明治維新

明治維新(めいじいしん)

日本史における政治的革命。徳川将軍家が没落し,国の支配権は明治帝のもと天皇親政に戻り,明治時代として知られる政治的,経済的,社会的大変革の時代が始まった。この革命は日本に近代化と西洋化をもたらした。江戸幕府に歴史的敵意をもつ諸藩の若い武士を主体とする維新の指導者は,深刻化する国内問題と外国による侵略の脅威をバネにして活動した。「富国強兵」というスローガンを採用することで,彼らは西洋列強と肩を並べられる国民国家をつくろうとした。慶応4 (1868) 年の五箇条の御誓文に述べられているように,東京に移転した新政府の第一目標は幕藩体制の解体であった。これは明治4 (1871) 年,各藩が公式に廃止され,県制度に置き換わったことでおおむね達成された。すべての領主的特権も廃止された。同じ年に国軍が創設され,1873年の徴兵令によって一層の強化がはかられた。新政府はまた,金融と税制の一本化をはかる諸政策を実施し,1873年の地租改正により,主要収入源が確保された。
維新指導者が天皇の名のもとに進めた革命的な変化は,1870年代半ばに反対論の高まりに直面した。新政府を相手にした各地の反乱には不平士族が参加しており,その最大のものはかつての維新の英雄,西郷隆盛が率いた反乱 (西南戦争 ) であった。これらの武装蜂起は大きな困難を伴いつつも,新たに創設された軍隊の手で鎮圧された。新政権に不信をいだき,その農業政策に不満をもつ貧農たちも反乱に参加,こうした運動は 1880年代に頂点を迎える。同じ時期,自由な西洋思想の導入によって勢いづいた自由民権運動は,立憲政府の創設と国会を通じたより広範な政治参加を要求した。こうした圧力に対応して,1881年,政府は 1890年までに憲法を起草することを公約した。 1885年に内閣制度が整い,1886年には憲法起草作業が開始された。最終的に 1889年,天皇から国民に下しおかれる形で憲法が公式に発布された。これをもとに,二院制の議会が設けられ,参政権に制限はあったものの,選挙によって議員が選ばれた。翌 1890年,第1回帝国議会が開かれた。
明治時代には政治的変化と並行して,経済的,社会的変化も進行した。経済は依然として農業に依存していたが,工業化が政府の第一目標であり,政府は戦略的産業や交通,通信分野の発展を指導した。日本初の鉄道は明治5 (1872) 年に建設され,1890年までに線路の総延長は 2250kmに達した。すべての主要都市が 1880年までに電信で結ばれた。民間企業も政府の財政支援によって奨励を受けるとともに,これを支援するため 1882年にはヨーロッパの銀行制度を模した金融機関も創設された。こうした近代化への努力には西洋の科学技術が必要であり,「文明開化」の旗印のもと,西洋文化は知的流行から衣服や建築にいたるまで,盛んにもてはやされた。しかし,無分別な西洋化は 1880年代にいくぶん抑制され,伝統的な日本的価値観を新たに称揚する動きが現れた。たとえば,近代的教育制度を発展させる場合,西洋の理論と実践の影響を受けながらも,武士の忠誠心や社会的調和といった伝統的価値観が強調された。同じ傾向は芸術や文化にもみられ,当初は西洋スタイルが模倣されたが,その後西洋的趣味と日本的趣味のより選択的な混交が実現された。
20世紀の初めまでに,明治維新のさまざまな目標はおおむね達成され,日本は近代工業国になる道を着実に歩んでいた。治外法権を通じて外国列強に司法面と経済面の特権を許していた不平等条約は 1894年に改定され,さらに 1902年の日英同盟締結と,二つの戦争の勝利 (1895年の日清戦争と 1905年の日露戦争 ) により,日本は西側世界から敬意をもって見られるようになり,史上初めて国際舞台に主要な世界的勢力として台頭した。 1912年の明治天皇の崩御は,こうした時代の終わりを画するものであった。

徳川幕府と各地の藩による政治体制の崩壊から、天皇を中心とする中央集権国家を明治新政府が建設するに至る政治・社会変革の過程。その始まりと終わりには諸説ある。1867年の大政奉還や翌年の王政復古の大号令、1868年から翌年にかけての戊辰(ぼしん)戦争、1871年の廃藩置県などを経て、国内の政治的統一が完成した。西洋列強の植民地政策に対抗するため、明治維新で強力な中央集権国家をつくる必要があったという見方がある一方、軍国主義への道を開いたという指摘もある。

