縄文

#author("2020-04-12T18:00:03+09:00","","")

縄文時代
縄文草創期
縄文早期
対馬の歴史
縄文前期
縄文中期
縄文後期
縄文晩期
ユダヤ人の迫害史
弥生時代
弥生前期
縄文人は石器を新石器と進化させ、石を磨いた磨製石器を使用。
竪穴式住居、高床式倉庫の建物を用いて集落の形成(ムラ)や縄文式土器、土偶、土面、貝塚、漆製品、装身具、農耕具(木製、石製)を作るようになった。
食料調達には弓矢を用いた狩猟(イノシシ、シカ)や漁(タイ、ボラ、マグロ、サケ、イルカ、クジラ)、採取(クルミ、クリ、ドングリ)、採集(アサリ、ハマグリ)、焼畑農耕でソバ、ムギ、アズキ、エゴマなどを栽培して果実酒も製造していた。
-16500旧石器時代→縄文時代[約16500年前-紀元前3世紀]
-16500縄文文化、世界最古の土器が作られる →日本最古の土器 日本の土器、世界最古なの?
縄文文化
 縄文式土器、土偶
-13000日本列島が大陸から完全に分離(-12000)
古事記(こじき)』が伝える神話
天地のはじめ
多くの民族神話がそうであるように、『古事記』も天地開闢から神代の物語を始めている。天と地とが初めて分かれたとき、高天原(たかまがはら、天上界)に先ず三柱の単独神が出現した。アメノミナカヌシノカミ(天之御中主神)、タカミムスビノカミ(高御産巣日神)、そしてカムムスビノカミ(神産巣日神)である。アメノミナカヌシは、天の中央にあって、天地を主催する神であり、タカミムスビとカムムスビはいずれも万物の生産・生成を掌(つかさど)る神であるが、前者は高天原系(皇室系)、後者は出雲系の神とされている。 次いで、国土がまだ若くて固まらず、水に浮いた油のような状態のとき、葦の芽が泥沼から萌えいずる力が神となり、さらに天の永遠性を神格化したアメノトコタチノカミ(天之常立神)が出現した。その後も、大地が次第に整うまでにクニノトコタチノカミ(国之常立神)をはじめとして様々な神々が生じ、最後にイザナギノカミ(伊邪那岐神)と女神のイザナミノカミ(伊邪那美神)が出現した。クニノトコタチノカミからイザナミノカミまでを合わせて神代七代という。
伊邪那岐神(イザナギノカミ)と伊邪那美神(イザナミノカミ)
オノゴロ島
天つ神一同は、イザナギ・イザナミの二神に対して、「この漂っている国土をよく整えて作り固めよ」と仰せになり、神聖な矛を授けられた。そこで、イザナギ・イザナミの二神は天地の間にかかった梯子の上に立って、矛先で潮をごろごろとかき回した。矛を引き上げると、その先から潮水がしたたり落ち、積もって島となった。これをオノゴロ島という。 二神はオノゴロ島に天下り、神聖な柱を立て、広い御殿を建てた。そして、神聖な柱を回り、出会ったところで結婚することにした。イザナギは左から回り、イザナミは右から回って、二神が出会うと、イザナミが先ず「ああ、なんとすばらしい男性でしょう」と言い、その後にイザナギは「ああ、なんとすばらしい少女だろう」と言った。その場所で結婚して、イザナミは不具の子・水蛙子(ひるこ)を生んだ。この子は葦船に乗せて流して捨てた。次に、淡島を生んだ。この生み損じた島も御子の数には入れなかった。
国生み
自分たちが生んだ子が不吉だったので、二神は高天原に上って、天つ神にその理由を尋ねた。天つ神は、「女が先に言葉を発したので良くなかった。帰り降って、改めて言い直すように」と諭した。二神はオノゴロ島に戻るとまた前回と同じようにに天の御柱を回り、こんどはイザナギが「ああ、なんと可愛い少女だろう」と先に声をかけ、イザナミが「ああ、なんとすばらしい男性でしょう」と答えた。 このように言い終わって結婚して最初に生まれた子が淡路島である。次に、身体は一つで顔が4つある四国を生んだ。次に三つ子の隠岐島を生んだ。次に築紫島(九州)を生んだ。次に壱岐を生んだ。次に対馬を生んだ。次に佐渡島を生んだ。次に大倭豊秋津島(おおやまととよあきつしま)を生んだ。我が国を大八島国(おおやしまのくに)というのは、これらの8つの島を先に生んだためである。 大八島を生んで帰られるとき、吉備児島を生んだ。次に小豆島を生んだ。次に大島を生んだ。次に女島を生んだ。次に知訶島(ちかのしま)を生んだ、次に両児島(ふたごのしま)を生んだ。
神生み
国を生み終えて、イザナギ・イザナミの二神はさらに神々を生み出した。オオコトオシヲノカミ(大事忍男神)を筆頭に、ヒノカグツチノカミ(火之迦具土神)まで多くの神々を生んだ。しかし、ヒノカグツチノカミを生んだとき陰部が焼けて病に伏し、ついに亡くなってしまった。イザナミが生んだ神々の総数は35柱である。 イザナギは亡くなった愛妻のイザナミを、出雲国と伯耆国との境にある比婆(ひば)の山に葬った。その後、十拳剣(とつかつるぎ)を抜いてカグツチノカミの首を斬った。すると、剣の先や剣の本、柄に付いた血から8柱の神が生まれた。その中には、後に国譲りで活躍するてタケミカヅチノヲノカミ(建御雷之男神)がいる。
黄泉(よみ)の国
イザナギは女神のイザナミに会いたいと思い、後を追って黄泉国(よみのくに)へ行った。出迎えたイザナミに対して、イザナギは「愛しい妻よ、二人で作った国はまだ作り終わっていない。だから現世に戻ってほしい」と懇願した。しかし、イザナミは「私はすでに黄泉国の食物を食べてしまいました。しかし、愛しい夫が訪ねてきてくれたので、黄泉国の神に相談してみましょう。その間、私の姿を見てはなりません」と答えた。 長く待たされたイザナギは、ついに待ちきれなくなって髪に挿していた爪櫛の太い歯を一本折って、それに火をともして御殿の中に入った。すると、女神の身体にはウジがたかり、ゴロゴロ鳴って頭や胸などから8種の雷神が出現していた。イザナギは驚き恐れて逃げ帰ると、イザナミは「よくも恥をかかせてくれた」と、ただちに黄泉国の醜女(しこめ)に追いかけさせた。イザナギは髪につけていた黒い鬘(かずら)を取って投げ捨てると、それがヤマブドウの実に変わった。また、爪櫛の歯を折って投げると、タケノコが生えた。醜女たちがそれを食べている間に、イザナギは逃げ延びた。 さらに、8種の雷神が1500人もの黄泉国の軍勢を従えて追跡してきた。イザナギは十拳剣(とつかつるぎ)をうしろ手に振りながら逃げた。現世と黄泉国との境の黄泉比良坂(よもつひらさか)のふもとまで逃げのびて来たとき、そこの木になっていた桃の実を3つとって投げつけた。それで、黄泉国の軍勢はことごとく退散した。 最後に、妻だったイザナミ自身が追いかけてきた。イザナギは千引(ちびき)の岩を黄泉比良坂に引き据えた。その岩を間に挟んで二神は離別の言葉を交わした。イザナミは「あなたがこんなことをなさるなら、私はあなたの国の人間を一日に千人絞め殺そう」と言った。イザナギは、「お前がそうするなら、私は一日に千五百の産屋を建てよう」と答えた。黄泉比良坂は今の出雲国の伊賦夜坂(いうやさか)という坂である。
禊ぎ祓いと三貴子
汚らわしい国へ行ってきたため、イザナギは身体を清め禊ぎをすることにした。そして、筑紫の日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわきはら)に出向いて禊ぎ祓えを行なった。先ず身につけていたものを次々と脱ぎ捨てると、全部で十二柱の神々が生じた。 次いで、流れの速い中流の瀬に場所を移し、水に潜って身の穢れを洗い清めると、また様々な神が生まれた。このとき、安曇連らが祖先神としてあがめ祭っている三柱のワタツミの神も生まれた。 さらに、左の眼を洗うとアマテラスオオミカミ(天照大御神)が生まれた。右の眼をあらうとツクヨミノミコト(月読命)が生まれた。鼻を洗うとタケハヤスサノヲノミコト(建速須佐之男命)が生まれた。 イザナギは最後に三柱の貴い子を得たことを大いに喜び、首飾りの玉の緒をアマテラスに渡して、高天原の統治を委任した。同様に、ツクヨミには夜の世界を、スサノヲには海原をそれぞれ治めるように言い渡した。
天照大御神(アマテラスオオミカミ)と須佐之男命(スサノヲノミコト)
スサノヲの神やらい
海原の統治を命ぜられたスサノヲは、任された国を治めず長い間泣きわめいていた。イザナギがその理由を訊ねると、スサノヲは「亡き母のいる根の堅州国(ねのかたすくに)へ行きたいためです」と答えた。それを聞いてイザナギはひどく立腹して、スサノヲの神やらい、すなわち高天原からの追放を命じた。 追放を命じられたスサノヲは、姉のアマテラスに事情を説明してから根の国に赴くことにした。彼が高天原に上っていくとき、山川がことごとく鳴動し、国土がすべて振動した。それを聞いたアマテラスは弟が国を奪おうとしてやってきたに違いないと思い、武装して待ち受けた。
二神の誓約(うけひ)生み
荒ぶるスサノヲが高天原にやってくると、アマテラスは「なぜ上ってきたのだ」と問い、スサノヲは「特に邪心があってのことではない。亡き母のいる根の国へゆく前に、父から神やらいを受けた事情を説明しておきたいからだ。謀反の心など抱いていない」と答えた。 そこで、アマテラスは「お前の心の潔白を、どのように知ることができるのか」と問いただした。それに答えて、スサノヲは「それぞれ誓約(うけい)をして子を産もう」と提案した。こうして二神は天の安河を中に挟んで誓約をした。 アマテラスはスサノヲが帯びている十拳剣(とつかのつるぎ)を受け取ると、これを三つに折り、玉の緒が揺れて玉が音を立てるほど天の真名井の水を振り濯いだ。その後これをかみ砕き息を吐き出すと、その息の霧からタキリヒメノミコト(多紀理毘売命)をはじめとして三柱の女神が生まれた。現在の宗像神社の祭神たちである。 スサノヲはアマテラスの髪や右手と左手に巻いた玉の緒を受け取り、これを噛みに噛んではき出すと、その息の霧から出雲国造の祖神であるアマツヒコネノカミ(天津日子根命)など5柱の男神が生まれた。
天の岩屋戸
