武田信光

武田信光

生没年:1162-1248
父:武田信義
石和五郎、伊豆守、伊予守、大膳大夫、従四位下、甲斐守護、1221-1348 安芸守護
室:(父:新田義重)
黒坂朝信、悪信忠、?-1265 武田信政、甲斐守 一条六郎信長、駿河守 岩崎七郎信隆、早川八郎信平、間淵九郎信基、菊王禅師 信快、十郎光経

 逸見清光(武田氏)━┳━逸見光長
(源清光)      ┣━女:手輿遊女
           ┣━武田信義━┳━一条忠頼
           ┣━女:   ┣━男
           ┣━加賀美遠光┣━板垣兼信
           ┣━女:   ┣━逸見有義
           ┣━安田義定 ┗━武田信光━┳━黒坂朝信
           ┣━平井清隆        ┣━悪信忠
           ┣━河内義長        ┣━武田信政━┳━武田信時
           ┣━田井光義        ┣━一条信長 ┣━武田政綱
           ┣━曽根厳尊        ┣━岩崎信隆 ┃(武田政縄)
           ┣━奈古義行        ┣━早川信平 ┣━駒井信盛
           ┣━浅利義成        ┣━間淵信基 ┣━下條政長
           ┣━八代信清        ┣━武田信快 ┣━武田信泰
           ┣━逸見義氏        ┗━武田光経 ┗━武田信綱
           ┣━逸見長義
           ┃(逸見長光)
           ┣━逸見道光
           ┗━逸見光賢

松前家

 武田信義の五男として応保二年(1162)生まれ。
 一蓮寺過去帳に、宝治二年(1248)8月19日 87歳で没したとあり、
 逆算すると応保二年(1162)生まれとなる。
 生母は源為義の養女(源義忠の娘・・年齢的に無理があるが)
 幼名は光寿丸といい、元服は叔父の加賀美遠光が加冠した。
 八代郡石和荘を基盤とし、石和(伊澤・石禾・石沢)五郎信光と称したが
 兄の武田有義失脚により、 武田姓を名乗るようになる。

     (信光の兄達の失脚状況)
忠頼(一条・次郎)――元暦元年(1184)鎌倉に招かれて頼朝に謀殺される。
兼信(板垣・三郎)――建久元年(1190)隠岐国に配流
有義(逸見・太郎)――正治2年(1200)梶原景時の謀反事件に関係し逐電
           吾妻鑑にはすべて武田兵衛尉有義。
信継(米倉・弥太郎)―資料無し

信光(石和・五郎)――吾妻鑑では伊澤の五郎信光と武田の五郎信光であるが
           有義が失踪した後は全て武田の五郎信光。

 甲斐源氏が次々と失脚や排斥される中にあって、小笠原長清とともに巧みに生き抜き、
 頼朝に気に入られ、甲斐の武田氏・大井氏・穴山氏等のほか、安芸・若狭の武田氏や、
 松前氏等の大族の祖となる。
 そして、数々の軍功により正四位下、甲斐・安芸の守護となり、北条政子の肝いりで
 伊豆守に叙された。伊豆は北条家の本拠地である。
 伊豆韮山の北条、および鎌倉の名越に住した。
 妻は悪源太義平の娘とも宇都宮氏の娘とも伝わる。

【尊卑分脈】による信光の系図

信義―┬忠頼(一条   ・次郎)
   ├兼信(板垣   ・三郎)
   ├有義(逸見→武田・太郎)
   ├信継(米倉   ・弥太郎)
   ├信光(石和(伊澤)→武田・五郎)―┬朝信 武田太郎 黒坂
   ~(尊卑分脈にはここまで)     ├信忠 武田悪三郎 1241年(仁治2年)に義絶
   ├実義(神宮寺  ・六郎)     ├信政 武田小五郎 甲斐・安芸・若狭武田氏へ
   ├宗信(早川   ・七郎)     ├信長 武田六郎 一条六郎
   ├信安(一宮   ・八郎)     ├信隆 武田七郎 岩崎
   └頼澄(奈胡   ・九郎)     ├信継 岩崎八郎 石橋(伝:浅利・板額の娘と結婚)
                     ├信基 岩崎九郎 間淵
                     ├光信 武田十郎
                     └光性


 また、弓馬に優れた才能を発揮し、小笠原長清、海野幸氏、望月重隆らと共に弓馬の四天王
 と称された。
 頼朝亡きあとも、北条政子や北条時政・義時親子にも信頼を得た。
 特に、「承久の乱」においては、
 「東山道の大将・武田五郎信光、小笠原長清・・従軍5万騎」(吾妻鏡)とあり、
 この功により、信光は本国・甲斐国に加え、安芸国の守護に任ぜらる。
 そして、この流れが、「安芸武田氏」「若狭武田氏」の派生へとつながる。

