煬帝

煬帝

隋の第2代皇帝。大運河を建設するなど統一国家の建設を進めたが。高句麗遠征に失敗したことを機に民衆反乱が多発し、618年に自殺、隋は滅亡した。

 通常は“ようだい”とよむ。隋の第2代皇帝(在位604~618年)。文帝の次子で南朝の陳を滅ぼすのに功績を挙げ、強引に帝位を奪ったとされている。在位604~618年。豪奢を好み、大土木工事を盛んに行った。特に副都として洛陽に都城を建造し東京(とうけい)としたり、大運河を建造したが、それらは民衆に重い負担となった。しかし、大運河の建設は、はじめて華北と江南を結ぶ幹線として機能し、中国の経済的な統一をもたらす大事業であった。
 対外的には北方の突厥との戦いでは勝利したが、三度にわたる朝鮮半島の高句麗遠征には失敗し、民衆が離反、内乱が起こって618年に離宮の揚州(江都)で暗殺され、隋は滅亡した。
 隋の煬帝の607年、日本の聖徳太子が遣隋使を派遣した。煬帝は高句麗遠征を計画していたので日本の国書を受け入れ、翌年には答礼使裴世清を日本に遣わした。

Episode “ヨウダイ”の父親殺しはほんとか

 この人物は教科書でも“ヨウダイ”となっているが、“ヨウテイ”でもまったくかまわない。昭和の初めの東洋史の大家桑原隲蔵が“ヨウテイ”と訓むべし、と言っていることが、高島俊男『しくじった皇帝たち』(ちくま文庫)で紹介されている。帝は呉音で“タイ”とよみ(帝釈天など)、上に別の語がつくときは“ダイ”とよむ。漢音では“テイ”。日本では奈良時代に長江南部の呉音が入ってきて、平安時代に長安付近で使われていた漢音が入ってきた。煬帝を“ヨウダイ”とよむのはあくまで“よみくせ”であり、その父の文帝(ブンテイ)と同じく、ヨウテイとよんでもかまわない。なお、煬帝は中国史でも一二をあらそう暴君であり、父を殺して帝位に就き、農民の苦しみを顧みず享楽にふけったとされている。煬帝が父を殺害して皇帝となったことは正史の『隋書』に書かれているが、高島俊男氏は本紀と列伝の記事を検討して、それについても疑問を呈し、「“煬帝の父親殺し”というのは、まことにばかばかしい、つじつまのあわない、マンガみたいな話のよせあつめ」だと断じている。