本山親茂

本山親茂(もとやま ちかしげ) ????~????
○貞茂 将監
◇父:本山茂辰 子:本山次郎兵衛
 土佐七雄の一氏。父と共に、同じ七雄の長宗我部氏らと争うが、居城本山城を攻略され、降伏。長宗我部氏居城岡豊城に住む。


本山親茂 (?~?)
 本山茂辰の長男。将監。母は長宗我部国親の娘。永禄五年九月十六日、長宗我部家との朝倉合戦で奮戦。見事、長宗我部軍を撃退。長宗我部元親が神田城に籠もると、これを攻める。攻め倦ねて城攻めを断念。この時、十六歳と云う。続く十八日にも元親は朝倉城攻めのため、神田城から出陣。本山茂辰軍と鴨部ノ宮付近で交戦。合戦は三十余度に渡り、本山一族二十三人、郎党八十五人、軍勢二百三十五人が討死。長宗我部軍は五百十一人が討死した。数からすれば本山家の勝利だが、これ以上の朝倉城防衛は困難であり、家中も城の処遇を巡って分裂。結局、永禄六年一月十日に茂辰は朝倉城を焼き、二十八日には本山城へ撤退した。こうして長宗我部元親は弟親貞に吉良氏を嗣がせ、吉良峰城主とした。長宗我部家の土佐中部進出は成就したのだ。永禄七年、本山茂辰は本山城を捨て、瓜生野に撤退。長宗我部勢の追撃を受け、当初は競り合ったものの、次第に劣勢となる。やがて茂辰が病没。親茂は家督を継ぐも、元亀元年に降伏。元親も甥親茂を不憫に思うようになり、岡豊城下に住まわせた。弟は内記、又四郎。他に妹が二人いた。