自分の物実(ものざね)から女神が生まれたことで、心の潔白が証明され誓約に勝ったとして、スサノヲは高天原で好き勝手に狼藉を働いた。アマテラスが耕作する田の畔を壊し、田に水を引く溝を埋め、新嘗祭(にいなめさい)で新穀を召す神殿を糞で汚した。このような乱暴に対して、アマテラスは弟をかばった。だが、まだら毛の馬の皮を逆さに剥ぎ取って、それを機屋(はたや)の棟の穴から投げ込み、それが原因で機織女が驚いて死亡するに及んで、ついにアマテラスは恐れて天の岩屋に籠もってしまった。 このため高天原がすっかり暗くなり、葦原中国もすべて暗闇となった。さらにあらゆる邪神が騒ぎ、あらゆる禍が一斉に発生した。このような状態に対処するため、八百万の神が天の安原に会合した。そして、中臣氏の祖神アメノコヤネノミコト(天児屋命)が太御幣(ふとみてぐら)を取り持ち、忌部氏の祖神フトダマノミコト(布刀玉命)が太祝詞言(ふとののりごと)を唱え、猿女君の祖神アメノウズメノミコト(天宇受売命)が神がかりして胸乳をかき出し裳紐まで押し上げて踊った。 この踊りを見て、八百万の神々はドッと笑った。アマテラスは「天上界は暗闇なのに、なぜアメノウズメが舞楽し、八百万の神々が笑っているのか」と不審に思って、天の岩屋戸を細めに開けて外をのぞいた。そのとき、戸の傍らに隠れていたアメノタヂカラノミコト(天手力男神)が、アマテラスを手を取って外に引き出した。こうして、高天原も葦原中国も自然に太陽が照り明るくなった。八百万の神々は一同相談して、スサノヲに多くの贖罪の品を科し、髭と手足の爪を切り祓を科して高天原から追放してしまった。
オオゲツヒメノカミ(大気都比売神)
スサノヲが食べ物をオオゲツヒメノカミ(大気都比売神)を求めたとき、オオゲツヒメは鼻や口、尻から様々な食物を取り出して調理した。それを見ていたスサノヲは食物を汚して差し出そうとしてしていると勘違いして、殺してしまった。 殺されたオオゲツヒメの体からは、蚕や稲の種、粟、小豆、麦、大豆が生まれた。そこで、生成の母神であるカムムスビノカミ(神産巣日神)は、これらを取らせて五穀の種とされた。
八岐(やまた)の大蛇(おろち)退治
高天原を追放されたスサノヲは、出雲国の肥河(島根県の斐伊川)の川上の鳥髪(仁多郡の船通山のふもと)というところに天下った。このとき、箸が川を流れてきた。スサノヲは川上に人里があると思い上流に向かうと、少女を間に置いて老夫婦が泣いていた。 理由を尋ねると、老夫婦には8人の娘がいたが、高志(こし)の八岐の大蛇が毎年襲ってきて娘を食ってきた、今年もその時期が来て、最後の娘のクシナダヒメ(櫛名田比売)が食われてしまうので泣き悲しんでいるのだという。そこで、スサノヲはクシナダヒメを妻として貰い受けることを条件に、八岐大蛇を退治してやることを約束する。 老夫婦に命じて、濃い酒を満たした酒桶を8つ作らせ、それを8つの門に置いて待機していると、はたして八岐の大蛇が現れた。大蛇はただちにそれぞれの酒桶に頭を入れて酒を飲み干し、酔っぱらってその場に寝てしまった。スサノヲは十拳剣(とつかのつるぎ)で大蛇をズタズタに切り裂いた。中ほどの尾を切ったとき、剣の刃がこぼれた。不思議に思ってその尾を裂いてみると、すばらしい太刀が出てきた。それが草薙剣(くさなぎのつるぎ)であり、スサノヲはこの霊剣をアマテラスに献じた。 こうして八岐の大蛇を退治したスサノヲは、新居の宮を造るべき土地を出雲で探した。そして、須賀の地(現在の大原郡大東町須賀の地)が気に入り、そこに新居を構えた。そのとき、その土地から盛んに雲が立ち上ったので、次の歌を詠んだ。
CENTER:八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を
スサノヲの神裔
スサノヲがクシナダヒメと夫婦になって、はじめて生まれた子をヤシマジヌミノカミ(八島士奴美神)という。その神の五世の孫としてオオクニヌシノカミ(大国主神)が生まれた。オオクニヌシは、オオクニヌシノカミ(大穴牟遅神)、アシハラシコヲノカミ(葦原色許男神)、ヤチホコノカミ(八千矛神)、ウツシクニタマノカミ(宇都志国玉神)とも呼ばれた。
大国主神(オオクニヌシノカミ)
因幡の白兎
オオクニヌシノカミ、大国主神)の兄弟には、八十神(やそかみ)すなわち多くの神々がおられた。あるとき、八十神たちが因幡のヤガミヒメ(八上比売)に求婚するために、オオクニヌシに袋を負わせ従者として連れて行った。 気多の岬(因幡国気多郡の海岸)まで来たとき、丸裸になった兎が横たわっていた。それを見た八十神は「その体を治すには、潮水を浴び、風に当たって高い山の頂に寝ておれ」と教えた。その通りにすると、兎の皮膚がひび割れ、兎はその痛みに苦しんで泣き伏した。そこへ、八十神の最後に付き従っていたオオクニヌシが通りかかった。
因幡の白兎主
因幡の白兎を救ったオオクニヌシ オオクニヌシが兎に泣いている訳を聞くと、兎は海にいるワニを騙して隠岐の島からこちらに渡ってきたが、最後のところで騙したことが発覚しワニに丸裸にされたことを話し、八十神に教わった方法で治療したら、全身傷だらけになってしまったと打ち明けた。 そこで、オオクニヌシは、真水で体を洗い蒲の花粉をまき散らしてその上に寝ていれば元の肌に戻ることを、兎に教えた。兎がその通りにすると、体は元通りになった。そこで、兎は「ヤガミヒメを娶ることができるのは、あなた様でしょう」と予言した。
八十神の迫害
求婚されたヤガミヒメは八十神たちに答えて「私はあなた方の言うことは聞きません。オオクニヌシと結婚します」と言った。それを聞いた八十神は怒って、相談の上オオクニヌシを殺すことにした。 先ず、赤猪を山の上から追い落とすから、下で待ち受けて捕らえよと命じて、猪に似た大石を焼いて転がし落とした。この石を受け止めたオオクニヌシは焼かれて死んでしまった。しかし、母神が高天原に上って、蘇生させることを請うた。そこで、二人の神がオオクニヌシの蘇生治療にあたり、オオクニヌシを生き返らせた。 八十神は今度は、オオクニヌシを騙して山に連れ込み、大木の割れ目の間に入らせ、木に打ち込まれていたクサビを引き抜いて殺してしまった。母神がオオクニヌシを探しに来て、その木を裂いてオオクニヌシを取り出し復活させた。そして、このままでは八十神に滅ぼされてしまうから、紀伊のオオヤヒコノカミ(大屋毘古神)のもとに遣わすことにした。八十神が弓矢を持って追いかけてきたので、オオヤヒコノカミは、スサノヲのいる根の堅州国(ねのかたすくに)へ向かうことを勧めた。
根の国訪問
オオクニヌシが根の国にやってくると、スサノヲの娘のスセリヒメ(須勢理毘売)は彼に一目惚れし、たいそう立派な神がおいでになったと父神に告げた。スサノヲは一目見て、「これはアシハラシコヲノカミ(葦原色許男神)だ」といい、直ちに蛇のいる部屋に寝させた。しかし、その前にスセリヒメが蛇の害を祓う領巾(ひれ)を渡していたので蛇の害にあうことはなかった。 翌日の夜はムカデと蜂のいる部屋に寝かされた。このときもスセリヒメがムカデと蜂の害を祓う領巾(ひれ)を渡していたので、無事にその部屋から出ることができた。すると、今度はスサノヲは鏑矢(かぶらや)を野原に射込んで、それを拾いに行かせ、野原に火を放った。オオクニヌシは逃げ場が分からず困っていると、ネズミが出てきて、穴に隠れ潜んでいれば火をやり過ごすことができると教えてくれた。 スサノヲは、今度はオオクニヌシを大室屋に呼び入れて、頭のシラミを取ることを命じた。スセリヒメが椋(むく)の実と赤土を渡してくれたので、オオクニヌシは椋の実をかみ砕き、赤土を口に含んで吐き出して、あたかもシラミをかみ砕いて唾を吐き出しているように思わせた。スサノヲは可愛い奴だと思って、そのまま眠ってしまった。 オオクニヌシは、眠っているスサノヲの神を室屋の垂木に結びつけると、スセリヒメを背負い、宝物の生太刀(いくたち)・生弓矢(いくゆみや)・天の詔琴(のりこと)を携えて逃げ出した。天の詔琴が樹に触れて大きな音を立てたので、スサノヲが目を覚ました。 スサノヲは黄泉比良坂(よもつひらっさか)まで追いかけて来て、オオクニヌシの姿を遠くに見かけると、「生太刀と生弓矢で腹違いの兄弟たちを追い払って、お前は大国主神となれ。そして、娘のスセリヒメを正妻として、宇迦の山のふもとに太い宮柱を建て天高くそびえる宮殿に住め」と言った。そこで、スサノヲの指示のままにオオクニヌシは兄弟の八十神を追い払い、国造りを始めた。
八千矛神の妻問い
ヤチホコノカミ(八千矛神=大国主神)が、越国(こしのくに)のヌナカワヒメ(沼河比売)に求婚するためにでかけた。そして、ヌナカワヒメの家に着いて、歌を詠まれた。そのとき、ヌナカワヒメは戸を開けないで、家の中から返事を歌で返した。その日は二人は会わないで、翌日の夜に会った。二人がやり取りした歌を神語歌(かむがたりうた)という。 正妻のスセリヒメ(須勢理毘売)は非常に嫉妬深い神だった。そのため、ヤチホコノカミは当惑して出雲国から大和国へ上ろうとした。旅支度をして出発しようとしていたヤチホコノカミは、馬の鞍に手をかけ、鐙に片足を踏み入れながら歌を詠んだ。すると、スセリヒメは大杯を取って夫のそばに立ち寄り、杯を捧げて返歌を詠んだ。そして二人は杯を交わして夫婦の契りを固め、以後は現在に至るまで睦まじく鎮座しておられる。
大国主神の神裔
オオクニヌシ(大国主神)は、宗像の沖つ宮に鎮座しているタキリヒメ(多紀理毘売)を妻として、賀茂の大神となられたアヂスキタカヒコネノミコト(味耜高彦根命)と妹のタカヒメ(高比売)を生んだ。 また、カムヤタテヒメ(神屋楯比売)を妻として、コトシロヌシノカミ(事代主神)を生んだ。さらに、ヤシマムジノカミ(八島牟遅能神)の娘のトリミミノカミ(鳥耳神)を妻として、トリナルミノカミ(鳥鳴海神)を生んだ。
スクナヒコナノカミ(少名毘古那神)と御諸山(みもろやま)の神
オオクニヌシが美保の岬にいるとき、羅摩(かがみ)の実の船に乗って近づいて来る小人神があった。スクナヒコナノカミ(少名毘古那神)である。御祖神のカムムスビノカミ(神産巣日神)に訊ねると「スクナヒコナは私の手の指の間から漏れこぼれた子である。オオクニヌシと兄弟となって、その国を作りなさいと命じてある」とのことだった。そこで、オオクニヌシとスクナヒコナの二神は協力して、この国を作り固めた。
