護良親王は殺されました。
 尊氏はこれを機会に自分で征東大将軍と名のり朝廷の許しを得ずに鎌倉へ向かい,途中で直義軍と合流し,相模川で時行の軍を破って鎌倉を取り返しました。
 足利氏から見て高時以前を先代、足利尊氏を後代として中間の時行を中先代としてこの戦いを「中先代の乱」といいますが,この事件は武家政治復活の機会を狙っていた足利尊氏に絶好のチャンスを与えました。

長屋王の変
・・・・・長屋王天武天皇の孫にあたり、藤原不比等死亡後左大臣となり藤原氏に対抗する勢力となりましたが、729(天平1)年謀反があると密告され、妻子とともに自殺しました。
 この事件の直後、不比等の娘光明子は聖武天皇の皇后になっており、この事件は藤原氏の陰謀と考えられています。
 奈良市の邸宅跡とみられる遺跡からは4万点以上にも及ぶ木簡(長屋王邸宅出土木簡)をはじめ多彩な遺構、遺物が発見されています。

・生麦事件
・・・・・1862(文久2)年8月横浜の居留地から馬で遠乗りに出た4人のイギリス人が生麦村で薩摩藩の島津久光の行列に出会いましたが、馬を降りずにそのまま引き返そうとしたので、行列に対して無礼を働いたとして供の者が1人を切り殺し2人に傷を負わせました。
 イギリスの強い抗議で幕府は10万ポンドの賠償金を支払って謝りましたが、薩摩藩は高姿勢をとり続けたため翌年鹿児島がイギリスの軍艦に砲撃され薩英戦争が始まりました。。

・二、一ゼネスト
・・・・・1946(昭和21)年官公庁関係組合は賃上げなどの10項目の要求を吉田内閣に提出しましたが、吉田茂首相が労組指導者を「不逞の輩」と放言したことから政府、労組の対立は激化、約600万の労働者が翌年の2月1日を期してのゼネスト宣言を発しましたが、1月31日マッカーサー最高司令官の命令で中止されました。

・尼港事件(にこうじけん)
・・・・・1920(大正9)年2月アムール川河口のニコライエフスク(尼港)を占領していた日本軍は、約4000人のパルチザン(労働者、農民で組織された非正規軍)に包囲されて降伏、降伏協定を結びましたが3月日本軍は協定を破って奇襲、敗北し700人以上が殺され122人が捕虜となりました。同年5月捕虜救出に日本軍が来ることを知ったパルチザンは捕虜全員を殺害して撤退、日本政府は賠償を要求して一時北樺太を占領しました。

・二条河原落書
・・・・・1334(建武1)年8月二条河原に立てられたもので内容は「建武年間記」に収録されています。
 「このごろ都にはやるもの,夜討ち,強盗,謀綸旨(にせりんじ),召人,早馬,虚騒動(からさわぎ)
・・・・・」という文句で始まり,建武新政を風刺していますが当時の世相を知る好史料とされています。

・日英同盟
・・・・・1902年日英間にロシアの勢力が南下してくるのを食い止めたい日英両国の共通の利害の上に結ばれました。
 イギリスがどこの国とも特別な同盟関係を持たないという長い間の"名誉ある孤立"政策を捨てて日本と手を握ったもので、内容はイギリスの清国におけるまた日本の清国と朝鮮における夫々の利益を守るため互いに協力し助け合うこと、どちらか一方の国が二カ国以上と戦争を始めたらもう一方の国はそれに参戦する義務を負うというものでした。。

・日米交渉
・・・・・1941(昭和16)年4月から日本側野村吉三郎駐米大使と米側ハル公務長官によってワシントンで開始されました。
 アメリカ側ははじめ日本軍の中国全土からの撤退を求めましたが、満州国の存続を事実上認めるなどかなり妥協的な態度でした。
 しかし日本側は松岡洋右外務大臣がアメリカ案に強く反対し、さらに日本軍の南部仏印進駐などで交渉は長引きました。
 11月になるとハル国務長官から「ハル・ノート」と呼ばれる新しい提案がありましたが、これは日本軍の中国、仏印からの全面撤退、満州国の否認などの強硬なものでした。
 日本側は「ハル・ノート」をアメリカの最後通牒とみなし12月1日の御前会議で米・英両国との開戦を決定しました。

