続・二人の天照大神(Historical)

古代史の論点(Historical)?

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続・二人の天照大神
目次

   序
   一
   二
   三
   四
   結

私は、以前に、「二人の天照大神」という文章を書いた(『古代の風』111号)。そこで、私は、記紀における天照大神の「行動様式」に二種類或いは三種類あることを述べた。私は、そこでは、「行動様式」の違いがある、という指摘にとどめていた。しかし、その後、一つの見解に達することが出来たので、報告したい。

まず、前稿の要旨をまとめておこう。

記紀において、神代以外で天照大神が登場する個所は二つある。神武記・紀と仲哀記・神功紀だ(紀には他に何箇所か祭祀をめぐる記事はある)。そこでは、天照大神は、「夢」或いは「神懸り」として登場する。つまり、彼女は物語の舞台の中でさえ、生身の人間として生きていたのではないのである。したがって、神代以降に登場する天照大神は、まさしく、「不在」の「神」であった。

次に、神代でも、「国譲り」以前と以後で行動様式が異なる。これは、神代記において天照大神が主体となる場合の動詞を検討した結果からそう言えるのである。

   聞く・驚く・詔る・(御髪を)解く・(みみづらに)纏う・(珠を)纏い持つ・(靫を)負う・(靫を)附く・(高鞆を)取り佩く・(弓腹)振り立つ・踏みなづむ・蹴散かす・踏む・建ぶ・待つ・問う・詔る〈神代記、須佐之男命の昇天〉
   乞い度す・打ち折る・振り滌ぐ・噛む・吹き棄つ・告る〈神代記、天の安の河の誓約〉
   咎む・告る・坐す〈神代記、須佐之男命の勝さび〉
   見畏む・開く・さし籠る・開く・告る・出づ・臨む・出づ〈神代記、天の岩屋戸〉
   問う・賜う・問う・詔る〈神代記、国譲り〉
   無し〈神代記、天孫降臨〉

「国譲り」以降では、天照大神は「問う」「賜う」「詔る」という行動しかとらなくなるのである。

私は、前稿では、この「様式」の違いを指摘するにとどめた。しかしながら、

   試みに言えば、「天照大神」「高木神」「大国主神」は、この説話当時には、現実に存在しなかったのでは無いか、という疑問は払拭できない。ここ(「国譲り」「天孫降臨」)が、記紀の描くところの、「神話」と「歴史」の境目では無いか、とも考えられる。

としていたように、「国譲り」以降の天照大神は、すでに「実在」しない、神だったのではないか、と予測していたのである。この点について、今はさらに一歩踏み込んで検討できる可能性が出てきたので、それを述べたい。

しかしながら、天照大神の実在/架空を論じる為には、二方向の論者を同時に相手にしなければならないだろう。一方は、「天照大神は架空である」と当然のように論じている者であり、もう一方は、「天照大神は実在である」と論じている者である。

架空である、と言う論者は、わざわざ挙げるまでも無いであろうが、津田左右吉以来の多くの論者が当てはまる。もちろん、津田以前の論者も天照大神の実在を信じていたわけではなかった。天照大神と言えば、記紀の中でも明らかに「神」として描かれており、それが「実在の人物」らしからぬとは、直観的に明らかであると言う考えは、素朴で率直な意見であった。だから、むしろ「天照大神は実在するわけが無い」という意見は、着実な論証を経ないまでも、十分に確からしい議論として成立し得たのである。

私はそれを疑わしいと言いたいのでは無い。しかし、例えば神武天皇崇神天皇、応神天皇ともなれば、実在/架空をめぐる議論は、分かれる。天照大神の実在/架空を問う議論と、神武や崇神や応神の実在/架空を問う議論とは、何等別次元の問題ではなく、同じ問題意識の中で問われなければならない。

現在、神武天皇は架空である、とする説が、学会において、主要な地位を占めて久しい。その一方で、神武天皇の実在を説く論は、潰えて消滅したわけではない。古田武彦は、弥生時代の地勢との一致から、神武東征説話の実在性を説いているし(古田武彦『古代は輝いていたⅡ』朝日新聞社、一九八五年)、森浩一も同様の観点から神武東征を見直すべきだと言っている(森浩一『日本神話の考古学』朝日新聞社、一九九三年)。