大国主
波頭の幸魂・奇魂を拝するオオクニヌシ
その後、スクナヒコナは海原の彼方の常世国(とこよのくに)へ帰っていった。そこで、オオクニヌシが心配して「私一人でどうしてこの国を作り固めることができようか。どの神が私に協力してくれるのだろうか」とたずねられた。すると、海上を照らして近寄ってくる神があった。 その神は、「丁重に私の御魂を祭るならば、あなたに協力して共に国作りを完成させよう」と言った。どこに御霊を祭ったらよいのかたずねると、大和の三輪山に祭ることを要求した。これが三輪山に鎮座している神(*)である。 (*) 『日本書紀』では、三輪山の神はオオクニヌシの幸魂・奇魂(さきたま・くしみたま)であると伝えている。
オオトシノカミ(大年神)の神裔
オオトシノカミ(大年神、スサオノヲと神大市比売の間に生まれた)が、カムイクスビノカミ(神活須毘神)の娘イノヒメ(伊怒比売)を娶って五柱の神を生んだ。その他にもカヨヒメやアメチカルミヅヒメを娶って多くの神を生んだ。その数はオオクニミタマノカミ(大国御魂神)からツチノミオヤノカミ(土之御祖神)まで、合わせて十六神である。 その中には、日枝神社の祭神・オオヤマクイ(大山咋)神や松尾神社の祭神・火雷神がいる。
葦原中国(あしはらのなかつくに)の平定
アメノホヒノカミ(天菩比神)とアメノワカヒコ(天若日子
アマテラス(天照大神)は、「葦原中国は我が子のアメノオシホミミ(天忍穂耳)が統治すべき国である」と言われ、その統治を委任されて高天原から降された。だが、アメノオシホミミが降る途中で天の浮き橋に立って下界を見ると、ひどく騒々しい。そこで、高天原に戻ってアマテラスに指図を仰がれた。 タカミムシビノカミ(高御産巣日神)とアマテラスの命令で、天の安河に天つ神がすべて招集され、暴威をふるう乱暴な国つ神が大勢いる葦原中国をどのように平定すべきかを議論させた。相談の結果、アメノホヒノカミ(天菩比神)を派遣するのが良いだろうということになり、この神を派遣した。ところが、アメノホヒノカミはオオクニヌシに媚びへつらって三年たっても復命しなかった。 そこで、タカミムシビノカミとアマテラスが次に遣わすものを神々に訊ねたところ、オモヒカネノカミ(思金神)がアメノワカヒコ(天若日子)を遣わすのが良いと答えた。そこで、天の真鹿児弓(まかこゆみ)と天の羽羽矢(ははや)を授けて、アメノワカヒコを葦原中国に遣わした。ところが、この神はオオクニヌシの娘のシタテルヒメ(下照比売)を娶って、葦原中国を我が物にしようと企んで、八年たっても復命しなかった。 タカミムシビノカミとアマテラスは、アメノワカヒコが久しく逗留して復命しない理由を調べるためにどの神を派遣すべきかを大勢の神々に諮問された。その結果、雉の鳴女(なきめ)を遣わすことになった。鳴女は高天原から舞い降りアメノワカヒコの家の前の桂の木に止まって、天つ神の言葉を伝えた。 雉の鳴く声が不吉だったので、アメノワカヒコは天の真鹿児弓と天の羽羽矢で雉を射殺してしまった。雉の胸を貫いて羽羽矢は天の安河にいるタカミムシビノカミとアマテラスの前まで飛んできた。タカミムシビノカミはその矢を抜いて、「もしアメノワカヒコが邪心を抱いているなら、この矢に当たって死ね」と下に向けて突き返した。矢は朝の床にいたアメノワカヒコの胸に命中し、この神は死んでしまった。
アヂシキタカヒコネノカミ(阿遅志貴高日子根神)
アメノワカヒコの死を悼む妻のシタテルヒメの鳴き声が、風に吹かれて天上まで届いた。そこで、アメノワカヒコの父・アマツクニタマノカミ(天津国玉神)やその妻子が、その泣き声を聞いて天上から降ってきて喪屋を作り、川雁などの鳥たちに葬儀の役目を任じて、八日八夜の間歌舞して死者を弔った。 そのとき、アヂシキタカヒコネノカミ(阿遅志貴高日子根神)が弔問にやってきた。この神の風貌はアメノワカヒコによく似ていた。そのため、アメノワカヒコが生きていてよかったと、一同はアヂシキタカヒコネノカミの手足に取りすがって喜んだ。死んだアメノワカヒコに間違えられて神は、怒って剣で喪屋を切り倒し、足で蹴飛ばしてしまった。これが、美濃国の藍見(あいみ)川の上流にある喪山(もやま)であるという。
タケミカヅチノカミ(建御雷神)とコトシロヌシノカミ(事代主神
アマテラスは、「こんどはどの神を遣わしたらよいか」とオモヒカネノカミ(思金神)や大勢の神に諮問された。神々は新たな使者としてタケミカヅチノカミ(建御雷神)を推挙した。そこで、アマテラスはアメノトリフネノカミ(天鳥船神)をタケミカヅチに添えて葦原中国に遣わした。 二柱の神は出雲国の伊耶佐(いざさ)の小浜(現在の稲佐浜)に降りて、十拳剣を逆さまに波頭に刺したて、その剣の切っ先にアグラをかいて座ると、「そなたが領有している葦原中国は、アマテラスオオミカミの御子が統治する国として委任された。我々はそなたが国を譲る意向があるかどうか訊くために遣わされたものである。そなたの考えはどうか」と、オオクニヌシに訊ねた。 オオクニヌシは「自分からは答えられない。代わりに息子のコトシロヌシノカミ(事代主神)に答えさせたいが、あいにく美保の崎へ狩猟に出かけて留守だ」と返答した。アメノトリフネノカミ(天鳥船神)を遣わしてコトシロヌシを呼び寄せて、意向を訊ねると、コトシロヌシは「承知しました。この国は天つ神の御子に奉りましょう」と言った。そして、乗ってきた船を踏み傾けて青葉の芝垣に変化させ、その中に隠ってしまった。
タケミナカタノカミ(建御名方神
タケミカヅチは、オオクニヌシに向かって、「他に意見を言うような子がいるか」と訊ねた。オオクニヌシは「もう一人、タケミナカタ(建御名方)がいる」と答えた。そうこうするうちに、タケミナカタが大岩を手の先に下げてやってきた。そして、タケミカヅチに力比べを申し入れた。 先ず、タケミナカタがタケミカヅチの手を掴むと、タケミカヅチはその手を氷柱に変化させ、さらに剣の刃に変化させた。それでタケミナカタは恐れをなして引き下がった。次に、タケミカヅチがタケミナカタの手を掴むと、葦の若葉のように握りつぶして放り投げた。タケミナカタが逃げ去ったので、諏訪湖まで追いかけて殺そうとすると、タケミナカタは命乞いをし諏訪を一歩も離れないことを約し、「葦原中国は、天つ神の御子に奉りましょう」と申し出た。
大国主神の国譲り
タケミカヅチはまた出雲に戻ってきて、オオクニヌシに向かって「そなたの二人の子供のコトシロヌシとタケミナカタは、天つ神の御子の仰せに従うと言っている。ところで、そなたの考えはどうなのか」と訊いた。オオクニヌシは「この葦原中国はことごとく献上いたしましょう。ただ、私の住むところは、天つ神の御子が皇位を継がれる立派な宮殿のように、地底の盤石に宮柱を太く立て、大空に千木を高々にそびえさせた神殿を造っていただけるなら、私は幽界に隠退しましょう」と申した。 タケミカヅチは、高天原に帰り上って、葦原中国を平定し帰順させた状況を復命した。
邇邇芸命(ニニギノミコト)
ニニギノミコト(邇邇芸命)の誕生
アマテラスオオミカミ(天照大神)は、葦原中国の平定が終わったとの報告を受けて、あらためて我が子のアメノオシホミミ(天忍穂耳)に「先に委任した通り、その国に天降って統治しなさい」と仰せられた。 ところが、天降ろうと準備している間に、アメノオシホミミとトヨアキツヒメ(豊秋津師比売)の間に、ニニギノミコト(邇邇芸命)という御子が生まれた。そこで、アメノオシホミミの申し出によって、アマテラスはこの孫を天降りさせて葦原中国を統治させることにした。
サルタヒコノカミ(猿田毘古神)
ニニギノミコト(邇邇芸命)が天降ろうとしているとき、天から降る道の辻に一人の神がいて、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らしている。 アメノウズメノカミ(天宇受売神)が近づいて、いずれの神かと問うと、その神はこう答えた。「私は国つ神のサルタヒコノカミ(猿田毘古神)と申します。天つ神の御子が天降ると聞いて、先導役を務めたいと思い,お迎えに参上しました」
天孫の降臨
こうしてニニギノミコト(邇邇芸命)はアメノコヤネノミコト(天児屋命=中臣連らの祖神)、フトダマノミコト(布刀玉命=忌部首らの祖神)、アメノウズメノミコト(天宇受売神=猿女君らの祖神)、イシコリドメノミコト(伊斯許理度売命=作鏡連らの祖神)、およびタマノオヤノミコト(玉祖命=玉祖連らの祖神)の従えて天降った。 このとき、アマテラスは八尺勾玉(やさかのまがたま)、鏡、および草薙の剣を渡し、さらにオモヒカネノカミ(思金神)、タヂカラヲノカミ(手力男神)、およびアメノイワトワケノカミ(天石門別神)も一行に加えられた。そして、「この鏡は私の御魂として、私を拝むのと同じように敬って祭られよ」と言われた。 ニニギノミコトは、天空に幾重にもたなびく雲を押し分け、筑紫の日向の高千穂の霊峰に天降った。そして、地底の盤石に太い宮柱を立て、天空に千木を高くそびえさせた壮大な宮殿をに住まわれた。  サルタヒコノカミ(猿田毘古神)とアメノウズメノミコト(天宇受売神) 天孫降臨の時先導役を務めたサルタヒコノカミ(猿田毘古神)に対して、アメノウズメノミコト(天宇受売神)が独りで立ち向かって、この神の正体を明らかにした。そこで、ニニギノミコトはアメノウズメノミコトにサルタヒコノカミを送っていくように命じ、さらにこの神の名を負うように命じた。このため、サルタヒコの男神の名を負うて、女神のアメノウズメノミコトの子孫を猿女君(さるめのきみ)と呼ぶようになった。 サルタヒコノカミを送って帰ってきたアメノウズメノミコトは、ただちに大小あらゆる魚類を追い集めて、「お前たちは天つ神の御子の御膳(みけ)として仕えるか」と訊いた。多くの魚が「お仕えしましょう」と答えたが、ナマコだけは答えなかった。そのため、アメノウズメノミコトは紐小刀でナマコの口を裂いた。だから、今でもナマコの口は裂けているという。
