藤原氏元祖考

藤原氏元祖考(鎌足ー藤原四家始祖)

	

1)はじめに
 筆者が住んでいる京都府長岡京市には、市立「中山修一記念館」という施設がある。これは、幻の都「長岡京」を現(うつつ)の都「長岡京」として証明した郷土の歴史家「中山修一先生」の功績を顕彰する施設である。現在我が町が「長岡京市」という日本の旧都の名前をそのまま市の名前にしたのも、先生の一生を賭けた発掘調査研究の結果だと言っても過言ではないのである。先生がお亡くなりになった折に、ご遺族がその居宅の一部を長岡京市に寄付されたものを市の方で改修し一般市民に無料で開放しているのである。
この記念館の中には、先生が生存中にご勉強された蔵書が約6,000冊ある。主に日本の古代史・発掘考古学関係の近隣の図書館などには無い貴重な本が沢山ある。筆者は縁があってその蔵書の類を本当に自由に読ませて頂いているのである。コピー機が設置されていなく本の貸し出しは禁止されているので、もっぱらデジカメで関係部分を撮影して後程PCでゆっくり読む方式で利用させて貰っている。日本史大辞典・地名大辞典・古代人名辞典・古代系図の類も揃っており、大抵のことは時間さえかければアマチュアの筆者でも調べられるのである。先生がお勉強された跡も生々しい赤線、青線にも実に楽しい思いにかられながら読ませて頂いているのである。筆者の古代豪族考の基礎史料は、この蔵書と筆者が直接本屋で購入した本の類とインターネット上の諸々の古代史ファンの皆様のHPから得られた情報を参考にして作成されているのである。この場を借りてHPを掲載されている多くの古代史ファン・研究者の方々に感謝とお礼の意を表したいと思います。「有り難うございます。やっとここまで辿り着きました。皆様方のお陰です。これからもどうかHP上でご指導賜りますようにお願い致します。」
勿論専門家のように原典に基づく史料作りは、筆者如きアマチュアには到底不可能である。
筆者が古代豪族シリーズをhpに掲載開始したのは平成16年3月である。既に4年を経過した。日本の古代史は謎だらけの推理小説を読むような楽しみが一杯ある。多くの古代史ファンはこの魅力に取り憑かれ、はまってしまうのである。
当初の頃は人物列伝も調査範囲も狭く、多くの重要人物をその豪族の嫡流という範囲を超えていると判断して除外して記述した傾向があり、現在の執筆姿勢から見れば相当量改訂を余儀なくされている状態である、と判断している。
当初藤原氏を代表的古代豪族として取り上げるべく、調査を進めていた。ところが余りにその広がりの大きいのに驚き、何故こんな古代豪族が誕生したのかを知ってからにしないと古代史を見誤るのではと考えた。よってその段階で準備していた藤原鎌足他の藤原氏の元祖部分の執筆掲載を見送った。そして約5年経ったのである。やっとこの辺りで藤原氏を取り上げることは適当と判断したのである。
ところで、本稿で取り上げる藤原氏は、古代豪族の雄である。ナンバーワンの豪族である。
古代豪族を研究することは、古代史を究明することとある面では一致する。但し筆者の「古代豪族考」は、あくまでその入門的範囲を超えるものではない。筆者は、古の我々日本人の祖先達がいったいどんな価値観・人生観をもって生きていたのか、それが我々現在の日本人の国民性・深層心理にどのように影響を与えているのか、その一端でも垣間見れたら良いと思いながら執筆している。
さて藤原氏は、葛城氏蘇我氏に続き、そして最終的な古代の大豪族と言える。
勿論平安時代には新たに平氏・源氏という豪族的血脈集団が発生し日本の歴史に決定的な影響を与えるが、これは筆者流の古代豪族の範疇外と考えている。
藤原氏は、平安時代以降天皇家を中心とした朝廷政治の中枢に常に存在し、摂関政治、院政時代も貴族の筆頭氏族であった。また鎌倉時代以降の武家中心の日本支配体制下においても江戸幕府終末まで、天皇中心の朝廷・貴族体制は存続し、その中心氏族であったことは間違いない史実である。
この藤原氏発生の原点は、色々な謎が存在しているが、「大化の改新」の大功労者であるとされている「中臣鎌足」という人物であることは、史実として明確である。歴史上その氏族の発生原点がこれほどはっきりしている氏族は非常に希である。「藤原」という姓はこの人物から始まり、この一人の人物の血脈からあの大藤原氏が日本全国に拡がったのである。日本の歴史上この様な例は皆無である。本稿はこの藤原氏の元祖部だけに焦点を絞って後の藤原氏発展の祖となった藤原四家(南家・北家・式家・京家)の誕生までを述べたい。
 
2)藤原氏元祖関係人物列伝
 中臣氏から藤原氏は派生した氏族である。よって中臣鎌足以前の系譜に関しては既稿「中臣氏考」を参照願いたい。本稿では藤原氏初代を「鎌足」として、3代「藤原四家祖」誕生までの関係人物の列伝を記す。藤原四家祖の妻までを記すことにする。
 
天児屋根命
 
中臣可多能祐(かたのすけ)(?-?)
①父:常磐 母:物部尋来津橘首女那古娘
②子供:国子・糠手子・御食子  別名:方子  妻:狭井麿古連女米頭羅古娘
妻:山部歌子連女那爾毛古娘(伊予来目部播磨国司山部小楯孫、万葉歌人山部赤人も一族)
③大連
 
中臣御食子(みけこ)(?-?)
①父:可多能祐 母:山部歌子連女那爾毛古娘
②妻:大伴智仙媛 子供:鎌足(614-669)・久多垂目  別名:弥気・美気子
長男、中臣氏一門。
③628年33推古天皇崩御。皇位継承問題発生。蘇我蝦夷側に組みし、田村皇子を推挙。
山背大兄皇子派の境部摩理勢の説得の役目。(紀)
④小徳冠前事奏官兼祭官。33推古・34舒明朝に仕えた。伊勢神宮初代祭官(後の祭主)
(中臣本系帳)
⑤鹿島神宮の神官として東国に赴任していたという伝承が残されている。
⑥大連
 
参考)大伴智仙媛(?ー?)
①父:大伴咋子(くいこ) 母:不明
②夫:中臣御食子 子供:中臣鎌足  兄弟:大伴長徳(大伴氏本流)・馬来田・吹負ら
別名:智仙娘
③奈良県高市郡明日香村飛鳥に墓がある。
 
2-1)中臣(藤原)鎌足(614-669)
①父;中臣御食子 母;智仙娘(大伴咋子女)
②妻:鏡王女(38天智夫人)、車持君与志古娘、阿倍小足媛(36孝徳夫人)、采女「安見児」(38天智夫人) 
子供:定恵・不比等・五百重媛(40天武夫人、不比等夫人) 氷上娘(40天武夫人)耳面刀自(大友皇子夫人)斗売娘
別名:鎌子・仲郎
③御食子(弥気)の長子。中臣宗家の嫡男であった(次男説もある)。大和国高市郡大原の人。 (藤原仲麻呂編纂「藤氏家伝」による)藤原不比等の父。御食子、鎌足父子を中心とする一族の本拠地は、「藤原」にあった。 
出生地:藤氏家伝では、大和国高市郡藤原。(現在の橿原市高殿町付近)異説:大和国高市郡大原(現在の明日香村)説 。「常陸国」生まれ(父;中臣御食子 母;智仙娘)とする史料(大鏡・多武峰縁起)もある。
「斗売娘」に猶子として、中臣国足の子意美麻呂を入れる。
中臣氏は、天児屋根命の末裔氏族とされ、姓ははじめ連、684年朝臣を賜った。
元来「卜部氏」を名乗った。鎌足の曾祖父にあたる常盤が、はじめて中臣連を賜った。
本拠地;河内国河内郡枚岡神社付近(東大阪市出雲井町)  参考)中臣氏考参照
もともと、祭祀を司る伴造氏族。推古、舒明朝頃から次第に国政の中枢に進出。38天智天皇の腹心となり、その死に臨み藤原姓を賜って、祭祀氏族としての出自から、絶縁した。藤原姓は、次男不比等に限って継承された。ーーー><藤原姓誕生について>参照
⑤鎌足と中大兄皇子の出会いの記事(644年)は日本書紀にも記されている。飛鳥寺での蹴鞠の会の時が初とされている。南淵請安の塾で儒教を中大兄皇子らと学んだともされている。
⑥644年中臣鎌子、神祇伯就任を辞退。摂津国三嶋の別業に病と称して退いた。蘇我氏の朝廷支配を非常に憂慮し、擁立するべき皇子を探した。軽皇子(孝徳天皇)に近づき、さらに中大兄皇子に近づいた。蘇我氏内部対立も見抜き蘇我倉山田石川麻呂を味方に入れた。(家伝と日本書紀のこの辺りの記事には発生年が異なり不明なこと多し。)
⑦645年中大兄皇子・石川麻呂とともに、蘇我入鹿を飛鳥板蓋宮で暗殺した。蘇我蝦夷は自殺した。(乙巳の変)これにより内臣に任じられた。以降中大兄皇子を助けいわゆる大化の改新を遂行した。
⑧647年大錦冠を授与。649年政敵であった阿倍倉梯麻呂・蘇我石川麻呂が死去・失脚。654年大紫冠を授けられた。
⑨653-657年采女「安見児」、「鏡王女」を38天智天皇より下賜された。
⑩661年内臣として百済救援軍に従い難波を出発。その年に帰京。(紀にはこの記述ないが、後述の高島氏著書による)
⑩669年病にかかり重体となり、38天智天皇が見舞いに行き、藤原朝臣の姓を賜う(この時代には未だ朝臣姓はなかった。後年の付託であろうといわれている)。 内大臣、大職冠(一位相当)に任じる。この年鎌足正室鏡王女は鎌足の病気平癒を祈願するため山階寺(後の興福寺)を建立したとされている(異説あり)。死後正一位太政大臣を贈られた。
⑪墓所:死後奈良県桜井市多武峯の談山神社に祀られた。
三代実録:「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」
多武峯略記:「最初は摂津国安威(現:茨木市)に葬られたが、後に多武峯に改葬」
藤原鎌足公墓所:奈良県桜井市御破裂山頂上付近。(談山神社の後山)
・1934年発掘の茨木市の阿武山古墳の人骨こそ鎌足のものであるという説もある。
藤氏家伝:京都市山科区(山階寺と関係か?)
・談山神社伝では678年に唐から帰朝した長男真人が鎌足の骨を多武峯に移し十三重の塔を建立したことが談山神社の創建である旨記されているが、真人は下記に述べるように
665年には没しているのでこの説とは整合しない。
⑫百済系渡来人説・日本人養子説など謎多い出自である。
参考)イ)百済王 余豊璋説(門脇禎二・関 祐二氏など)
   ロ)常陸国鹿島出身の秀才、中臣本家の養子に迎えられた(黒岩重吾氏など)
 <中臣氏と鹿島との関係>
「常陸国風土記」によると、中臣氏と武甕槌神の繋がりの話あり。
10崇神天皇の時に純白の服を付けた神が、奈良山に現れ、自分をよく祀れといった。
その時天皇が、奈良山の神の正体を知る者はいないかと宮廷の人々に尋ねたところ、中臣
氏の祖先、「神聞勝命」が、それは「鹿島神」であるといった。そのことにより、中臣氏
が「鹿島神宮」に仕えるようになった。この神は、もと常陸国鹿島郡(茨城県鹿島町)の
地方豪族が祀った神でその地方で最も権威ある神として「香島大神」と呼ばれていた。
タケミカズチは、中臣氏をつうじて、日本神話の中に組み入れられた。香島を治める豪族
は、中央の中臣氏の支配を受け「中臣部」を名のっていた。この神は「いかずち(雷)」
の神でタケミカズチとなった。この神も神武東征に出てくる。
⑬大鏡:藤原鎌足に関して「そのおとどは常陸国にてむまれたまへりければ 」と記されている。
⑭死没地:家伝:淡海の第で薨じ山階精舎で葬儀。
日本書紀:私第に薨じ、遷して山科の南で殯した。
 