徳川幕藩体制崩壊から明治新政府による中央集権的統一国家成立と資本主義化の出発点となった一連の政治的・社会的変革。始期・終期には諸説あるが、ペリー来航による開国から大政奉還・王政復古の大号令、戊辰(ぼしん)戦争、廃藩置県などを経て西南戦争までをいうことが多い。御一新。

幕藩体制を崩壊させて天皇制統一国家を形成し,封建社会から資本主義社会への移行の出発点となった社会的・政治的変革。広義には1830年代天保期から,明治憲法体制成立の1889年―1890年までをとる。その他始期を1853年ペリー来航,終期を1871年廃藩置県,1873年地租改正,1877年西南戦争とするなどの諸説がある。 天保期以後,国内では百姓一揆(いっき)や打毀(うちこわし)が激発,対外的には1858年日米修好通商条約の締結を頂点に攘夷(じょうい)論,開国論で世論が分裂,また将軍継嗣問題もからんで国論が沸騰した。同年の安政の大獄は,幕府独裁体制再建を意図したものであったが,1860年の桜田門外の変により挫折。公武合体政策も,1862年の坂下門外の変などにはばまれた。1862年―1863年ころに至り,開港の影響で物価が高騰,攘夷運動が激化し,外人殺傷事件が続発,馬関戦争,薩英戦争も起こった。文久3年8月18日の政変,1864年禁門の変を経て,幕府は1864年―1865年第1次・第2次長州征伐を行い幕権回復を図ったが,諸藩の同意を得られず失敗した。この間,長州藩では天保・安政改革を経て登用された開明的人材が藩政の実権を握り,薩摩藩でも積極的に英国と接近,新国家建設の意図の下に1866年薩長同盟が結成され,討幕運動は進展した。 1867年土佐前藩主山内容堂は大政奉還を建白,それをいれた徳川慶喜は政権返上に踏み切ったが,幕府権力の徹底的失墜を意図する討幕派は武力追討を強行,1868年戊辰戦争を経て反政府勢力を制圧した。この間新政府は王政復古を諸外国に通告,五ヵ条の誓文で基本綱領を掲げ,政体書によって政治制度を確立,政府基盤を全国的に構築した。1869年版籍奉還により行政的中央統一を推進,1871年廃藩置県の断行により藩体制を解体,実質的に中央集権国家を成立させ,以後〈富国強兵〉〈殖産興業〉をスローガンに近代化政策を強行した。 明治維新の評価については,これを絶対主義的改革とする講座派とブルジョア革命とする労農派の見解の対立が第2次大戦前からあり,現在も論争が続けられている。
→関連項目鹿児島藩|豪商|高知藩|佐賀藩|昭和維新|女工|天皇天皇制|銅座|遠山茂樹|日本

 1867年に行われた徳川慶喜[とくがわよしのぶ]の将軍職の返上(大政奉還[たいせいほうかん])から朝廷に政権がもどってきたことの宣言(王政復古の大号令[おうせいふっこのだいごうれい])、1868年の明治政府[めいじせいふ]の成立までの流れを言います。

19世紀後半,国内矛盾と世界資本主義の圧力とが結びつくなかで,幕藩体制が崩壊し,近代天皇制国家が創出され,日本資本主義形成の起点となった政治的,経済的,社会的,文化的な一大変革を総称していう。〈明治〉という表現は,《易経》の〈聖人南面して天下を聴き,明に嚮(むか)いて治む〉(原漢文,以下同)からとったとされている。この元号は1868年9月7日の夜,天皇睦仁(むつひと)が宮中の賢所で,儒者の選定したいくつかの元号候補からくじで〈明治〉を選び,翌8日の一世一元の詔で睦仁治世の元号と決まった。

一九世紀後半、江戸幕藩体制を崩壊させ、中央集権統一国家の建設と日本資本主義形成の起点となった政治的・社会的変革の過程。始期あるいは終期をめぐって諸説があるが、狭義には、1866年の薩長連合に始まり、67年の大政奉還・王政復古宣言、68年の戊辰ぼしん戦争を経て明治政府の成立に至る政権交代とそれに起因する諸政治改革をいう。