ここから一歩進んで、天照大神をも実在だと言う論者も少なくはない。安本美典は、天照大神卑弥呼を同一視すべきだと言っている(安本美典『邪馬台国への道』PHP研究所、一九八三年)。この説は、アマチュア論者にとって、魅力的なようで、直接安本を参照していなくても、同様の主張は時折見られる(とはいえ、卑弥呼天照大神説は、安本の創始ではない)。また、古田武彦も天孫降臨を実在の事件と見なし、天照大神を実在の人物だとしている。他にも、天照大神の実在性を説く論者は決して少なくはないのである。

そうした論者は、主流説である架空説を批判する。そこで行なわれているのは、トロイ遺跡や殷墟の発掘のようにそれまで架空とされていた事柄が一気に歴史事実としての価値を得るという事例を挙げて、「神話だから」「神だから」疑わしいという素朴な議論を斥けるという批判である。確かに、「神話だから作り話に決まっている」という啓蒙主義的な議論は、何度も考古学的発見によって覆されてきたことは事実である。だから、天照大神神武天皇が、或いは、神武東征や天孫降臨といった事件が史実であるかどうか、検証すべきだ、と言うのである。そして、考古学的事実に照らしてみれば、一致する所が多いのであるから(神武東征も天孫降臨も弥生時代の考古学的事実との一致が見られる)、史実と見なされるべきである、と言うのである。

これは、尤もな意見ではある。しかし、ここから、「神話を歴史事実と解する」一種の宗教的見解との境界が曖昧になっていく。一度、天照大神を実在と言った場合、それ以前の例えば、スサノオやイザナギ、イザナミを実在でないと断じることは難しいだろう。天照大神実在論者も、神武や天照大神の実在性を説く際には、主要な地位にある架空説を先のような論点から批判している為に、それ以前の「神」の架空を説くことは難しいのである。

そもそも、「神話は歴史事実ではない」という「啓蒙主義的」思考は、「神話は事実である」という宗教的見解への反駁として存在していた。聖書やギリシア神話に対するヨーロッパの思想史がまさにそれであり、日本においても、「皇国思想」への反駁として津田説が脚光を浴びたという事実は、免れないところである。だから、これを単純に批判することは、ともすれば「神話は事実である」という宗教的見解を復権させてしまう危険性を併せ持っているのである。

実は、天照大神神武天皇の実在/架空をめぐる議論は、同じ立場の上で為されている。戦後の歴史学においては、記紀そのものを単に信用することは出来ないという立場に立って、中国側史料の裏付けを得たものだけを史実として扱う。だからこそ、倭王武に同一視できる雄略天皇の実在性は証明されるのであるし、倭王讃に同一視できるかどうか議論の分かれる応神天皇は、実在/架空の議論が分かれるのである。そして、その立場そのものは、古田にせよ安本にせよ変わりは無い。要するに、中国側史料であれ、考古学的事実であれ、何らかの他の史料事実の裏付けを得てはじめて、実在と言えるという立場である。要は、関連性を見出すか否かにおいて議論が分かれているのであり、弥生時代の考古学的事実や魏志倭人伝と記紀の間に如何なる関連性を見出すか、という対立なのである。

この立場は慎重な立場であり、十分に客観的な立場である。

しかしながら、思うに、この立場からは「神話は事実である/ない」という対立に決定的な結論を与えることは未来永劫ありえないと言わざるを得ないだろう。

なぜなら、将来の出土を期待して、イザナギやイザナミの実在を前提して議論することはいつでも可能なのだし、「反映」というような、都合のいい語を持ち出せば、考古学的事実との関連性は、いつでも見出すことが出来るからである(当然ながら、「天岩屋戸」説話に登場する祭器、或いは「スサノオの悪行」として描かれた数々の罪、「国生み」説話にも、弥生時代の考古学的事実との符合がある。問題は、「だから天岩屋戸は事実だ」とか「国生みが事実だ」と述べることが出来るのか、という点に絞られる。古田武彦も安本美典も、そこまでは踏み込んでいない。しかし、そこへ踏み込んだアマチュアや宗教家は多くおり、所謂「超古代史」或いは「トンデモ」がそれである。)。神武天皇天照大神に対する実在論を主要な歴史学者が採らないのは、考古学的出土事実との関連性を厳しく慎重に――或いは消極的に――判定しているからであり、実在論者は、より積極的に判定しているというだけのことであるから、さらに甘く判定すれば、イザナギやイザナミまでも実在と語ることは不可能ではないのである。そういう可能性を有している限り、「他の史料事実の裏付けがあるか否か」という判断基準そのものは、決定的な解答をもたらすことは無いと言わなければならない。