・日米修好通商条約
・・・・・14か条から成り(1)神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、江戸・大坂の開市(そこでの商売を認める)。
 (2)通商は幕府役人の立会い無しの自由貿易とする。
 (3)開港場には外国人が居留する居留地を設け、ごく一部以外は一般外国人の日本国内の旅行を禁じること。
 などのほかに(4)関税は日本が勝手に税率を決めることが出来ない(関税自主権がない)。
 (5)居留地に在住するアメリカ人の裁判権は日本にはなく、アメリカが裁判を行う(治外法権を認める)。
 との不平等条約でこれを是正するのには半世紀を超える歳月を必要としました。

・日朝修好条規
・・・・・1876(明治9)年に朝鮮との間に結ばれたこの条約の内容は次のようなものです。
 (1)朝鮮は自主の国である(清国との歴史的なつながりを否定して切り離す狙い)。
 (2)釜山・元山・仁川の三つの港を開いて自由貿易を行う。
 (3)日本だけが治外法権を持つ。
 (4)朝鮮には関税自主権がない。
 そして当分の間日本との輸出入の品物には関税をかけない。このようにして日本は朝鮮に進出する最初の足場を築きましたが、日本に続いてアメリカ・イギリス・ドイツ・イタリアなどの国々も同じような条約を朝鮮と結んで進出を図りました。

・日ソ共同宣言
・・・・・平和条約の調印とならなかったのは日本側から歯舞、色丹島のほかに国後島、択捉島を含めた北方四島返還を求めたのに対し、ソ連側は国後、択捉両島はソ連の領土として決着済みとして合意にいたらなかったためです。宣言の内容は1、日ソ間の戦争状態の終結と国交の回復2、日本の国連加盟をソ連が支持すること3、日本に対するソ連の賠償請求の放棄4、平和条約締結後に歯舞島、色丹島を返還するとの4点にまとめられます。

・日中共同声明
・・・・・1972(昭和47)年9月29日調印された日本と中華人民共和国との間の共同声明でその内容は1、日本は戦争責任を認め反省する態度を表明する2、「戦争状態の終結」という表現はとらず両国間の不正常な状態を終わらせるという表現をとる3、中華民国共和国を唯一の合法政府とする4、中国側は対日請求権を放棄するの4点です。
 この声明をもとに1978(昭和53)年日中平和友好条約の締結となりました。

・日本三代実録
・・・・・清和、陽成、光孝の三天皇時代30年の出来事を記した歴史書で50巻から成っており三代実録ともいいます。
 藤原時平、菅原道真、大蔵善行らによって編纂され901(延喜1)年に完成しました。
 日本書紀、続日本記、日本後記、続日本後記、日本文徳天皇実録(文徳実録)とあわせて六国史といいます。
 は行。

・幕藩体制
・・・・・1603年江戸幕府が開かれ、幕府は大名を従えましたが各藩の大名領内の領民の支配は藩の大名が直接行いました。
 幕府と大名の間は知行制度による主従関係で結ばれ、一方大名による領民の支配は兵農分離を基本とした厳しい身分制度で行われました。
 このような幕府と藩の両方による全国支配を幕藩体制といいます。

・旗本と御家人
・・・・・旗本と御家人は直参と言われ、将軍に直属する家臣です。
 旗本は御目見(おめみえ)といって登城して将軍に拝謁できる者で1万石以下の知行地を与えられました(1万石以上は大名)。
 御家人は御目見を許されず多くは俸禄米をもらいました。

・半済(はんぜい)
・・・・・戦いが激しく行われている地域で貴族や寺院の荘園の年貢を半分に限り足利方の武士に兵粮料(軍費)として与える、誰に与えるかは守護に任せるというものでしたが、戦いは各地に広がり長期化したので半永久的なものになり,武士の荘園侵略の手段となりました。