コノハナノサクヤヒメ(木花之佐久夜毘売)
ニニギノミコトは、笠沙の御埼(薩摩半島の西端にある野間岬)で美しい乙女に出会った。誰かと訊ねると、「オオヤマツミノカミ(大山津見神)の娘でカムアタツヒメ(神阿部多都比売)、またの名をコノハナノサクヤヒメ(木花之佐久夜毘売)と申します」と答えた。早速結婚を申し込むと、「自分では返事致しかねます。父が返事を申し上げるでしょう」とのことだった。 オオヤマツミノカミは娘が天孫に結婚を申し込まれたことを大層喜んで、姉のイワナガヒメ(岩長比売)を副えて、コノハナノサクヤヒメを差し出した。ところが、イワナガヒメは容姿がひどく醜かったので、ニニギノミコトは彼女を見て恐れをなし、親の元へ送り返した。娘を送り返されたオオヤマツミノカミはいたく恥じてこう言った。「天孫がイワナガヒメを娶られたならば、天孫の命は風雪に耐えて常に岩のように永遠に変わることがなく、またコノハナサクヤヒメを娶られたならば、木の花が咲き栄えるように繁栄されるであろうと誓願して、娘を二人並べて差し出した。しかし、コノハナサクヤヒメだけを留められた。天孫の命は木の花のようにはかないものとなろう」と。 コノハナサクヤヒメは一夜の契りだけで身ごもった。ニニギノミコトは「身ごもった子は私の子ではあるまい。おそらく国つ神の子であろう」と疑った。そこで、ヒメは「天つ神の御子であるならば、火の中で無事に生まれるだろうと、産殿に火を放った。そして、火の中で三柱の子供を無事に出産した。ホデリノミコト(火照命)、ホスセリノミコト(火須勢理命)、ホヲリノミコト(火遠理命)の三柱である。ホヲリノミコトの別名は、ヒコホホデミノミコ(日子穂穂手見命)である。
火遠理命(ホヲリノミコト)
海幸彦山幸彦
ホデリノミコト(火照命)は海幸彦(うみさちひこ)として海で魚を捕り、ホヲリノミコト(火遠理命)は山幸彦(やまさちひこ)として山にいる獣と狩った。ホヲリノミコトは兄のホデリノミコトに猟具と漁具を交換して使ってみようと何回も提案したが、兄はなかなか許してくれなかった。 やっとの事で許しを得て、ホヲリノミコは兄の漁具を借りて釣りに出かけたが、一匹の魚も釣れず、その上に釣針を海に失ってしまった。兄は失った釣針を返せというので、弟は十拳剣を砕いて500本の釣針を作って償おうとしたが、兄は受け取らず、1000本の釣針を作って償おうとしても、兄は元の釣針を返すことを要求した。
海神宮(わたつみのかみのみや)訪問
兄の許しが得られないので、ホヲリノミコが海辺で泣き悲しんでいると、海流を司るシオツチノカミ(塩椎神)がやって来て、理由を訊ねた。そして、「私が良い計画を立ててあげましょう」と言って、竹を編んで小舟を作り、「この船で良い潮路に乗って進めば海神ワタツミノカミの宮に着くことができるので、宮の門に着いたら、泉のそばの桂の木に登っていると、海神の女がうまく取りはからってくれるでしょう」と告げた。 教えられた通りに海神宮に着いて桂の木に登っていると、海神の娘・トヨタマヒメ(豊玉毘売)の侍女が泉に水を汲みに来た。ホヲリノミコが水を所望すると、侍女は器に水を汲んで持ってきた。しかし、ホヲリノミコは水を飲まずに首に掛けた玉の緒を解いて玉を器に入れた。玉は器にくっついて離すことができなかったので、侍女はそのまま器をトヨタマヒメに差し上げた。 玉を見たトヨタマヒメは侍女に訊いて外に出ると、ホヲリノミコを見つけた。一目惚れした彼女は、美しい立派な男性が門前に来ていると海神に伝えた。海神はみずから門の外に出てきて、ホヲリノミコを宮殿に招き入れ、歓迎の宴を開きトヨタマヒメと結婚させた。こうしてホヲリノミコは3年間、海神の国に滞在した。
ホデリノミコト(火照命)の服従
3年が過ぎたある日、ホヲリノミコは失った釣針のことを思い出して深いため息を漏らした。妻のトヨタマヒメは夫に憂い事があるのに気づいて、父の海神に相談した。海神は詳しく事情を聞き出すと、大小の魚をことごとく呼び出して、釣針を取った魚がいないか聞いた。近頃赤い鯛が喉に骨が刺さって物が食べれないというので、調べてみると釣針があった。海神はすぐに取り出して洗い清め、ホヲリノミコに返した。 ホヲリノミコが葦原中国に帰ることになり、一尋鰐魚(ひとひろわに)が送って行くことになった。海神は潮満珠(しおみつたま)と潮干珠(しおふるたま)をホヲリノミコに授けて、こう言った。「釣針の兄君に返すとき、私が教えた呪文を唱えた後に渡しなさい。そうすると、三年間は兄君は凶作で貧窮に苦しむでしょう。あなたを恨んで攻めてきたら、潮満珠を出せば潮水で溺れさせることができるでしょう。兄君が苦しんで許しを乞えば、潮干珠で命を助けることができるでしょう」 ホヲリノミコは海神に教えられた言葉を唱えて釣針を兄に返した。それ以後、兄のホデリノミコはだんだん貧しくなり、荒々しい心を起こして攻めてくるようになった。そこで、ホヲリノミコは潮満珠を出して兄を溺れさせ、苦しがって命乞いをすると潮干珠を出して救ってやった。 それ以後、兄のホデリノミコはホヲリノミコの昼夜の守護人となって仕えようと言った。ホデリノミコの子孫の隼人(はやと)が、海水に溺れたときのさまざまな仕草を絶えず演じて今日まで宮廷に仕えているのは、そのためだ。
ウカヤフキアエズノミコト(鵜葺草不合命)の誕生
トヨタマヒメが夫のホヲリノミコのいる地上の国に出向いてきた。すでに身ごもっていて出産が近づいており、海辺の渚に鵜の羽を葺草にした産屋(うぶや)を作って、そこで出産することになった。トヨタマヒメは、異郷の者が出産のときは本来の身体になって生むので、産屋を覗かないでくれ、と夫のホヲリノミコに頼んだ。 産屋の屋根がまだ葺き終わらないうちに陣痛が始まり、トヨタマヒメは産屋に入った。妻の言葉を不思議に思ったホヲリノミコは、密かに覗いてみるとヒメは大鰐の姿ではい回り身をくねらせていた。その姿を見てホヲリノミコは驚き、恐ろしさのあまり逃げ出した。 夫に出産の現場を見られたことを知ったトヨタマヒメは、ウカヤフキアエズノミコト(鵜葺草不合命)を産み落とすと、ただちに海神の国へ帰ってしまった。しかし、夫を慕う心に耐えられなくて、その御子を養育するという理由で、妹のタマヨリヒメ(玉依毘売)を遣わした。 ホヲリノミコト(またの名ヒコホホデミノミコ)は、高千穂宮に580年間住まわれた。フキアエズノミコトは叔母のタマヨリヒメを妻として、5人の子供をもうけられた。その末子をトヨミケヌノミコト(豊御毛沼命)、あるいはカムヤマトイワレヒコノミコト(神倭伊波礼毘古命)という。
-12000稲作農耕
-11000福井洞穴遺跡(長崎県)(-7000)
-10000サツマ火山灰の下に栫ノ原遺跡・掃除山遺跡
農耕革命。植物を栽培、動物を家畜化。
磨製石器・弓矢が出現
-9000パプアニューギニアで植物栽培か
-9000イェリコの農耕集落
イェリコの農耕集落  人類の農耕の開始は、従来、メソポタミアにおいて始まったとされ、遺跡としてはBC6500年ころのジャルモ Jarmo (イラク北部のザグロス山麓)やイェリコ Jericho (パレスチナのヨルダン川河口)があげられていた。  しかし、現在では、もっと古くBC9000年ころに、メソポタミアではなく、パレスチナのイェリコやアスワドで、コムギ類とマメ類の栽培が始まったことが分かってきた。
-8000新石器時代の始まり
新石器時代
この頃から新石器時代が始まり、磨製石器と釣り針、針などの骨器、そして櫛目文土器が広く使われた。  新石器時代の人々は竪穴式住居に住み、同じ血筋の氏族が集まり付属をつくり、定住、農耕生活を始めた。
-8000BC6000頃 新石器文化国史年表
新石器時代
この頃から新石器時代が始まり、磨製石器と釣り針、針などの骨器、そして櫛目文土器が広く使われた。 新石器時代の人々は竪穴式住居に住み、同じ血筋の氏族が集まり付属をつくり、定住、農耕生活を始めた。
-8000漁労活動活発化、貝塚
喜界カルデラ噴火(前6400)
上野原遺跡・加栗山遺跡・前原遺跡の定住集落
竪穴住居の小集落
-7500トゥルカナ湖周辺で漁労社会
● 早 期(そうき) 縄文文化の成立期(約7,000~1万年前)  次が縄文文化の成立期としての「早期」である。約7,000~1万年前までの時代と推定される。この時期、一部の地域から順次、住様式としての竪穴住居が確立、初期的な縄文集落が形成された。  土器型式であるが、まず関東地方に撚糸文土器様式が、続いて近畿・中部地方に押型文(おしがたもん)土器様式が、さらに九州地方南部と北海道東部でもそれぞれの地域的特色を持つ土器様式が成立した。  東北地方はこれにやや遅れるが、早期中葉段階になると日計式(ひばかりしき)押型文土器様式が成立、まもなく次の貝殻沈線文(かいがらちんせんもん)土器様式に至って極めて密度の高い縄文社会が確立した。
-7000縄文草創期縄文早期
-7000夏島貝塚(神奈川県)(-4000)
-6800越高遺跡(上県町)
-6700稲作(陸稲-りくとう)が中国(南部)から伝わる
-6500メソポタミアでジャルモ朝が定住と農耕を開始。
-6500トルコのチュタル・ヒュユクで農耕
-6500ニジェール河流域で農耕
-6500中国黄河流域で農耕
-6500中国長江流域で稲作
-6000南ロシア・ギリシャへ農耕が伝わる
-6000貝塚時代[約6000年前-12世紀]
-5500青森県青森市にある1500年続いた日本最大の集落跡(三内丸山遺跡)(-4000)
山内丸山遺跡三内丸山遺跡は、今から約5500前~4000前の縄文時代の集落跡で、長期間にわたって定住生活が営まれていました。既に巨大な木造建築が行われていました。
-5000テワカンでトウモロコシ栽培
-5000新石器時代早期-5000-4000
櫛目文土器が広がるBC5000年頃
-4800黄河流域で彩陶文化(黄河文明、仰韶(ヤンシャオ)文化(前4800年ころ~前2300年ころ))
-4500メソポタミアで灌漑農業の開始。