したがって、「神話が事実であるか否か」を問うには、別の基準を設ける必要があるだろう。或いは、別の基準によって判定する試みを導入する価値は、この点においてある、と言い換えてもいい。

そうしたことから、私は、記紀の記述形式そのものから何らかの判定をすることが出来ないだろうか、と考えるのである。

前置きが長くなったことをお許しいただきたい。ただ、この問題を語るには、諸氏の前提があまりにも異なるので、それを明らかにしておかなければならないと思ったまでのことである。

さて、天照大神には二つ乃至三つの行動様式があることは、すでに述べた。

まず、少なくとも、神武記以降に登場する天照大神は、その説話の世界でさえ、実在していない。神武記ではあくまで高倉下の「夢」に登場するだけであり、神功紀では、神功皇后に「神懸かる」だけだからだ。どちらも、その説話世界に天照大神が実在していないことを意味している。

これは、「物語世界」に関して、そう述べているだけのことであり、今、神武天皇や神功皇后の実在/架空を問うていないことに注意いただきたい。また、この「物語世界」そのものの実在/架空も問うていない。それでも尚、天照大神は、「そこにいないもの」として物語が形成されていることに注目すべきである。

次に、「国譲り」説話の設定をよく見てみよう。

ここでは、天照大神側が、大国主側から、「葦原中国」の領域の譲渡を求めている。これは、天照大神=主、大国主=従だとすれば、ありえないことである。この点について、古田武彦は次のように述べている。

   当然ながら、それまでは、出雲なる大国主大神が神々の主神だったのだ。そして天照大神は、家来の神々の中の実力ナンバー・ワンにのし上がっていたのだ。だからこそ、主人たる大国主大神に対して「国ゆずり」を強要しえたのである。 もし、それ以前から、すでに天照大神が主神だったとしたら、「国ゆずり」の下交渉などと七面倒なことをせずとも、簡単に「これから孫をやる。歓迎するように」。そう言えばすむことだ。(古田武彦『古代は輝いていたⅠ』朝日新聞社 、一九八四年[朝日文庫、一九八八年、八十七~八十八ページ] )

要するに、「国譲り」は、天照大神=従、大国主=主という格付けを前提してはじめて成立するのである。このような説話の理解に基づけば、「弥生の改作神話」という概念がもっとも合理的なものとして理解できるだろう。

   したがって記紀神話をはじめから読みすすむときは、三貴神の誕生や天の岩屋戸神話がはじめにあり、「国ゆずり」や「天孫降臨」神話はあとにつづいているけれど、実際の順序は逆だ。後者の成立によって「出雲―筑紫」間の政治的優劣が逆転した。その後に、武力による既成事実を、新作神話によって合理化した。それを新しい教養として、定着させようとしているのである。(同書、九十九ページ)

こうした理解に立った上で、天照大神とスサノオ、大国主をめぐる系譜を見ると、一つの問題が浮上する。

   故、そ(スサノオ)の櫛名田比売をもちて、隠戸に起こして、生める神の名は、八島士奴美神と謂ふ。…この神、刺国大神の女、名は刺国若比売を娶して生める子は、大国主神。(『古事記』 [倉野憲司校注、岩波文庫] )

このように、スサノオと大国主の関係は、五代乃至六代の開きがある。にもかかわらず、「国譲り」では、天照大神、つまりスサノオの姉と大国主とが登場するのである(図1)。
図1

天照大神- - - - - - - ┐
| |
└スサノオ ↓

   ||――(五代)――大国主
 スセリビメ

こうした矛盾に対し、古田武彦は次のように述べている。

   では、A(スサノオから大国主へ至る六代の系譜―河西注)・B(大国主周辺の系譜。天照大神の娘・多紀理毘売を示す―河西注)両表、どちらが正しいのだろう。答えは簡単だ。B表が正しいのだ。なぜなら天孫降臨のとき、「天国」の天照大神は「出雲」の大国主に「国譲り」を交渉しているからである。まだ「超能力の神」と化した後代ではないのだから、同時期の神でなかったら、交渉できはしない。その上、〝大国主神が「天照・スサノオ」の子、タキリヒメを妻としていた〟点からすれば、天照の「国譲り」の交渉も、よく理解できよう(天照は大国主の妻方の母にあたる)。(古田武彦『盗まれた神話』朝日新聞社、一九七五年 [朝日文庫、一九九三年、四〇一~四〇二ページ] )