 「吾妻鑑」の1239年(暦仁2年 改元して延應元年)12月13日の項に
 「武田は遁世者たり」とあり、武田入道と記されている。従って、この頃に出家し
 伊豆入道光蓮と号して家督を息子・信政に譲ったものと思われる。
 そして87歳で大往生した。

 菩提寺は自身が開基した伊豆国韮山の曹洞宗・金龍山信光寺、
 同じく、甲斐国での菩提寺は    曹洞宗・金竜山信光寺。


「吾妻鑑」に見える信光
1180年
(治承四年)
10月13日 甲斐源氏、石和を出発、大石駅~若彦路より、駿河に入る。伊澤の五郎信光
10月14日 鉢田の戦い
信光主は景廉等を相具し先登に進み、兵法力を勵し攻め戰う
 (信光殿は加藤次景廉達と一緒に先へ進んで攻め戦った)
信光主
1181年
(養和元年)
 2月 4日平清盛病死
1184年
(元暦2年
文治元年)
 1月20日 木曾義仲、近江粟津にて討ち滅ぶ
 2月 7日 一の谷の合戦。
 6月16日 一条忠頼、鎌倉にて頼朝に謀殺される
1185年
(元暦2年
文治元年)
 1月 6日 源頼朝、源範頼に将士統率の要を諭す消息を送り、文中で信光、小笠原長清を褒め
秋山光朝を非難する。
いざわ殿
 2月13日 平家追討のために長門の国に入ったが、飢饉のため、粮が無いので、
安藝の国に引き返したい。また九州を攻めようとしても船が無いので進めないと
頼朝に書状を送る
伊澤の五郎
 2月19日 屋島の戦い
 3月24日 壇ノ浦の戦い。 平家滅亡
10月24日 南御堂(勝長寿院)供養の随兵十四人の一人武田の五郎信光
 秋 秋山光朝、梶原景時の讒言により、攻められて雨鳴城にて自刃
1187年
(文治3年)
 8月15日鶴岡の放生会の流鏑馬射手として伊澤の五郎信光
1188年
(文治4年)
 1月20日 伊豆・箱根・三島社等に参詣時の随兵として
(伊澤の五郎・加々美の次郎・小山の七郎以下随兵三百騎に及ぶ)
伊澤の五郎
1189年
(文治5年)
 4月30日源義経、衣川にて自刃
 6月 9日御塔供養の随兵として武田の五郎信光
 7月19日奥州の泰衡征伐の頼朝軍、鎌倉出立時伊澤の五郎信光
 8月21日 奥州・平泉陥落
10月28日 梶原景時が頼朝へ
安藝の国の大名葉山の介宗頼、伊澤の五郎の催しに依って、奥州御下向の御共として、
勇士を卒い参向するの処、駿河の国藁科河の辺に於いて、すでに御進発の由を聞き、
その所より帰国しをはんぬ。仍って宗頼の所領等を収公せらるべきである。
伊澤の五郎
1190年
(文治6年
建久元年)
 1月 3日 頼朝が比企の籐四郎能員の宅に立ち寄った際の随行 伊澤の五郎
1191年
(建久2年)
 2月 4日二所御参り伊澤の五郎
 7月28日寝殿・対屋・御厩等造畢の間、御移徙随兵十六人の一人伊澤の五郎
 8月18日信光等の馬十六匹を新厩に立て、南庭に於いて御覧武田の五郎
1192年
(建久3年)
 7月12日 頼朝、征夷大将軍となる
11月25日永福寺の供養の随兵伊澤の五郎信光
1193年
(建久4年)
 3月21日 下野の国那須野・信濃の国三原等の狩倉を覧るための狩猟に馴れ弓馬に秀でて
隔心の無い者22名の一人として随行
武田の五郎
 5月 8日富士野・藍澤の夏狩り時の随行武田の五郎
 5月29日 曽我兄弟の仇討ち(28日)に対する頼朝御前での立会い伊澤の五郎
 8月16日鶴岡八幡宮の放生会における流鏑の射手武田の五郎
11月28日 安田義資、梶原景時の讒言により、名越邸にて自刃、梟首さる
1194年
(建久5年)
 8月 8日安相模の国日向山・参詣の随兵武田の五郎信光
 8月19日安田義定、梶原景時の讒言により、自刃、梟首さる
11月21日鶴岡の三嶋別宮参詣時の小笠懸射手として武田の五郎信光
1195年
(建久6年)
 3月10日東大寺供養における南都東南院に到着時の隋兵伊澤の五郎
 3月12日東大寺供養時の随兵武田の五郎信光
 4月15日石清水参詣時の随兵武田の五郎信光
 5月20日天王寺参詣の随兵伊澤の五郎信光
1199年
(建久10年
正治元年)
 1月13日 頼朝、落馬にて死去
1200年
(正治2年)
 1月28日
【有義逐電を報告】