・定恵(じょうえ)(643-665)
①父:鎌足? 母:車持国子娘与志古娘?
②長男、弟:不比等   別名:中臣真人・貞恵・定慧
③実父は36孝徳天皇説あり。母は36孝徳天皇の寵妃阿倍小足媛説あり。この場合有間皇子(640-658)は同腹兄弟の兄となる。
尊卑分脈:母は車持国子娘与志古娘としている。
④653年遣唐使。学僧。
⑤665年帰国。同年現在の奈良県高市郡明日香村小原でなくなった。
その才が妬まれて百済人に暗殺された。との説あり。
⑥僧としての活動記録。中臣氏一門の跡取りである長男を僧にしたとは考えにくい。真人落胤説有力。
 
・氷上娘(?-682)
①父:鎌足 母:不明
②夫:天武天皇 子供:但馬皇女 別名:氷上大刀自・氷上夫人
③万葉歌人
④682年宮中で亡くなった後、赤穂に葬られる。
 
・五百重娘(?-?)
①父:鎌足 母:不明
②夫:天武天皇藤原不比等、 子供:新田部親王(天武の子)・麻呂(不比等の子)  別名:藤原夫人・大原大刀自
③万葉歌人
④680年頃新田部皇子を産む。
④695年不比等との間に京家祖となる「麻呂」を産んだ。
 
・耳面刀自(みみもとじ)(?-672?)
①父:鎌足 母:不明
②夫:大友皇子  子供:壱志姫王
③紀・藤氏家伝に記事なし。本朝皇胤招運録・懐風藻などに関連記事あり。従四位下。
④千葉県に伝承寺院あり。近江宮から落ち延びたらしい。672年下総国銚子で没説あり。
 
・壱志姫王
 大友皇子の女と本朝皇胤招運録に記事あり。他の文献にはなし。
 
・斗売娘(?-?)
①父:鎌足 母:不明
②夫:中臣意美麻呂<国足 子供:東人・安比等
③当初は鎌足は従兄弟である中臣国足の子供であった中臣意美麻呂を自分の娘斗売娘と結婚させ自分の猶子とした。その後不比等が誕生したのである。
 
参考)中臣意美麿(651?-711)
①父:国足 母:不明
②妻:阿伎良<多治比嶋   斗売娘<藤原鎌足 中臣東子    別名:臣麻呂
子供:大中臣清麿・東人・泰麿・広見・安比等・長人、豊足、豊人
③正四位上、中納言兼神祇官。
④当初中臣鎌足の婿養子となり藤原朝臣姓を名乗った。(鎌足の没時、不比等が幼少のため)その後42文武天皇の勅命により不比等の直系だけが藤原朝臣姓を名乗ることになり、698年詔により中臣姓に戻された。
⑤686年大津皇子事件に連座。その後赦免。
⑥699年鋳銭司長官
⑦708年不比等の推薦を得て正四位上中納言。神祇伯。
 
・鏡王女(?-683)
①父:鏡王?(舒明天皇系?)  母:不明
②夫:38天智天皇・鎌足(正妻)兄弟:額田王?(妹)子供:不比等?
別名:鏡姫王(紀)鏡女王
③万葉歌人
④683年死の直前に天武天皇が見舞っている。
⑤墓:奈良県櫻井市の舒明天皇陵付近 談山神社管理。
⑥当初天智天皇の妃であった。天智天皇はこれを鎌足に下賜して鎌足は正室とした。
「興福寺縁起」によれば不比等の母親であるとしている。しかし、同時に父親は天智天皇であることを臭わせている。現在では母親は鏡王女、父親は鎌足説が有力か。
⑦額田王の姉であるという説は現在では余り有力ではないが皇族出身の女性であることは間違いないととする説が有力。
 
(参考)額田王()
①父:鏡王 母:不明
②夫:天武天皇天智天皇 兄弟:鏡姫王?  子供:
③万葉歌人
 
・車持君与志古娘(?-?)
①父:車持君国子 母:不明
②夫:鎌足 子供:定恵?・不比等?
③尊卑分脈:子供は定恵・不比等としてある。
「興福寺縁起」:不比等の母は鏡王女としている。
奈良時代以前のその存在を証明する確実な史料がない。
⑤平安時代以降の藤原氏の系図にはこの人物が定恵・不比等両名の母とされそう信じられてきた。多武峯略記も孝徳天皇の寵妃を車持君与志古娘として記している。しかも定恵の
父は孝徳天皇と記してある。
非常に現存したことを証明し難い人物である。
 
(車持君関係参考資料)         (毛野氏考参照)
・御諸別
①父:彦狭島 母:不明
②子供:大荒田別  鹿我別(浮田国造:磐城国相馬)巫別(かむなきわけ)
別名:弥母里別
③紀(景行56年):天皇は、汝の父彦狭島王、任する所に向かい得ず、早く葬る。故に汝が東国を領めよ。蝦夷の首師、足振辺、大羽振辺など来たりてその地を献ずる。
 
・大荒田別
①父:御諸別 母:不明
②子供:韓矢田部現古  上毛野竹葉瀬  下毛野田道
③紀(神功49):新羅を討つ。
③紀(応神15):上毛野君祖荒田別・巫別を百済に遣わし、西文氏の始祖「王仁」を徴す。
 
・韓矢田部現古
①父:大荒田別 母:不明
②子供:武額・若多気姫(下毛野奈良別妻)
③神功代の人物。車持朝臣氏祖。
                      
・車持射狭
①父:韓矢田部布禰古  母:不明
②兄弟:迦波
③雄略朝、車持姓を賜る。
④この流れから藤原不比等の母とされる車持国子娘与志古が出たという説あり。
⑤車持君は上毛野国が出自。真壁郡辺りか。 車評(くるまこうり)から群馬郡。
 
・阿倍小足媛(?-?)
①父:阿倍内麻呂 母:不明
②夫:孝徳天皇・鎌足? 子供:有馬皇子(640-658)・中臣真人
 別名:男足媛
③644年(紀記事)軽皇子(孝徳天皇)が朝参しなかった時、その宮に侍泊した中臣鎌子に寵妃阿倍氏をつかわして世話をさせたとあり、この阿倍氏が小足媛と考えられている。
④多武峯略記の記事からは鎌足の長男とされる真人の母は孝徳天皇寵妃与志古娘であるが、孝徳天皇寵妃与志古娘は存在してなく本当は阿倍氏女であり、その父は孝徳天皇である。孝徳天皇の子供を身籠もって小足媛は鎌足に下賜されたのである。最近はこの説が有力視されている。(多武峯略記の新解釈)
 
・安見児(?-?)
天智天皇の采女であった女性。鎌足に下賜せられた。万葉集に鎌足の歌が残されている。
子供などの記録なし。この女性こそ不比等の母であるとの説あり。
 
・豊璋王(ほうしょう)(?-?)        (百済氏考参照)
①父:義慈王 母:不明
②妻:多蒋敷妹(多宇気子女)。子供:不明 別名:扶余豊璋・余豊璋
③百済国嫡流王族。倭国滞在中に百済本国が滅亡。復興のため帰国。百済国王となる。
④日本書紀:631年豊璋来日。百済本紀:653年倭国と通好とある。
650年の難波宮記事に豊璋登場。人質ではあったが、賓客扱い。皇極2年記事。
⑤中大兄皇子は倭国の総力を挙げて百済復興を支援することになった。
⑥662年帰国。663年鬼室福信を殺害。百済軍弱体化。倭国援軍を待つ。
⑦唐本国から7,000の援軍が来て、倭国軍と白村江で戦う。大敗。
⑧高句麗に逃げた。668年高句麗も唐により滅亡。豊璋は、中国に流刑された。
 
2-2)藤原不比等(659または、658-720)
①父;中臣鎌足 母;車持君与志古娘?諸説ある)
②次男、妻:蘇我臣連子の娘(娼子)(正妻)・賀茂比売・橘三千代・五百重娘
子供:武智麻呂、房前・麻呂・宇合・宮子(42文武夫人、45聖武母)・長蛾子(長屋王妃)・光明子(45聖武 后46孝謙、48称徳母)・多比能(橘諸兄室)・殿刀自(
大伴古慈悲室)  別名:史・淡海公
③母親については古来諸説あり。
「興福寺縁起」:母は、鏡王女(額田王の姉?)38天智天皇に召され、後に
鎌足の正妻となった。また別伝では、「公避くる所の事あり(出生の公開に憚られる
ところがあった)」とあり、天智落胤説の根拠とされている。
鎌足次男。父鎌足が、45才の時の男子。長男「定恵」は、当初より孝徳天皇の子?と思われ、中臣家の後継ぎにふさわしくないとされ、僧になった。しかし、その後男子に恵まれず、鎌足40才頃、末娘の「斗売娘」に養子として従兄弟の子「中臣意美麻呂」を迎えた模様。しかし、その後38天智より、鏡王女らを賜りその間に不比等が生まれたらしい。
尊卑分脈・公卿補任:母は車持君与志古娘
その他:安見児こそ不比等の母であるとする説
④幼少期山科の田辺家(田辺史大隅;百済系渡来人)で養育を受けたらしい。この史にちなんで「史(ふひと)」という名前になったと伝えられている。(尊卑分脈不比等伝)
⑤669年11才で父鎌足死去。幼少期の記録ほとんどない。
⑥672年壬申の乱勃発。近江方の重臣の子であった不比等は、幼少ゆえに局外に立つ
幸運に恵まれた。
⑦679年(不比等21才)この頃右大臣蘇我臣連子の女、娼子と結婚。
⑧680年長男武智麻呂誕生。
⑨681年次男房前誕生。妻娼子死去。
⑩682年この頃賀茂君女比売女と再婚。
⑪683年長女宮子、次女長蛾子誕生。
⑫684年中臣朝臣姓を賜与。
⑬685年藤原朝臣姓を賜与。
⑭40天武天皇からは、生前の鎌足の徳があり、庇護を受けた。と言う説と、40天武天皇には、全く排除されたという説あり。
⑮689年41持統帝の時、31才で判事(従五位下)という高位で、正史に登場。
草壁皇子の死の直前、愛用の刀(黒作懸佩刀)を遺贈され、軽皇子の将来を託された。
⑰694年三男宇合誕生。695年四男麻呂誕生。
⑲697年軽皇子即位(42文武)さらに娘宮子を入内させた。
⑳698年文武天皇の時、不比等一家のみ藤原姓となる。他の中臣氏系は、旧の中臣姓に戻された。
⑳①この頃「県犬養三千代」を美努王から奪って後妻とした。(700年頃・不比等42才頃)
⑳②701年正三位大納言。「大宝律令」参画。宮子に首皇子(後の45聖武)誕生。 三女安宿媛(光明子)誕生。702年四女多比能、五女、誕生。704年従二位。
⑳③707年42文武天皇死亡。その母阿閇皇女を推し、708年43元明即位。正二位。右大臣となる。妻三千代橘宿禰姓を賜る。
⑳④710年平城遷都を主導。興福寺建立。「養老律令」編纂着手。「記紀」の編纂関与?
⑳⑤720年62才で平城京私宅(現法華寺付近)で死去。
⑳⑥墓所は談山神社か?(延喜式)
 
・蘇我娼子(しょうし)(?-?)       (蘇我氏考参照)
①父:蘇我臣連子 母:不明
②夫:不比等 兄弟:蘇我安麻呂 子供:武智麻呂・房前・宇合? 別名:媼子(おんし)
③701年に不比等が県犬養三千代と再婚の記事(続日本紀)予測として娼子はこれまでに死亡と判断されている。
④41持統天皇は蘇我倉山田石川麻呂の外孫である。不比等を持統天皇に結びつけた人物ともされている。
⑤没落大豪族蘇我氏の血脈が新興豪族藤原氏に入ったのは史実である。この子供の流れから摂関家が誕生するのである。
⑥680年武智麻呂を産む。
⑦681年房前を産む。
⑧694年宇合を産むとあるが、これは誤りらしい。
                         