この時点では、スサノオから大国主へ至る系譜が、「古事記による造作」と見なしていた。しかし最近では、古田武彦は、スサノオから大国主へ至る系譜そのものは正しく、天照大神とスサノオの関係が「弥生の造作」である、と見なしている。

整理しよう。図1の系譜は、天照大神にまつわる系譜と大国主にまつわる系譜とに世代的な矛盾がある。だから、どれも事実だと見なすことは出来ないのである。この「矛盾」を回避するには、いくつか手段がある。一つは、スサノオと大国主の系譜を「切り離す」方法(図2)。これは、古田武彦が『盗まれた神話』の時点で採った手法である。次に、スサノオと天照大神を「切り離す」方法(図3)。これは古田武彦の現在の理解だ。そして、この系譜そのものを「造作」或いは「神話=作り話ゆえの世代の齟齬」と見なす方法。これは多くの論者が採ってきた手法である。
図2

            ┌天照大神┐
            |        |
            └スサノオ↓
   ×――(五代)――大国主
 スセリビメ

図3

┌× 天照大神
| |
└スサノオ ↓

   ||――(五代)――大国主
 スセリビメ

しかし、第一の方法は、スサノオと大国主とを結び付けるという「造作」に(記紀の立場からは)必然性が無いと言わなければならない。なぜなら、記紀にとっては、大国主は敗者の側であるからである。このような「造作」があるとすれば、それは、そのことによって利益を得る勢力によって行なわれなければならないだろう。だから、もしこれが「造作」だとすれば、それは大国主の側によって行なわれたのである。つまり、「国譲り」以前だ(もっとも、後代の出雲神道の「布教活動」を参考に、「大国主信仰」の勢力が後代になって「造作」した、という見解もある。しかしながら、重要なのは、それを「記紀側が承認する」必要が無い、という点である)。しかし、大国主の時点で、天照、スサノオ、大国主が「人」であるならば、(本当は天照大神の弟である)スサノオを、つまりつい先日死んだか、まだ生きているかもしれないような時代の存在であるスサノオを、自らの「五代乃至六代前の先祖」と言うことになる。こんな嘘は、どうやっても成立しまい。

次に、第二の手法においても、同様の問題が生じる。もし、「国譲り」「天孫降臨」の直後にスサノオと天照大神の関係が「造作」されたのであれば、今の天照大神は、過去のスサノオの姉である、ということになる。これもまた、あまりに出来の悪い嘘だと言わなければなるまい。

「造作」の時期をより後代に持ってきても、駄目だ。なぜなら、そうだとすれば「造作」そのものに必然性がなくなってしまうからである。

第三の手法は、問題に正面から臨んでいるものではない。さらに、このような一種混乱した「造作」を行なうこと自体に、理由が無いことを不審とすべきである。しかも、ポイントは、このような系譜の混乱が、多種の伝承間に見られることはあっても、同一の史料中で発生することは、ほとんど例が無い、ということだ。

従って、このような系譜の「混乱」を前にして、各論者が各々に「自由に」自説を展開してきた。しかしながら、どういった選択を行うかについて、明確な基準が無いというのが現状なのである。

ここで、「国譲り」と「天岩屋戸」における天照大神の行動様式の違いに着目してみよう。

「国譲り」以降で天照大神が起こした行動は、「問う」「詔る」「賜う」の三つである。こうした行動様式は、この物語における天照大神の「役割」とも深く関係している。

それを見るために、「国譲り」における役割を見てみよう。これには、ウラジミール・プロップ(ウラジミール・プロップ『昔話の形態学』(初版一九二八年、第二版一九六九年)北岡誠司・福田美智代訳、水声社、一九八七年)がロシアの魔法民話を材料に指摘し、エティエンヌ・スーリオ(エティエンヌ・スーリオ『二十万の演劇状況』(一九五〇年)石川秀治訳、白水社、一九六九年)が演劇において見出した後、アルジルダス・ジュリアン・グレマス(アルジルダス・ジュリアン・グレマス『構造意味論』(一九六六年)田島宏・鳥居正文訳、紀伊国屋書店、一九八八年)が整理した行為項分析が便利であろう。