 夜に入り、伊澤の五郎信光甲斐の国より参上す。
 申して云く、
 武田兵衛の尉有義 景時の約諾を請け、密かに上洛せんと欲するの由、
 その告げを聞くに依って、子細を尋ねんが為彼の館に発向するの処、
 遮って中言有るかの間、兼ねて以て逃げ去り行方を知らず。
 室屋に於いては敢えて人無し。ただ一封の書有り。
 披見するの処、景時が状なり。同意の條勿論と。
 凡そ景時二代の将軍家寵愛を誇り、傍若無人の威を振るう。
 多年の積悪、遂にその身に帰するの間、諸人向背を為すなり。
 仍って逆叛の思いを挿み、且つは奏聞を経んが為、
 且つは鎮西の士を語らんが為、上洛せんと擬すの刻、日来の芳契を恃み、
 源家の旧好を重んじ、彼の武衛を以て大将軍に立てんと為す。
 送る所の書札、自然旧宅に落し置くなりと。
伊澤の五郎信光
 2月26日鶴岡八幡宮参詣の随兵武田の五郎信光
1203年
(建仁3年)
 3月10日 將軍家俄に御病惱、御夢想之告げ有るに依て
駿河の国方上御厨、地頭武田の五郎信光が所務を止め、大神宮領に寄付す
武田の五郎信光
 5月19日阿野全成(頼朝の弟)謀叛の疑いにより信光これを生虜る武田の五郎信光
1204年
(元久元年)
 7月18日 北条氏により源頼家、修善寺にて暗殺
1213年
(建暦3年
建保元年)
 5月 2日 【和田の乱】にて強豪・朝比奈義秀と遭遇
  武田の五郎信光、若宮大路米町口に於いて義秀に行き逢う。互いに目を懸け
 すでに相戦わんと欲するの処、信光男悪三郎信忠その中に馳せ入る。
 時に義秀信忠父に代わらんと欲するの形勢を感じ、馳せ過ぎをはんぬ。
武田の五郎信光
 8月20日将軍家、新御所に入御時の随兵武田の五郎信光
 8月26日将軍家、将軍家廣元朝臣の第に入御時の随兵武田の五郎信光
1214年
(建保2年)
 7月27日 大倉大慈寺(新御堂)供養時の随兵武田の五郎信光
1219年
(建保7年
承久元年)
 1月27日 拝賀の為、鶴岡八幡宮参詣時の随兵、
  この時、将軍・実朝、公暁により殺害され、警護の武士達が八幡宮社殿の中 へ
  走りあがり、武田信光が先頭に進む
武田の五郎信光
1221年
(承久3年)
 5月25日 【承久の乱】の大将軍として
東海・東山・北陸の三道より軍士惣て十九万騎
東山道(従軍五万余騎)の大将軍は
武田の五郎信光・小笠原の次郎長清・小山左衛門の尉朝長・結城左衛門の尉朝光
武田の五郎信光
 6月24日 合戦(承久の乱)張本の公卿等を捕らえ、それぞれの武将に預けた。
 ・按察卿光親(武田の五郎信光これを預かる)
 ・中納言宗行卿(小山新左衛門の尉朝長これを預かる)
 ・入道二位兵衛の督有雅卿(小笠原の次郎長清これを預かる)
 ・宰相中将範茂卿(式部の丞朝時これを預かる)
武田の五郎信光
 7月12日信光が預かった按察卿を鎌倉への下向途中、指示により加古坂に於いて梟首 武田の五郎信光
11月 9日祝髪して光蓮と称す。(参考:出所不明)  
1229年
(寛喜元年)
10月6日 伊豆守任官(明月記) 
1239年
(暦仁2年
延應元年)
12月13日 若君御前御行始めの間の事御沙汰を経らる。吉方を問わる。
加賀民部大夫康持並びに武田入道等の名越の家、方角に叶うの由これを申す。
武田は遁世者たり。然るべからざるの由仰せ出ださると。
武田入道
1241年
(仁治2年)
 1月23日 馬場殿にて若輩等の遠笠懸・小笠懸、宿老の類を相加え射的の儀
  宿老:武田伊豆入道光蓮・海野左衛門の尉幸氏・望月左衛門の尉重隆等
武田伊豆入道光蓮
 3月25日 海野左衛門の尉幸氏と武田伊豆入道光蓮と、上野の国三原庄と信濃の国長倉保と
境の事を相論。(この結果、海野左衛門の言い分が認められた)
武田伊豆入道光蓮
 4月16日 武田伊豆入道光蓮去る月の御沙汰の趣を漏れ聞き、殊にこれを謝し申す。
これは、上記3月25日の沙汰で光蓮の言い分が認められなかった事に対し
裁定した北条泰時を恨み、光蓮が一族や朋友と語らい泰時を討とうとしている
との噂が流れたための謝罪
武田伊豆入道光蓮
12月27日 【次男信忠を義絶】
 武田伊豆入道光蓮次男信忠(悪三郎と号す)を義絶せしむの由、
 御所並びに前の武州の御方に申し入れ先にをはんぬ。