・蘇我連子(611?-664)          (蘇我氏考参照)
①父:蘇我倉麻呂 母:不明
②子供:安麻呂・娼子 兄弟:倉山田石川麻呂・日向・赤兄・果安 別名:連・武羅自
③664年死亡記事のみ(紀)官位は大紫 右大臣(扶桑略記)
 
・賀茂比売(?-735)             (賀茂族考Ⅱ参照)
①父:賀茂朝臣小黒麻呂 母:不明
②夫:不比等 子供:宮子・長蛾子?・多比能?
③682年この頃宮子を産む。
④正四位上で死去。
 
・県犬養橘三千代(665?-733)         (橘氏考参照)
①父:県犬養東人 母:不明
②夫:美努王・不比等 兄弟:石次(参議)
 子供:橘諸兄・牟漏女王(美努王の子)・佐為王
光明子・殿刀自・多比能(尊卑分脈)?(不比等の子)
③684年美努王と結婚。葛城王を産む。694年夫が太宰帥として筑紫に赴任。
④701年頃不比等と結婚、安宿媛を産む
⑤708年元明天皇より橘宿禰姓を賜る。721年正三位。
⑥733年内命婦正三位で死去。
⑦天武ー聖武帝にいたる内廷に奉仕。文武・聖武の乳母的存在。
 
参考)美努王(?-708)        (橘氏考参照)
①父;栗隈王 母;不明     父を大俣王とする異説あり。
②妻;県犬養三千代(県犬養氏人物列伝参照)子供;葛城王(橘諸兄)佐為王、牟漏女王
③672年「壬申の乱」の際、父栗隈王、兄武家王と共に大宰府にいた。近江朝廷の使者 は、軍兵を徴発するため大宰府に至るが、栗隈王は、これを拒絶。
④681年川島皇子らと共に「帝記及び上古の諸事」の記録、校定に従う。
685年京畿内の兵器校閲使者。
⑤694年大宰帥に任じられ筑紫に下向。妻三千代は、同行しなかった。この間に三千代 を不比等に奪われる。
⑥701年造大弊司長官 正五位下、翌年左京大夫
⑦705年摂津大夫、従四位下。
⑧708年治部卿となり死去。贈正二位。
 
・宮子(683?-754)
①父:不比等 母:賀茂比売<賀茂朝臣小黒麻呂<吉備麻呂
②長女、夫:42文武天皇 異母妹:光明子  子供:45聖武天皇
③697年42文武天皇に嫁ぐ。
④701年首皇子(45聖武天皇)出産。心の病に罹る。
⑤723年従二位。
⑥724年聖武天皇即位。正一位。皇太夫人
⑦737年病気平癒。聖武天皇と36年ぶりに対面。僧「玄昉」の功績。
⑧749年孫である孝謙天皇即位。太皇太后。
 
・長蛾子()
①父:不比等 母:賀茂比売娘?
②夫:長屋王 子供:教勝王・山背王・黄文王・安宿王
③尚蔵従三位。
 
参考)長屋王(676又は684ー729)   (古代天皇家概論Ⅱ参照)
①父;高市皇子 母;御名部皇女<天智
②高市の第1子。吉備内親王(草壁女)を正室とし、膳夫王、葛木王ら。藤原長蛾子との
間に安宿王、黄文王ら。智努女王<長皇子、安倍大刀自、石川夫人らを妃とした。
③皇太子であったらしい。
④718年大納言。719年右大臣不比等死亡。721年右大臣。
これ以降皇親政治に戻す動きの中心人物となる。
⑤721年元明上皇は、右大臣長屋王藤原房前に後事を託す。
⑥723年三世一身の法施行に関与。
⑦首皇太子の即位に関し推進派武智麻呂と慎重派長屋王との間対立。724年首皇子即位。正二位左大臣になる。聖武天皇の母藤原宮子の扱いについてその尊称を改めさせた。
この後不比等の四子との対立激化。聖武天皇妃、不比等娘光明子が727年男子生む。しかし、夭折
⑦729年「長屋王の変」で自殺。光明子立后を反対されることを恐れた藤原氏の陰謀。
⑧この変で大多数の妃や子供も一緒に自害した。但し藤原長娥子及びその子供らは許され
生き残った。その一人とされる桑田王の流れから高階氏が発生し、平安時代以降も貴族
「高階氏」として活躍する。
 
・山背王(?-763)          (古代天皇家概論Ⅱ参照)
①父:長屋王 母:藤原長蛾子<不比等
②同母兄弟:安宿王、黄文王、桑田王など
③729年長屋王の変。母が藤原氏であったため助かる。
④757年橘奈良麻呂の乱では謀反計画を密告し、反藤原勢力を封じた。
奈良麻呂は兄弟の黄文王・安宿王などを皇位につけようとして山背王は対象外だったようである。よって山背王は他の兄弟とは異なり親藤原・親仲麻呂的行動をとった。
孝謙天皇から藤原姓を賜り、藤原弟貞と改名。
⑥762年参議。
 
・光明子(701-760)
①父:不比等 母:県犬養三千代
②三女、夫:45聖武天皇(后)子供:別名:安宿媛(あすか)・藤三娘・藤原皇后
③716年16才で首皇子の妃となる。718年阿倍内親王(孝謙天皇)出産。
④724年夫即位。夫人号。
⑤727年基王出産。728年皇太子基王夭折長屋王の変。
⑥729年皇后になる。王族以外からの立后の初例とされた。
⑦749年46孝謙天皇即位。皇后宮職を紫微中台と改称。藤原仲麻呂を長官に任命。
⑧756年45聖武太上天皇死去。
⑨仏教信者・東大寺・国分寺設立。悲田院施薬院設置。正倉院創設。興福寺・法華寺
新薬師寺の創建整備。など多くの文化的事業を聖武天皇と共に行ったとされている。      
・多比能(702?-?)
①父:不比等 母:橘三千代?賀茂比売?
②夫:橘諸兄 子供:奈良麻呂
③母親が橘三千代説があるが夫橘諸兄と同腹異父兄妹になりこれは無理があるとされている。
 
参考)橘諸兄(683-757)     (橘氏考参照)
①父;美努王 母;県犬養三千代
②妻;多比能?(不比等女)但し母が三千代でありこの関係疑問あり。尊卑分脈ではこのようになっている。多比能の母が三千代でない(賀茂比売説あり)可能性大。
 兄弟;弟;佐為王、妹;牟漏王女(藤原房前室)異父妹;光明皇后(45聖武后)
 子供;清野?、奈良麻呂、諸方(子供:正方) 別名:葛城王
③710年従五位下。729年正四位下、左大弁。731年参議。732年従三位。
④736年弟佐為王と自ら願い出て「橘宿禰」の姓を賜って臣籍降下した。 橘の姓は、733年に死去した母県犬養橘三千代の姓を嗣ぐものであった。
⑤737年藤原4兄弟の連続の死により急に中央政権に出てきた。大納言となる。
⑥738年阿倍内親王の立太子と同時に右大臣となる。以後政界を主導。唐から帰国した玄坊?、吉備真備らをブレーンとして国政の建て直しを図る。
⑦739年従二位。740年45聖武天皇を相楽別業(京都府綴喜郡井手町)に迎える。 同年「藤原広嗣の乱」勃発。恭仁京遷都推進。正二位。 井手大臣。
⑧743年従一位左大臣。749年に正一位となる。生前に正一位の例は極めて希。
⑨745年紫香楽遷都、聖武天皇は、平城京に還都。結局諸兄の脱平城京計画は、失敗。 以後次第に実権を藤原仲麻呂に奪われる。
⑩750年朝臣姓を賜る。宿禰から朝臣への改姓の初見。
⑪755年飲酒の席での上皇誹謗の言辞を側近の佐味宮守に密告される。不問となったがこの責を負って官界を引退。
 
・殿刀自(702?ー?)
①父:不比等 母:橘三千代
②夫:大伴古慈悲  子供:弟麻呂
 
参考)大伴宿禰古慈斐(こしび)(695ー777)  ( 大伴氏考参照)
①父;祖父麻呂 母;不明
②吹負の孫。子;弟麻呂  妻;藤原不比等女刀自を正妻とした。
③739年従五位下、756年朝廷誹謗の件で、淡海三船と共に禁固。三日後赦免757年「奈良麻呂の乱」に連座配流。その後従三位大和守となった。
 
参考)大伴宿禰弟麻呂(727-809)  ( 大伴氏考参照)
①父;古慈斐 母;不明(刀自?)
②794年征夷大将軍として副将軍坂上田村麻呂を用いて、蝦夷征討させる。
 
(参考)玄昉(?-746)
①父:阿刀氏 母:不明
②物部系か。
③717年遣唐僧。法相教学
④737年永らく鬱病だった藤原宮子を看病し快癒させた。僧正になる。
⑤745年行基が大僧正となる。筑紫観世音寺に左遷。そこで没。
 
(参考)田辺史大隅()
 
2-3)藤原武智麻呂(680-737)
①父;藤原不比等 母;蘇我連子女(娼子)
②長男。同母弟;房前、宇合?、異母弟;麻呂
 異母姉妹;宮子、長蛾子、光明子、多比能ら。
 妻;阿倍御主人孫貞媛・竹野女王 
子供;豊成、仲麻呂(恵美押勝)ら。その他子、南殿(45聖武夫人)・房前夫人・乙麻呂、巨勢麻呂ら。  
③藤原南家の祖。
④幼くして母を失い、病弱であったが、少年時穂積皇子に才を認められた。45聖武天皇の皇太子時代はその家庭教師的存在であった。
⑤701年内舎人に任官。廃れていた大学を再興。 大学頭歴任。
⑥718年式部卿。
⑦721年長屋王右大臣の時、中納言になる。724年首皇子即位の時、正三位(房前
 と同時に)
⑧729年「長屋王の変」では、舎人親王と共に王を訊問。自害させた。大納言となり、政界の中枢を握った。
⑨734年45聖武帝の右大臣。娘を45聖武に入内。その後正二位左大臣になった。
⑩737年大流行した天然痘に罹って、兄弟揃って死去。
⑪墓所:奈良県五條市 栄山寺裏山(国史跡)
 
・竹野女王()
①父:長屋王? 母:不明
②子供:武智麻呂女(45聖武天皇妃)
③従二位。
 
・阿倍御主人孫貞媛()
①父:阿倍貞吉<御主人* 母:不明
②夫:藤原武智麻呂(正室)子供:豊成・仲麻呂
 
*阿倍御主人(635-703)   ( 阿倍氏考参照)
①父:倉梯麻呂(内麻呂) 母:不明
②子供:広庭・貞吉 兄弟:小足媛(孝徳天皇妃)  別名:布勢御主人
③壬申の乱では天武側についた。
④701年従三位中納言。従二位右大臣
 
2-3)藤原房前(681-737)
①父;不比等 母;蘇我連子女
②次男、妻:牟漏女王<美努王、春日倉首老娘、片野朝臣女、阿波采女、
子供:永手、八束、千尋、北殿(聖武夫人)他に、鳥養、清河、魚名、楓麻呂ら。娘;聖武夫人、豊成夫人、仲麻呂室(袁比良)
別名:藤原北卿
③藤原北家の祖。
⑤705年従五位下。709年東海道・東山道検察使
④717年兄より先に参議に抜擢。父子議政官の初例(参議以上の職には各豪族から1名という当時の慣例を破ったものであった。)719年従四位上。
⑤720年病床の元明上皇より長屋王と共に召され、後事を託された。44元正天皇内臣に任命された。721年従三位。724年正三位。
⑥729年兄は、大納言になったが、房前は、参議中務卿のまま。
⑦737年正三位参議民部卿として、死亡。(57才)
⑦片野朝臣女との子、魚名流れより54仁明后沢子(58光孝天皇母)出る。
⑧平安時代「摂関家」となるのは、この藤原氏である。
 