行為項分析とは、物語に現われる様々な登場人物を、彼らの個別的な性質によってではなく、物語において果たす「役割」によって分析する手法である。つまり、登場人物は、「人格」としてではなく「行動カテゴリー」として捉えられることになる。プロップは、主人公・敵対者・王女とその父(捜し求められる人物)・贈与者・助手・派遣者・偽主人公の七つを設定した。次に、スーリオは、演劇の構成要素として偶然にもプロップとよく似た分類を挙げている。それは、「獅子座(一定の方向を与えられた主題の力)」「太陽(善乃至価値の代表者)」「地球(善を潜在的に受ける者)」「火星(反対者)」「天秤座(善の配当者である審判者)」「月(獅子座の力を強める援護者)」である。こうした状況をもとに、グレマスはこれを六つの「行為項」として整理した。それが「主体/客体」「送り手/受け手」「補助者/反対者」である。

こうした取り組みは、一九六〇年代に、「文学の科学」を標榜していた文学批評の中から登場したものであり、文学における狭義の構造主義である。ロラン・バルトは次のように述べている。

   物語分析は、まず、仮説的な記述モデル(アメリカの言語学者たちの言う《理論》)を考え出し、つぎに、このモデルから出発して徐々に各種の物語のほうへ下っていき、それらがモデルに合致したり離反するのを見なければならない。こうした適合と偏差のレベルにおいてはじめて、物語分析は、一種の記述手段をそなえたうえで、物語の複数性、物語の歴史的、地理的、文化的多様性を見出すこととなろう。(ロラン・バルト「物語の構造分析序説」(一九六六年)『物語の構造分析』花輪光訳、一九七九年)

つまり、グレマスの「行為項」は、それ自身は「仮説的な記述モデル」なのであり、「行為項分析」そのものは、決して――行為項を客観的に決定できると言う意味での――「科学的」ではない。これはあくまで「役割」を分析する為の一つの記述法なのであり、全ての物語が限られた役割に分割できるとか、そういった「役割」が物語を「決定する」というような議論ではないし、役割を「科学的」に決定できるというような代物ではない。

こうした試みは、「批評」という分野においては、既に廃れてしまっている。バルト自身も、このような試みをすぐに、事実上破棄している(バルトによる「天子との格闘」(一九七一年)での、次のような言葉がバルトの真の興味を示していると言えよう。「これでおわかりのように、この挿話の構造的開発とでも呼べるものは、大いに可能である。いや、是非とも必要である。とはいえ、終えるにあたってつぎのことを言っておこう。つまり、この有名な一節のなかで、もっともわたしの興味をひくのは、《民間伝承的》モデルではなく、読み取り可能性の衝突や中断や不連続性であり、明白な論理的分節から少しはずれた物語的実体の並置である」(『物語の構造分析』七六ページ))。しかしながら、これは「批評」という彼らの仕事と興味が、こうした分析の手法と合わなかったことが主な原因であり、「豊かな読解可能性」をめざす彼らにとって、「固定的な構造モデル」がふさわしくなかったことは、明白なのである。しかし、それは、「構造分析」の手法の側の問題ではない。我々は、「豊かな読解可能性」よりも、むしろ自らの読解を「客観的に」示す必要に駆られているので、「行為項分析」はその意味において有効な手段であると言えるのである。

さて、この物語の「主体」を決定するには、この物語の全ての文における「主体」を見出せばよいだろう。それが以下だ(段の区分や、訓読は『古事記』倉野憲司校注による)。
《天菩比神》

   ナシ―言よさす。天降る。
   天忍穂耳命―立つ。詔る。告る。還り上る。請す。
   高御産巣日神―集える。思わしむ。詔る。
   思金神、八百万神―議る。白す。遣わす。
   天菩比命―媚び附く。復奏せず。

天若日子

   高御産巣日神、天照大神―問う。
   思金神―答え白す。
   高御産巣日神、天照大神―賜う。遣わす。
   天若日子―降り到る。娶す。慮る。復奏せず。
   高御産巣日神、天照大神―問う。
   諸の神、思金神―答え白す。
   高御産巣日神、天照大神―詔る。
   鳴女―降り到る。居る。言う。
   天佐具女―聞く。語る。言う。云い進む。
   天若日子―射殺す。
   矢―逮る。
   高木神―取りて見る。
   血―著く。
   高木神―告る。示せる。詔る。云う。取る。衝き返す。下す。
   天若日子―寝る。中る。死ぬ。
   雉―還らず。
   下照比売―哭く。
   天津国玉神、その妻子―聞く。降り来て哭き悲しむ。作る。行い定める。遊ぶ。
   阿遅志貴高日子根神―到る。弔う。
   天津国玉神、その妻子―哭く。云う。取り懸かる。哭き悲しむ。
   阿遅志貴高日子根神―怒る。曰う。云う。抜く。切り伏せる。蹶ゑ離つ。忿る。飛び去る。
   高比売―思う。歌う。