幕藩制を廃し、中央集権統一国家と資本主義化との出発点を築いた政治的・社会的変革。「明治維新」という歴史学の概念ができる起源は、当時の人が用いた「御一新(ごいっしん)」ということばにある。お上の命令によって世の中が新しくなるという意味である。[遠山茂樹]

明治維新の科学的研究が進む契機となったのは、1920年代末から30年代前半にかけて、コミンテルン(共産主義インターナショナル)が出した日本の革命戦略方針(一九二七年テーゼおよび一九三二年テーゼ)の理解をめぐって、マルクス主義学者の間に行われた論争であった。これは日本資本主義論争といわれ、論争点の一つが、明治維新歴史的性格についてであった。山田盛太郎(もりたろう)、平野義太郎(よしたろう)、服部之総(はっとりしそう)、羽仁(はに)五郎ら(講座派とよばれた)は、明治維新はブルジョア革命ではなく、その結果として樹立された天皇制権力は、独占資本主義の段階でも、絶対主義である本質を変えてはいないと主張し、その論証を『日本資本主義発達史講座』で行った。これに対し大内兵衛(ひょうえ)、向坂逸郎(さきさかいつろう)、土屋喬雄(たかお)ら(労農派とよばれた)は、明治維新は不徹底であるとはいえ、ブルジョア革命であり、天皇制権力はなし崩しにブルジョア権力に移行したと論じた。戦後の学界でも、この論争点は受け継がれ深められているが、研究の焦点は戦前と異なっている。絶対主義の形成といっても、西ヨーロッパのような15、16世紀の古典的なそれではなく、産業資本主義段階末期の世界資本主義に強く規制された19世紀なかばのそれが、明治維新の問題である。したがって、絶対主義=封建国家か、しからずんばブルジョア権力=資本主義国家かといった形式的な問題のたて方では解明できないと考えられ、両者の構造的関連が実証的に追究されている。
 歴史学の画期としての明治維新が、いつからいつまでの政治過程をさすかは、明治維新の本質をどう意義づけるかとかかわり、次の諸説がある。
〔1〕始期について
(イ)天保(てんぽう)期(1830~43)、とくに大塩平八郎(へいはちろう)の乱(1837)、あるいは幕府の天保の改革の失敗(1843)に置く考え。この考えは、明治維新を実現させた国内的条件、すなわち階級闘争の激化、幕府の施政の決定的な失敗、幕府に反抗する政治運動の出現を重視するという立場に基づいている。
(ロ)ペリー来航(1853)または安政(あんせい)通商条約の締結(1858)に置く考え。明治維新を生起させた原因のうちで、国際的条件を重視する見解、また日本が資本主義の世界市場の一環に組み込まれたという世界史的観点にたっての見解である。
〔2〕終期について
(イ)西南戦争(1877)に置く考え。封建復帰を目ざす士族の反政府運動がこれをもって終わり、これ以降は、統一国家建設と資本主義化の路線をめぐる明治政府と自由民権運動との対抗が政治史の基本をなす新しい段階だとみる考え方である。
(ロ)自由民権運動の激化形態であり貧農が主体である秩父(ちちぶ)事件(1884)に置く考え方。封建社会の基本的階級対立である封建領主対封建小農民の関係が、資本主義社会の基本的階級対立である寄生地主・資本家対小作人・賃労働者の関係へ転換する出発点をこの事件は示すとする見解に基づく考えである。
(ハ)大日本帝国憲法の発布(1889)に置く考え方。天皇制国家が機構のうえで整備、確立されたのは憲法発布によってであり、同時にこの時期、経済のうえでは原始的蓄積が進み、寄生地主制と産業資本主義の成立の土台がほぼできあがったことを重視する見解である。今日学界では、終期について(イ)と(ハ)の考え方が有力であるが、終期をどう考えるかによって、明治維新の性格のとらえ方は違ってくる。[遠山茂樹]

