良王親王

良王親王

父:尹良親王

瑞泉寺縁起

門当寺は後醍醐天皇の曾孫、良王(りょうおう)様の菩提寺と言われています。良王親王の父は尹良(ゆきよし)親王で、菩提寺は市内大竜寺です。両寺とも  京都浄土宗永観堂を本山とし、兄弟寺です。菩提寺となった経緯は、江戸時代に書かれた「浪合記」「良王君伝」「信濃宮伝」に記載されております。その時代背景と内容を表にします。

 

1334年醍醐天皇が鎌倉幕府を倒して天皇が国政を掌握する建武政権が成立
1336年足利尊氏が新しく光明天皇を推挙し、天皇家が二家に別れる。
同年後醍醐天皇は吉野へ移り、南朝政権を樹立する。一方孝明天皇は北朝を名乗り、南北朝時代が始まる。
1392年南朝と北朝の講和が成立したが、それ以降も両者の抗争が続く。その時代の南朝親王が尹良様・御子良王様です。
1424年尹良親王は、山梨県から三河へと向かう途中、長野県並合村で敵軍に囲まれ、自害される。同年八月十五日の事です。
1428年御子良王君は、上野国から信濃に向かわれるが、途中各所で武士団の攻撃を受け、津島へお連れすることを決定。津島の四家七党の武士団が主軸となって護衛し津島に向かわれた。四家とは、大橋・岡本・山川・恒川。七党とは、堀田・平野・服部・鈴木・真野・光賀・河村。
1435年十二月二十九日に良王君を津島に迎え奴野屋城(現西方寺、天王通り四丁目)に入御される。
1492年三月五日逝去。御年七十八歳、瑞泉寺殿と号し奉る。二年後天皇社境内に御前大明神として、初めて祭る。

    津島神社神主始まりは良王親王の御子良新様、良新様御子無き故、中島郡(稲沢市)に領地を持つ定嗣が跡を継ぎ、代々氷室を名乗り、津島神社神主として明治初期まで続く。

鏡池山瑞泉寺の由来

 瑞泉寺はかつては津島神社代々神主邸内にありました。この屋敷は中世城郭形式の構造で、屋敷地の周辺を外堀で囲み、邸内には内堀や池を備えていたのです。寺は屋敷地内南方の池のほとりに建てられ、その池は鏡のようなきれいな水面を持つことから、山号を「鏡池山」としたのでしょう。
  寺の創建年代は、良王様逝去二年後の1494年、神社境内の御前大明神が創建された時。または御子良新様が神主になられた時(年代不詳)。この二案が浮かびますが、何れにしても1500年前後と考えられます。
  神主邸から瑞泉寺が舟戸町に移動した年代は、良新様が神主になられ、一代でその職を氷室氏に譲られた直後と思われます。当寺には六基の法筐印塔があり、一基が良王君の塔と伝えられています。六基の内、一基は良王君、今一基が良新様、他の四基は御家族と考えられています。

 現在の御本尊様は、1751年春に大橋武左衛門の寄進によるもので、京都の仏師駒井柳朝師作です。
茶席 椿園(ちんえん)

当山が神主家にあった時代を偲んでの構造物があります。江戸後期の津島神社神主で、京都歌壇桂園派の四天王と称された氷室長翁の茶席です。この茶席は、彼が桂園派宗家香川景樹と共に吉野を散策した時、一本の椿の木にいたく感動し、それを持ち帰り神主邸内にその椿を使用して席を新築した、と伝えられています。当山がそれを譲り受け、移築した席です。茶席前には、鏡池山由来の池も復元されています。
稚児門

稚児門現在、川祭車の準備する池は、通称車河戸と呼ばれ中世の天皇川港だったのです。この港は江戸時代中期まで瑞泉寺南隣まで奥行きがあり、このことが舟戸町と名付けられた町名由来です。稚児門とは、川祭り祭礼当日、乗船する稚児が門外の水路から小船で祭礼本船に向かったことから名付けられ、祭り執行には重要な役割を持つ門だったのです。

良王霊(りょうおうのみたま)
 宗良(むねなが/むねよし)親王は後醍醐天皇の第5(注:諸説あり)皇子で、大河原城(大鹿村大河原)を本拠にして、諏訪氏や越後の新田氏と共に、北朝(足利氏)に対抗した。信濃宮とも呼ばれる。南朝(吉野朝)の歌聖とされ『新葉和歌集』や『梨歌集』の撰者として知られる。

 尹良(ゆきよし)親王は宗良親王の第2の御子として大河原で誕生、母は知久氏の女ともいう(注:諸説あり)。元中2年に新田義隆らと鎌倉討伐を謀ったが、露呈したため三河へ赴こうとした。その途中並合(浪合)で駒場小次郎、飯田太郎らに攻め立てられ32才で自害した。遺骨を浪合聖光寺近くの丘山に葬り、大龍寺の宮と称し奉った。戦死した将士を埋めた所を千人塚という。また、一祠を祭祀して現在の浪合神社となった。

 良王は尹良親王の御子で元中2年当時12才であった。尹良親王が三河に赴く寸前に急いで元服させ尹重王と改め、下野落合城に遷し奉った。伍和村寺尾伊賀良社に祭祀している