明治時代1
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明治時代 | ||||
明治時代1 | ||||
1868 | 近代(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 明治維新(-日本-日本)-- | |||
1868 | 義達、藩兵を率いて大坂行在所に至り八幡の守衛に就く。京に上り、朝鮮通交につき建言。朝鮮国に政権が天皇に帰したことを通告。 明治元(-日本-日本、対馬)-- | |||
1868 | 1.1 慶喜出兵 1月1日 慶喜は討薩表を発し、1月2日から3日にかけて「慶喜公上京の御先供」という名目で事実上京都封鎖を目的とした出兵を開始。(-日本-日本)-- | |||
1868 | 1.3 王政復古宣言(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 1.3 鳥羽伏見の戦い。戊辰戦争が始る。(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
鳥羽・伏見の戦い(とばふしみのたたかい)幕府軍(新撰組:土方歳三など)、大坂城を出発し鳥羽・伏見から京都へ進撃したが新政府軍(西郷隆盛など)と衝突し敗走。戊辰戦争の緒戦となった。 | ||||
戊辰戦争(ぼしんせんそう)王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った一連の日本の内戦。京都周辺(鳥羽・伏見)からはじまり東日本全域で戦争となる。北海道の函館五稜郭で旧幕府の榎本武揚(えのもとたけあき)が降伏する事によって終結する。この一連の戦いを「戊辰戦争」という。鳥羽・伏見の戦い、上野戦争、北越戦争、会津戦争、箱館戦争 | ||||
1868 | 1.6 慶喜江戸へ退去1月6日 幕府軍艦開陽丸で慶喜は江戸に退却した。(-日本-日本)-- | |||
1868 | 1.19 大久保利通が大阪遷都を建議(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 1.20 薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主が版籍奉還を上奏(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 1.20 岡田啓介(生)(-日本-日本)-- | |||
1868 | 2.12 徳川慶喜が幕府追討軍に恭順の意を示し、江戸城を出て上野寛永寺に移り謹慎(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 3.6 甲州勝沼の戦い 明治政府(板垣退助など)と旧幕府(新撰組「甲陽鎮撫隊(こうしゅうちんぶたい)」)との戦い。明治政府の勝利。(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 3.13 江戸城開城交渉。3月 西郷隆盛と幕府の勝海舟との話し合いによって、江戸城無血開城。 フランス公使ロッシュは幕府への援助を申し入れるが慶喜が辞退。 イギリス公使パークスは官軍に圧力をかけた。3月 13,14日,(-日本-日本)-- | |||
1868 | 3.14 「五箇条の御誓文」(ごかじょうのごせいもん)宣布。明治新政府の基本方針を示す(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 3.15 五榜の掲示(ごぼうのけいじ)-民衆に対する禁止令(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 3.28 神仏判然令公布神仏分離独立(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 4. 。4. 宗義達(対馬藩主)朝鮮通交事務取扱となる。(-東アジア-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合- | |||
1868 | 4.4 薩藩官軍の先鋒となり江戸へ西郷・勝会談で江戸城接収(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
江戸城接収 江戸開城 (えどかいじょう)江戸幕府の本拠江戸城の明渡しをいう。鳥羽・伏見の戦い後,徳川慶喜は江戸へ敗走して官軍に恭順の意を表していたが,新政府は幕府を討伐して威信を高め,あわせて財政的基礎を確保するため,慶喜追討を決定した。東征大総督有栖川宮熾仁親王に率いられた官軍は,東海道を静岡まで進撃した。しかしイギリス公使 H.パークスは,内乱による日本市場の混乱をおそれ,新政府側に強い圧力をかけた。これを知った幕府陸軍奉行勝海舟 (義邦) は,幕臣山岡鉄舟 (鉄太郎) を静岡に派遣して大総督府参謀西郷隆盛に会見させ,慶喜の恭順を表明,助命を説かせた。このあと,江戸城総攻撃を目前にして,慶応4 (1868) 年3月 13,14日,薩摩藩邸で勝と西郷の会見となり,慶喜の助命と江戸無血開城を交換条件として協定が成立し,官軍の総攻撃は中止となった。この措置にいたった裏面には,新政府副総裁岩倉具視が,薩長の傀儡 (かいらい) となるのを嫌って,寛大な処遇を望んでいたことも作用している。4月4日,東海道先鋒総督橋本実梁,副総督柳原前光が勅使として江戸城に入城し,4月 11日,正式に明渡しが行われた。この間,勝は城の内外で幕臣たちを鎮撫して事なきを得た。しかし,あくまで抗戦を主張する幕臣たちは,一部は上野にたてこもった彰義隊のように,また一部は海軍総裁榎本武揚に率いられて北走した幕府艦隊のように,官軍と戦火を交えるにいたった。 (→戊辰戦争 ) | ||||