《建御雷神》

   天照大神―詔る。
   思金神、諸の神―白す。
   ナシ(天照大神か)―使わす。問う。
   天尾羽張神―答え白す。貢進す。
   ナシ(天照大神か)―遣わす。

事代主神の服従》

   二神―降り到る。抜く。刺し立てる。趺み坐す。問う。言う。
   大国主神―答え白す。
   ナシ(建御雷神か)―遣わす。
   八重事代主神―踏み傾ける。打ち成す。隠れる。

建御名方神の服従》

   ナシ(建御雷神か)―問う。
   大国主神―白す。
   建御名方神―擎げて来る。言う。
   ナシ(建御雷神か)―乞い帰す。取る。[才益]み批ぐ。投げ離つ。
   建御名方神―逃げ去る。
   ナシ(建御雷神か)―追い往く。迫め到る。
   建御名方神―白す。

大国主神の国譲り》

   ナシ(建御雷神か)―還り来る。問う。
   大国主神―答え白す。白す。
   建御雷神―返る。参上る。復奏す。

各段により、状況は異なる。まず《天菩比神》の段では、「主体」と言うべきものは、主語の面からは決定できないと言わざるを得ないだろう。次に《天若日子》の段は、前半と後半に分かれる。前半(天若日子が射殺されるまで)で最も主語が多いのは高御産巣日神高木神)で六回である。これはつまり、高御産巣日神を中心にしてここまで語られていることを意味しており、ここまでの「主体」は高御産巣日神である。後半は、阿遅志貴高日子根神と天津国玉神、その妻子が主語の回数では同数であり、どちらとも言い難い。こうした点を鑑みれば、この《天若日子》説話は、前半の天若日子高御産巣日神とのやりとりと、後半の天国玉神と阿遅志貴高日子根神とのやりとりに分けることが出来ると言っていいだろう。同時に、説話を読む限り、前半部は前の《天菩比神》説話と同系統の説話であり、そうしたことから、先に保留しておいた《天菩比神》説話の「主体」も高御産巣日神と見なしてもいいだろう。

続いて、《建御雷神》の段では、天照大神が主語ナシの部分を含めて三例あり、「主体」となる(日本書紀においては、本文では一貫して高皇産霊尊、一書第一では天照大神が「主体」となっている。そうしてみるとこの部分における「主体」は高御産巣日神天照大神のいずれとも「交換可能」な役割であると言えるだろう。この点は、例えば、天孫降臨で天降るのが邇邇芸命であり、「交換不可能」に見えることと比較すれば、興味深いことである)。次の三段はいずれも、建御雷神が主語ナシの部分を含めればそれぞれ二例、三例、二例と多く、「主体」と見なしていいだろう。

このように、《天若日子》までの前半と《建御雷神》以降の後半では、事情が異なっている。問題は後半である。ここでの「主体」は明らかに、建御雷神である。次にこの物語全体の「客体」は、葦原中国であろう。これは、常に葦原中国を目指して物語が展開されていることを考えれば、当然である。次に、「補助者」は天鳥船神、「敵対者」は大国主神建御名方神である。「送り手」すなわち「主体」に目的を与えるのは、天照大神と、大国主神である、と言えるだろう。出雲の地で、建御雷神の行動に動機を与えているのは、他ならぬ大国主神である。「受け手」は天照大神だ。

物語全体としての主旨は、葦原中国の取得にあり、《天若日子》までの段は、その失敗を言っている。してみると、ここまでの部分は、後半の建御雷神が登場するまでのエピローグであり、前座であると言えるだろう。「国譲り」説話としては、この部分は省略可能なように見える部分であり、ストーリーとしては触媒(これは、ロラン・バルトの用語である。話の筋とは別の、含みや伏線となるべき部分。ロラン・バルト『物語の構造分析』みすず書房、参照。)に当たると見て差し支えはあるまい。

