楠正成

天皇家

姓の「楠」については「館の周囲を取り囲む木々に楠木が多かったため地域の住人が楠殿と呼ぶようになった」という言い伝えである。  

名前
楠正成(くすのきまさしげ)
幼名=多聞丸(たもんまる)      

楠正成肖像

楠正成首塚(河内長野市観心寺)

楠公誕生地

楠公産湯井戸

千早城跡模型

略歴 (13世紀)(14世紀)
1294-甲午-永仁02年以下不詳 河内国赤坂水分(千早赤阪村)で地元の土豪の跡取として生誕。
楠家は河内国金剛山麓の七郡を領していたとはいえ正式な身分を持った武士ではなかった。
1331-辛未-元徳03年(元弘01年)09月11日 元弘の乱で窮地に陥った後醍醐天皇の召しに応じて 挙兵
1331-辛未-元徳03年(元弘01年)10月21日 赤坂城に篭城していたが、城に火をかけ脱出。
1336-丙子-延元元年05月25日 わずか数百の手勢を率いて足利の大軍勢を迎え討つため兵庫(神戸の会下山)に出陣した。
数万人とも言われた足利軍の「大手・山の手」の主力とまともにぶつかった正成軍は、数百名足らずの軍勢で戦った。当然のことだが力及ばず弟と刺し違えて生涯を終える。