1868 | 4.11 江戸城無血開城(えどじょうむけつかいじょう) 西郷隆盛(明治政府)と勝海舟(旧幕府)の会談により江戸城を明治政府へ明け渡し、大総督府が接収した。(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 4.19 宇都宮城の戦い 明治政府(香川敬三など)と旧幕府(土方歳三など)の戦い。明治政府の勝利。(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 4.21 政体書の公布 三職制に変わる太政官制。太政官七官制(太政官と七官(議政官・行政官・神祇官・会計官・軍務官・外国官・刑法官)による三権分立)。(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 4.25 新選組の近藤勇が処刑される(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 5. 太政官札(だじょうかんさつ)の発行-期間限定の紙幣(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 5.3 奥羽越列藩同盟-陸奥・出羽・越後の諸藩同盟(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 5.~7. 北越戦争 明治政府(山縣有朋など)と旧幕府(河井継之助など)の戦い。明治政府の勝利。~07(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 5.~7. 河井継之助 激動の幕末、戊辰戦争において、越後・長岡藩を率いて新政府軍に徹底抗戦したことで知られる継之助ですが、本来目指していたのは『武装中立』でした。 諸藩が新政府・旧幕府に分かれて争うなか、他力に頼らず、冒されず、己の力で生きていくことを志向した継之助。しかし、その先進的な考えは理解されず、開戦へと突き進み、戦いのなかで落命していくこととなります。諸藩が新政府・旧幕府に分かれて争うなか、他力に頼らず、冒されず、己の力で生きていくことを志向した継之助。しかし、その先進的な考えは理解されず、開戦へと突き進み、戦いのなかで落命していくこととなります。~ 継之助の略歴 ~■1827年1月1日 長岡城下に生まれる■1842年 元服■1852年 江戸遊歴■1858~1860年 江戸・西国遊歴■1868年1月 戊辰戦争勃発■1868年4月 長岡藩・軍事総督に就任■1868年5月 小千谷会談決裂、新政府軍と開戦。■1868年8月16日 会津塩沢で没する。42歳。つぎに河井継之助の簡単な人となりについて説明しましょう。河井継之助は文政10年(1827)1月1日、長岡藩の中級藩士・河井代右衛門の長男として長岡城下に生まれました。名を秋義、蒼龍窟と号しました。河井家は代々能史の家柄で、継之助の父・代右衛門も勘定頭を務めていました。その一方で、僧の良寛とも親交のある教養人でもありました。継之助は、年長者の理不尽な脅しにも屈しない意思の強い子供であったと伝えられています。江戸、そして西国遊歴にでかけています24歳で梛野嘉兵衛の妹すが(16歳)を妻に迎えますが、向学心やみがたく、26歳で単身江戸を目指します。蘭学や西洋砲術で知られた佐久間象山らの門を叩きました。時あたかも黒船が来航し、事態の容易でないことを肌で感じた継之助は、幕府老中であった藩主・牧野忠雅(ただまさ)に藩政改革の必要性を建言。これが採用されて初の役職、評定方随役を任命されるものの、間もなく上役の迫害を受けて退任しました。安政4年(1857)、父から家督を引き継ぎ、藩では外様吟味役に起用されます。安政5年(1858)に再び継之助は峠を越えます。今回は江戸だけに留まらず西へ西へ。目指したのは備中松山藩(岡山県高梁市)の陽明学者、山田方谷(ほうこく)でした。継之助は藩の危機的財政を救った改革者の門で、半年間学び、万延元年(1860)、34歳で帰郷しました。改革の具体的な例を説明しましょうまず藩の組織・財政改革はもちろんのこと、慣習化した賄賂や賭博を禁止し、遊郭も廃止させました。また、武士の不当な取り立てを罰して農民を救い、商業発展のため、河税や株の特権を解消。藩士の禄高是正や教育改革・兵制改革も当時、画期的なものでありました。継之助は、封建社会の古びた秩序を一掃し、人心の刷新を図りました。夢に描いたのは新鋭な国家構想ー他力に頼らず、冒されず、己の力で生きていく「独立国家」の実現。そのために軍備にも極めて力を入れました。クリミア戦争で活躍した「ミニエー銃」のほか、手動機関銃「ガトリング砲」を横浜の貿易商ファーブル・ブラントから購入しています。また中島村(現在の中島)には兵学所を整備してフランス式兵制を推進し、こうして長岡藩は雄藩も目を見張る、近代武装を成し遂げました。(-日本-日本)-- | |||
北越戦争 北越戊辰戦争について説明しましょう。戊辰戦争のうち越後における戦いを北越戊辰戦争と称します。まず「なぜ戦いが起こったか」をお話しします。慶応3年(1867年)10月に幕府より朝廷に大政が奉還(統治権を返上)されると、12月には「王政復古の大号令」が発せられ、新政権を掌握した討幕派らにより旧幕府派の排除が開始されました。翌年(慶応4年)1月3日には「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍と新政府軍が激突。戊辰戦争開戦に至ります。その後、新政府軍は江戸城を無血開城させるなど戦況を有利に進め、反抗勢力を制圧するため各地に軍を送ります。越後には3月15日に高田(現在の上越市)に北陸道鎮撫使らが到着し、越後11藩に対して軍資金と兵士の供出を求めました。継之助はこれに対し沈黙を守る一方、幕府派である奥羽越列藩同盟からの加盟要請を断っています。そして小千谷会談がもたれ決裂します。当時諸藩のほとんどが新政府軍に恭順する中、4月19日に北陸道先鋒総督府参謀・山縣有朋、黒田清隆が高田に入ります。中立の立場をとる長岡藩に向け進軍が開始され、4月27日には新政府軍は小千谷を占領しました。