-4500エジプトでも農耕が開始。
-4500東欧へ農耕が伝わる
-4000台湾、初期の定住者(4000年頃前)
-4000現代の台湾の先住民の先祖は4000年頃前に台湾に定住している。これらの先住民は遺伝的にはマレー人と関連し、母系ではポリネシア人と関連し、言語学者は彼らの言語をオーストロネシア語としている。台湾中でポリネシア人の先祖をたどることが可能であると思われている。
もともと、台湾にはアミ族やパイワン族などという先住民族が住んでいました。日本では高砂族といわれている人たちです。
-4000新石器時代(櫛目文土器時代/侯目文土器)-4000(もしくは-5000)-1000年
新石器時代前期-4000-3000
-4000縄文早期縄文前期
-4000佐賀貝塚・吉田貝塚下層(峰町)・加藤遺跡(豊玉町)
気候が温暖化。船が登場
平底土器一般化
三内丸山遺跡(青森県)、大規模集落-2000
-3500インダス流域へ農耕が伝わる
-3400メソポタミアのウルク朝が、文字を使い始める。また、都市を形成。銅器の使用。
-3350上古時代 -三皇 伏羲氏 天皇 太昊(紀元前3350年 - 紀元前3040年)
-3300アイスマンが氷に閉じ込められる
-3200志多留貝塚下層(上県町)
-3200稲作(水稲-すいとう)が中国(南部)から伝わる
-3100シュメール人の都市国家(メソポタミア文明)
-3100エジプト文明
-3040上古時代 -三皇 神農氏 地皇 炎帝(紀元前3040年 - 紀元前2510年)
-3000エジプト文明ナイル川周辺にエジプト文明が興る。
-3000メソポタミア文明チグリス・ユーフラテス川周辺にメソポタミア文明が興る。
-3000カラル文明
-3000メソポタミアにシュメール人の都市国家
-3000インダス文明
-3000エジプト、統一国家の形成
-3000ころギリシアのクレタ島、初期青銅器時代に入る(~前2000ころ)
-3000新石器時代中期-3000-2000
-3000縄文前期→縄文中期
-3000立体装飾に富む大型土器
一湊遺跡
石斧・土偶など作られる
-2700エジプトの古王国時代(- -2200)
-2700中国の伝承で崇拝される帝王、賢人、神のことで三皇は伏羲、神農、軒轅。五帝は黄帝、高陽、高辛、堯、舜。伝説時代ということになっています。
-2650エジプトで古王国の誕生
-2635階段ピラミッドを建設。
-2600インダス文明
-2600エーゲ文明
-2589エジプトのクフ王
-2550黄帝、 、 、堯、舜と呼ばれる五帝が支配した伝説の時代(~前2140年)
-2510上古時代 -三皇 軒轅氏 泰皇 黄帝(紀元前2510年 - 紀元前2448年)
-2500インダス文明インダス川周辺にインダス文明が興る。
-2500黄河文明黄河周辺に黄河文明が興る。
-2500このころ、北イラクにアッシリアが建国される。
-2448上古時代 -五帝 金天氏 少昊 姫玄囂(紀元前2448年 - 紀元前2364年)
-2400吉田貝塚上層(峰町)
-2371アッカドのサルゴンが、シュメール系諸国家を征服しメソポタミアを統一。
-2364上古時代-五帝高陽氏帝顓頊姫顓頊(紀元前2364年-紀元前2286年)
-2364上古時代 -五帝 高陽氏 帝?? 姫??(紀元前2364年 - 紀元前2286年)
-2350アッカド帝国-2150
-2333'古朝鮮時代[BC2333-BC108]
檀君朝鮮[BC2333年ごろ~]
'
-2333檀君、阿斯達に都し、朝鮮王となるを定める(三国遺事)国史年表
-2333その1、歴史の始まり・・・檀君神話・古朝鮮古朝鮮を建国した檀君に関する記録は高麗(高句麗)時代の高僧・一然(イルヨン)の書いた「三国遺事」に詳しく書かれている。昔々、天の国に住んでいた桓因(ファニン)の息子の桓雄(ファヌン)は、天の下の人間の世を気にしていた、父が息子の気持ちを察して、下界をながめて見ると、人間の世を作っても良さそうな気がしたので、桓雄に天の息子の証”天賦印”を与えて下におりて治めることを許した。父の許可を得た桓雄は3000人の配下を連れて太白山(テベク山)の神壇樹に降りてきた、そこが神市である、と壇君神話は始まります。しかし、古朝鮮の第一代の王は桓雄ではなく壇君です。壇君はまだ生まれていません、どのようにして生まれてくるのでしょうか。桓雄が世を治めているとき、毎日人間になりたいと心からお祈りをしている虎と熊が同じ洞窟に住んでいました。毎日、お祈りをする虎と熊を見て、二匹の動物にひとにぎりのヨモギとにんにく20個を渡して、桓雄は「それを食べて100日間太陽の光を避ければ人間になれる」といいました。しかし、虎は我慢できずに飛び出してしまった。熊は言いつけを守りきれいな女性に変わりました。しかし、熊の祈りはそこで終わりませんでした。女になった熊は、毎日、神壇樹の下で、子どもを生めるようにして下さいと祈り続けました。そこで、桓雄は男に変身してその熊女(ウンニョ)と結婚し、子どもが生まれました。その子が檀君です。檀君は紀元前2333年に平壌(ピョンヤン)を都にして、国名を朝鮮と呼びました。日が昇るところ、という古代の朝鮮語で、アサダルの漢字表現です。古朝鮮という名称は李成桂[イ・ソンゲ、太祖(テジョ)李氏朝鮮(りしちょうせん1392年-1910年)の始祖]が朝鮮王朝を建てたため、後に二つを区別するために檀君の朝鮮を古朝鮮と呼ぶようになりました。古朝鮮の開国が紀元前2333年というのは重要です。それは韓国の年号である檀紀をかぞえるとき用いる年度であり、今年(2006年)は檀紀4338年記なります。韓国の歴史が始まって今年で4338年目になったという意味。しかし、檀君は単に人の名前ではないという事実も注目に値します。個人を指す固有名詞ではなく、普通名詞です。祭政一致社会、シャーマンの王として政治権力と宗教の権力とを同時に持っていた意味をもつ一般名詞です。古朝鮮は政治と宗教が一致していた社会であったことが分かります。檀君はその後、1500年間、朝鮮を治めて、アサダルの山に入り、山の神になったといわれます。そのとき1908歳だったそうです。とここまでが、「三国遺事」の記録です。神話が事実か否かはそれほど重要ではありません。神話が存在する理由は、その民族の象徴であり、意味であるからです。『檀君神話』は、天の神の息子がこの地に降臨してきて、宇宙の木である神壇樹の前でこの世を創り、人々と共に生活する話です。そのハイライトは結婚式です。天があり、地があり、植物を代表する宇宙の木があり、動物を代表する熊がいる。その間に人がいる。全ての宇宙が集まって宴会をするのが、結婚式。この結婚から檀君が生まれる。現代を生きるわれわれがそのような全宇宙の美しい祝福を受けて生まれてきたということを伝えている話です。檀紀(檀君紀元)とは、「三国遺事」で伝えられる檀君(タングン)の朝鮮建国を称える年号のこと。「三国遺事」以下、各種史料では建国年次が一定していなかったが、1485撰述の「東国通鑑」が「唐堯の即位25年・戊辰」と特定して以来、紀元前2333年建国という認識が定着するようになった。檀紀は、日本からの独立を果たした大韓民国で公用紀元として採用された年号で、檀君(タングン)の朝鮮建国と伝えられる前2333年を元年とし、陰暦10月3日を開天節と定めている。1961年まで用いられたが、1962年の憲法改正(第三共和制)の際に、西暦に改められた。
-2333『朝鮮』名の由来です。『朝』とは、時の「朝廷」…中国「周」や「秦」「漢」「後漢」などから「清」国までの歴代中国史。『鮮』とは、「物請う、物乞う」つまり、朝廷に物乞う人々の国です。歴代中国側は、日本国側も貢物を差し出せばその地の統治者として認めるような外交をするも、日本があまりにも離れ地(難海を隔てた場所)の為に関与ができなく、属国化できなかった。しかし、朝鮮半島は、まさしく「物乞う」国として属国できたので『朝鮮』名を命名したのです。それが現在も続いている名称です。「朝鮮」の朝は、宗主国に献上する貢物を表します。そして「朝鮮」の鮮は、少ないという意味があります。中国には朝鮮半島の傀儡王朝から、財宝、作物、奴隷が献上されたという記録が残っています。国の名前を中国に決めてもらうとき、朝鮮のほうからも「朝鮮」を含むいくつかの名前を候補にお伺いを立てているわけです。朝鮮側は当然「朝のあざやかな国」、のつもりでその名前を考えたわけですが、中国側はリストにある「朝鮮」の文字を見て「貢物の少ない国」となった様です。
-2333壇君王倹,阿斯達に都を開く.古朝鮮建国檀君朝鮮(檀君神話)(三国遺事)
古朝鮮時代
朝鮮半島の歴史は、BC2333年の檀君(だんくん・タングン)による建国神話からはじまり、一般的に前漢武帝に侵攻を受ける以前の、檀君朝鮮からはじまって、次の箕子(きし・キジャ)朝鮮を経て、衛氏(えいし・ウィシ)朝鮮までの三王朝を、古朝鮮時代と呼び、BC108年、漢の武帝に征服される。檀君と箕子は、神であり人間である神話・伝説の世界の歴史である。支配地域は大同江から北西の地域。
檀君朝鮮
まず、檀君朝鮮。これは、ほとんど神話のようなお話で実在したかどうかはかなり怪しい・・・。朝鮮民族の始祖とされる檀君という神話上の人物がBC2333年に阿斯達(アサダル、現在の平壌)を都とし朝鮮最初の王国を建国したとされている。国の名称を朝鮮とし、この時代を檀君朝鮮と呼び、1500年続く、神話・伝説の王朝である。その後、いくつかの部族が満州南部地域から朝鮮半島に移動し、檀君が1908歳のとき、国を箕子に譲り、自身は神になって、山に入って行った。
-2333BC2333-BC108  前108年、漢の武帝に征服される以前の朝鮮およびその時代。  檀君〔たんぐん〕が紀元前2333年に阿斯達(アサダル、現在の平壌)を都として建国したとされている。  檀君(だんくん)・箕子(きし)・衛氏(えいし)などの王朝の支配下にあった。支配地域は大同江から北西の地域。