・菱垣回船と樽回船
・・・・・菱垣回船は積荷が落ちないように、桧の薄皮や竹を菱形に組んだ垣をつけていたのでその名がつきましたが大坂から綿・油などを江戸に運んでいました。
 樽回船は最初、伊丹や灘地方の酒樽を主な積荷としたので、そう呼ばれましたが菱垣回船が600万~1000万石積み以上の大船であるのに対して、樽回船は200石ほどの小型船で運賃も安く船足も早いので小早と呼ばれ次第に菱垣回船を圧倒するようになりました。

・広嗣の乱
・・・・・藤原不比等の四人の息子が天然痘で亡くなると、橘諸兄が政権を担当し僧玄坊や吉備真備を重用し、藤原宇合の子広嗣を左遷したため、740年広嗣は九州太宰府で反乱をおこしましたが失敗、九州の西の値嘉島で殺されます。
 広嗣は天皇家を助けてきた不比等の孫で、聖武天皇の親戚でもあり天皇も大きな衝撃を受けたといわれます。

・富豪浪人
・・・・・奈良時代以降生産力の高い関東地方にも多くの開拓民が入り込み一族が結集して田地の開発を進めました。その一部は国に税を納めず私営田の領主として富を貯えましたが、その中でも中央から下った旧官人や貴族出身者たちが富豪浪人と呼ばれています。。

・風土記(ふどき)
・・・・・713年朝廷が諸国に命じて各地の産物や各地に伝わる伝説、地名のおこりなどを記録し提出させたもの。
 全国に亘って作られましたが、完全な形で残っているのは出雲(島根県)のみで、他には常陸(茨城県)、播磨(兵庫県)、豊後(大分県)肥前(佐賀。

・長崎県)の一部が残っているだけです。

・保安条例
・・・・・1887(明治20)年12月第一次伊藤内閣(総理大臣伊藤博文、内務大臣山形有朋、外務大臣井上馨)は保安条例を公布するとともにその日のうちに施行しました。
 この条例は内乱を計画するとか治安を妨げるとかのおそれがあると思われる者には皇居から3里(約12キロ)の外へ出るように命じ、3年以内は再び入ることを禁じました。
 このとき中島信行、尾崎行雄、中江兆民ら50人が追放され、これを拒んだ片岡健吉は禁固の刑罰に処せられました。

・封建制度
・・・・・領主が従者に土地を与え土地を耕す農民が年貢を領主に差し出す仕組みをいいます。
 日本の封建制度は源頼朝が鎌倉に幕府を開き、御家人との間で土地を仲立ちとするご恩と奉公の関係を作ったのがはじまりです。
 この制度は南北朝時代以後守護領国の中で大名と武士の間で進み、豊臣秀吉の検地と刀狩による兵農分離による身分制度ができて江戸時代の幕藩体制の成立によって完成しました。

・放射性炭素による測定法
・・・・・動植物が生きている間に体の中にもっていた一定の放射性炭素が、死後規則的に減少していく原理を応用したもので何年前という数字が出てきます。
 したがって遺物が出た場合に同じ地層から出た木、貝、木炭などの放射性炭素を測定すると遺物の使はれた時期がわかります。。

・宝治合戦
・・・・・1247(宝治1)年執権北条時頼は鎌倉幕府創設以来の大御家人で幕府の重臣だった三浦氏の反北条の動きを警戒、三浦氏の声望を妬む安達景盛とともに三浦泰村ら三浦一族を鎌倉で全滅させました。
 これにより北条氏は得宗専制体制を確立します。

・ポーツマス講和条約
・・・・・ポーツマスで行われた講和会議により1905年9月条約の調印が行われました。1、ロシアは日本が韓国(大韓帝国の略称、朝鮮は1897年国名を大韓帝国と改めました)で政治・軍事・経済上の特権をもち今後韓国を保護、指導することを認める。
 1、旅順と大連の租借権を日本に譲る1、長春―旅順間の鉄道(のちの南満州鉄道)と付属の炭鉱などを日本に渡す1、北緯50度から南の樺太(サハリン)は日本の領土とする1、北洋の漁業権を日本に与えるなどが主な内容です。。