この前日継之助は軍事総督に任命されます。継之助は和睦への最後の望みをかけて、5月2日の小千谷会談に臨みますが、会談場所である慈眼寺(じげんじ)で継之助と会談したのは、当時24歳の岩村精一郎。継之助は非戦思想を訴え、和睦に向けた幕府軍説得のための猶予を願い出るものの、岩村はこれを認めず会談は決裂、やむなく継之助は徹底抗戦を宣言、長岡藩は奥羽越列藩同盟に正式加盟することとなります。こうして長岡は北越戊辰戦争最大の激戦地への運命を辿っていきます。さて長岡城をめぐる攻防戦に焦点をあててみます新政府軍約2万人の軍勢に同盟軍は8千人の兵力で立ち向かわなければなりませんでした。このため継之助は長岡の南の要衝、榎峠を守っている新政府軍と、5月10日に開います。長岡藩をはじめとする同盟軍は榎峠の奪取に成功し、続く朝日山の確保にも成功します。その一方で柏崎方面から進軍してきた、新政府軍は5月19日、濁流渦巻く信濃川を渡り守備が手薄な城下に迫ります。継之助も本陣から急行し、自らガトリンク砲を操り奮戦するものの長岡城は落城、撤退を余儀なくされます。またまた継之助は長岡城奪還作戦を決行。陽動と奇襲作戦で7月25日未明に長岡城の奪還に成功します。総指揮官である継之助が左足に銃撃を受けて重傷を負ってしまいます。総指揮官の負傷と交戦の疲労、同盟軍の新発田藩の寝返りで戦況は悪化の一途をたどり、奪還よりわずか4日後の7月29日、長岡城は再び陥落しました。城を失った継之助は会津領へと撤退していきます。しかし撤退途中に継之助の容態は悪化、継之助は自らの火葬の指示を出した後、1868年(慶応4年)8月16日午後8時頃、会津領塩沢村(現在の福島県只見町)にて41年間の波乱の生涯に幕を下ろしました。継之助亡き後、同盟諸藩は次々と脱落、流浪の身となっていた長岡藩は1868年(明治元年)9月23日降伏をします。3ヶ月に及ぶ激戦の結果、長岡の街は焼き尽くされました。戦死者は340名におよび、100名近い領民も犠牲となりました。長岡藩は「賊軍」と蔑まれ、辛い歴史を歩み始めます。禄高も7万4千石余から2万4千石に減封され、人々は困窮するものの「質撲剛健」を誇る長岡人は残る力を振り絞り長岡を復興させ、力強く歩んでいきます。略年表1867年(慶応3年) 10月 大政奉還1868年(慶応4年) 1月3日 鳥羽・伏見の戦い。戊辰戦争勃発3月3日 江戸藩邸を整理。ガトリング砲、小銃等を購入4月26日 継之助、軍事総督に就任5月2日 新政府軍と交渉。しかし小千谷会談は30分で決裂5月3日 長岡藩、開戦決定。奥羽列藩同盟に加盟5月10日 榎峠の合戦。新政府軍との戦闘を開始5月19日 長岡城落城7月25日 長岡城奪還。継之助、銃撃され重傷7月29日 長岡城再び落城。長岡軍は会津領へと敗走8月16日 継之助、会津塩沢で没する。42歳1868年(明治元年) 9月23日 長岡藩主・牧野忠訓、米沢で降伏1869年(明治2年) 5月18日 榎本武揚・降伏。戊辰戦争終結 | ||||
1868 | 5.~9. 会津戦争5月 仙台藩を中心に東北25藩、越後6藩が「奥羽越列藩同盟」を結成し官軍と戦闘。8月 奥羽越列藩同盟崩壊。9月 白河口総督として西鄕頼母。松平容保、会津城に籠城するも落城。白虎隊自決。 (-日本-日本)-- | |||
1868 | 5.15 上野戦争。官軍への不満を持った旧幕府勢力が上野寛永寺で官軍(大村益次郎など)と戦闘。彰義隊全滅。明治政府の勝利。(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 5.15 五稜郭の戦い。榎本武揚らが最後の拠点・五稜郭を開城し維新政府軍に降伏。戊辰戦争が終結し維新政府が全国を統一(-日本-日本)-- | |||
箱館戦争(はこだてせんそ)戊辰(ぼしん)戦争の最後の戦い。五稜郭(ごりょうかく)の戦いとも。明治元年(1868)から翌年にかけて、榎本武揚を中心とする旧幕臣が箱館五稜郭に拠よって新政府樹立を図り、官軍に抵抗したが、翌年、榎本らは降服。鳥羽伏見の戦いから続いた幕府側の抵抗はすべて終り、戊辰戦争はここに終結した。1868年(明治1)9月19日夜半、榎本武揚(えのもとたけあき)の率いる旧幕府艦隊は品川沖を脱し、途中仙台に寄って、東北戦争に敗れた大鳥圭介(おおとりけいすけ)らの旧幕府脱走軍などを収容し、総勢約3000人となり、10月20日蝦夷地(えぞち)(北海道)鷲ノ木(わしのき)に上陸した。榎本軍は箱館府知事清水谷公考(しみずだにきんなる)らの新政府軍を破り、同月25日箱館を占拠。さらに11月5日松前(まつまえ)福山城を陥落させ、15日に江差(えさし)を制圧、蝦夷地を占領した。12月中旬、士官の入札(投票)で、総裁榎本武揚、副総裁松平太郎らの首脳人事を決定し、五稜郭を本拠地として、いわゆる榎本政権を樹立した。この政権の性格について、人事の公選や、11月4日に箱館に入港した英・仏の軍艦艦長と榎本が取り交わした文書に「デ・ファクトの政権」=「事実上の政権」の文章があることなどによって「共和国」とするものがある。しかし、榎本らが12月初めに新政府に送った嘆願書などでは、蝦夷地を旧徳川家臣団に与えることを要望しており、天皇政府を認めたうえで、蝦夷地に徳川藩的な組織をつくろうと考えていたと解すべきであろう。しかし、新政府はこの嘆願を拒否、1869年3月征討軍を派遣した。先に開陽丸(かいようまる)を失っていた榎本艦隊は、政府軍旗艦甲鉄艦(原名、ストンウォール・ジャクソン号)を奪取すべく、3月25日宮古(みやこ)湾に停泊中の政府艦隊を奇襲したが失敗。4月9日政府軍は江差北方の乙部(おとべ)に上陸、17日松前を攻略、5月11日箱館を占領した。総勢8000余人といわれる。13日政府軍参謀黒田清隆(きよたか)は五稜郭にこもる榎本らに降服を勧告、榎本は拒否したが、オランダ留学中に得た『万国海律全書』を兵火に失わせるのは惜しいとして、政府軍に贈った逸話は有名。結局18日には開城し、新政府による国内統一が完成した。新政府は蝦夷地に箱館府を設置し,松前藩などがこの警備に当たった。 | ||||
