藤原氏と中臣氏

藤原氏と中臣氏
中臣氏は神につかえる家柄である。
中臣鎌足 その後 大化の改新の功により天智天皇に「藤原」姓を賜り
藤原鎌足となる。
それは 死を目前にした時と言われ
ということは…人生のほとんどを 中臣鎌足として過ごしたのである。
鎌足の息子 次男の不比等は 698年に
自分の子孫のみ藤原姓を名乗る事を許し
他の一族は中臣の姓に帰してもっぱら神につかえさせた。
政治と宗教の分離であり 政治と宗教の両面を通じて一族の
支配を図ろうとしたのであろうか…。

また 藤原姓は神道からの脱却であり
仏教に傾倒してもなんら問題がない状況にしたのかもしれない。

とにかく この時代の歴史古事記 日本書紀によってしかわからず
蘇我本宗家の滅亡で
それまでの大事な歴史書を全て燃やしてしまったというから
大化の改新…蘇我本宗家の滅亡は ただ単に
横暴な蘇我氏をのさばらせておく訳にいかないぐらいの
理由ではなかったはずである。

聖徳太子を見ていてよくみかけるのは
「書記」において 聖徳太子と共にわからない人物は藤原鎌足である 
という記述である。
神話において藤原氏の先祖アメノコヤネノミコトは
ニニギノミコトの側近であり、また春日権現とも呼ばれる。
天孫降臨の際 ニニギノミコトに随伴している。
藤原氏の氏神として信仰されて来ていて
祝詞の神 出世の神ともされている。

しかし 藤原氏の祖 中臣氏は「古事記」にはまったく出てこない。
「日本書紀」では 垂仁天皇の時代に詔を受けた人の名に
中臣連の遠祖 大鹿嶋として出てくる。
この時 阿倍 和珥 物部 大伴と並んで記されているが
これ以降 彼については何も記載がない。
中臣氏の人間の時代における最初の子孫は
「中臣連大鹿嶋」ということになる。

そして 次に登場するのが 仲哀天皇から神功皇后の時であり
中臣烏賊津連(なかとみのいかつのむらじ)と言う名前で出てくる。
仲哀9年 突然に仲哀天皇が亡くなる。
その時 神功皇后は大臣竹内宿禰と相談して 
天皇の死を内緒にして天皇を葬る。
この宮が 九州の下関豊浦宮である。
今でも ここの宮跡にあたる忌宮神社では 
一週間の間 忌祭をするらしい。
火を炊かず 物音をさせず つまり内緒で行う儀式である。
ここで 中臣烏賊津連は この内緒の葬式の命をうけたまわるものとして
登場する。

その後 神功皇后紀では この烏賊津連はサニワになる。
神功皇后が神がかりになるが その時に
この烏賊津連を呼んでサニワにしたと記述が在る。
住吉の神の教えによって新羅征伐を決意する神託であるが
その時のサニワが中臣烏賊津連である。

時代は進み 552年に仏教が日本に入って来た。
蘇我氏と物部氏の対立である。
最初 物部尾興(もののべのおこし)と共に仏教に反対した人に
中臣連鎌子(なかとみのむらじかまこ)と言う人物が出てくる。
欽明天皇の時代である。
この宗教論争は排仏派の勝利で 尾興と鎌子は寺を焼き
仏像を難波の堀江に流した。
この時に流された仏像が後に拾われ善光寺にむかうのである。

その後 また 敏達天皇の時に宗教論争は再燃して
物部守屋と中臣勝海は塔を倒して仏像や仏殿を焼いたという。
この中臣勝海は父が中臣鎌子 中臣磐余 中臣真人の諸説が在り
よくわかっていない。
しかも あの崇仏主義 蘇我氏と排仏主義 物部氏の戦いの時
勝海は 排仏主義の物部側にあったはずが
反乱計画の不成功を知って 敏達天皇の皇子の
押坂彦人大兄皇子に寝返り裏切る。
この裏切りを 物部側の舎人 迹見赤檮に殺されている。
本当に ごちゃごちゃして よくわからない…
古の人たちは 節操がなかったのか…
信じることで力を与えられる神や仏のために
戦いながら あっちに寝返り こっちに寝返りしている。

以上 
中臣連大鹿嶋
中臣烏賊津連
中臣連鎌子
中臣勝海
これら人物のうち 「古事記」には誰ひとりとして
登場せず…
中臣烏賊津連以外は中臣氏系譜にも登場しない。

推古天皇の時代 
鎌足の父の中臣 御食子(なかとみのみけこ)が突然中央政界に登場する。
この中臣 御食子は 鹿島神宮の神官として
東国に赴任していた可能性があるとも言われているので
やはり 前述の 中臣連大鹿嶋 の流れは存在していたのかもしれない。

記紀は天武天皇が編纂を命じているが 
その実は 藤原不比等の編纂であるとも言われている。
その前にあった歴史を塗り替え
神話の中の神様に繋ぎ合わせ 
歴史を作っていったのかもしれない。
今だ 中臣氏は神道を守り
藤原氏は不比等を祖にその長い歴史を脈々と繋いで来ている。
今につながる日本の歴史は 
この時代からスタートしたといっても
過言でないぐらいだと感じる。

ただ 聖徳太子とは違って
この一族はどんどん繁栄していく。
それは…神を祀り 仏に祈っていたからなのか…