-2333 朝鮮半島の歴史は、BC2333年の檀君(タングン)による建国神話からはじまる。この、檀君(タングン)朝鮮からはじまって、次の箕子(キジャ)朝鮮を経て、衛氏(ウィシ)朝鮮までの三王朝を、古朝鮮時代と呼ぶ。 檀君(タングン)と箕子(キジャ)は、神であり人間である神話・伝説の世界の歴史である。 *BC2333年 檀君(タングン)( )が阿斯達(アサダル・・現在の平壌)を首都とする国を興し、国の名称を朝鮮( )とする。この時代を檀君(タングン)( )朝鮮と呼び、1500年続く、神話・伝説の王朝である。 その後、檀君が1908歳のとき、国を箕子に譲り、自身は神になって、山に入って行った。
-2333 古朝鮮(こちょうせん)とは、一般的に前漢武帝に侵攻を受ける以前の朝鮮をそう呼ぶことがあります。  まず、檀君朝鮮。これは、ほとんど神話のようなお話で実在したかどうかはかなり怪しい・・・。檀君という神話上の人物が平壌城で建国したとされ、この檀君が即位した年は、BC2333年といわれていますが伝説の人物、国であるというとらえ方が一般的ですね。
-2333古朝鮮時代(BC2333-BC108)  古朝鮮(こちょうせん)とは、一般的に前漢武帝に侵攻を受ける以前の朝鮮をそう呼ぶことがあります。 檀君朝鮮(BC2333年ごろ~)  伝説によると、神話の中の人物である檀君(タングン)がBC2333に韓国最初の王国である古朝鮮を建国したとされています。  まず、檀君朝鮮。これは、ほとんど神話のようなお話で実在したかどうかはかなり怪しい・・・。朝鮮民族の始祖とされる檀君という神話上の人物が阿斯達(アサダル、現在の平壌)を都として建国したとされている。  まず、檀君朝鮮。これは、ほとんど神話のようなお話で実在したかどうかはかなり怪しい・・・。檀君という神話上の人物が平壌城で建国したとされ、この檀君が即位した年は、BC2333年といわれていますが伝説の人物、国であるというとらえ方が一般的ですね。  檀君(タングン)が阿斯達(アサダル・・現在の平壌)を首都とする国を興し、国の名称を朝鮮とする。この時代を檀君(タングン)朝鮮と呼び、1500年続く、神話・伝説の王朝である。 その後、檀君が1908歳のとき、国を箕子に譲り、自身は神になって、山に入って行った。
 朝鮮半島の歴史は、BC2333年の檀君(タングン)による建国神話からはじまる。この、檀君(タングン)朝鮮からはじまって、次の箕子(キジャ)朝鮮を経て、衛氏(ウィシ)朝鮮までの三王朝を、古朝鮮時代と呼ぶ。
檀君(タングン)と箕子(キジャ)は、神であり人間である神話・伝説の世界の歴史である。
 その後、いくつかの部族が満州南部地域から韓半島に移動してきました。
-2300黄河下流域で黒陶文化(黄河文明、竜山(ロンシャン)文化(前2300年ころ~前1500年))
-2286上古時代-五帝高辛氏帝嚳姫夋(紀元前2286年-紀元前2216年)
-2230アッカド王国の滅亡。
-2216上古時代 -五帝 青陽氏 帝摯 姫摯(紀元前2216年 - 紀元前2213年)
-2213上古時代 -五帝 陶唐氏 帝堯 依祁放勛(紀元前2213年 - 紀元前2115年)
-2200エジプトの第1中間期
-2200黄河下流域で黒陶文化
-2200住吉平貝塚(豊玉町)
-2150アッカド王国の滅亡。
-2144禹、治水に成功し、天子の位につく夏、始まる(木徳・青・東)
-2135エジプトの中王国時代
-2112ウル第3王朝
-2112ウル第3王朝
-2112上古時代 -五帝 有虞氏 帝舜 姚重華(紀元前2112年 - 紀元前2073年)
-2111ウル王ウルナンムが、メソポタミアを再統一。法典の編纂を行う。
-2111前2111年ウル王ウルナンムが、メソポタミアを再統一。法典の編纂を行う。
-2100伝説時代(B.C.21c以前)
-2069夏王朝(B.C.2069~B.C.1600)
中国夏王朝成立
夏王朝・・ 禹―?―太康―仲康―相―少康―杼―槐-芒―泄―不降―?―?―孔甲―皋―発―癸―桀(- -1600)
-2040メンチュヘテプ2世が、100年ほど前から分裂していたエジプトを再統一。中王国時代。
-2000エーゲ文明ギリシャを中心にエーゲ文明が興る。
-2000インド=ヨーロッパ語族の大移動が始まる
-2000アッシリア
エーゲ海沿岸にエーゲ文明(クレタ/ミケーネ文明など)が栄える。その後、ポリス(都市国家)が形成されて民主政治が進められる。 ギリシャ連合とペルシアの戦いの後にポリス間で大規模な争いがはじまり、エーゲ海沿岸のギリシャは衰退していく。ギリシャ時代のギリシャ文化はギリシャ文字、彫刻、パルテノン神殿。哲学ではピタゴラス、ソクラテス、プラトン、アリストテレスなど。 そして、バルカン半島のマケドニア(地方のギリシャ人)のアレクサンドロス大王がエーゲ海沿岸及びペルシアを制圧する。この時に生まれた東西の融合文化はヘレニズム文化と呼ばれる。 その時代の人物ではアルキメデス、ユークリッド、エラトステネス、アリスタルコスなど。 アレクサンドロス大王の死後は領土争いで国が分裂する。 共和政ローマはカルタゴとの地中海の覇権争いに勝利して地中海を制覇する。三頭政治を経てアウグストゥスが初代ローマ皇帝となりローマ帝国が始まる。(最盛期はヨーロッパ及び地中海沿岸全域) 紀元前27年から約200年に渡る平穏な時代を「パックス=ロマーナ」(ローマの平和)と呼ぶ。その後、395年にローマは東西の2つの国に分裂する。(東ローマ帝国/西ローマ帝国) 遊牧民のフン族の影響で北欧周辺のゲルマン人が南下後、東西に大移動する事により、ゲルマン人による諸国家が建国される。
-2000クレタ文明(クノッソス宮殿)
-2000ギリシア人(アカイア人)、ギリシア本土(ヘラス)に南下
このころクレタ島、中期青銅器時代に入る(~前1600ころ)
-2000クレタ島を中心にクレタ文明(ミノア文明)が栄える~前1500年(クノッソス遺跡)。古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]
-2000古代ヨーロッパ-[紀元前~476年]
-2000古バビロニア王国
-2000中国夏王朝(伝説)成立 夏王朝・・禹―?―太康―仲康―相―少康―杼―槐-芒―泄―不降―?―?―孔甲―皋―発―癸―桀
-2000歴史書には王の系譜まで載っており、血族による皇帝制度はこの王朝から始まったとされています。最近になってやっとその存在を証明するようなものが発見されています。(- -1600)
-2000夏王朝中国最古と伝承される王朝。
-2000新石器時代晩期-2000-1000
-2000朝鮮あわ、きび、ひえなどを栽培。
-2000鉢・皿・土瓶など土器の形が多様化
-2000縄文中期縄文後期
-2000大規模な環状貝塚
前谷遺跡
大湯環状列石(秋田県)(-1000)
-1894アモリ人がバビロン第1王朝(バニロニア)を建国。古バビロニア王国
-1813古アッシリア王国
-1800チャビン文明
-1800ハムラビ法典制定
-1800エジプトの第2中間期
-1792バビロニアでハンブラビ王が即位。ハンブラビ法典の編纂。
-1751商王朝(殷)(B.C.1751~B.C.1023)
-1711湯、諸侯を率いて夏の桀王を殺し、天子の位につく殷、始まる(金徳・白・西)
-1700殷王朝成立(?/-1500/-1550/-1600頃/-1700頃 ~ -1027/-1046/-1122)(華北を統一)
-1680ヒッタイト古王国
-1600神権政治が行われていた伝説の王朝だと言われてきましたが、今世紀に入ってからの殷墟の発掘で実在が確かめられました。また、甲骨文から、この王朝の約1000年後に書かれた、司馬遷の「史記」が極めて正確だったことも確認されました。
なお殷という名前は最後の首都名で、王朝の正式名称は商です。この国の人たちが亡国の民となり、各地に散って、仕方なく危険な流通業を始めたことから、その仕事を商業というようになりました。
-1600クレタ島、後期青銅器時代に入る(~前1100ころ)
-1600殷王朝黄河中流・下流に殷王朝樹立。(商王朝ともいう)
-1595古バビロニア王国滅亡
-1570エジプトの新王国時代
-1550ミタンニ王国
前15世紀、メソポタミア北部にあった王国。エジプト新王国、ヒッタイトなどと抗争した。前13世紀ごろ、アッシリアに滅ぼされた。  前16世紀からメソポタミアの北方の山岳地帯を支配したミタンニ人が建てた国で、ミタンニ人はインド=ヨーロッパ語族とされている。しかし、ミタンニを構成していた多くの人々は、もともとコーカサス地方にいたフルリ人(フリ人ともいう)であったという。このフルリ人の民族系統は不明である。  前15世紀にはシリア・イラク地方に進出してきたエジプト新王国と対抗、他方で小アジアのヒッタイトとも抗争した。前14世紀にはヒッタイトに敗れて衰退する。メソポタミア北部でははじめはアッシリア人を服属させていたが、そのアッシリア人がヒッタイト人から鉄器を学び、次第に有力となる中でミタンニは前13世紀ごろ滅亡した。 → その位置はヒッタイトの地図を参照
-1500アーリア人がインドのパンジャブ地方へ進入
-1500エーゲ海のサントリニ島で火山爆発
-1500ミケーネ文明が栄える(アカイア人)。古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]
-1500-1500年ごろ、中国より農耕伝わる。
-1450ギリシャのミケーネ文明
-1450クレタ文明滅亡
-1400ギリシア、ミケーネ文明栄える(エーゲ文明)
-1400殷王朝の遷都
-1364アマルナ文化
-1364エジプトのイクナトン
-1300メキシコのオルメカ文明
-1300ギリシア人、エーゲ海・小アジア西岸に植民活動
-1300トロヤ戦争-ギリシャ連合軍vsトロヤ王国(ギリシャ勝利)-13世紀。古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]