1868 | 5.19 明治政府が最初の政府紙幣・太政官札を発行(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 6.25 明治政府が身分制度を再編。大名・公卿を「華族」、武士を「士」と「卒」、農・工・商を「平民」とする(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 6.29 東京・九段坂上に戊辰戦争以来の戦死者を祀る招魂社を造営。後に靖国神社に改称(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 7. 江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書-江戸を東京と改称する(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 7.17 詔勅により江戸を東亰[とうけい]に改称(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 8.15 明治政府が蝦夷地を「北海道」と改称する布告(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 8.27 京都御所で明治天皇の即位の大礼を挙行(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 9. 一世一元の詔-天皇一代につき元号は一つ 仙台藩・会津藩・庄内藩が明治政府に降伏する(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 9. 一世一元の制9月 戊辰戦争の後、明治政府樹立。(-日本-日本)-- | |||
1868 | 江戸時代→明治時代-[1868.9.8~1912年] | |||
1868 | 9.8 明治(めいじ)に改元(1868.9.8-1912)明治から一世一元となった。(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
明治時代(めいじじだい)字義どおりには,1868年(慶応4・明治1)9月8日の明治改元から,1912年7月30日明治天皇の死にともない皇太子嘉仁(よしひと)親王が践祚し,大正と改元したときまでを指す。これは,明治天皇の践祚が1867年1月9日であるため,天皇の在位期間と一致せず,一世一元制の採用以前の時期を包摂できない。歴史学上での時期区分からすれば,1853年(嘉永6)ペリーの来航に始まる幕末・維新期の激動の時代から,明治天皇の没後に新しい時代の台頭を象徴する事件として生起した大正政変のころまでを指すのが適切であろう。一八六八年から一九一二年に至る、「明治」の元号による四五年間の称。明治新政府の成立以来、開国進取・富国強兵が国是とされ、版籍奉還、廃藩置県などが行なわれて、封建制度にかわる中央集権体制が確立した。また、明治一八年に内閣制度、同二二年には大日本帝国憲法が制定され、欧米諸国の制度・文物の移入による諸改革が急速に行なわれた。※将来之日本(1886)〈徳富蘇峰〉一「今日の老輩にして封建時代の破壊より、明治時代の今日に至る迄を経過したるの人は」1868年の明治新政府の発足から,1912年明治天皇の崩御に至るまでの44年間をさすこの時代の日本国民は,国内政治・国際政治において大きな変革を経験した。世界の各国の進歩からとり残されていた鎖国下の封建日本は,この半世紀間に欧米諸国にならって立憲制を採用し,資本主義体制を確立して近代国家へと発展した。日清・日露両戦争に勝ち,アジア大陸の一角,朝鮮に植民地を得て列強の一つとして強大な軍備をもち,他国を脅かす存在となった。しかし明治末年には政治・経済上の行きづまりをみせ,国際的にはアメリカと対立するに至った。 | ||||
1868 | 9.20 明治天皇が京都を出発し東京へ向かう(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 10. 五稜郭の戦い(ごりょうかくのたたかい)函館戦争10月 榎本武揚が蝦夷上陸し、函館御陵閣を占領。独立を宣言。(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 10.13 明治天皇が江戸城に入る。名称を東京城と改めて皇居とする(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 12.8 江戸幕府が沼津兵学校を創立(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 12.15 旧幕府軍の榎本武揚らが箱館(函館)で蝦夷地の領有を宣言し「蝦夷共和国」を発足(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1868 | 12.23 明治政府が富くじ興行禁止を布告(江戸時代→明治時代-日本-日本)-- | |||
1869 | 版籍奉還 官制改革(明治時代-日本-日本)-- | |||
1869 | 藩内寺院を全廃(明治時代-日本-日本)-- | |||
1869 | 東京~横浜間で電信(公衆電報)が開通する(明治時代-日本-日本)-- | |||
1869 | 戊辰戦争終結4月、五稜郭落城。戊辰戦争終結。(-日本-日本)-- | |||
1869 | 版籍奉還7月 大名支配の土地(版)・人民(籍)を朝廷に返させる。(-日本-日本)-- | |||
1869 | 四民平等四民平等とし、華族・士族・平民の制を設ける。(-日本-日本)-- | |||
1869 | 北海道開拓使7月 蝦夷地を北海道と改称。開拓使の設置。初代は黒田清隆。(-日本-日本)-- | |||
1869 | 義達、6月19日版籍奉還する。府中を厳原と改称。義達(重正)、厳原藩知事に任ぜられる。 明治2(-日本-日本、対馬)-対馬- | |||