・牟漏女王(?-746)
①父:美努王 母:県犬養橘三千代
②夫:藤原房前(正室)兄弟:橘諸兄・佐為王、
子供:次男永手・三男真楯(八束)
・六男御楯(千尋)・袁比良(藤原仲麻呂室)・北殿(聖武天皇妃)
③714年以前に房前と結婚。
④739年従三位。尚侍・尚蔵。夫の死後本格的に後宮吏官として宮仕えした。
⑤746年正三位、正二位の記事もある。
 
・春日倉首老娘()
①父:春日倉首老* 母:不明
②夫:藤原房前 子供:長男馬養
*①万葉歌人  法名:弁紀
②701年朝廷の命により還俗。
③714年従五位下 常陸介
 
・片野朝臣女()
①父:片野朝臣(従四位下)母:不明
②夫:藤原房前 子供:四男清河 五男魚名
 
・阿波采女()
①父:母:不明
②夫:藤原房前 子供:七男楓麻呂   別名:粟凡直若子 板野命婦
③阿波国板野郡出身の采女。
 
2-3)藤原宇合(694?ー737)
①父;不比等 母;蘇我連子女???
②三男。母は、連子女説は無理?694年頃には、既に死没している。        妻:石上麻呂女・高橋阿禰娘<高橋笠朝臣 小治田功麿男牛女 久米若女・佐伯徳麻呂女子供;広嗣、宿奈麻呂、綱手、百川、 蔵下麻呂、 清成(種継の父;正式記録にない)別名;馬養
③藤原式家の元祖。式家は、後年50桓武朝成立の指導的氏族とな った。
③716年第8次遣唐使副使。入唐。従五位下。
④721年長屋王右大臣就任の時兄武智麻呂に替わり、正四位上。
⑤724年式部卿、持節大将軍に就任。725年従三位。
⑤731年多治比県守、藤原麻呂、橘諸兄らと共に参議となる。
⑥734年兄武智麻呂右大臣就任の時、正三位になる。参議式部卿兼太宰帥
⑦737年疫病死。
⑧子百川の子「旅子」は、50桓武妃となり、53淳和天皇の母となる。
 
・石上麻呂女()
①父:石上麻呂* 母:不明
②夫:藤原宇合 子供:長男広嗣 次男良継
 
*(参考)石上麻呂(640-717)  物部氏考参照
①父:物部宇麻呂< 母:不明
②子供:石上乙麻呂・娘(藤原宇合正室)孫:石上宅嗣
③壬申の乱では大友皇子側につく。
④676年遣新羅大使。
⑤701年正三位大納言。704年従二位右大臣。708年正二位左大臣(この時不比等は正二位右大臣となった)。
 
・高橋阿禰娘()
①父:高橋笠朝臣 母:不明
②夫:藤原宇合 子供:三男清成
 
・小治田功麿男牛女()
①養父:小治田功麿男牛 母:不明
②夫:藤原宇合 子供:四男田麻呂
 
・久米若売(?-780)
①父:久米奈保麻呂 母:不明
②夫:藤原宇合 子供:六男百川
③739年石上乙麻呂と姦通。下総国へ配流。
④740年大赦で召還。
⑤780年散位従四位下。49光仁天皇擁立に子供百川が活躍した功による。
 
・佐伯徳麻呂女()
①父:佐伯徳麻呂 母:不明
②夫:藤原宇合 子供:七男蔵下麻呂 五男綱手
 
2-3)藤原麻呂(695-737)
①父;不比等 母;五百重娘(鎌足女)
②四男。妻:大伴坂上郎女<大伴安麻呂?因幡国造気豆女(因幡国八上郡采女)当麻氏女
子供;綱執、浜成、百能(豊成室)、勝人ら。
③藤原京家の元祖。 京職大夫だったことに由来。不世出の才を有していた人物。
④717年従五位下。
⑤729年従三位。
⑥731年参議となる。兵部卿。
⑦737年持節大使として、陸奥に派遣され、帰京後天然痘で死亡。
 
・大伴坂上郎女(?-?)
①父:大伴安麻呂 母:石川内命婦
②夫:穂積皇子・首皇子?・藤原麻呂・大伴宿奈麻呂 子供:坂上大嬢・二嬢
③万葉大歌人
④大伴旅人の異母妹。
⑤色々の男遍歴をしたが、最終的には大伴氏の刀自として一族を統率したとされる。
 
・因幡国造気豆女()
①父:因幡国造気豆 母:不明
②夫:藤原麻呂 子供:長男浜成
③安貴王と姦通罪を犯した采女と同一人であろう、とされている。因幡国八上郡采女
④50桓武天皇の寵愛を受けた因幡国造浄成女とは同族か?
 
・当麻氏女()
①父:当麻氏 母:
②夫:藤原麻呂 子供:百能(豊成室)
参考) 当麻氏は、用明天皇と葛城直磐村の娘広子との間に生まれた麻呂子皇子が当麻公と称したことに始まるという。他にも当麻氏はあるが省略。
 
(参考)「藤氏家伝」
・790年に成立した藤原氏の家伝書。上下2巻。
・家伝上:「大職冠伝」:編著者:恵美押勝。藤原鎌足・定恵・不比等の伝記、不比等の条は現存していない。
・家伝下:「武智麻呂伝」:編著者:僧延慶*。
 
*延慶(?-?)
・出自不詳、藤氏家伝下の著者。
・外従五位下。
・753年ー754年鑑真和尚の通訳として活躍。
 
3)関連寺社
3-1)談山神社(奈良県桜井市多武峰319)
主祭神:藤原鎌足
社格:別格官幣社
創建:678年
由緒:678年長男定恵が唐から帰国後父の墓を摂津国安威から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥。680年に現在の拝殿が創建された。
神仏習合時代は妙楽寺と呼ばれていた時代あり。
談山の由来:645年大化の改新の談合を鎌足と中大兄皇子がこの多武峯で行い、「談い山(かたらいやま)」「談所ケ森」と呼んだことに始まる。(寺伝)
藤原鎌足・不比等の墓所ともされている。
 
3-2)春日大社(奈良市春日野町160)
祭神:武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売神
社格:式内社(名神大)・二十二社・官幣大社・勅祭社
創建:768年(710年)
由緒:全国春日神社の総本社 藤原氏氏神社
710年(和銅3年)藤原不比等によって常陸国鹿嶋から藤原氏氏神武甕槌命を春日の御蓋山に勧請し、春日神として祀ったのが創祀。
768年(神護景雲2年)に社殿造営(社伝ではこの年を創建年にしている)。藤原永手が香取神(経津主命)・枚岡神(天児屋根命)を合祀、遅れて比売神を合祀、官社となった。
春日の地主神:和迩一族小野氏の神。
神紋:下がり藤
武甕槌命が白鹿に乗ってきたとされ鹿が神使とされている。
 
3-3)興福寺(奈良市登大路町48)(旧:山階寺)
宗派:法相宗大本山
本尊:釈迦如来
創建:669年
開基:藤原不比等
由緒:藤原氏氏寺
中臣鎌足は蘇我政治打倒を祈願のため、釈迦丈六像、脇侍菩薩像などを造営していた。これを大化の改新後、山背国山階の私邸にこれらの像を建立し、奉納する寺を建てようとしていた時に病気になったのである。藤原鎌足の正室とされた鏡王女が夫の病気平癒を願い669年に山階(山科)に創建した「山階寺」が興福寺の起源である。663年に鎌足自身が創建したとの説もある。場所は山城国宇治郡山階であるが明確な場所特定は困難とされているが、最近山科区御陵三条通五条別レに比定地が決まったようである。現存する安祥寺(848年創建)(山科区御陵平林町22)とも関係がありそうである。
672年に壬申の乱があり山階寺は藤原京に移り高市郡厩坂の地名にちなんで「厩坂寺」と改名。710年平城京遷都に伴い不比等は、この寺を平城京左京三条七坊の現在地に移転し、「興福寺」と改名した。714年中金堂が出来上がり厩坂寺から釈迦丈六像、脇侍菩薩像などが移され安置された。720年には、藤原氏の私寺であったのが、その造営は国の手で行われるようになり以後官寺に列っせられた。
 
3-4)聖林寺(桜井市下692)
宗派:真言宗室生寺派
本尊:子安延命地蔵菩薩
創建:伝・712年
開基:伝・定慧
由緒:伝承:712年に妙楽寺(現:談山神社)の別院として鎌足の長男定慧が創建したとされている。(定慧はこの頃には死亡しているので???)
 
4)藤原氏元祖系図 
藤原氏の元祖部をどう定義するかは難しいが一応藤原四家誕生までとした。
系図は不比等の孫までの主な人物を記した。
藤原氏元祖部概略系図(諸公知系図準拠 筆者創作系図)既稿「中臣氏考」参照
藤原氏元祖詳細系図(Ⅰ)(諸公知系図準拠 筆者創作系図)中臣鎌足中心
藤原氏元祖詳細系図(Ⅱ)(諸公知系図準拠 筆者創作系図)藤原不比等中心
 
5)藤原氏元祖部関連年表
中臣鎌足の誕生から不比等の子供である光明皇后の没年までの藤原氏に関係する部分中心の年表である。主に高島正人著「藤原不比等」吉川弘文館に記載されている年表を参考にしたが、それ以外にも色々の資料に記事があるものを参考にして筆者判断で年表に掲載した。一部不確かなものもあるが参考に載せた。

	
	