だから、これを要約すれば、「国譲り」とは、「建御雷神が天照大神の命を受け、葦原中国を手に入れるために、大国主神と交渉し、大国主神が突きつけてくる建御名方神の挑戦を退け、葦原中国を手に入れる」ということになる。だから、建御雷神が主体である、と言っていいのである。

重要なのは、ここでの天照大神は、主体ではなく「送り手」であり「受け手」である、という点である。これは、この物語において彼女の行動が「問う」「詔る」「賜う」しかないことと別のことではない。

物語において、「送り手」を担うのは、その物語世界における権威であり、権威者による「主体」への動機付けが、物語において必要な要素だからである。プロップの分析では、その役割は多く「王」によって為される。もちろん、このことは彼女の架空を前提しはしない。しかしながら、既にこの物語において、天照大神の行動は、主体である建御雷神に動機を与えるために存在しているのである。

より注目すべきなのは、このような行動様式の転換が、ひとり天照大神だけでなく、大国主神や、スサノオにおいても見られることである。大国主神もやはり「国譲り」では、「答え白す」「白す」という行動しかとっていない。それ以前の「稲羽の素兎」や「根国訪問」では、直接的な行動を多く取っているにも関わらずである(スサノオは、その「根国訪問」では、既に「死人」であり、イザナミの説話と同様、呉公や蛇といった生物達の死を象徴するような描写が印象的である。ただし、これについては、別の観点から論じることも出来るかもしれない)。

こうしたことは、イリアスにおけるゼウス、アフロディーテらの神々と一致する所がある。彼らもまた、実在の英雄達に、「動機を与える為」に存在しているのであり、聞き手も、そのことは百も承知なのである。だから、建御雷神は、「天照大神の名において葦原中国を譲り受けにきた」と言うのだし、建御名方神は、大国主神の委任を受けて、建御雷神に抵抗したのである。

以上の関係を表にした(表1)。
表1

	誓約説話	天岩屋戸	八俣大蛇	大国主説話	国譲り	天孫降臨	山幸海幸

天照大神 行動型 行動型 登場せず 登場せず 詔勅型 詔勅型 登場せず
スサノオ 行動型 登場せず 行動型 詔勅型 登場せず 登場せず 登場せず
大国主神 登場せず 登場せず 登場せず 行動型 詔勅型 登場せず 登場せず
建御雷神 登場せず 登場せず 登場せず 登場せず 行動型 登場せず 登場せず
ニニギ 登場せず 登場せず 登場せず 登場せず 登場せず 行動型 登場せず

このように、主要な「人物」の説話ごとの登場の様子を見ると、天照大神・スサノオ・大国主神の三者は、国譲りの付近を境に行動様式を変化させていることがわかる。後のニニギは、「天孫降臨」と「木花之佐久夜比売」で直接的な行動をとった後、次の「代」の火遠理命(山幸)の説話には、一切登場しなくなるのと対照的である(日本書紀では、「久之天津彦彦火瓊瓊杵尊崩」とあり、明確に死亡している。もちろん、イザナギも「国生み」の後、「淡路之洲」〈書紀、第六段〉「淡海之多賀」〈古事記〉に隠れたとあるから、「死」は「神」であっても訪れるという観念があったようである。)。

そうして見ると、こういった行動様式の転換は、「神話」と「歴史」の境界を示しているのである(しかしながら、「天岩屋戸」と「天孫降臨」に共通の「人物」が登場することは著名である。天児屋命、天宇受売などである。これは、別の観点から説明すべきだろう。今重視しているのは天照大神大国主神などの「主役クラス」の「人物」であり、あくまで「脇役」である彼らとは別個に扱うべきだろう。)。だから、少なくとも記紀においては、「国譲り」の前後がその境界なのだと言っていいのである。

これは、ある意味では、平凡な答えかもしれない。記紀の構成から言えば、天照大神は、最高神であり、事実、今も最高神である(神道流派にもよるが)。このことは、天照大神が神であり、その後のニニギは、祭神として祀られることはあっても、必ずしも信仰の対象ではないという率直な事実が証明しているのである(しかしながら、他の史料においては別の状況が当然考えられると言うことに注意したい。例えば『出雲風土記』では別の状況であることが当然予想されるのである。また、「問う」などの形で登場する人物の全てが実在しないのだと言いたいのではさらさらない。むしろ「二様の行動形式」を持つ、というそのことがここまでの考察を支えているのである。この点、特記しておきたい)。