1869 | 1. 樋口鉄四郎(対馬藩家老)を朝鮮へ派遣、「皇」「勅」書契問題おこる。(-東アジア-日本、対馬、朝鮮、大韓帝国)-日韓併合- | |||
1869 | 1. 薩長土肥四藩主、版籍奉還奏請。(-日本-日本)-- | |||
1869 | 3. 東京奠都(とうきょうてんと)-首都を東京とする。(明治時代-日本-日本)-- | |||
1869 | 3. 二官八省制度。(-日本-日本)-- | |||
1869 | 3.28 明治天皇が江戸城入場。事実上の遷都(明治時代-日本-日本)-- | |||
1869 | 5.13 政府軍は榎本らに降服を勧告、榎本は拒否。(明治時代-日本-日本)-- | |||
1869 | 5.18 榎本武揚降伏し開城。戊辰戦争終結。(-日本-日本)-- | |||
1869 | 6. 版籍奉還-諸大名の領地(版図)と領民(戸籍)を天皇に返上 四民平等-身分が華族・士族・(卒)・平民となる(明治時代-日本-日本)-- | |||
1869 | 6. 版籍奉還に勅許降る。(-日本-日本)-- | |||
1869 | 7. 二官六省制 二官(神祇官・太政官)、六省(民部省・大蔵省・兵部省・刑部省・宮内省・外務省)となる。(明治時代-日本-日本)-- | |||
1869 | 8. 蝦夷を北海道と改称する(明治時代-日本-日本)-- | |||
1870 | 1. 佐田白茅を朝鮮へ派遣。10. 吉岡弘毅を朝鮮へ派遣。(-東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |||
1870 | 平民に苗字を許す(明治時代-日本-日本)-- | |||
1870 | 1. 大教宣布-天皇を神格化して神道を国教にする詔(明治時代-日本-日本)-- | |||
1870 | 2. 2.. 樺太開拓使-樺太開拓の官庁。(明治時代-日本-日本)-- | |||
1870 | 4.1 4.1. 濱口雄幸(生)(-日本-日本)-- | |||
1870 | 10. 工部省(こうぶしょう)の設置(明治時代-日本-日本)-- | |||
1870 | 12. 12.. 新律綱領(しんりつこうりょう)-刑法典(明治時代-日本-日本)-- | |||
1871 | 6. アタリカ艦隊江華島攻撃(辛未洋擾)。9. 日清修好条規・通商章程調印。11. 岩倉具視らを欧米へ派遣。(-東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |||
1871 | 鹿児島県設置(明治時代-日本-日本)-- | |||
1871 | 宮古島島民遭難事件-宮古島の島民が遭難して台湾の住民に殺害(明治時代-日本-日本)-- | |||
1871 | 戸籍法改正 廃藩置県 金本位制(-日本-日本)-- | |||
1871 | 廃藩置県7月 3府72県に新しく府知事・県令をおいた。(-日本-日本)-- | |||
1871 | 日清修好条規初の対等条約である日清修好条規が結ばれる。(-日本-日本)-- | |||
1871 | 琉球の帰属琉球を鹿児島県に帰属させる。(-日本-日本)-- | |||
1871 | 岩倉遣外使節団政府の使節として岩倉遣外使節団が欧米各国へ出発する。(-日本-日本)-- | |||
1871 | 郵便制度前島密が郵便制度を開始。(-日本-日本)-- | |||
1871 | 新貨条例金本位制・円銭厘の十進法を定めた新貨条例が制定される。(-日本-日本)-- | |||
1871 | 重正、知事の職を免ぜられる。廃藩置県。8月7日厳原藩を厳原県と改称。9月4日に伊万里県に合併。 明治4(-日本-日本、対馬)-対馬- | |||
1871 | 4. 4.. 壬申戸籍(じんしんこせき)の制定 前島密(まえじまひそか)により郵便制度が開始(明治時代-日本-日本)-- | |||
1871 | 4.19 4.19. 武士のみに許されていた乗馬が一般でも許可される。(明治時代-日本-日本)-- | |||
1871 | 5. 5.. 新貨条例-貨幣単位を円・銭・厘の十進法にする(以前は四進法)(明治時代-日本-日本)-- | |||
1871 | 7. 7.. 廃藩置県-藩を廃止して県・府(初期は3府302県)とする 日清修好条規-日本と清との対等条約 太政官三院八省制 太政官と三院(正院・左院・右院)、八省(司法省・兵部省・大蔵省・外務省・宮内省・神祗省・工部省・文部省)からなる。(明治時代-日本-日本)-- | |||
1871 | 7.14 7.14. 廃藩置県(明治時代-日本-日本)-- | |||
1871 | 8. 8.. 解放令-えた・ひにんの廃止 散髪脱刀令-散髪と脱刀の自由(明治時代-日本-日本)-- | |||
1871 | 9. 9.. 田畑勝手作許可(でんぱたかってさくきょか)-田畑の自由作付(明治時代-日本-日本)-- | |||
1871 | 10. 岩倉具視を中心とする遣欧使節団派遣。(-日本-日本)-- | |||
1871 | 11. 11.. 岩倉使節団-岩倉具視・大久保利通・木戸孝允らによる欧米使節団(明治時代-日本-日本)-- | |||
1872 | 9. 花房義質を朝鮮へ派遣、朝鮮政府退去を要求。草梁倭館を接収、日本公館とする。(-東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |||
1872 | 天皇鹿児島臨幸 士族の知行制廃止(明治時代-日本-日本)-- | |||
1872 | 東京・横浜間に鉄道開通 徴兵制度公布(-日本-日本)-- | |||
1872 | 義務教育の開始学制を定め、全国に小学校をつくる。(-日本-日本)-- | |||
1872 | 田畑永代売買解禁田畑永代売買の禁を解禁し、田畑の売買を自由化する(-日本-日本)-- | |||