-1300黄河文明の繁栄
-1300BC1300年頃 無文土器が作られる。
-1270ミタンニ王国の滅亡
-1260モーゼの出エジプト
-1200リグ・ヴェーダの集大成
-1200フェニキアの繁栄
-1200ヒッタイト新王国滅亡
-1200トロイア戦争
-1150ギリシャにドーリア人南下
-1122箕子朝鮮[-1122-194]
中国の殷(いん)の賢人、箕子が、箕子朝鮮を建国する。
箕子朝鮮(?~BC194)
中国の殷(いん)の賢人、箕子(キジャ)が、檀君の王位を継ぎ、箕子(キジャ)朝鮮を建国する。首都は平壌である。箕子朝鮮は、BC194年まで、40世あまり続くことになるが、檀君朝鮮同様、神話・伝説の時代である。
BC4世紀
満州遼寧を中心に、満州と朝鮮半島をつなぐ広い地域を統治する国家に発展した。
 鉄器が普及し始めた。?~BC194年に登場するのが箕子(きし)朝鮮。この王朝に関しても、まだ実在の確認はされていませんが「史記」や「漢書」によれば、殷の箕子が建国したということになっています。
-1122 中国の殷(いん)の賢人、箕子(キジャ)( )が、檀君の王位を継ぎ、箕子(キジャ)( )朝鮮を建国する。首都は平壌である。 箕子朝鮮は、BC194年まで、40世あまり続くことになるが、檀君朝鮮同様、神話・伝説の時代である。
-1122 中国の殷(いん)の賢人、箕子(キジャ)( )が、檀君の王位を継ぎ、箕子(キジャ)( )朝鮮を建国する。首都は平壌である。 箕子朝鮮は、BC194年まで、40世あまり続くことになるが、檀君朝鮮同様、神話・伝説の時代である。
-1100ギリシア人の一派ドーリス人、ギリシア本土に侵入
-1090エジプトの末期王朝時代
-1071紂王、妲己を寵愛する
-1070伯夷・叔斉、このころ周に往く
-1070箕氏朝鮮の誕生(伝説)
-1068西伯昌(周の文王)、?里に幽閉される
-1056周の文王没
-1050周王朝による華北の統一
-1050周王朝(西周)・・周(西周)王朝の系図・武王発―成王誦―康王釗―昭王瑕―穆王満―共王―懿王―孝王辟方―夷王燮―厲王胡――共和時代――宣王静―幽王宮涅
-1050周王朝(西周)・・部族「周」の系図・棄―不―鞠―公劉―慶節―皇僕―差弗―何某―公非―高圉―亜圉―公叔祖類―古公亶父―季歴―昌
-1050太公望が武王を助けて天下をとったのがこの王朝です。諸侯を世襲制にし、税や軍役の義務を負わせる封建制度を確立し、『礼』を政治の中心に置く、礼政一致の政体を採りました。  ~前771周【西周】
-1050周王朝(西周)・・ 周(西周)王朝の系図・武王発―成王誦―康王釗―昭王瑕―穆王満―共王―懿王―孝王辟方―夷王燮―厲王胡――共和時代――宣王静―幽王宮涅
-1050周王朝(西周)・・ 部族「周」の系図・棄―不―鞠 ―公劉―慶節―皇僕―差弗―何某―公非―高圉― 亜圉―公叔祖類―古公亶父―季歴―昌
-1050商王朝(殷)・・ 部族「商」の系図・契―昭明―相土―昌若―曹圉―冥―王亥 ―王恒― 上甲微―報丙―報丁―示壬―示癸―湯
-1050商王朝(殷)・・ 商(殷)王朝の系図・湯―太丁―外丙―仲壬―太甲―沃丁―太庚―小甲―雍己―太戊―仲丁―外壬―河亶甲―祖乙(中宗)―祖辛―沃甲―祖丁―南庚―陽甲―盤庚―小辛―小乙―武丁(高宗)―祖甲―康丁―武乙―文丁―帝乙―帝辛(紂)
-1050商王朝(殷)・・商(殷)王朝の系図・湯―太丁―外丙―仲壬―太甲―沃丁―太庚―小甲―雍己―太戊―仲丁―外壬―河亶甲―祖乙(中宗)―祖辛―沃甲―祖丁―南庚―陽甲―盤庚―小辛―小乙―武丁(高宗)―祖甲―康丁―武乙―文丁―帝乙―帝辛(紂)
-1050商王朝(殷)・・部族「商」の系図・契―昭明―相土―昌若―曹圉―冥―王亥―王恒―上甲微―報丙―報丁―示壬―示癸―湯
-1047比干殺され、箕子捕らわれ、微子殷を去る
-1046周の武王、太公望・周公旦・召公 らと殷を討つ 紂王自殺 周(西周)、始まる(火徳・赤・南)
-1045(~1006年)魯、燕、衛、晋、曹、蔡、呉、陳、宋、斉、楚の諸侯、成立
-1043武王没成王即位し、周公旦が摂政となる
-1043周公旦を疑い、紂王の子武庚と、周公の兄弟菅叔鮮・蔡叔度が反乱を起こす(三監の乱)
-1023周王朝(西周)(B.C.1023~B.C.771)
-1000イスラエル王国
-1000バラモン教の成立→インドのカースト制度
-1000アーリア人がガンジス川流域に進出
-1000アイオリス人
古代ギリシア人のアイオリス方言を話す人びと。 古代のギリシア人の中で、小アジア西岸の北部(イオニア地方の北)のアイオリス地方に居住し、アイオリス方言を話す人びと。レスボス島もこの人びとの居住地であった。ギリシア本土のテーベは、アイオリス人のポリスである。古代ギリシア人の一分派。ドリス人侵入以前にギリシアに来住,前1000年ころボイオティア,テッサリアからレスボス島,小アジア西岸北部のアイオリスAiolis地方に進出した。アイオリス方言を使用。
-1000ギリシャ文明ギリシャ各地にポリスが形成された。
-1000とうもろこしを主とする農耕
-1000メキシコのオルメカ文化
-1000イタリア半島にインド・ヨーロッパ語族のイタリア人が侵入・定住
このころエトルリア人もイタリア半島に来住か
-1000周王朝殷王朝の後に周王朝が樹立。(西周)
-1000無文土器時代[-1000年頃-100年]
無文土器時代前期(-1000-700)
-1000BC10世紀頃 朝鮮半島ではこの頃、青銅器時代が始まり、支配階級の武器や装飾品として用いられた。
アワ、ムギ、ダイズ、イネが栽培された。
青銅器の武器を使用し他の部族を制服するなど勢力を拡張していった。
一部の地域で稲作。? 竪穴式住居。
青銅器文化の展開・古朝鮮の発展
青銅器文化が始まる。BC1000年頃
水稲栽培始まる。BC10~8世紀頃
-1000BC1000頃青銅器文化の展開国史年表
-1000BC1000頃古朝鮮の発展国史年表
-1000縄文後期縄文晩期
-1000宇宿貝塚・草野貝塚
市来式土器・指宿式土器が盛ん
漆塗りなどの小型土器発達
装身具・呪術的な道具発達
亀ヶ岡遺跡(青森県)(-500)
-1000縄文晩期
-971イスラエル王国のソロモン王(-932)
-928イスラエル分裂
-928「イスラエル統一王国」、3代目イスラエル王ソロモンの後継者を巡って大分裂。イスラエル10支族とイスラエル2支族は南北に分かれて対立。
-920クシュ王国の形成
-900ポリスの形成
-900九州北部へ農耕が伝わる
-841『史記』十二諸侯年表、この年より始まる
-814カルタゴ建設される
-800ギリシア人の地中海進出始まる(南イタリアほか)
-800BC800年頃 古朝鮮の実在節有り
-779幽王、褒 を娶り、政事乱れる
-776ギリシアで第1回オリンピア競技開催
-776ポリス(都市国家)が形成される。商業都市:アテネ軍事都市:スパルタ都市:テーベ-8世紀~。古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]
-776第一回オリンピックの開催。古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]
-772魯国編年史『春秋』の記載始まる春秋時代始まる(~前481年)鄭の荘公、共叔段の乱を平定
-771幽王、犬戎に殺される諸侯、平王を擁立
-771異民族の侵入によりいったん滅んだ西周の政権が洛邑に遷都して維持した政権です。しかし、その勢力は諸侯よりも小さく、各地の封国が力を持ち始めたのがこの時代です。孔子や老子などいろいろな思想が出ました。
周の力は完全に地に落ち、各国が領土と覇権を争って本気になった時代です。   ~前403頃春秋時代【東周】
-771東周(B.C.771~B.C.256)
-770このころより、諸侯間及び諸侯国内の抗争しだいに激化
-770春秋時代始まる(~-403)・・桓公(斉)・文公(晋)・荘王(楚)・穆公(秦)・夫差(呉)・勾践(越)()内は国名。
-770周の東遷→東周時代(~403)
-770東周・・平王が晋・鄭・衛・秦(国名)の力を借りて周を東遷し、東周が誕生。以下25代の王が立つ。
-770平王、 邑(洛陽)に遷都東周、始まる(~前256年)秦、諸侯に列せられる
-770東周・・ 平王が晋・鄭・衛・秦(国名)の力を借りて周を東遷し、東周が誕生。以下25代の王が立つ。
-770春秋時代周が都を洛邑(成周)へ遷都して東周となる。やがて春秋五覇へ。五覇=斉の桓公、晋の文公以外は諸説有り。春秋時代の諸国=鄭・斉・楚・宋・晋・秦・燕・魯・呉・越など
-753王政伝説上のローマ建国の年(伝説)古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]
-753伝説上のローマ建国
-753カルタゴ(フェニキア人)は西地中海の貿易を独占-6世紀~。古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]
-750『イリアス』『オデュッセイア』の作者ホメロス在世と伝えられる
-745アッシリアが全オリエントを統一し、アッシリア帝国として強大になる。
-745新アッシリア帝国の建設
-725ギリシアのスパルタ、メッセニア征服
-722春秋時代の記述、この年から始まる(B.C.722~B.C.403)
-722アッシリア帝国がイスラエル王国を滅ぼす。
-722「北イスラエル王国」がアッシリアによって滅ぼされる。エフライム族を中心とするイスラエル10支族は捕囚され、そのまま消息を絶つ。
-722アッシリア帝国が北イスラエル王国を滅ぼす。
-719衛の州吁、桓公を弑す衛人、州吁を濮に殺す
-717鄭の荘公、陳を破る
-715メソポタミア(イラン高原)でメディア王国が成立。
-714鄭、大いに北戎を破る