藤原氏元祖関連年表
(高島正人著「藤原不比等」吉川弘文館参考 筆者創作)
592年 33推古天皇即位。
593年 聖徳太子摂政となる。
596年 軽皇子(孝徳天皇)誕生。
600年 遣隋使派遣。
614年 中臣鎌子誕生。誕生地は奈良県高市郡明日香村小原?
620年 聖徳太子蘇我馬子天皇記・国記をつくる。
622年 聖徳太子没。
626年 蘇我馬子没。中大兄皇子誕生。
628年 推古天皇没。
629年 34舒明天皇即位。
632年 僧旻帰朝。
640年 南淵請安・高向玄理ら帰朝。有間皇子誕生。
642年 35皇極天皇即位。
643年
鎌足長男定恵誕生。飛鳥板蓋宮へ。蘇我入鹿ら山背大兄皇子を自殺させる。
644年 鎌子神祇泊就任を辞退。摂津国別業に退く。
645年
3月鎌足は飛鳥法興寺の蹴鞠会で中大兄皇子と親交を結ぶ。多武峯で談合。
6月鎌足中大兄皇子ら蘇我入鹿を誅殺。蝦夷自害。36孝徳天皇即位。鎌足内臣。
646年 大化の改新の詔。
653年 鎌足長男定恵が遣唐僧として渡唐。
654年 鎌足大紫冠授与。孝徳天皇崩御。
655年 37斉明天皇即位。
658年 藤原不比等飛鳥藤原弟で誕生。
660年 百済が我が国に救援を求める。余豊璋の百済王即位要求。
661年
鎌足百済救援軍に従い難波出発。斉明天皇朝倉宮で崩御。
余豊璋を百済に送る。
鎌足帰京(この頃不比等は山城国山科の田辺史氏に預けられていた?)。
663年 白村江の戦で倭軍大敗。百済滅亡。(中臣鎌足山階寺創建?)
665年 定恵帰国。鎌足の大原弟で死去。
667年 大津遷都。
668年 38天智即位(大海人皇子が大皇弟)。近江令発布? 高句麗滅亡。
669年
鎌足は、天智天皇より内大臣大職冠に任じられ、大臣位と藤原姓を賜る。
淡海私邸で死去。鏡王女が山階寺を創建。
670年 鎌足の遺体を山階寺で火葬?
671年 中臣連金右大臣(太政大臣:大友皇子)。天智天皇崩御。
672年
壬申の乱。大友皇子自害。中臣金死刑。飛鳥浄御原宮造営。
673年 40天武天皇飛鳥浄御原宮造営で即位。
674年 不比等大舎人として宮廷に仕える?
678年 談山神社創建。
679年
不比等は右大臣蘇我連子娘娼子と結婚(大原第に戻った?)。   
天武天皇による吉野の六皇子誓約。
680年 藤原武智麻呂誕生。(大原第)
681年 草壁皇子皇太子となる。藤原房前誕生、娼子死去?日本書紀編纂開始。
682年 鎌足娘天武夫人「氷上娘」死去。この頃不比等は賀茂君比売女と再婚。
683年 この頃不比等長女宮子・次女長娥子誕生。
684年 八色の姓制定、中臣朝臣姓を賜る。中臣朝臣不比等となる。
685年 不比等らは藤原姓を賜り藤原朝臣となる。藤原朝臣不比等となる。
686年 天武天皇崩御。
689年 不比等判事に任官(紀記事初出)。草壁皇子死去(黒作懸佩刀を不比等に)
690年 41持統天皇即位。
693年 藤原大嶋死去、不比等が一族の最高位者となった。
694年 不比等三男宇合誕生。藤原宮へ遷都。
695年 不比等四男麻呂誕生。
697年 42文武天皇即位。不比等長女宮子入内。
698年 文武天皇は不比等の流れ以外の藤原朝臣氏を中臣朝臣氏に復させた。
699年 中臣意美麻呂鋳銭司長官。
700年 不比等は県犬養三千代と結婚。
701年
大宝律令制定。不比等正三位大納言となる。不比等三女安宿媛誕生。
不比等長女宮子首皇子出産。
702年 武智麻呂が阿倍貞媛と結婚。不比等四女多比能・五女誕生。持統上皇崩御。
703年 房前が春日蔵首老女と結婚。
704年 不比等従二位。武智麻呂長男豊成誕生。
705年 房前長男鳥養誕生。武智麻呂・房前従五位下。
706年 武智麻呂大学頭。武智麻呂次男仲麻呂誕生。
707年 房前牟漏女王を正室とする。文武天皇崩御、43元明天皇即位。
708年 不比等正二位。右大臣。意美麻呂が中納言になる。三千代が橘宿禰姓を賜る。
710年 平城京遷都。山階寺を平城京に移し興福寺建立。藤原新邸・法華寺建設。
712年 古事記編纂。武智麻呂近江守。
713年 武智麻呂は従四位下となり、紀麻呂女・小治田功麻呂女阿禰娘を側室とする。      
不比等三男宇合が左大臣石上麻呂女と結婚。
714年 首皇子立太子。
715年 元明天皇禅譲。44元正天皇即位。
716年 安宿媛が首皇太子妃となる。宇合遣唐副使 従五位下。
717年
橘三千代が従三位。房前参議(父子議政官初例)。不比等四男麻呂従五位下。
吉備真備・玄昉・阿倍仲麻呂遣唐使。
718年
不比等娘婿長屋王が大納言となる。武智麻呂式部卿。宇合帰国従五位下。
安宿媛が阿倍内親王を産む。不比等四女多比能が橘諸兄の妃となった。
不比等養老律令選定開始。
719年 武智麻呂正四位下・房前従四位上・宇合正五位上
720年 不比等正二位右大臣死去。日本書紀編纂。
721年 長屋王右大臣、武智麻呂中納言。房前内臣となる。
723年 三世一身法発布。興福寺に施薬院・悲田院建てる。
724年 長屋王左大臣。房前正三位。45聖武天皇即位。
726年 麻呂正四位上
727年 光明子皇子を産む。皇太子とする。光明子立后。
728年 皇太子没。
729年 長屋王の変。武智麻呂大納言となる。
730年 施薬院・悲田院設置。
731年 麻呂参議兵部卿。宇合参議。
733年 橘三千代没。
734年 宇合正三位。武智麻呂従三位右大臣。
735年 吉備真備帰朝。
737年 天然痘の大流行により武智麻呂・房前・宇合・麻呂共に死去。
738年 阿倍内親王立太子。橘諸兄右大臣。
740年 藤原広嗣の乱。恭仁京遷都。
743年 橘諸兄左大臣。盧舎那仏鋳造詔。紫香楽宮造営。
744年 難波宮遷都。
745年 行基大僧正。平城還都。旧皇后宮を宮寺(法華寺)とする。
749年 三宝の奴の詔。46孝謙天皇即位。紫微中台設置。
752年 東大寺盧舎那仏開眼法会。
754年 鑑真来朝。藤原宮子没。
756年 聖武天皇没。橘諸兄失脚。
757年 橘諸兄没。橘奈良麻呂の乱。
758年 47淳仁天皇即位。藤原仲麻呂が右大臣となり恵美押勝の名を賜る。
760年 光明子没。 藤氏家伝編纂

	
	
	
	
	6)藤原氏元祖系図解説・論考(藤原鎌足ー藤原四家祖まで)

 藤原氏は、前述してきたように古代豪族の中で最大でかつ最終的な古代豪族と言える。日本人で藤原氏の存在を知らない人はいないであろう。天皇家は別として、嘗ての日本全土を実質的に支配してきた貴族の中の貴族である。江戸時代幕末まで隠然たる勢力は続いた一族である。
しかし、その全盛期は平安時代までであり、以後は武家中心の支配体制になったことは周知の事実である。この一族を一稿だけで述べることは不可能である。
本「古代豪族シリーズ」は、まだまだ続く予定である。しかし、本稿までに主な古代豪族はほぼ掲載してきた。その流れの中で藤原氏がいつ頃誕生し、どのように発展していったかを知る必要があろう。日本全国で大和王朝誕生以来沢山の豪族が発生、消滅してきた。その最後に生き残った勝者こそ藤原氏だといえるのである。その歴史的事実の善悪を今更論じても意味があるとは思われないのである。本稿ではその藤原氏の誕生からその発展のアウトラインだけを先ず記すことから始めたい。
6-1)藤原氏発展の概略説明
藤原氏は、元々一人から発生した氏族であることは明確である。歴史上これ程までその発展した記録が明確に残っている氏族はない。唯一無比の氏族である。天皇家以外にはない。
①発生源点;中臣鎌足。生年614年。藤原氏賜姓669年(39天智天皇より)
②発展源点;藤原不比等。生年659年。藤原氏は、鎌足次男不比等にのみ継承された。③拡大源点;不比等の四人の息子、それぞれ南家、北家、式家、京家の元祖となる。
737年四人全員疫病で死亡したが、これが拡大の原点である。
④藤原四家切磋琢磨の時代;737年ー858年。四家対等の時代で四家入り乱れて朝政の中心にいた。
藤原氏筆頭「摂関家」確立;858年北家藤原良房は人臣で初めて摂政(56清和天皇)となる。これ以後藤原氏の中心は、北家良房流れの「摂関家」となり、他の藤原氏とは、区別された存在となる。
⑥日本の朝廷は、江戸時代末までこの摂関家を中心とする、大藤原氏一族が公家、貴族として、常にその中枢に位置して、朝政を司ってきた。一般に京都の公家、貴族と言えば 天皇家出身を除けば、この藤原氏のどれかの流れに属するものである。と言っても過言 ではない。
●氏族発生から僅か約200年で膨大な人材を輩出し、その多くが上級、下級は別にして、
1、000年間にもわたり、中央、地方の行政に関与し、それを牛耳ってきたことは、驚くべき事実である。鎌倉時代以降は、それまでとは異なったことは事実であるが、公家社会は、面々と続いた訳である。この日本最大の優良?支配者?氏族「藤原氏」の源点を知ることは、非常に興味深いものである。
●飛鳥ー奈良時代は、天皇家の時代であった。次の皇統を決定するのは、基本的には、天皇自身であった。勿論有力豪族の長とは、相談、協議、納得、合意が必要であった事も事実である。しかし、皇族間の次期皇統をめぐる「血の争い」は、26継体天皇以後
50桓武天皇まで連綿と続いた訳である。この間朝廷に関与した有力氏族は、物部氏、
中臣氏、大伴氏、紀氏、息長氏、丹治比氏、蘇我氏、阿倍氏、吉備氏、橘氏、道鏡、そして藤原氏などであったが、奈良時代末期頃までに藤原氏を除きいづれも亡び、又は勢力を失い中枢から脱落していった。残ったのは、天皇家藤原氏だけだったとも言える。
その天皇家も、38天智天皇流れの49光仁天皇、50桓武天皇となり、都も飛鳥ー平城京から京都平安京という「大和」の地から離れたのである。それまでの古い氏族は、その地盤を失ったことであろう。これを全面的にバックアップしたのが、藤原氏であった訳である。同時に、血で血を洗うような皇位継承の争いの終止符を打つ時代への 幕開けでもあった。これが「摂関政治」である。次期天皇の決定権は、実質的に外戚である「摂関家」が握り、天皇は表向き殺し合いをする必要が無くなった訳である。ただし、摂関家が天皇の位に就く、或いは天皇家自身の存在を脅かす存在では決してなかったのである。
次いで、「院政時代」は、「摂関家」に替わってこれを行ったのが、「上皇」である。
・50桓武天皇は、簡単に(以後の平安時代の天皇のように)成立した訳ではない。
26継体天皇が即位した507年から50桓武天皇即位の781年までの274年間に24人の天皇が成立し、天皇家の親子、兄弟、姉妹、親族がお互いに血で血を洗いながらまた、有力豪族をあやつりながら、「治天の君」の地位を確保してきたのが、この時代の天皇家である。どうであれ今後は、こうあってはならないと考え「平安遷都」が、されたものと思われる。
聖徳太子が、あの時代「17条憲法」を定め、その第1条に「和をもって尊しとす」と
記したこと、及び50桓武天皇が新しい都に「平安」と名付けた事は、今日的意味でも
非常に深い意義があると思う。
この50桓武天皇こそ、後の武家支配時代を開く「源氏」「平氏」の元祖の元祖でもある。
●50桓武帝成立に果たした藤原氏の貢献は大きい。
藤原氏元祖の鎌足は、後の38天智天皇となる中大兄皇子を助け、蘇我氏独裁をもくろんだ蘇我入鹿を討った(大化の改新)。これにより蘇我氏の勢力は、大幅に衰え、皇統の流れが大きく変わった。
②2代不比等は、40天武?、41持統、42文武、43元明、44元正、の各天皇に仕え、四人の息子と共にそれぞれの天皇を支えた。
③3代房前(北家)他四兄弟は、それぞれ立場は異なるが、45聖武天皇までを支えた。
④4代八束(北家)の時代は、南家、北家、式家、京家異なった動きを始める。
・757年46孝謙天皇の時、南家豊成と北家兄永手は、次期皇太子に天武天皇の子供「新田部皇子」の子供である「塩焼王」を推し、失敗。
・八束は、45聖武天皇に寵愛されたが、南家仲麻呂には、その才を妬まれた。
・南家仲麻呂が、天武天皇の子供「舎人親王」の子供「大炊(おおい)王」を推して47淳仁天皇とした。恵美押勝と改名し、朝政を独裁した。
・式家良継は、恵美押勝の独裁に対立。暗殺計画をする。負ける。
・やがて46孝謙上皇と恵美は対立。764年「押勝の乱」を起こし、押勝亡びる。
追討軍は式家の良継、蔵下麻呂ら。
・769年48称徳天皇の時、北家永手、式家良継、南家縄麻呂(豊成の子)式家蔵下麻呂らと一緒になり48称徳の皇太子を天智天皇の孫の白壁王(49光仁)にすることを決めた。吉備真備らの天武系皇子擁立派を排除した。
・773年京家浜成は、光仁天皇の子供「山部親王」立太子にあたり、式家百川と対立。浜成は、山部親王は、母の出自が、渡来系で問題として、尾張女王と49光仁の子稗田親王を推した。さらに782年氷上川継の変に関与、50桓武に反抗した。
・式家百川は、49光仁の皇太子に山部親王を推し、成功。
・北家は、この間50桓武天皇成立に大きな役割をしてない。
⑤5代目北家内麻呂の時代
・784年長岡京遷都時、式家「藤原種継」(清成の子)が造営使に任命される。
・794年内麻呂は、50桓武の参議となる。
・806年同右大臣。
⑥6代目北家冬嗣の時代
・52嵯峨天皇時代、左大臣。
⑦7代目北家良房時代
・54仁明天皇時代 人臣最初の摂政。太政大臣。
 