1872 | 鉄道開通新橋・横浜間に鉄道が開通する。(-日本-日本)-- | |||
1872 | 富岡製糸場官営の富岡製糸場ができる。(-日本-日本)-- | |||
1872 | 「学問ノススメ」福沢諭吉が「学問ノススメ」を著す。(-日本-日本)-- | |||
1872 | 太陽暦採用。(-日本-日本)-- | |||
1872 | 2. 2.. 陸軍省・海軍省の設置 田畑永代売買禁止令の解除 福沢諭吉の「学問のすすめ」ができる(明治時代-日本-日本)-- | |||
1872 | 5. 5.. 東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ-靖国神社の前進)の本殿完成(明治時代-日本-日本)-- | |||
1872 | 5.29 5月29日佐賀県と称する。 明治5(-日本-日本、対馬)-対馬- | |||
1872 | 8. 8.. 学制-学校制度による義務教育(明治時代-日本-日本)-- | |||
1872 | 8.11 8.11. 幣原喜重郎(生)(-日本-日本)-- | |||
1872 | 8.17 長崎県出張所設置(厳原支庁)(-日本-日本、対馬)-対馬- | |||
1872 | 8.17 長崎県へ移管される。韓語学所を久田道光清寺に開設。 明治5(-日本-日本、対馬)-対馬- | |||
1872 | 9. 9.. 新橋~横浜間で鉄道(蒸気機関車)が開業する 沖縄を琉球藩とする(明治時代-日本-日本)-- | |||
1872 | 10. 芸娼妓解放令(げいしょうぎかいほうれい)-遊女の人身売買禁止 群馬県富岡市に富岡製糸場(官営模範工場)が開業する 横浜でガス燈が点灯する(明治時代-日本-日本)-- | |||
1872 | 10. 太陽暦採用。(-日本-日本)-- | |||
1872 | 11. 11.. 徴兵告諭-徴兵制度の告知 太陽暦を導入する(旧暦明治5年12月3日を明治6年1月1日とする) 国立銀行条例-国立銀行に関する条例(明治時代-日本-日本)-- | |||
1873 | 8. 閣議、参議西郷隆盛の朝鮮派遣決定。10. 西郷の朝鮮派遣を無期延期、征韓派5参議下野(明治6年10月政変)。 12. 閔氏政権成立。(-東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |||
1873 | 征韓論西郷ら参議を辞任(明治時代-日本-日本)-- | |||
1873 | 第五国立銀行鹿児島支店開業(明治時代-日本-日本)-- | |||
1873 | 都城・美々津を廃止、鹿児島県に大隈国を併合(明治時代-日本-日本)-- | |||
1873 | 征韓論 西郷ら参議を辞任(-日本-日本)-- | |||
1873 | 徴兵令士族、平民の身分に関わりなく、満20歳に達した男子を兵役に服させる軍政が義務づけられた。(-日本-日本)-- | |||
1873 | 地租改正地価の3%の税を土地の所有者が現金で納めるようにした。(-日本-日本)-- | |||
1873 | 征韓論(明治6の政変)征韓論をめぐって西郷隆盛と大久保利通が対立。西郷下野。(-日本-日本)-- | |||
1873 | 1. 徴兵令-国民皆兵の理念。その後、一部で徴兵令反対一揆が発生 神武天皇即位紀元-皇紀(こうき)の制定(明治時代-日本-日本)-- | |||
1873 | 1. 徴兵制公布。(-日本-日本)-- | |||
1873 | 2. 2.. キリスト教が解禁される(明治時代-日本-日本)-- | |||
1873 | 6. 6.. 改定律例-主に新律綱領(刑法典)の修正(明治時代-日本-日本)-- | |||
1873 | 6. 6.. 岩倉ら遣欧使節団帰朝。(-日本-日本)-- | |||
1873 | 7. 7.. 地租改正 土地所有者は地租(土地の租税=地価の3%に当たる現金)を納入する。現在の固定資産税に継承される。(明治時代-日本-日本)-- | |||
1873 | 10. 明治六年政変 岩倉使節団(岩倉具視・大久保利通・木戸孝允・伊藤博文など)が欧米にいる際に留守政府(西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・大隈重信・江藤新平など)では征韓論が高まっていた。岩倉具視らが帰国後、西郷隆盛の案に反対する。明治天皇は岩倉具視の案を採用した。その結果、西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・江藤新平などは辞職する。(明治時代-日本-日本)-- | |||
1873 | 10. 征韓論争。(-日本-日本)-- | |||
1873 | 10. 征韓派敗れ、西郷隆盛、板垣退助、江藤新平、副島種臣など連袂辞職(明治六年の政変)。(-日本-日本)-- | |||
1873 | 11. 11.. 内務省を設置する(初代内務卿は大久保利通)(明治時代-日本-日本)-- | |||
1873 | 11. 11.. 内務省設立(内務卿・大久保利通)。(-日本-日本)-- | |||
1873 | 12.3 12.3. 旧暦から新暦に変換(明治時代-日本-日本)-- | |||
1874 | 日本による台湾出兵(-東アジア-台湾、日本)-- | |||
1874 | 1874(明治7)年の日本の台湾出兵は、近代日本の最初の海外出兵であった。当時日本では、西郷隆盛らが盛んに征韓論という朝鮮半島への出兵を主張していたが、大久保利通ら政府首脳は内治優先を主張して鋭く対立し、ついに西郷らの下野、そして1877(明治10)年の西南戦争という内戦に向かっていく。その一方で行われた台湾出兵は、琉球帰属問題という朝鮮問題と並ぶもう一つの領土問題の懸案だった。こちらに対しては内治派の大久保らも出兵を推進しており、明治政府の基本姿勢は翌75年の江華島事件とともに、対外膨張路線であったことが明らかである。そして台湾出兵は、琉球帰属問題の解決後の琉球処分(琉球併合)、さらにその後の台湾領有に向けての第一歩となった。(-東アジア-台湾、日本)-- | |||