すでに天保年間には、幕藩制の解体傾向は顕著に現れた。農民は封建領主の年貢の生産だけに専心する存在ではなくなり、商品生産者、商品販売者の性格を増し、各地に農村工業、それも問屋制家内工業あるいはマニュファクチュア(工場制手工業)が生まれ、ブルジョア的地主、小ブルジョア的富農、半プロレタリア的貧農という新しい階層が農民身分のなかから形成され始めた。年貢の輸送・販売を中心に三都(江戸、大坂、京都)や各藩の城下町の特権的大商人が独占的に支配していた従来の商業機構は、農民の商品生産に依存する新興中小商人の勢力の台頭によって崩されつつあった。幕府・諸藩とも財政窮迫に悩み、その打開策としてとった貨幣経済の農村侵入の阻止、年貢の増徴、専売制の拡大が、農民・商人の反抗を招いて失敗に帰したのも、この時期である。百姓一揆(いっき)は激発し、しかも領主に対する反抗だけでなく、村役人・地主に対する闘争も頻発し、村落秩序の根底から封建支配を揺るがした。加うるに都市では、物価騰貴に悩む下層民の蜂起(ほうき)である「打毀(うちこわし)」が起こり、一時封建支配が麻痺(まひ)するという情況も現れた。
 こうした封建制崩壊の諸条件を政治抗争にまで結集せしめたのは、1853年(嘉永6)のペリー来航を契機とする対外問題の切迫であった。欧米列強が武力の威嚇をもってわが国に強要したものは、鎖国制度を撤廃し、資本主義の世界市場の一環に組み込むことであった。しかも彼らの圧力のもとで結んだ安政通商条約は、欧米諸国と清朝(しんちょう)中国との間の条約を雛型(ひながた)とする不平等条約であり、開国に反対する封建支配者との間に武力衝突も起こった。幕末に日本は欧米強国により植民地化される危険をもったといえる。
 この植民地化の危機の進行を押さえることのできた第一の条件は、封建支配者が鎖国復帰と攘夷(じょうい)の実行の不可能を比較的早く悟ったことである。すなわち、通商条約締結をめぐって、幕府と雄藩、上層藩士と下層藩士の対立が激化し、攘夷を旗印とする幕閣批判の政治勢力が力をもったが、貿易は比較的順調に伸び、国内経済は当初若干の混乱はあったものの、商品経済発展の力をいっそう強める結果となり、大勢としては、農民・商人が武士の攘夷運動を支持することとならなかった。そのうえ幕府・諸藩の財政窮乏のため軍備充実は進まず、また1863年(文久3)の薩英(さつえい)戦争、翌年の四国連合艦隊下関(しものせき)砲撃事件という対外戦争の経験から、武士は彼我の武力の差を痛感するに至った。かくて幕府側にせよ、反幕派諸藩にせよ、指導者は、列国との接触を深め貿易に参加することによって、強兵と富国を実現しようとした。
 植民地化の危機が深まらなかった第二の条件は、列強側の事情にあった。在日外交団の指導的位置にあったイギリスは、アヘン戦争後の中国民衆の反英闘争、太平天国の乱、インドのセポイ(傭兵(ようへい))の乱の鎮圧に東アジアでの武力を割かざるをえず、日本に対する武力行使には慎重であった。しかもイギリス対ロシア、イギリス対フランスの列強間の対立の増大のため、一国が独占的に日本に利権を設定することは困難であった。列強、とくにイギリスは、貿易発展の障害となっている封建制度の廃止を望んでいたが、民衆の力による革命、あるいは列国の直接干渉による実現は、むしろ市場の混乱をもたらすことになるとしてこれを避け、封建支配者内部の開明派を育成し、彼らの手で「上からの漸進的改革」を行わせることが望ましいと考えるようになった。
 1866年(慶応2)、米価をはじめ物価の暴騰、貢租の加重に悩む民衆は、江戸・大坂とその周辺地帯を中心に各地で一揆・打毀に立ち上がり、民衆の反封建闘争は江戸時代を通じ最大の高揚を示した。時あたかも幕府の第2回長州征伐の真っ最中であった。幕府が諸藩の大軍を動員しながら、当初の戦闘の敗北にくじけて早々に休戦を令したのは、財政窮迫に苦しむ諸藩が戦争の負担を嫌い、また内乱が下民の蜂起と外国の干渉を招くのを恐れたからであった。こうして薩摩藩ら雄藩を中心に、従来の幕閣専制を改めて、天皇の下での諸藩連合政権という形態によって、封建権力の統一と強化を図る工作が進行し、将軍徳川慶喜(よしのぶ)の政権返上に続いて、1867年12月9日に王政復古の宮中クーデターが行われ、幕府は廃止され、天皇政権が樹立されたのである。[遠山茂樹]