等々50桓武天皇成立まで、藤原氏代々が、朝廷の中枢で舵取りを支配してきた。と言える。自己、自家、及び自氏族繁栄、発展、防衛のためそうしたことは、間違いないが、
結果として、天皇家を護り継続させる中心氏族の役割を果たしたことは、間違いない。
少なくとも50桓武帝は、藤原氏、特に「式家」の力なくしては、存在しなかっただろう、と言われている。又その後の藤原氏の繁栄は、50桓武によってもたらされた事も間違いない。ここで皇統が、一本化した意義も大きい。
 
6-2)藤原氏元祖部系図解説 (本稿関係系図参照)
 藤原氏中臣氏からの派生氏族である。よって中臣鎌足までは中臣氏と全く同一系図である。この部分に関しては既稿「中臣氏考」を参照のこと。
中臣鎌足中臣鎌子とも呼ばれていた。ところが中臣氏系図で鎌足の数代前に同じ中臣鎌子という人物がいる。実はこの辺りの系図は異系図が沢山あり複雑である。現在では、中臣氏は「前の鎌子」と「後の鎌子(鎌足)」の間で一度切れている(一種の養子縁組みたいな形で繋いだ)とされている。前の鎌子は、物部氏と組んで蘇我氏に対抗し、排仏運動をして蘇我氏によって滅ぼされたと考えられている人物である。鎌足とは時代も異なり全くの別人である。本稿に示した概略系図で言えば常磐・可多能祐・御食子・鎌足は血脈的に繋がっていると考えられている。鎌足の父「中臣連御食子(みけこ)」の時に中臣氏は三門に別れた。その一門が御食子で日本書紀にも記事が載っている人物である。一説によれば伊勢神宮の初代祭官とも鹿島神宮の神官をしていたとか言われている。いずれにせよ神祇関係の人物であったようである。朝廷内の地位はそれほど高いものではなかったと一般的言われているが、御食子は、33推古朝・34舒明朝に仕えた小徳冠前事奏官とされている。906年に成立した「中臣延喜本系帳」によれば中臣家の族長は「前事奏官」として大王と臣下との奏宣の役を帯びていた。これは相当高位であると考えられる。この時代には相当勢力を回復していたと考えられる。大昔には中臣氏は五大夫にも任じられ朝廷の中枢にいたとの記紀記録が残されている。
その長男が「鎌足」である。母親は代表的古代豪族である大伴氏の嫡流「咋子(くいこ)」の娘「智仙娘」である。兄の「長徳」は大臣までした人物で、その孫に万葉歌人「大伴旅人」がいる。大伴氏の本流である。鎌足の異母弟に久多垂目などいるが歴史的には有名記事はない。後年になって垂目の流れから伊勢神宮大宮司家「田辺」氏が派生することは既稿「度会氏・荒木田氏考」で示した。
即ち本来なら父御食子が祭祀氏族中臣氏の嫡流であり、鎌足はその嫡男であるから中臣氏の嫡流は、鎌足になる運命のもとに産まれた人物と言える。
鎌足の生誕地は760年成立の「藤氏家伝」では大和国高市郡小原(又は藤原)と記されている。高市郡大原・高市郡小原・高市郡藤原の記述があるが筆者はいずれも同じ所を表示していると判断している。後に鎌足が38天智天皇から藤原姓を賜った19允恭天皇妃「衣通姫」縁の藤原の地名、後に「藤原京」が置かれた場所の名前である。またこの地には鎌足の母親智仙娘の墓所がある所付近と考えられ、この付近には明治頃まで藤原寺があり現在は大原神社がある。さらに鎌足を祭神として祀ってある「談山神社」も近くにある。要するに現在の地名では橿原市・明日香村・桜井市の境界付近が鎌足生誕地と伝承されているのである。本件に関しては古来色々異説もあるがこれらについては後述したい。
御食子の弟で二門の国子の孫に「意美麻呂」という人物がいる。これが鎌足の娘「斗売娘」の婿となり鎌足の養子となっていたのである。鎌足には長男「真人」がいた。鎌足29才頃に誕生した人物である。ところが何故か僧となり653年の遣唐使船で渡唐したのである。このことが真人の母との関係で真人の実父は36孝徳天皇である、との噂があり鎌足もこの人物を跡継ぎにはさせられなかったと言われている。多武峯略記(1197年成立)などにもそのあたりの事情が記されているが、その鎌足に下賜されたという孝徳天皇寵妃が誰なのかで諸説ある。現在では日本書紀の記事などと併せ考え阿倍氏女「小足媛」が真人の母とする説が有力。
となると真人と中大兄皇子に殺されたとされる有間皇子とは異父同母兄弟の関係である。
これは鎌足にとっては無視出来ない事であり、本人のことも考え長子でありながら僧にせざるをえなかったとの説もある。その後鎌足は男児に恵まれなかった。そこで娘の「斗売娘」に婿養子をとったのである。(654年前後?)ところが658年に次男「史(不比等)」が誕生した。不比等の母親についても古来諸説ある。尊卑分脈では真人・不比等の母親は「車持君国子娘与志古娘」とされている。一方興福寺縁起では不比等の母は鏡王女と記されている。鏡王女は天智天皇から鎌足に下賜された鎌足の正室とされる女性である。
平安時代以降長い間真人・不比等は同腹兄弟で、母親は車持君国子娘与志古娘であるという説が定説化していたようである。ところが最近では色々な調査により不比等の母は鏡王女であるという説が有力になっている。ところがこの鏡王女説の裏には常に不比等は天智天皇のご落胤であるという説が付きまとっているのである(大鏡)。また鏡王女は万葉歌人として有名な額田王の姉であるという説も未だ無視出来ない説として残されている。筆者系図ではこの姉妹説と鏡王が28宣化天皇の末裔であるという説に基づいた系図を示した。この鏡王女(かがみおうおんな)とせずに鏡姫王とも呼ばれていた記事に基づけば、34舒明天皇に関係した皇族という説もある。いずれにせよ高貴な出自の女性であることには間違いないのである。
後年不比等が天智天皇の娘である41持統天皇から異常なまでの信頼を得たのは、不比等が天智天皇の妃であった鏡王女の息子であったこと、鏡王女は皇族で持統天皇とは近い関係であったこと、そして天智天皇の忠臣鎌足の息子であったことなどが合わさって他の臣と比し格別の信頼を得たのであるという説の裏付けである。
さて話を車持君国子娘与志古娘に戻したい。
この女性は、実在を証明する資料が乏しい人物とされている。筆者なりに調査した結果を人物列伝の参考資料として載せた。車持君氏は毛野氏の末裔として資料が残されている。
(毛野氏考参照)上毛野国がその出自であるとされている。21雄略朝に車持姓を賜ったとある。この流れのどこかに車持国子という人物がおりその娘が与志古娘だとされていることと推定される。多武峯縁起では孝徳天皇の寵妃はこの与志古娘であるとし、真人はその間の子供と記されている。これは上述の阿倍氏女との混乱が起こされた結果であるとするのが現在の有力説と考える。以上大変ややこしい話であるが現在の有力説は以下のようになる。
鎌足の正妻は鏡王女でこの間の子供は不比等である。阿倍氏女との間の長男真人は限りなく孝徳天皇の子供と見るべき。
鎌足の娘は4名いるがいずれも母親は不明である。鎌足には上述の妻の他に天智天皇の采女であった安見児も入れて4名の妻があったことになっている。娘等がこれらの妻との間の娘かどうかも全く知るよしもない。
但し、これらの娘の内2名は40天武天皇妃になっており1名は天智の子供である大友皇子の妃になっている。これは凄いことである。鎌足の父の代までの中臣氏天皇の妃を出せる氏族ではなかった。鎌足の時代前後で天皇妃を出した豪族は、蘇我氏・紀氏・息長氏・春日氏くらいしかなく、鎌足の天皇家に対する信頼がいかに高いものであったかが窺える。
鎌足は34舒明天皇の645年から38天智天皇の669年まで天皇・皇太子の内臣として天皇サイドに立った相談役として朝廷を支えた人物だったのである。大海人皇子時代の天武天皇の信頼も高かったものと思われる。
不比等は鎌足が44才の時の子供である。不比等の正妻は蘇我連子の娘娼子である。679年頃結婚したと推定されているので鎌足没後である。蘇我連子は蘇我氏の中では蔭の薄い人物である。しかし、大臣経験者とされている。兄弟には倉山田石川麻呂・赤兄がおりどちらも大臣経験者である。
娼子の子供は、長男武智麻呂(南家祖)・次男房前(北家祖)である。三男宇合(式家祖)も娼子の子供と記されている資料もあるが現在では、娼子は次男を産んだ直後で死没しているので三男宇合は別腹であるとする説が有力。但し実母が誰なのかは不明である。四男麻呂(京家祖)の母親は不比等の異母姉妹である五百重娘である。五百重娘は天武天皇との間に新田部皇子をもうけている。
不比等の4人の男児が所謂藤原四家(南家・北家・式家・京家)を興すことになるのである。不比等は娼子の亡き後、賀茂比売と結婚し、宮子をもうけている。この宮子が42文武天皇妃となりその子供が45聖武天皇となるのである。不比等にとって聖武天皇こそ血の繋がった孫という訳である。一方不比等は美努王の妻であった県犬養三千代と美努王が太宰府に赴任中に正式に結婚した。この女性こそ既稿「橘氏考」で詳述したように女傑である。後の橘三千代である。不比等とこの女性との間に産まれたのが有名な光明子である。
聖武天皇の皇后である。民臣の娘が皇后になったのは16仁徳天皇の皇后「磐之姫」以来のことで異例中の異例を不比等の力でやってのけたのである(正式に皇后となったのは不比等没後)。
不比等にとってみれば、孫の聖武天皇と娘の結婚である。ガチガチの血族結婚といえる。叔母甥結婚である。716年のことである。この二人の間に産まれたのが基皇子と後に46孝謙天皇・48称徳天皇になる阿倍内親王である。藤原氏の期待の男児基皇子は2才で聖武天皇の皇太子となったが間もなく死没した。よって聖武天皇の後継天皇は娘である孝謙天皇がなったのである。
不比等の娘「長蛾子」は、母親がすっきりしないが(賀茂比売説あり)天武系の長屋王と結婚し多くの子供を産んだ。
さらにもう一人の不比等の娘「多比能」は橘三千代と美努王との間に産まれた橘諸兄と結婚し有名な「橘奈良麻呂」を産んだ。この多比能の母が三千代であるとする系図もあるが、これは同腹異父兄妹であり当時としても禁止婚であるのでこれは違うというのが現在の通説である(実母:賀茂比売説あり)。橘諸兄は、737年の藤原四兄弟の突然の没後の朝廷の実質的なトップとなり藤原氏支配を排除しようとする勢力の中心となった人物である。
諸兄の妹「牟漏女王」が不比等の次男房前の正室となった。
話は戻るが不比等の娘婿の長屋王は718年には大納言となり不比等の死後724年には左大臣にまで昇進し藤原氏勢力を凌駕するまでになった。ここで729年「長屋王の変」が勃発。一族総てが殺された。ただ一人長蛾子の子供の一人の「山背王」だけはこの変の起こることを天皇側に密告したことが認められ、難を逃れ56孝謙天皇は山背王の名前を「弟貞」と改名し藤原朝臣姓を賜ったとある。
不比等と三千代の間に産まれたと推定される「殿刀自」という娘がいる。これが智仙娘の兄である壬申の乱の功労者大伴吹負の孫である古慈斐と結婚し弟麻呂を産んでいる。古慈斐・弟麻呂共に歴史上活躍記事が残されている人物である。
以上で藤原氏元祖部「鎌足」「不比等」「藤原四家誕生」までの関連系図を概観したのである。文章で読むより系図で見る方が遙かに理解しやすいと思う。
鎌足から始まった藤原氏が徐々にその人脈・血脈・姻族のネットワークを広げていったのが一目瞭然である。父「御食子」までは天皇家とは勿論他の有力豪族との婚姻関係も殆ど記録に残されていない。鎌足・不比等の2代で藤原氏天皇家・皇族の中枢に入り込み正に古代豪族「葛城氏」「蘇我氏」と同じパターン入ったと言える。しかし、前2者は滅んだ。藤原氏は滅ばなかった。この理由はどこにあるのだろう。
 