1874 | 5.~10. 日本軍、台湾出兵。9. 日本公館長森山茂と東莱府使との閧に交渉開始合意。(-東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |||
1874 | 佐賀の乱(明治時代-日本-日本)-- | |||
1874 | 日本が台湾に出兵(明治時代-日本-日本)-- | |||
1874 | 台湾征討に鹿児島徴募兵多数出兵 私学校設立(-日本-日本)-- | |||
1874 | 民撰議院設立建白書板垣退助が民選議院設立建白書を政府に提出。(-日本-日本)-- | |||
1874 | 佐賀の乱江藤新平を中心にした士族の反乱。(-日本-日本)-- | |||
1874 | 台湾出兵征台の役。西郷従道(隆盛の弟)ら、沖縄の漂流民が台湾で殺されたことを口実に台湾に出兵する(-日本-日本)-- | |||
1874 | 屯田兵制度北海道において屯田兵制度が定められる。(-日本-日本)-- | |||
1874 | 1. 板垣退助らが愛国公党を設立。自由民権運動が開始する 民撰議院設立建白書-板垣退助・後藤象二郎らが国会設立を要望 警視庁が設立する(明治時代-日本-日本)-- | |||
1874 | 1. 民選議員設立の建白書提出。(-日本-日本)-- | |||
1874 | 2. 2.. 佐賀の乱-江藤新平らによる反乱(首領・江藤新平)(明治時代-日本-日本)-- | |||
1874 | 2. 2.. 佐賀の乱(首領・江藤新平)(-日本-日本)-- | |||
1874 | 4. 4.. 板垣退助らが立志社を設立する(明治時代-日本-日本)-- | |||
1874 | 4.4 4.4. 日本、台湾出兵(-日本-日本)-- | |||
1874 | 5. 5.. 台湾出兵-宮古島島民遭難事件などの影響で出兵。日本の勝利(明治時代-日本-日本)-- | |||
1874 | 5.22 5.22. 日本軍、台湾に上陸(-日本-日本)-- | |||
1874 | 10. 屯田兵-北海道の開拓(明治時代-日本-日本)-- | |||
1874 | 10.31 10.31. 日本の台湾出兵につき、清は日本に50万両支払い、日本軍は台湾から撤退(-日本-日本)-- | |||
1875 | 2. 森山茂理事官、釜山着任、朝鮮政府と意見対立(7月 金継運との会見拒否、9. 帰国)。(-東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |||
1875 | 樺太・千島交換条約(明治時代-日本-日本)-- | |||
1875 | 旧藩札の処分完了(明治時代-日本-日本)-- | |||
1875 | 日本とロシアが樺太千島交換条約を締結(-日本-日本)-- | |||
1875 | 2. 2.. 大阪会議-大久保利通・板垣退助・木戸孝允らの政府方針の会議 平民苗字必称義務令-平民の苗字の義務化 板垣退助が愛国社を設立する(明治時代-日本-日本)-- | |||
1875 | 4. 4.. 漸次立憲政体樹立の詔 元老院・大審院・地方官会議を設置。漸次、政治を立憲政体にする。(明治時代-日本-日本)-- | |||
1875 | 4. 4.. 元老院、大審院設置。立憲政体樹立の詔渙発。(-日本-日本)-- | |||
1875 | 5. 5.. 樺太・千島交換条約-日本とロシア帝国との領土交換(明治時代-日本-日本、ロシア)-- | |||
1875 | 5. 5.. ロシアとの間に千島樺太交換条約。(-日本-日本、ロシア)-- | |||
1875 | 6. 6.. 讒謗律(ざんぼうりつ)・新聞紙条例-言論弾圧を目的とした条例(明治時代-日本-日本)-- | |||
1875 | 9.20 1875江華島事件(日本が朝鮮との国交通商を要求し武力示威した事件)(-東アジア-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)--李氏朝鮮時代 | |||
1875 | 9.20 1875年(明治8年)日本軍と朝鮮軍との間で江華島事件(こうかとうじけん)がおきます。これは、日本軍が朝鮮付近の海を測量したのに対して朝鮮軍との間に衝突が起きたのですね。日本に媚びる。(-東アジア-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)--李氏朝鮮時代 | |||
1875 | 9.20 江華島事件(日本が朝鮮との国交通商を要求し武力示威した事件)(-東アジア-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)--李氏朝鮮時代 | |||
1875 | 9.20 江華島事件。雲揚号が江華島へ侵攻(-東アジア-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)--李氏朝鮮時代 | |||
1875 | 9.20 江華島事件鎖国中の朝鮮と江華島事件が起き、朝鮮砲台占拠。(-東アジア-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)--李氏朝鮮時代 | |||
1875 | 9.20 9.20. 江華島事件-日本と李氏朝鮮との戦い。日本の勝利(明治時代-東アジア-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)-- | |||
1875 | 9.20 9.20. 「雲揚」、江華島・永宗島攻撃(江華島事件)。10. 参議木戸孝允、朝鮮政策につき意見書提出。12. 参議黒田清隆を朝鮮派遣全権大使に任命。(-東アジア-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)-日韓併合- | |||
