箱根木賀温泉のこと

箱根木賀温泉のこと

懸命人様のリクエストにおこたえして、箱根の木賀温泉に関する4つの文献を
紹介いたします。これらの文献は、私が「木賀姓の由来」を探ったときに集め
たものの一部です。

なお、木賀温泉の木賀瀧不動は、昭和初期に強羅の方が木賀地内の早川河川敷
に放置されていた石造不動尊を、今の場所に移して安置したもので、樽本出身
の方々が世話人となって、昭和20年代から奉納寄進に努めてきています。

〇文献-1:『姓氏家系大辞典』、角川書店、昭和38年

『木賀』(1841頁)
相模国足柄郡木賀より起りしか、或は云ふ駿河国駿河郡木賀邑より起りし也と。
鎌倉大草紙応永9年條に「新田殿(相模守入道行啓)云々、箱根山の奥に底倉と
云ふ所あり。木賀彦六といふ者を頼みて隠れ給ふ云々」と。
 翌10年4月25日、藤曲氏に殺され、藤曲は底倉木賀の地を賜へり。浪合記には
彦六が新田氏を殺せし事とし、鎌倉管領九代記には古我彦六入道に作る。此の
氏は黄賀野氏と同一にして、藤原姓大森氏の一族かと云ふ(沼田氏説)。

〇文献-2:神奈川県温泉地学研究所・箱根町企画課編『箱根温泉誌』、箱根町、
 1981.10

『七湯の枝折』(125-126頁)
 往昔源頼朝公の身内に木賀善司吉成といへる人あり・・・・死に近かりけり
時一人の老僧来りて是より西の方に温泉の地あり 是に浴せば病悉癒なむ わ
れに随ひ来るへしと宣ふ 善司感涙にむせび掌を合せ 彼の僧の跡につきて行
とおもへば夢のごとくにしてたうとき山辺に到りぬ 老僧岩間をゆびさして涌
甘露湯感除衆病悩ととなへ玉へば指さす所に随で温泉涌出たり 吉成あまりに
尊たく覚へて御跡を三たび礼拝して温泉に浴す 初めの七日に血さわぎたち次
の七日には血おさまりて病全くいえぬ 是よりして木賀の名あり

〇文献-3:日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典-14神奈川県』、
 角川書店、昭和59年6月

『箱根町木賀』(317頁)
[中世]木賀
 戦国期から見える地名。相模国足柄下郡のうち。文明11年以後の成立といわ
れる「鎌倉大草紙」に「竹の下住人藤曲と云者しのび来り、応永10年4月25日
新田相模守入道行啓、底倉山中にて討死也。・・・其賞として藤曲に底倉木賀
を給はり、上杉禅助に属し安藤と改名す」と見える(群書20)。
[近代]木賀
 昭和31年-現在の箱根町の大字名。もとは宮城野村の一部。当地は江戸期か
ら箱根七湯の1つに数えられていた温泉地である。明治期に入ると静かなたた
ずまいの当地は政財界人の保養地として親しまれ、江戸期から続く3軒の旅館
の周辺には、別荘が次々と建てられた。第2次大戦後旅館は2軒となり、別荘は
会社の寮・保養所となった。
木賀温泉
 足柄下郡箱根町木賀にある温泉。宮ノ下から国道138号を約1kmほど宮城野
方向へ向かった早川の渓谷にある。箱根七湯の1つである。箱根火山中央火口
丘周辺の温泉と、基盤岩類中の温泉が湧出し、底倉や二ノ平から引湯される温
泉もある。源泉数17孔・温度20~78度・全温泉量毎分798リットル・宿泊施設7
軒・年間延べ宿泊利用者約4万人(昭和57年)。泉質は、単純温泉・アルカリ性
単純温泉・弱食塩泉・含土類弱食塩泉などで、入浴の効能は、リウマチ性疾患
・運動器障害・神経麻痺・慢性湿疹・更年期障害など。当温泉の発見は治承4年
頃、木賀吉成による(七湯の枝折)とも伝わるが、確証はない。江戸後期には、
上ノ湯・大滝湯・菖蒲湯・岩湯などの4湯があり、湯宿は3軒であった(新編相
模)。
 湯の感触と効能について「温湯にして気味鹹し又酸味」「頭痛・しびれ・腰
痛・一切内証血気補ひ膚をうるほし百虫をころす」(七湯の枝折)、「土の鹹
味を帯し温湯なり、主治各差異あれども疝気中風に最功あり」(新編相模)な
どと記され、将軍家への献上湯として、江戸まで運ばれたこともあった。明治
期中頃におきた大火事(文献によると明治25年)や、早雲山地滑りによる大洪
水(文献によると明治40年)などのため、以前のたたずまいは一変し、現在に
至る。

〇文献-4:神奈川県『神奈川県史 通史編 原始・古代・中世』、神奈川県、
 昭和56年

『鎌倉府 新田氏討伐』(805頁)
 新田氏は義貞以来多く南朝方として活躍した氏であるが、逐次族滅される運
命にあった。南北朝合一後10年を過ぎるころ、相模国で二人の新田氏が滅ぼさ
れた。信濃国に隠れ住んでいた新田氏一門は、在地の者に背かれ多くが討死し
た中で、わずか父子二人が奥州に逃れた。しかし奥州も安住の地ではなく、や
がて相模国にしのび入り、箱根山のおく底倉に木が彦六というものを頼んで隠
れ住んだ。ところが、竹ノ下の住人藤曲という者がこれを聞き出して山中にし
のび来て、応永10年4月25日一人で居た新田相模守入道行啓を底倉で討ちとった。
藤曲は其賞として底倉木賀を給わり、上杉朝宗(禅助)に属して安藤と改名し
たという(『鎌倉大草紙』)。この時難を逃れた新田氏(貞方か)なのであろ
うか、6年後の公方満兼死去の日、鎌倉の七里浜で千葉満胤のために討たれた。
彼は新田氏の嫡孫にあたり、謀叛を起こさんため廻文をもって軍兵を催したた
め討死にあったという(『鎌倉大草紙』)。
 底倉での事件は、害をなすことなく隠れ住んでいた新田氏を、恩賞を目当て
に討ちとったというものであり、所領拡大を願い自己の利益のみを追い求める
当時の武士たちの生き方があらわれていると言えよう。他方貞方の事件は、政
略上南朝復興を期しての挙兵であろうが、やはり彼ら南朝方残党も最終的には、
所領の回復を意図していたのかもしれない。