・北面の武士
・・・・・白河上皇の時、院(上皇の御所)の警備に武士が採用され、院の北側に詰所があったので北面の武士といわれました。
 院は次第に武士(平家)との結びつきを強め、それがもとで平氏の棟梁が中央へ進出することになります。

・ポツダム宣言
・・・・・1945(昭和20)年7月米・英・中三ヶ国首脳の名前で発せられ、ソ連は8月8日日本への宣戦布告と共に参加しました。
 その内容は日本の無条件降伏による軍国主義の除去、連合国による日本占領、領土制限、軍隊の武装解除、戦争犯罪人の処罰と民主主義の復活強化、基本的人権の確立、軍需産業の撤廃など以後の日本復興の基本的方針となりました。

・本百姓と水呑百姓
・・・・・田畑屋敷を持ち、年貢などの負担義務を負う農民を本百姓といい、これに対して土地を持たず、年貢などの負担もなく零細な農民を水呑百姓といいます。
 ま行。

・ミッドウエイ海戦
・・・・・日本海軍のミッドウエイ攻略作戦がアメリカ側の暗号解読により事前に察知され、待ち構えていたアメリカ海軍機動部隊の攻撃を受け、航空母艦4隻が撃沈され多数の艦載機を失うなど日本海軍は惨敗しこれをきっかけに太平洋における日本の制海権、航空権は失われました。日本海軍はこの戦いの敗戦をひたかくしにして勝利を報じ、国民は事実を知らされないまま戦局は急速に悪化します。

・武蔵七党
・・・・・一族の長の統制が強い同族の武士団を「党」と呼びますが、武蔵国には当時横山、猪俣、児玉、丹(たん。

・丹治)、西、私市(きさいち)、村山の七党があったとされます。
 但し私市の代わりに野与党、あるいは綴(つづき)党を入れる考えもあります。
 横山党は多摩郡横山(東京都八王子市)付近を拠点として武蔵七党の最大規模の武士団でした。

・モラトリアム(支払猶予)
・・・・・非常事態の際に政府が債務の支払いを一定期間猶予することで我国では1923(大正12)年の関東大震災の際と1927(昭和2)年の昭和金融恐慌の際の二度実施されました。昭和金融恐慌の際に実施されたものは、国内に住所や営業所を持つ人や営業所を持つ会社の金銭の支払いは3週間延期されました。(但し給料や国の支払い、一日百円以下の銀行預金の支払いは除外)や行。

・結城合戦
・・・・・1440(永享12)年下総(千葉県北部)豪族結城氏朝は永享の乱で持氏に味方して敗れますが、乱のあと上杉憲実が関東で実権を握り下総方面に進出してきたので,持氏の遺児春王丸。

・安王丸を結城城に迎えて挙兵しました。
 しかし1441年幕府の追討軍に敗れ氏朝親子は自殺します。

・由井正雪の乱
・・・・・1651(慶安4)年軍学者だった由井正雪は身辺に仕官の斡旋を望む浪人達を多く集め、丸橋忠弥らとともに幕府の転覆を狙って陰謀を計画しました。
 正雪は一行10人で駿府(静岡県)の久能山にかくされているという莫大な軍資金を奪って立てこもる計画でしたが密告により事前に発覚、正雪は自殺、忠弥は処刑されました。
 この事件をきっかけに幕府は大名統制をゆるめることになり武断政治から文治政治への転換となったもので慶安事件ともよばれます。

・四大公害訴訟
・・・・・1960年代におこした次の4つの公害病に関する訴訟のことです。(1)水俣病(熊本)はチッソ水俣工場排出の有機水銀中毒による被害(2)新潟水俣病は昭和電工が排出した有機水銀中毒による被害(3)イタイイタイ病(富山)は三井金属鉱業排出のカドミニウム中毒による被害(4)四日市ぜんそく(三重)は石油コンビナート排出の亜硫酸ガスによるぜんそくなどの被害。ら行。