-712鄭の荘公、許に入り、宋を破る
-711 2.13. 庚午年01月01日 神武天皇生誕
-707周の桓王、鄭を討ち大敗楚の熊通、王号を冒し、武王と称す(前704年説あり)
-700「イーリアス」ギリシャの吟遊詩人ホメ-ロスが、「イーリアス」と「オデュッセイア」を著したとされる。
-700「易経」著者=伏羲(古代中国神話に登場する神または伝説上の帝王)陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説く。古代中国の哲学と宇宙観の集大成とされる。(この後順次四書五経が成立する)四書五経 儒教の経書の中で特に重要とされる四書と五経の総称。五経を以て四書よりも高しとされる。    四書・・・「論語」「大学」「中庸」「孟子」   五経・・・「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」
-700無文土器時代中期(-700-300)
-700-700年ごろ、青銅器伝わる。
水稲栽培はじまる
-694斉の襄公、魯の桓公を殺す
-686公孫無知、斉の襄公を弑す管仲、公子糾とともに魯に奔る
-685斉の雍廩、公孫無知を殺し公子小白(桓公)を立てる管仲を宰相に迎える
-681魯の曹沫、斉の桓公を脅して失地を回復する
-679斉の桓公、斉・宋・陳・衛・鄭の諸侯と甄で会盟し、覇者を称す
-667斉の桓公、周王より伯(覇者)を賜る
-667 10.5. 神武天皇が日向の国を出発し東征開始
-666晋の驪姫、その子奚斉を立てんとし、公子申生・重耳・夷吾を逐う
-666 3.6. 神武天皇は吉備国に到着。高島宮をつくり、そこで船軍を整える
-663 2.11. 神武天皇の軍が吉備の国を出発し東征再開
-662 3.7. 神武天皇が橿原宮造営開始
-661 9.24. 神武天皇事代主神の娘媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を召して正妃とする
-660魯の慶父、 公を弑す季友、釐公を擁立して慶父を殺すこれより魯の三桓氏興る
-660 2.11. 第1代神武天皇が橿原宮で即位
-655晋の献公、太子申生を殺す公子重耳(のちの文公)、狄へ逃げる
-651斉の桓公、諸侯を葵丘に会し、桓公の覇業成る
-645晋の繆公、夷吾を帰国させる(晋の恵公)斉の宰相管仲没
-643斉の桓公没
-639宋の襄公、覇者たらんとして諸侯を会するも楚に捕らわれのち許される
-638宋の襄公、楚と泓水に戦って敗れ(宋襄の仁)、翌年死す
-636晋の公子重耳、亡命19年ののち即位(文公)
-633アッシリア帝国のアッシュールパニパル王が、エジプトの首都テーベを占領。
-633アッシリア帝国のアッシュールパニパル王が、エジプトの首都テーベを占領。
-632晋の文公、楚を城濮に破り(春秋五大戦の一)、周王を迎え、践土に会盟して覇者となる
-632神渟名川耳尊(綏靖天皇)生誕
-630ゾロアスター教の創始
-628晋の文公没
-627晋の襄公、秦を に破る(春秋五大戦の二)
-625メソポタミアで新バビロニア王国が成立。
-624秦の繆公(穆公)、西戎に覇をとなえる
-621ギリシア、最古の成文法ドラコンの法典制定
このころギリシアの植民運動盛ん
-621秦の繆公没
-619 1.3. 神渟名川耳尊(綏靖天皇)を皇太子とする
-618楚、鄭・陳を討ち、和解す
-617楚、宋を討たんとし、和議なる
-616エトルリア人の王によるローマ支配
-615晋、秦を河曲に破る
-609アッシリア帝国が完全に滅亡。
-608晋、陳・宋を救って鄭を討つ
-607晋の趙盾、霊公を弑す
-606楚の荘王、陸渾の戎を討ち、周の大夫王孫満に「鼎の軽重」を問う
-600「書経」(尚書)政治史・政教を記した中国最古の歴史書。堯舜から夏・殷・周の帝王の言行録を整理した演説集。
-600タレス、こはくの摩擦電気、磁気現象などを発見(ギリシア科学の始)
-600このころ老子生まれる(伝説)
-599陳の大夫夏徴舒、霊公を弑す
-598新バビロニア王国が、ユダ王国を滅ぼし住民を強制移住&奴隷化(バビロン捕囚)。
-598楚の荘王、陳を討って夏徴舒を殺し、夏姫を楚につれもどす
-597楚の荘王、晋を?に破り、覇者となる(春秋五大戦の三)
-594ギリシアのアテネでソロンの改革/-593
-594ソロンの改革-民衆裁判/評議会の設置など民主主義の基礎となる。古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]
-591楚の荘王没
-589晋、魯・衛・曹を率いて、斉を鞍に破る(春秋五大戦の四)
-588晋、六軍を作る
-587「南ユダ王国」が新バビロニア王国によって滅ぼされる。ユダ族を中心とするイスラエル2支族は捕囚され、不滅と言われた「ソロモン神殿」は崩壊。
-586ユダヤ王国滅亡
-586バビロンの捕囚
-585 3.11. 第1代神武天皇が崩御127歳
-584 9.12. 神武天皇を畝傍山の東北の陵に葬った
-581 1.8. 第2代綏靖天皇が葛城高丘宮で即位。
-580 1.. 綏靖天皇が五十鈴依媛を皇后とする。
-579宋の華元の斡旋で晋・楚の和平なる(第一次和平)
-577磯城津彦玉手看尊(安寧天皇)生誕
-575晋、楚・鄭を 陵に破る(春秋五大戦の五)
-561ペイシストラトス、アテネの僭主となる
-557シャカ(仏陀)生まれる
-557 1.7. 磯城津彦玉手看尊(安寧天皇)立太子。21歳
-553大日本彦耜友尊(懿徳天皇)生誕
-551孔子(孔丘)、魯に生まれる(公羊伝・穀梁伝では前552年)
-550仏陀、孔子、老子
-550「諸子百家」諸子百家の思想家が出る。  諸子=孔子、老子、荘子、墨子、孟子、荀子などの人物を指す。  百家=儒家、道家、墨家、名家、法家などの学派を指す。
-550アケメネス朝ペルシアによって、メディア王国が滅亡。前539年には新バビロニアが滅亡。
-549 5.10. 綏靖天皇崩御84歳
-549 7.3. 第3代安寧天皇が即位
-549 10.11. 綏靖天皇を桃花鳥田丘上陵に葬る。
-547安寧天皇が片塩の浮穴宮に遷都する。
-546宋の向戌の提唱で、晋・楚・秦以下13ヵ国間に和平なる(第二次和平)以後、40年間、休戦
-546 1.5. 安寧天皇が渟名底仲媛命を皇后にする。
-542このころ子路(仲由)生まれる
-539新バビロニアが滅亡。
-539ペルシャ帝国の建設
-538新バビロニア王国を滅ぼしたアケメネス朝ペルシア帝国のキュロス2世は、寛大な宗教政策により、イスラエル2支族の祖国帰還を許す。ソロモン第二神殿の建設開始(新ユダヤ教の確立)。
-538 1.1. 大日本彦耜友尊(懿徳天皇)立太子
-537魯の三桓氏、国軍を三分して私軍とす
-536鄭の宰相子産、中国最初の成文法「刑書」を鼎に鋳る
-535このころ孫子(孫武)生まれる
-530ギリシアのピタゴラス、南イタリアで活躍
-525エジプトがペルシャに占領される
-525アケメネス朝ペルシアのカンビュセス2世、エジプトを征服。全オリエントの統一。
-522楚の平王、伍奢とその子伍尚を殺す伍尚の弟伍員(伍子胥)、呉に奔る
-521このころ顔回(顔淵)生まれる
-520このころ子貢(端木賜)生まれる
-517魯の昭公、三桓氏に攻められ、斉に亡命孔子、斉に往く
-515呉の公子光(闔廬)、王僚を弑して立つ
-511呉、伍子胥の計を用いて楚を侵す
-511 12.6. 安寧天皇崩御(磯城津彦玉手看尊)(天皇(3代))<67歳>
-510 2.4. 第4代懿徳天皇が即位
-510 8.1. 安寧天皇を御蔭井上陵(みほとのいのえのみささぎ)に葬る
-509共和政エトルリア人の王が追放され、貴族共和政がはじまる。王政廃止、共和政樹立
-509ローマ王政倒れ、共和政となる(伝承による)
-509古代ローマが共和政ローマとなる。古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]
-509 1.5. 懿徳天皇が、軽の曲峡宮に遷都。
-509 2.11. 懿徳天皇が天豊津媛を皇后とする。
-508(陶片追放創始)
-508アテネの民主制成立
-508アテネでクレイステネスの民主改革/-507
-508クレイステネスの改革-民主政治を進める。古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]
-506呉、柏挙に楚を破り、呉軍、楚都郢にはいる斉の晏嬰没
-506観松彦香殖稲尊(孝昭天皇)生誕
-505越、呉を侵す楚の申包胥、秦軍の救援を得て楚を救う呉、敗退す
-505魯、季桓氏の家臣陽虎の専制始まるこのころ、陽虎、孔子を招聘
-505このころ曾子(曾参)生まれる
-500「旧約聖書」ユダヤ教の教えを説いたもの。
-500老子老子(生没不明)の語録。道教の中心思想となる。道教:漢民族の土着的・伝統的な宗教。道(タオ)と一体となる修行のために錬丹術を用いて、不老不死の霊薬、丹を錬り、仙人となることを究極の理想とする。
-500「春秋」儒教では、孔子の手が加わった、もしくは孔子が作ったとされる。魯国の次によって記録された、中国春秋時代に関する編体の歴史書。-722ー-481までの歴史書。
-500イオニア植民市のポリスがペルシアに反抗〔イオニアの反乱〕、ペルシア戦争始まる(~前450/449)
-500ペルシア戦争(マラトンの戦い/サラミスの海戦など)ギリシャ連合軍vsペルシア(ギリシャ勝利)~前449年。古代ヨーロッパ-[エーゲ海沿岸等]
-500魯、斉と夾谷に会盟し、孔子随行す
-500縄文晩期弥生前期弥生時代
-500菜畑遺跡で水田稲作
水田稲作が広まる
青銅器と鉄器が大陸から伝わる
弥生前期
紀元前1世紀、石器は減少し、鉄製工具普及。
鉄製の刃の鍬・鋤を使用
乾田の開発
邪馬台国連合の形成(『魏志』倭人伝)
大型の墳丘墓出現