6-3)藤原氏元祖論考
6-3-1)古代豪族「藤原氏」の誕生について
中臣鎌足は死の直前に大職冠(正一位相当)の位と大臣の位と藤原姓を天智天皇から賜った。この時の藤原姓は鎌足の生誕地大和国高市郡藤原という土地の名前に由来しているとされている。そして鎌足個人に与えられたもので一族に与えられた姓ではない。勿論この時は姓(かばね)は付されてないのである。よって子供の不比等らは以前のまま中臣連不比等であったのである。この辺りの史実は余り知られていない。
高島正人著;「藤原不比等」 吉川弘文堂 に記されている説により解説したい。
筆者が理解判断した範囲で記したものであることをお断りしておきたい。一部上述の解説と重複する箇所があるが理解を深める意味で高島氏の説に出来るだけ忠実に記した。
①一般に、中臣氏は「連」のカバネを持つ伴造系氏族で、その勢威や大和朝廷における
政治的地位は、5世紀の葛城、平群、大伴氏、6世紀の大伴、物部、蘇我氏ら一級の氏族には、はるかに及ばぬ中級氏族の一つと考えられている。
②「日本書紀」(11垂仁天皇紀)には、中臣連氏の遠祖、大鹿島が、阿倍臣、和迩氏、物部連、大伴連の遠祖と共に五大夫に任じられたと記されている。カバネ制以前では、物部、大伴氏ら諸氏と並んだ重臣を出した氏族であった。
③4世紀ごろは、大伴、物部らと中臣(ナカツオミ)氏(連系ではなく臣系)として
国政に参与していた。
④その後中臣氏に連姓が賜与され、神事奉斎を職掌とするようになった後、中臣連氏は、国政の表舞台に立つ事が無くなったのであろう。
⑤6世紀「日本書紀」に3名中臣氏が記されている。
・欽明朝;中臣連鎌子 物部大連尾興と共に仏教受容反対をした。扱いは、物部氏と大差
・敏達朝;中臣勝海大夫 物部守屋と共に仏教反対。
・敏達朝;中臣連磐余 物部守屋と仏像を壊す。
現存する藤原氏諸系図、「中臣氏系図」「大中臣氏系図」には、上記3名の名は無い。
なお、上記系図には、6世紀ごろ 黒田(継体朝)常盤(欽明朝)可多能祐(敏達朝)
の名はある。しかし、「古事記」「日本書紀」には無いし、その活躍も知られてない。
⑥6世紀の中臣氏を総括すれば、一般に言われるように政治的には、蘇我、物部、大伴
各氏には、一歩を譲る中級氏族であった。
⑦7世紀になると、推古朝には、国(国子)と弥気(御食子)の活躍が知られる。「日本書紀」に記事あり。
・中臣連国;推古31年新羅征討軍大将軍として参画。
・中臣連弥気;推古崩御後、田村皇子を立てることに賛意を表した。この弥気は、可多能祐大連の第1男、中臣連鎌足は、弥気の第1男で、母は、大徳冠「大伴久比子(咋子)」の女「智仙娘」であった。
⑧中臣669年鎌足は、大職冠、内大臣となり、その死に臨み、天智天皇より、「藤原姓」
を賜った。(この段階では、鎌足だけの姓)
⑨671年中臣連金が、右大臣となる。(氏上の証)ーーー鎌足の功によるもの。
⑩672年中臣金は、「壬申の乱」で敗戦、死刑となる。この後を受けて中臣一族の氏上は、中臣連大嶋(天武朝で重用された。)神祇伯。
⑪684年朝臣姓を賜与され、中臣朝臣となる。
⑫685年藤原姓を賜与され、中臣氏は総て藤原姓となった。
⑬693年藤原朝臣大嶋が死亡。意美麻呂が氏上を継承したらしい。しかし、この時には、
族中での位階は、不比等(36才)が最上位者となっている。
⑭698年藤原朝臣不比等一家以外、旧姓(中臣)に復するよう詔が出た。
・詔;「藤原朝臣(鎌足)賜るところの姓、よろしくその子不比等をして之を承けしむべし。ただし意美麻呂らは、神事に供するによって、よろしく旧姓に復すべし」
藤原姓は、父鎌足が薨去した時、藤原姓は子供の不比等や、家族たちにも継承されなかった。鎌足が、賜与された藤原姓は、大職冠や、内大臣と同じく鎌足個人に賜与されたものだったからである。天武13年中臣連氏が朝臣姓を賜った直後、鎌足が賜った藤原姓も、氏上の中臣朝臣大嶋以下、鎌足の宗族全員に継承が許されたのであった。
その後、上記詔によって、藤原朝臣氏は、不比等と不比等の子孫のみに限られ、「鎌足」の猶子(中臣国足の子)意美麻呂以下、不比等一家を除く一族全員が、旧姓中臣朝臣に戻った。後にこの流れは、「大中臣姓」を名のることになる。
この詔により藤原不比等を始祖とし、不比等の子孫に限定した新しい藤原朝臣氏が、成立したのである。この時こそ藤原氏の誕生である。
⑮本来中臣氏は、5,6世紀以降、神祇祭祀氏族として朝廷に仕えた。鎌足は、政治に志を立てて、祭祀の職務を余人に譲った。
不比等も父鎌足にならって政治に志を立て、祭祀供奉の職業的職務からの解放、国政審議氏族としての確立を願った。不比等は、傍系親族を本姓の中臣氏に戻して、神事奉斎にあたらせ、新しい藤原朝臣氏を国政審議氏族として、その地位を確立するものであった。
⑯この詔により、不比等は、イ)不比等の一家を新たな一氏として独立させる。ロ)鎌足の功業を不比等とその一家に集中させる。ハ)金ー大嶋ー意美麻呂と承継されて当時意美麻呂の掌中にあった藤原氏の氏上を不比等の掌中に入れ、己の子孫に継承する途を開いた。ニ)不比等とその一家を神事奉斎氏族の職掌から解放する。
ことをやった。
これぞその後の藤原氏発展の原点的戦略であり、大政治家不比等だから出来たことである。
以上である。
これでお分かりのように古代豪族「藤原氏」の初代は、不比等なのである。鎌足はたったの一日藤原姓だったといえる。684年の八色の姓制度においても中臣朝臣となっただけである。685年に旧中臣朝臣姓の者総てに藤原朝臣姓が与えられたが、これも筆者流にいえば古代豪族藤原氏ではないのである。698年の文武天皇の詔で初めて真の古代豪族
藤原氏が誕生したのである。この時、鎌足の猶子であった藤原朝臣意美麻呂までもが中臣姓に戻されたのである。即ち鎌足の血脈を嗣いだ男子は不比等しかいない、その不比等の
血脈を嗣いだものしか藤原姓は名乗ってはならないとしたのは、41持統天皇の信任を受け、42文武天皇の後見役の証拠である「黒作懸佩刀(くろつくりかけはきのたち)」を草壁皇子より託された「不比等」自身が決めた策であると考えるのは妥当である。この時不比等は未だ議政官にはついていない。
しかし、当時の政界の実質的な実力ナンバーワン的存在だったと推定されている。以上のことを知った上で以下の議論に入りたい。
 