 公私に於いて大功有るの子息なり。
 何の過失に就いてこの儀に及ぶやの由、前の武州頻りに宥め仰せらるると雖も、
 数箇條の不可に依るの上は、厳命に随い免許せしめ難きの由これを申し切ると。

 而るに今日光蓮前の武州に謁し奉るの間、信忠その便宜を伺い推参せしむの砌、
 申して云く、信忠父の為孝有り怠り無し。義絶の故何事ぞや。

 先ず建暦年中和田左衛門の尉義盛謀叛の時、諸人防戦を以て事と為すと雖も、
 遁れ、朝夷名の三郎義秀の武威に怖れ、或いは彼の発向の方に違い、
 或いは見逢うと雖も傍路に義秀に逢うを以て自らの凶と為す。
 爰に光蓮は武州を尋ね奉り、若宮大路の東頬米町前を通り、由比浦方に向かう。
 義秀は牛渡津橋より同西頬に打ち出て、御所方を指し馳参す。
 各々妻手番に相逢う。
 義秀光蓮を見て、頗る鐙を合わせ進み寄る。光蓮暫くは目に懸けず。
 ただ降り行くと雖も、すでに箭比に在るの間、聊か轡を西に向け弓を取り直す。
 時に信忠忽ち父の命に相代わらんが為、身を捨て両人の中を馳せ隔つの処、
 義秀太刀を取ると雖も、信忠の無二の躰を見て、直に感詞を加え、
 闘戦に及ばず馳せ過ぎをはんぬ。
 且つはこれ兼ねて信忠の武略の実を知るが故か。

 次いで承久三年兵乱の時、京方の要害等に向かい、軍陣を敗る毎に、
 信忠の先登に非ずと云うこと莫し。
 舎弟等これに相伴うと雖も、その功を論ずるに全く信忠の労に均からず。
 両度の事、共に以て亭主知ろし食さるる所なり。
 然かれば父に於いては哀憐を忘れると雖も、上として爭か御口入為からんやと。

 前の武州閑かに事の始終を聞こし食され、御落涙に及ぶ。
 仍って殊に御詞を加えられて曰く、申す所皆子細有るか。
 泰時に優じ早く免許せらるべしてえり。

 光蓮申して云く、御旨を重んじ奉るの事勿論と雖も、この一事に限りては、
 枉げて御免を蒙らんと欲すてえり。

 次いで信忠に対して云く、
 汝の申す所悉く虚言に非ず。武略に於いては誠に以て神妙なり。
 凡そ父の慈愛と云い子の至孝と云い、今に忘却すること能わず。
 但し心操せ調窮せざりをはんぬ。
 且つは親疎の思う所を憚り義絶せしむるの上は、宥めるに拠所無し。
 須く己が凶器を量るべしと。前の武州重ねての仰せ無し。
 信忠泣く々々座を起つ。
 観る者これを憐れむと。 
武田伊豆入道光蓮


「武田五郎信光の評価」

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長坂町誌(山梨県北巨摩郡長坂町:現・北杜市長坂町)
 有義と信光は、ともに信義の子とされるが、有義は実子で、信光は猶子(養子)である。
 信光は、平治の乱に源義朝に味方して参戦したただ一人の甲斐源氏・石和四郎信景の
 実子で信義の猶子となった。
 信光は折を見て有義を倒し、武田総領職に就こうと時を待つうち、景時の陰謀が暴露し、
 信光は有義を景時の一味として没落させ、武田総領職と甲斐守護職を手に入れる。
 そのため、有義の残党逸見氏は深く武田信義を恨み、以降二世紀を超える長期抗争を
 展開する・・・・。

確かに「甲斐国志」にも以下のように記載されているが・・。
「信景ハ刑部三郎義清子弟の類ニテ、信光ハ其男ナラン」
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石和町誌(山梨県東八代郡石和町:現・笛吹市石和町)
 信光は古来あまり好印象をもって迎えられていない。
 確かに信光は謀叛、失脚、暗殺などの事件に関連して登場することが多い。

 ①源平盛衰記
  信光が娘の婿に、義仲の嫡子(義高)を望んだところ、義仲から断わられたあげく
  義高に宮仕えさせたいというならば考えようと言われ、これを恨み、頼朝に
  義仲が平家と組んで頼朝を討とうとしていると讒言した。

 ②有義の失踪の鎌倉への通報
 ③阿野全成(源義朝の七男、母:常盤御前・義経の兄、頼朝の異母弟)の謀叛時の捕縛