1875 | 9.20 9.20. 江華島事件(こうかとうじけん)1875年9月 20日,朝鮮半島の西沿岸で水路測量の名目で示威活動中の日本艦『雲揚』の端艇がカンファ (江華) 島付近でチョウォチン (草芝鎮) 砲台から砲撃され応戦した事件。別名『雲揚』号事件。これを好機として,日本は強硬策をとり,列国の支持を得て,黒田清隆,井上馨を両全権として朝鮮に派遣し,武力的威嚇のもとに交渉を行い,76年2月 27日,日鮮修好条規 (→江華条約 ) を調印させた。(-東アジア-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)-- | |||
1875 | 11.24 11.24. 阿部信行(生)(-日本-日本)-- | |||
1876 | 1. 森有礼公使、李鴻章と会談。清国政府、朝鮮国王に開国を勧告。2. 黒田全権ら江華島に上陸(11日より交渉開始)。日朝修好条規調印(27日)。5. 第1回修信使(金騎秀)来日。8日朝修好条規付録、日本国人民貿易規則(通商章程)調印。(-東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |||
1876 | 日本と江華島条約(日朝修好条規)締結(-東アジア-朝鮮、日本、李氏朝鮮)--李氏朝鮮時代 | |||
1876 | 1876年江華島条約江華島事件の翌年には、日本は朝鮮との間に不平等条約「日朝修好条規」を結ぶことに成功しました。この日朝修好条規により朝鮮は日本に対して釜山、元山、仁川を開港し、開港地には日本の居留地を設定しなければならず、領事裁判権を認め、関税自主権も失うことになります。これによって、日本人が朝鮮に渡って、米の流通を牛耳ってしまうんですね。そして、大量の穀物などが日本に輸入され、朝鮮では穀物の価格がどんどん高くなってしまう事態となります。1876年には、当時の開国派政権との間で、いわゆる江華島条約(日朝修好条規)を締結する。これに引き続いて、アメリカ、フランス、ロシアなどと、相次いで通商条約を結ぶことになる。(-東アジア-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)--李氏朝鮮時代 | |||
1876 | 王朝内部の抗争は、絶えることなく続くが、一方で、徐々に迫ってくる諸外国に対しては、とうとう強硬な鎖国政策をとることとなる。だが、これが、後年、朝廷混乱に拍車をかけることになる。しかし、やがて、1875年、日本軍は、開国を求めて、江華島に侵入し、1876年には、当時の開国派政権との間で、いわゆる江華島条約(日朝修好条規)を締結する。これに引き続いて、アメリカ、フランス、ロシアなどと、相次いで通商条約を結ぶことになる。(-東アジア-朝鮮:李氏朝鮮、日本、アメリカ、フランス、ロシア)--李氏朝鮮時代 | |||
1876 | 大久保内務卿、大山県令に県政改革を迫り、県令応ぜず(明治時代-日本-日本)-- | |||
1876 | 日朝修好条規の締結(朝鮮の開国)(明治時代-日本-日本)-- | |||
1876 | 廃刀令(明治時代-日本-日本)-- | |||
1876 | 国立銀行条例の改正(明治時代-日本-日本)-- | |||
1876 | 朝鮮国の開港に関する江華島条約締結(-日本-日本、対馬)-対馬- | |||
1876 | 2. 2.. 朝鮮国との間に日朝修好条規。(-日本-日本)-- | |||
1876 | 2. 2.. 日朝修好条規-日本と李氏朝鮮との条約(明治時代-日本-日本、朝鮮)-- | |||
1876 | 2. 2.. 朝鮮国との間に日朝修好条規。(-日本-日本、朝鮮)-- | |||
1876 | 2.23 2.23. 林銑十郎(生)(-日本-日本)-- | |||
1876 | 3.28 3.28. 廃刀令公布。士族に強い不満が募る。(明治時代-日本-日本)-- | |||
1876 | 6. 6.. 秩禄処分(ちつろくしょぶん)-華士族への秩禄支給の廃止(明治時代-日本-日本)-- | |||
1876 | 8. 8.. 金禄公債証書発行条例-以前の秩禄受給者に金禄公債を発行する(明治時代-日本-日本)-- | |||
1876 | 9. 9.. 元老院に国憲起草(憲法の草稿)の勅命が下る(明治時代-日本-日本)-- | |||
1876 | 10. 神風連の乱・萩の乱・秋月の乱-武士の特権が失われ士族が反乱、相次いで起こる。(明治時代-日本-日本)-- | |||
1876 | 12. 12.. 伊勢暴動-地租改正の反対一揆(明治時代-日本-日本)-- | |||
1877 | 9. 花房義質代理公使を開港交渉のため朝鮮へ派遣、成功せず。(-東アジア-朝鮮、大韓帝国、日本)-日韓併合- | |||
1877 | 城山陥落、西郷ら自刃(明治時代-日本-日本)-- | |||
1877 | 西南戦争(2月→9月)和宮死去(明治時代-日本-日本)-- | |||
1877 | 西南戦争-西郷隆盛を筆頭にした士族の反乱。政府の勝利(明治時代-日本-日本)-- | |||
1877 | 明治時代1→明治時代2(-日本-日本)-- | |||
1877 | 2. 2.. 西南戦争(前参議・西郷隆盛、薩摩で蜂起)。(-日本-日本)-- | |||
1877 | 4. 4.. 東京大学が設立する(明治時代-日本-日本)-- | |||
1877 | 5. 5.. 木戸孝允病死。(-日本-日本)-- | |||
1877 | 6. 6.. 片岡健吉が立志社建白(国会設立・立憲政体など)を提出するが却下(明治時代-日本-日本)-- | |||
1877 | 6. 6.. 立志社建白。(-日本-日本)-- | |||
1877 | 8. 8.. 第一回内国勧業博覧会が開催する(明治時代-日本-日本)-- | |||
1877 | 9. 9.. 薩軍敗退、西郷自殺。西南戦争終結。最後の士族武装蜂起となる。(-日本-日本)-- |