甘利家

甘利家

甘利家

花 菱
(清和源氏一条氏流)

 甘利氏は、甲斐武田氏の始祖信義の長男一条忠頼の末孫である。系図によれば忠頼の長男行忠が一条氏の兼領地として巨摩郡内の甘利郷を分け与えられ、館を築いて一帯を支配して甘利氏を称したことになっている。
 甘利氏の祖一条行忠は、治承四年(1180)父に従って源頼朝の挙兵に呼応して、信州伊那郡の大田切郷で平家軍と戦い初陣の功を立てた。その後、駿河へ出兵して平家の軍と戦い、平家討伐戦には源義経の指揮下に入って、父とともに数々の戦功を立てた。ところが、甲斐源氏田氏一族の勢力が拡大することを嫌った頼朝は次々と武田氏の武将を斥け、元暦元年(1184)、一条忠頼も鎌倉において誅殺され、行忠も父に連座して常陸に流され、のちに誅殺された。
 幸い、行忠の子行義、頼安は助命されて、兄行義が甘利氏を継ぎ、弟の頼安は上条氏を名乗った。以後、甘利一族は、甘利山麓に牧草地を開いて、すぐれた甲斐駒の飼育と増殖に励み、さらに、大麻・カラムシ・葛などの栽培に従事し、それらの繊維質を晒して良質の白布を生産したという。しかし、戦国時代に至るまで、甘利氏の武士としての活動はほとんど知られない。とはいえ、宗家武田氏に仕えて、平素は農事に携わり、戦いがあると武装して出陣する「半農半士」とでもいえる存在であったと思われる。

豪傑、備前守虎泰

 行義から四百年余の時を経て、甘利氏に備前守虎泰という豪傑が出た。虎泰がいつ生まれたのか、父が誰なのかも史書からはうかがうことができないが、甲斐国内を統一した武田信虎とは、ほぼ同世代であったことは間違いないようだ。
 虎泰は信虎・信玄と父子二代にわたって仕え、豪傑の名をほしいままにした。虎泰とかれが仕えた信虎の時代の甲斐国は、武田氏一族が同族相食む内乱が繰り返されていた。永正五年(1508)十五歳の信虎は、父の代より対立していた油川信恵の居城勝山城を奇襲して、信恵父子、岩手・栗原らを討ち取った。この戦いに虎泰も信虎側近として従い、若年ながらも抜群の戦功をたて、信虎に重く用いられるようになった。武田氏の家老ともえいる「職」の任についたのは、天文の初めごろであったようだ。「職」の任務のほか寺社奉行も兼任し、窪八幡神社の鳥居、石反橋建立に力を尽くしたことが知られる。
 国内の内乱を克服した信虎は、天文九年(1540)、信州佐久郡へ侵入してから破竹の進撃を続け、信虎の領土拡大戦が繰り返された。その一方でこの年、甲斐国内は豪雨に襲われ、民家・寺社などが甚大な被害を受けた。信虎の相次ぐ戦による多くの男子の死と豪雨による被害とで、『妙法寺記』は甲斐国が最も疲弊した年であったと記している。
 甲斐国内では、信虎に対する怨嗟の声が次第に高まりつつあった。天文十年(1541)の春ごろ、虎泰は板垣信方と謀って信虎の嫡子晴信を擁立して、信虎追放のクーデターを起こし、無血でそれを成功させた。こうして、晴信(のちの信玄)が家督を継ぎ、武田氏と甲斐国は新時代を迎えることになった。晴信を擁立した虎泰は、平時には晴信を補佐して国内の治政に力を尽くし、合戦には侍大将として先陣を切ったと伝える。百騎を駆使、差し添えの足軽大将は横田備中守高松であった。虎泰の戦法は一兵たりとも損じぬという慎重型に徹する反面、堂々と敵を打ち破ることに務めた。
 天文十六年(1547)、晴信は佐久の志賀城を攻め、城主笠原清繁をはじめ城兵を撫で斬りにして志賀城を落した。しかし、志賀城の落城は北信の豪族を刺激し、武田に対する敵愾心を煽る結果にもなった。特に葛尾城主で猛将として知られる村上義清は、北信の豪族を糾合して武田氏に対立した。
 天文十七年二月、晴信は村上氏討伐のため出陣した。両軍は、千曲川の支流の産川・浦野川の上田河原で激突した。村上氏の波状攻撃により武田軍は次第に圧され、ついには村上軍の誘導策に乗せられ大敗北を喫した。この合戦で虎泰は討死し、板垣信方も戦死した。晴信は両腕とも頼む二将を一度に失う手痛い敗戦を喫したのである。

戦国乱世の終焉

 虎泰の嗣子藤蔵は父に勝るとも劣らない猛将で、十三歳のときに初陣をかざったと伝えられている。しかし、実際には虎泰の戦死が伝えられて四日目の十七日、信州上原城に呼び寄せられ、改めて父の名跡を継ぐことになった。
 晴れの初陣をかざったのはその後のことで、藤蔵十五歳の時であったという。十七歳のとき藤蔵改め昌忠を名乗り、以後、たびたびの合戦に華々しい戦功をあげたが三十一歳の時不慮の死を遂げた。落馬が原因であったという。 昌忠のあとは弟の信康が継ぎ、武田軍鉄砲隊の隊長を務めた。天正三年の「長篠の役」では鉄砲隊を指揮して戦ったが弾丸が尽き、鉄砲を捨てて抜刀すると敵陣に突撃して壮烈な討死を遂げた。