王政復古の直後、薩摩藩・長州藩の挑発によって引き起こされた戊辰(ぼしん)戦争は、佐幕派勢力に打撃を与えただけでなく、天皇政府方を含めた藩全体の支配体制の解体を促進した。西ヨーロッパの絶対主義王権は、大規模かつ長期の内乱を通じて、強大な領主が他の領主を圧服して封建権力の統一を実現し、中央集権国家をつくりあげたものであるが、天皇は、古代以来の権威をもつとはいえ、実質の権力はなく、倒幕派雄藩によって「玉(ぎょく)」として新しく担ぎ出されたものであったから、改めて諸藩の藩主・藩士層や豪商・豪農層の支持を取り付けるために、幕藩制に対する革新的な姿勢をとった。江戸城総攻撃開始を目前に出された五か条の誓文はその表れであった。1869年(明治2)正月、薩・長・土・肥4藩主が王土王民思想を強調し、土地と人民を形式上天皇に返すという建白をすると、他の藩主もこれに倣い、版籍奉還(はんせきほうかん)が実現した。ついで1871年7月、詔勅の発布という形で廃藩置県を行い、さらに引き続いて華族(藩主と公卿(くぎょう))と士族の封禄の整理を重ねたすえ、76年の金禄公債の支給によって、封禄制度を全廃した。藩制度と封禄制度の廃止―封建支配者の特権の主要なものの解消―が、戊辰戦争と、74~77年の西南一部地域の士族反乱という、封建支配者間の比較的小規模の内乱を経ただけで、しかも民衆の革命的蜂起なしに実現をみたのは、ヨーロッパの歴史と比較して顕著な特色であった。すでに藩体制は、財政的にも軍事的にも破産情況にあり、それを救済できる中央権力の確立が全封建支配者の要望であった。そして領主制の解体にあたっては、藩の借金の大部分は政府に肩代りされ、華士族には金禄公債支給によって多額の補償費が支払われ、その結果は、民衆に重い租税負担を負わせることとなった。公債の利子で自活できる層は、華族と旧上層藩士に限られていたが、中下層士族には、官吏・軍人・教員に転身する機会が独占的に開かれており、農工商に従事する者への士族授産には、政府から特権的保護が与えられていた。もとより彼らのなかには没落し、不平を抱く者も多かったが、統一国家の建設、中央政府の強化、欧米文化の摂取による強兵富国の実現という政府の方針に反対することはできなかった。幕末以来の欧米列強の圧力と民族独立の危機とを痛感していたからである。
 廃藩置県後、政府は文明開化の改革政策を積極的に展開し、国民各層の多数を政府支持に引き付けようとした。1872年、学制を発布し、身分にかかわらずすべての国民の義務教育制を定め、翌年には、国民皆兵を看板とする徴兵令を出して、武士軍隊を廃止し、さらに地租改正条例を定めて、農民に土地所有権を認め、これまでの現物年貢を金納地租に改めた。これらの大改革の性格をどのように評価するかは、明治維新がブルジョア革命であるかどうかの理解と深くかかわることである。評価のうえでの問題点の第一は、これらの改革が、天皇の絶対的権威を国民に浸透させる施策および政府の中枢を占める藩閥勢力が内部対立を重ねながらしだいに統一強化してゆく過程と相表裏していることである。第二は、諸改革は、欧米資本主義国家の制度を模範として制定され、法令の内容、制度のたてまえはブルジョア的性格のものであったが、それと実際の立案意図、実施においてもつ現実の機能の歴史的性格とは、いちおう区別して考える必要があることである。すなわち、小学校の設立・維持の費用がもっぱら地域住民の負担と授業料によってまかなわれたため、権力の厳しい強制にかかわらず、国民皆学の実はあがらなかった。四民平等をたてまえとする徴兵令も、実際には広範な免役規定をもち、兵役を負担するのは貧しい民衆の二、三男に限られていた。また地租改正は、現実には法令の規定するとおりの地価の算定方法がとられず、従来の年貢総額を確保するという前提にたっての権力の強制による押し付けの決定であった。したがって、改革はいずれも民衆の激しい反対を受けた。これら改革の法令がたてまえとするブルジョア的内容が現実に成果として現れるのは、すなわち、小学校就学率が学齢児童の50%を超え、徴兵制の免役規定が廃止されて国民皆兵の実をもち、地租改正の結果が寄生地主制と資本主義経済に安定的に結び付くのは、1890~1900年代であった。この時期は、自由民権運動の発展とその挫折(ざせつ)を経過して、1889年大日本帝国憲法が発布され、藩閥専制が改められ立憲制が導入された反面、統帥権(軍隊の指揮権)をはじめとする天皇の絶大な大権が規定され、天皇を頭とする官僚機構が整備され、軍国主義が強化された。そして1894~95年の日清(にっしん)戦争に勝利することで、植民地台湾を領有するという日本帝国主義が樹立する時期であった。
 終期を1877年とするか89年とするか、いずれの見解をとるにせよ、明治維新とは、封建制から資本制への移行過程における政治的・社会的変革であり、その結果は、強力な天皇制官僚支配の確立と、軍国主義および寄生地主制と深く結び付いた日本資本主義の形成とをもたらしたということができよう。[遠山茂樹]
『原口清著『日本近代国家の形成』(1966・岩波書店) ▽芝原拓自著『日本の歴史23 開国』(1975・小学館) ▽遠山茂樹著『明治維新と現代』(岩波新書)』