・楽市・楽座
・・・・・楽というのは自由ということで商業の自由を意味し、これまで寺社や公家に保護されていた市や座と違い商人の自由な活動で城下町を活気づけようとするものでした。
 楽市・楽座は戦国時代にも行われていましたが、安土山下町の楽市十三ケ条には次のようなものが盛り込まれています。
 ①商売を行うこと自由、凡ゆる税を免除する②東山道(中山道)を往来する商人は必ず安土の町に宿泊すること③領内で借金破棄の徳政を行うことがあっても、この町は例外として貸金を保証する。
 ④他国からの新しい移住者も差別しない⑤取引上の不法・乱暴などを禁止する⑥国じゅうの馬の売買はここ以外で行ってはならない。

・リットン報告書
・・・・・報告書は英文で148ページにも及ぶもので1、柳条湖事件以後の日本軍の行動は自衛とは認められないとし、「満州国は満州在住の中国人の自発的な意志によって成立したものではない」と日本側の主張を否定2、満州に対する中国の主権を認めると同時に日本の権益も保障し、満州(東三省)に中国の主権下に自治政府を作り治安を守るために少数の憲兵隊をおいて、それ以外の軍隊は撤退するという解決案を提示しました。

・柳条湖事件
・・・・・1931(昭和6)年9月奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で満鉄の路線が小爆破されました。事件直後関東軍はこれを中国軍(張学良の軍隊)の仕業と発表しましたが、実際は武力行使の口実をつくるため板垣征四郎大佐・石原莞爾中佐らの関東軍参謀の一部がひそかに計画し、関東軍の現地部隊に実行させたものとされています。。

・令外の官
・・・・・令外(りょうげ)とは律令に定めていないという意味で平安時代になると世の中が変わり律令に定められた以外の官職が必要になってきたもので、例えば地方の国に派遣していた国司に不正が多いので地方政治を監督するために新しく勘解由使(かげゆし)という役人をおきました。
 関白、蔵人、検非違使なども令外の官です。

・連署
・・・・・執権を補佐して政務をおこなう職で副執権として幕府の出す命令書に署名することからこの名がつけられました。

・六波羅探題
・・・・・京都守護が滅亡後、1221(承久3)年京都の六波羅(現在の京都市東山区)に置かれ北。

・南に分かれ駐在しました。
 朝廷の監視と京都市中の警備を行い、西国の政務や裁判も総括しましたが、足利高氏によって滅ぼされました。

・盧溝橋事件
・・・・・1937(昭和12)年7月7日夜半、北京郊外の盧溝橋の付近で演習を行なっていた日本軍に何者かが発砲しました。日本軍は中国軍が発砲したものと見て、翌8日早朝近くの中国軍を攻撃して戦いが始まりました。
 発砲したのが何者かについては日本側の陰謀説、中国共産党の計画的行動説、中国の誤認発砲説など諸説がありますが現在まで真相は不明です。
 わ行。

・ワシントン会議
・・・・・海軍軍縮と極東・太平洋問題に関する国際会議で米、英、仏、伊、日本、中国、ベルギー、オランダ、ポルトガルの9ヶ国が参加して行われました。会議では海軍軍縮条約で主力艦の保有トン数は米、英各5、日本3、仏、伊は各1.67の割合とされ4ヶ国条約で太平洋上の各国領土に関する現状維持の尊重が定められ、中国に関しては9ヶ国条約が結ばれ日本がこれ以上中国に権益を広げることは出来なくなり、山東省の旧ドイツ権益はこの時の日中両国の話し合いで中国に返還されました。日本のシベリア出兵についても各国の批判が強く日本はシベリアから4年ぶりに撤兵することになりました。。

・倭の五王
・・・・・五人の王の名は讃、珍、済、興、武で記紀などから類推すると讃は仁徳天皇、珍は反正天皇、済は允恭天皇、興は安康天皇、武は雄略天皇とみられます。

・倭名類聚鈔
・・・・・平安時代に作られたわが国最初の体系的な漢和辞典で承平年間(931~938)醍醐天皇の皇女勤子内親王の命によって源順が編纂しました。
 古代の国語、文化などの研究に欠かせない文献と云われています。