田安徳川家

江戸大名公家

田安徳川家 丸に三葉葵      10万石
田安御門内(東京都千代田区北の丸公園)

                                                        御三卿

移封加減増履歴・享保14年→賄料3万俵・延享3年→甲斐武蔵など6ヵ国の内で10万石
江戸城詰席・御扣所 伯爵
 

家祖・宗武(むねたけ)
8代将軍徳川吉宗の次男 母は側室おこんの方
生没・正徳5年(1715)~明和8年(1771)
享保14年(1729)江戸城田安御門内に屋敷を与えられ、賄料3万俵を給される
延享3年(1746)甲斐武蔵下総摂津和泉播磨の6ヵ国の内で10万石を与えられる
従三位権中納言兼右衛門督
正室・近衛家久の娘森姫
子女・2代治察 
定国(伊予松山藩松平定静養子)
定信(桑名藩松平定賢養子)
誠(病没)
淑→佐賀藩鍋島重茂室
仲→鳥取藩池田重寛室
節→長州藩毛利治親室
脩→鶴岡藩酒井忠徳室
種→将軍徳川家治養女→紀伊藩徳川治宝室
定→福井藩松平治好室

2代・治察(はるあき)
宗武五男 母は正室近衛家久の娘森姫
生没・宝暦3年(1753)~安永3年(1774)
家督・明和8年(1771)相続
従三位権中将兼大蔵卿
正室・なし
子女・養子斉匡(3代)

3代・斉匡(なりまさ)
一橋家徳川治済の五男 母は丸山氏 
生没・安永8年(1779)~嘉永元年(1848)
家督・天明7年(1787)相続 
従一位権大納言
天保7年(1836)隠居
正室・閑院宮美仁親王の王女裕宮
子女・匡時(廃嫡)
斉位(一橋家徳川斉礼養子)
慶寿(一橋家徳川慶昌養子)
慶永(福井藩松平斉善養子)
慶頼(4代斉荘養子、5代)
慶臧(尾張藩徳川斉荘養子)
近→一橋家徳川斉礼室
包(病没) 鑅→伊予松山藩松平定通室
鋭(病没) 猶→4代斉荘室
鐐→鶴岡藩酒井忠発室
金→弘前藩津軽信順
猗(病没) 愛→尾張藩徳川斉温室
千重→浜田藩松平武成室
純→柳川藩立花鑑寛室
筆→佐賀藩鍋島直正室
養子斉荘(4代)

4代・斉荘(なりたか)
11代将軍徳川家斉の11男 母は側室お長の方
生没・文化6年(1809)~弘化2年(1845)
家督・天保7年(1836)相続
従三位権中納言
天保10年(1839)尾張藩12代藩主となる
正室・斉匡の娘猶
子女・養子慶頼(5代)

5代・慶頼(よしより)
3代斉匡の10男 母は篠崎氏  
生没・文政11年(1828)~明治9年(1876)
家督・天保10年(1839)相続
安政5年(1858)病臥中の13代将軍家定に代わり政務をみる、その後に家茂が14代将軍に就くと将軍後見として幕政に参与
文久2年(1862)将軍後見を免ぜられ正一位権大納言に叙任するも、翌年後見時の遺漏を咎められ官位一等を降下
文久3年(1863)隠居するも、維新に際して江戸鎮撫から再び田安家当主となる
正室・12代将軍家慶の娘暉姫
継室・閑院宮愛仁親王の妹佳宮
子女・6代寿千代 養子家達(7代)
女子→鶴岡藩酒井忠篤室 達孝 藤之助

6代・寿千代(ひさちよ)
慶頼長男 母は高井氏
生没・万延元年(1860)~慶応元年(1865)
家督・文久3年(1863)相続するも、6歳で夭折
正室・なし
子女・養子家達(7代)

7代・家達(いえさと)
5代慶頼の三男 母は高井氏 
生没・文久3年(1863)~昭和15年(1940)
幼名は亀之助、14代将軍家茂の継嗣と予定されていたが幕府危急時にあることから、幼少の亀之助ではなく一橋慶喜に決まった経緯がある
家督・慶応元年(1865)相続
慶応3年(1867)10月、15代将軍慶喜が大政奉還し恭順謹慎、翌年5月、徳川本家(旧将軍家)を相続し、駿府70万石に封ぜられると同地へ移る