一九世紀後半の日本で、江戸幕藩体制が崩壊し、代わって近代統一国家とこれを支える明治新政権が形成されていった一連の政治的社会的変革過程をいう。徳川将軍から朝廷への大政奉還、封建制から資本制への移行という激動期で、その始期と終期をどこにおくか意見が分かれる。広義には天保一二年(一八四一)の天保の改革から明治憲法成立の明治二二年(一八八九)まで、最も狭義には元治・慶応(一八六四‐六八)の討幕運動から明治四年(一八七一)の廃藩置県までをさす。また、明治一〇年の西南戦争を維新の終期とする見方も有力。
※官民調和論(1883)〈徳富蘇峰〉一「明治維新創業の政府は」

19世紀後半,幕藩体制がその内部矛盾と欧米資本主義の外圧によって崩壊し,日本資本主義と近代天皇制国家形成の起点となった政治的・経済的・社会的変革
明治維新の始期については,国内的条件を第一義として,1840年代の天保期をあてるものと,国際的条件を重視して,ペリー来航の時期をあてるものとがある。終期については,(1)'71年の廃藩置県から,'73年の地租改正に至る封建的領主制の崩壊,(2)'77年の西南戦争による封建的勢力の敗退,(3)'84年の秩父事件(資本主義的な階級的対立の出発点として),(4)'89年の大日本帝国憲法の成立から,翌年の帝国議会の開設に至る近代天皇制国家の成立まで,とする諸説があり,(1)(2)(4)が有力である。この変革は,農民や都市貧民の世直し一揆や外圧の危機の中で,下級武士(特に西南雄藩の)と豪農層が結びついて推進したものと考えられるが,これを絶対主義の成立とみるか,ブルジョア革命とみるかの論争がある。それは日本資本主義の構造や性格,第二次世界大戦までの日本近代史の意義を考える上でも大きな分岐点となっている。

…共和制,武家政治などによって支配の座を追われていた君主政体が,ふたたび旧体制を回復すること。通常,O.クロムウェルの共和政治崩壊後のイギリスにおけるスチュアート朝のチャールズ2世の即位,ナポレオン1世没落後のフランスにおけるブルボン朝のルイ18世の即位,および日本の明治維新,以上三つの歴史的事例をさすことが多い。英仏の場合,旧王政を支えていた貴族や僧侶らを中心とする〈王党派〉勢力の存在,また王朝が体現する伝統の権威の存続が,〈復古〉実現の条件となっていたが,旧王政(絶対主義王政,アンシャン・レジーム)を打倒した〈市民革命〉後の社会においては,ブルジョアジー等の新勢力の台頭,および合理主義的思考の発展に伴う伝統の権威の低下のゆえに,文字どおりの旧体制の〈復古〉は困難となる。…