蓮如

蓮如

れんにょ
 1415~1499(応永22.2.25~明応8.3.25) 85才

別:
諱 (いみな) は兼寿。勅諡は慧燈大師。幼名は布袋丸。諱は兼寿、信証院と称した。勅謚は慧灯大師。法名は兼寿。
父:
本願寺第七世存如の長男、中納言広橋兼郷の猶子
母:
召使の女性
子:
実如

室町時代の僧。京都東山山麓の大谷本願寺で本願寺第7世存如(ぞんにょ)(1396―1457)の長子として生まれたが、母は存如の母(一説に存如)に給仕した女性と伝える。浄土真宗本願寺第八世宗主。本願寺教団を飛躍的に発展をもたらした本願寺中興の祖。
蓮如6歳の1420年(応永27),生母は本願寺を退出し,生国備後鞆ノ浦(一説に豊後望都)に帰ったという。蓮如幼年期の本願寺は,仏光寺の隆盛に比し,不振の極にあった。衰微した本願寺で困窮のうちに成長し、15歳にして一宗再興の志願をたてたという。
1431年(永享3)17歳で青蓮院(しょうれんいん)で得度して修学に励み、次いで大谷の草庵で宗義をきわめ,また父を助けて聖教書写などを行い、中納言広橋兼郷の猶子(ゆうし)となる。
1447(文安4)年に関東に下り,親鸞の遺跡を巡拝した。1449年(宝徳1)35歳のとき、父とともに北陸から関東・東北を巡化(じゅんげ)。
父存如が1457年(長禄1)に没すると、異母弟との争いののち本願寺第8世を継職した。その直後から近江(おうみ)(滋賀県)を中心に活発に布教を開始した。
延暦寺との対立により京都東山大谷のにあった本願寺を破却された。
1471年(文明3)越前(えちぜん)(福井県)の吉崎(よしざき)に道場(吉崎御坊)を開いて住するや、1~2年のうちに門徒が群集し、寺内町が形成された。それには、消息(しょうそく)形式で教義を平易に説いた『御文(おふみ)』(『御文章(ごぶんしょう)』)とよばれる伝道文書や、『正信偈和讃(しょうしんげわさん)』の開板などの、独創的教化活動が大きな力となっていた。
こうして吉崎坊舎が大きな勢力となると、加賀(石川県)・越前の争乱に巻き込まれ、
1475年には吉崎を退去し畿内(きない)に戻ったが、この間に一向一揆(いっき)の勃発(ぼっぱつ)をみた。
1478年(文明10)山科の地に移る。
1483年には山城(やましろ)(京都府)の山科(やましな)に本願寺を造営し、北陸・東海・畿内に多くの門末を擁する本願寺教団の再興を成し遂げた。
1489年(延徳1)退隠し、五男の実如(じつにょ)(1458―1525)に本願寺住持職を譲ったのち、摂津(せっつ)(大阪府)石山に坊舎を造営して住した。後の石山本願寺の地である。13男14女という多数の子女を各地に配して本願寺の藩屏(はんぺい)とし、また本尊などの下付によって地方有力寺院を傘下に吸収するなどの方法によって本願寺教団を統制した。また教義的には、阿弥陀(あみだ)仏の本願を信ずることが浄土に往生(おうじょう)する正しい因であり、名号(みょうごう)を称(とな)えるのは弥陀の救済に対する報恩の念仏であるとする「信心正因称名(しんじんしょういんしょうみょう)報恩」を説いて親鸞(しんらん)の教義を明確化し、あわせて内心には深く他力の信心を蓄え、世間に処するには王法(おうぼう)を守って国憲に従うべきとする「王法為本(おうぼういほん)信心内心」を強調し、真宗的倫理観を確立した。
'96年大坂に石山本願寺を創建し,頻発する一向一揆を抑止するため「王法為本 (おうぼういほん) 」を説き,本願寺教団の飛躍的発展をもたらした。
著書に「正信偈大意」「領解文」など、また、言行録に「蓮如上人御一代記聞書」や、折々の消息をまとめた「御文章(御文)」がある。蓮如の教示の文章を東本願寺では「おふみ」と呼び,西本願寺では「ごぶんしょう」と呼ぶ。
【格言など】されば朝(あした)には紅顔ありて,夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり(「御文」)
多くの「御文」(御文章)を作り、真宗教義を簡潔にして民衆に広めた。京都山科本願寺・大坂石山本願寺等を建てて本願寺の隆盛を図り、中興上人と仰がれた。
1499年(明応8年3月25日)死去。85歳。
1882年(明治15)に慧燈大師(えとう)の諡号(しごう)を受ける。


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