6-3-2)「中臣鎌足」について
 我々戦後教育を受けた者にも「鎌足」は、超有名人である。645年の大化の改新で中大兄皇子と一緒になって、専制政治を行っていた蘇我入鹿・馬子父子を征伐し、新しい日本の幕開けに活躍した人物としてである。聖徳太子と同じくらい有名である。
鎌足の出自については上述したことが通説である。しかし、古来から鎌足養子説も根強くある。
「大鏡」などには、常陸国鹿島神宮の神官の子供を中臣御食子が養子として迎えたと言う説、中臣御食子が鹿島神宮の神官の時代に大伴智仙娘との間に常陸国で産まれたと言う説など、が記されている。
戦後は、一部学者の間で鎌足は百済王「余豊璋」であるという説が提唱され、アマチュアファンを中心に支持者も多かったようである。この説は現在では蔭を潜めているようだ。
筆者はこの説は、無理なところが多く同意出来ない。
鎌足については、奈良時代(760年)に鎌足の曾孫にあたる南家の藤原仲麻呂が著した「藤氏家伝」の「大職冠伝」が現在まで伝わっている。勿論自分らの祖先を飾り立てた部分も多数あるが、日本書紀などの公的記録に記されていない記事も多く、史料として重要視されている。
これと日本書紀との記事で食い違いがあるのが日本書紀の644年の記事関連部分である。鎌足の日本書紀で初出の記事である。筆者年表を参考にして頂きたいが、644年以前にも鎌足に関連する事項が記されている。前述の藤氏家伝の記事とこれらを整合して鎌足の一生を概説すると下記のようになる。
①614年誕生。子供の頃から非常に聡明で読書を良くし、有名な中国の太公望が著したとされる兵法書「六韜(りくとう)」(大化の改新の際に役立ったとされている)を暗記したとされている。
②632年に鎌足の師となった遣隋使「僧旻」が帰朝した。鎌足19才の時である。
この後鎌足は蘇我入鹿らと僧旻の塾で中国の学問を修得。周易(易経)などもこの頃に習った。鎌足はこの塾では入鹿からも一目おかれる存在であった。
③640年南淵請安らが中国から帰朝した。鎌足27才の時。中大兄皇子:15才。
この後鎌足は中大兄皇子らとこの南淵請安の塾で学び「法興寺の蹴鞠の会」で二人は運命の出会いをしたとされる。これが日本書紀記事のように644年以降なのか以前なのかは不明。通説は645年とされている。この後二人は急速に接近し、入鹿誅殺計画を立てたとされている。この場所が多武峯で談山神社の名前の由来との説あり。
④644年には中臣氏の嫡男であった鎌足に対して家業である神祇伯就任の要請があった(鎌足:31才)と日本書紀には記されている。一方「家伝」では舒明天皇の始めに家業を継ぐようにとの要請があったと記されている。629年に舒明天皇は即位しているので鎌足の年齢は15,6才である。これは紀の記事の方が妥当とされている。鎌足はいずれの場合もこの要請を拒否して別宅のあった摂津国三嶋に退いたとある。
⑥644年以後に軽皇子に接近、続いて中大兄皇子に接近と日本書紀には記されている。どうも釈然としないとこである。643年に鎌足の長男定恵が誕生している。これは史実と考えられている。これが古来色々議論のあるところとされているのである。即ち、日本書紀の644年の記事にある鎌足が三嶋に退いた後に軽皇子の宅を訪問した記事がある。この時鎌足の相手をしたのが軽皇子の寵妃である阿倍女(小足媛)である。長男定恵は実は鎌足の子供ではなく軽皇子の子供である、という説がほぼ通説化している。それを知っている鎌足は長男でありながら真人(定恵)を幼くして僧とし、653年には僅か11才の子供を非常に危険な遣唐使として渡唐させたのであるある、と説明されている。
一方軽皇子の寵妃を阿倍女ではなく、車持君与志古娘であるという説もある。
644年以降に鎌足が軽皇子と接触したのが事実なら、定恵が軽皇子の子供説はありえないことである。定恵が軽皇子の子供であるという説が事実なら641-642年頃に軽皇子から鎌足に阿倍女を下賜されたということになる。(阿倍女は640年に有間皇子を産んでいる)車持君与志古娘が軽皇子の寵妃であったことを証明することは不可能とされている。
ここら辺りの日本書紀・家伝の記事は、総て虚飾記事であるという説の根拠部分の一つである。筆者は最近の研究成果を信じ、定恵の実父は軽皇子であり母は阿倍女とする説を支持したい。となると日本書紀の記事は一部繰り上がることになろう。
⑦鎌足が祭祀氏族である中臣氏の嫡流に生まれながら、何故その家業を継ぐことを拒否したのか?議論の分かれるところである。
・鎌足は幼少の頃より当時の先進国である中国の政治・文化に興味を持ち、色々勉強し、我が国の現状に満足せず、祭祀では国を変革することは不可能と判断し、政治に直接参画することを、僧旻・南淵請安らの教育を受けて痛切に思うようになった。そしてその手段として、皇族の中でこれはと思う人物に接近して行き、最終的に中大兄皇子こそ若いが自分が総てを賭けても良い人物と判断した。というのが現在の通説である。
⑧645年に蘇我入鹿が誅殺されたことは現在では史実として間違いないというのが通説。しかし、その首謀者に関しては諸説ある。中大兄皇子ではなく軽皇子こそ首謀者という説もある。鎌足の役割については諸説あるが、通説は中大兄皇子を助けて本計画を進めた首謀者の一人である、とする説である。
⑨大化の改新後、36孝徳天皇(軽皇子)が即位し、皇太子は中大兄皇子・内臣:中臣鎌足・左大臣:阿倍倉梯麻呂・右大臣:蘇我倉山田石川麻呂・国博士:僧旻・高向玄理が就任した。これ以降中大兄皇子は朝廷内の実権を持ち続けることになる。その間鎌足はづっと死ぬまで内臣として中大兄皇子に仕えたのである。内臣は身分的には大臣よりはワンランク低く公的に認められた職位ではない、とされている。しかし、常に天皇又は皇太子サイドに立ってそれを補佐する立場で、あらゆる施策に関与してきたとされている。大昔の武内宿禰と同じような立場だという説もある。鎌足が大化の改新以降の諸施策に中大兄皇子と共に関与してきたであろうことは容易に推定される。しかし、日本書紀などには鎌足の記事は非常に少なく、実際的な功績は確認出来なく、大職冠伝などの記事は虚飾であるという説も多い。
⑩658年に次男不比等が誕生している。この誕生に関しても古来諸説あるが上述した現在の通説に従うものとする。655年前後に鎌足は跡継ぎとして親族の意美麻呂を娘の斗売娘の婿として迎えている。鎌足の正室として鏡王女を迎えたのは諸情報から657年前後であり間もなく不比等が誕生した訳である。鎌足は意美麻呂を自分の跡継ぎとして政治家に育てようとした形跡は少なくむしろ祭祀関係に重点を置いたような人物である。
⑪661年37斉明天皇は百済救援のため大軍を率いて九州に赴いた。この時鎌足も同行したと前述高島氏は記している(筆者歴史年表参照)。日本書紀にはこの時の記事に鎌足のことは記していない。
これが鎌足の正体は「百済王余豊璋」であるという説の根拠の一つとされている。
この頃不比等は既に山背国山階の田辺史氏に預けられていたとの説あり。
確かに663年頃鎌足は自分の別荘を山階に有し、そこに山階寺を建立したという伝承もあるので鎌足と山背国宇治郡山階とはかなり以前から関係があったと思われる。
山階寺は正式には669年鎌足没直後に正室鏡王女によって創建されたとなっている。
この山階寺こそ有名な「興福寺」の前身の寺なのである。
⑫667年大津京に遷都され翌年38天智天皇が即位した。鎌足の家も淡海に移されたようである。山階には別邸があった。不比等の養父的存在である田辺史大隅については記録上よく分からないが、壬申の乱の時近江側についた武将に田辺小隅という人物が日本書紀に記されている。渡来人田辺氏の一族と思われ、大隅の関係者だとされている。不比等は壬申の乱の時は14,5才で参戦はしていなかったと考えられている。しかし、養父の田辺氏は近江側だったと思われるので、天武側から見れば不比等も敵勢力と思われたに違いない、よって不比等は天武朝では不遇であったという説が根強くある。
⑬669年鎌足は病に倒れた。天智天皇はこれを見舞った。この時「積善の家に余慶があるというのに証のないはずがあろうか。もし朕にすべきことがあれば聞こう」と言った。
鎌足は、「私は全く不敏で、いまさら何を申しましょう。ただその葬式は軽にたやすくするのがよいでしょう。生きて軍国になんのつとめもしませんでした。死んでさらになにを重ねてなやませましょう」(日本書紀訳:山田宗睦)と答えた。数日後大海人皇子(天武天皇)が遣わされて大職冠(正一位)と大臣の位と藤原姓を授けた。鎌足は淡海の私第で没した。この記事はその後の色々な情報から判断して多少の虚飾はあるかもしれないがほぼ史実だと考えられている。天智天皇が他の何人も与えなかった大職冠を鎌足に与えたことは、並大抵の功績ではなかったことを語っている。この時は未だ不比等は子供であり鎌足個人に与えた栄誉である。藤原氏がその後大発展するなど誰も想像さえ出来なかった時代のことである。
⑭上述してきたように鎌足の夫人は、鏡女王・安見児は38天智天皇から下賜された女性であり、阿倍女は36孝徳天皇から下賜された女性である。車持君与志古娘だけが本来の夫人だったのか孝徳天皇から下賜された女性かはっきりしない女性である。孝徳天皇は鎌足より約20才ほど年上である。逆に天智天皇は鎌足より約10才年下である。どうもこの辺りのところが釈然としないのである。鎌足の最初の夫人は誰で、最初の子供は誰だったのであろうか。4人の娘の母親はいずれも分かっていない。その産まれた順番も分かっていない。
諸情報を基に筆者が推定したのは、長女:斗売娘(638?-?)、次女:耳面刀自(648?-?)、三女:氷上娘(655?ー682)、四女:五百重娘(658?-?)
643年に長男定恵誕生、が確認されている。とすると、母親は別として次ぎの順番に子供が生まれたと推定される。
斗売娘(638?-?)、定恵(643-665)、耳面刀自(648?-?)、氷上娘(655?ー682)、不比等(658-720)、五百重娘(658?-?)
斗売娘は鎌足が24才頃の子供ということになる。そしてこの娘が跡取り娘となるのである。妥当と判断する。不比等と五百重娘は腹違いの兄妹と思われる。695年に麻呂を産んでいる。耳面刀自は、懐風藻に鎌足が娘の一人を大友皇子の妃としたとある、この娘である。鎌足が生存中に結婚したと判断される。氷上娘と五百重娘は天武天皇妃になっているが、鎌足死後壬申の乱以後の結婚ではないかと推定される。ということは、40天武天皇は鎌足を排除してなかったと判断出来るのである。
天武天皇が壬申の乱後になって「鎌足が生きていれば、壬申の乱は起こらなかったであろう」と言ったとされていることの裏付けにもなる。また不比等は天武天皇時代は不遇であったという上述などの説には疑問があることになる。最近では674年(不比等17才:天武朝)には内大臣鎌足の息子として他の高級貴族の子息と同様に一種の特権を得た形で宮廷に仕え始めたとする説有力。日本書紀初出の689年より遙かに前である。
⑮鎌足の墓所には諸説ある。死没地は家伝及び日本書紀に記されているように、淡海の第で薨じ山階寺で葬儀(火葬?)が行われたと思われる。現在の鎌足の公墓所は談山神社(祭神:鎌足)の後山である御破裂山頂付近にある。ところが多武峯略記に記されている「最初は摂津国安威に葬られたが、後に多武峯に改葬云々」の記事に関連して、1934年に茨木市安威の阿武山古墳で発掘された人骨が鎌足のものであるという説もある。上述の鎌足は摂津国三嶋に別邸があったということにも関連して、興味深いがはっきりしたことは不明である。
山階寺跡地の比定もされているようだが、この付近に埋葬されたのだという説も無視できないらしい。
以上で鎌足についての概観を終わりたい。
ここから見えてくる鎌足像は、「経営不安定な老舗の大番頭」というイメージである。
中流の神祇祭祀氏族中臣氏を飛び出した個性の強い思慮深い青年が、国を思い中国の統治形態に憧れをもち、中大兄皇子という強烈な個性を持ったエリートを育て、これに誠心誠意つくすことにより自分の理想を求め日本の曙時代を切り開いた人物だったのであろう。
結果として中臣氏の殻に留まっていたら決して達成出来なかったであろう大臣という職位を獲得したのである。これが鎌足の求めていたものだとは筆者には思えないのだが。
少なくとも鎌足の生存中に、後の藤原氏を日本一の大豪族にする原因みたいなものは見つからないのである。不比等は未だ子供であり、娘達も「氷上娘」と「五百重娘」は天武天皇妃になったが鎌足生存中のことでは無いと推定される。唯一人「耳面刀自」だけは、鎌足生存中に天智天皇の長男大友皇子に嫁いでいた可能性はある。
娘婿であり養子であった中臣意美麻呂は政治的な活動より神祇関係に重きをおいて、旧来の中臣氏の域を出ていないのである。日本書紀にも記されているように「積善の家」と言われるような因子が多かった人物であろう。勿論この場合の「善」とは天皇家サイド朝廷サイドからみた善という概念で庶民サイドから見てそうであったかどうかは意見の分かれることだったと思われる。この「積善の家」思想は孫の光明子に引き継がれ、悲田院・施薬院という一種の庶民救済に役立ったとの説もある。
 
 ところが戦後記紀批判の嵐の中でご多分に漏れずこれらの日本書紀に記された記事も史実ではないとされたのである。「日本書紀の編纂を蔭で操った張本人は藤原不比等である。
蘇我氏が朝廷を支配し、悪業非業を思いのままにしている様を記述した上で、本来の天皇中心の政治体制に戻すことこそ、我が国の発展に必須の急務であると立ち上がった正義の男が中臣鎌足であり、若い天皇家の勇者が中大兄皇子であるとした。この二人が中心となって蘇我馬子の子供の入鹿を誅殺し、馬子を自害に追い込み、朝廷体制を刷新し数々の制度改革をはかったとされる大化の改新を行った。という日本書紀記事は、蘇我氏体制を著しく蔑みそれを倒した鎌足・中大兄皇子らを著しく英雄視し過ぎている。むしろ中大兄皇子が皇太子になって以降の数々の非業・無謀な政治こそ蘇我氏らの非業と優るとも劣らぬほど酷いことをしている。それを蔭で操った人物は鎌足である。大化の改新なんて言えたものではない。単なる朝廷内の勢力争いに過ぎない。不比等は自分の父親を日本書紀という公的記録によって過剰に飾り立て、その業績を正当化し、不比等自身の護身と天皇中心の体制強化をはかろうとするのに利用したのである。不比等のこの考えを支持したのは天智天皇の娘である持統天皇であった。よってこれらの日本書紀記事を史実として認める訳にはいかない」といった趣旨の展開が、色々な角度から色々の学者が主張したのである。
筆者はこれらの研究活動はある面では非常に有効であり、古代史解明に大きな推進力となりそれなりの成果があったことは認めている。しかし、何度も述べてきたことであるが、ともすれば感情的・個人的思想問題とこれら古代史解明という大切な問題をすり替えて主張されるきらいがあり非常に残念である。
 
6-3-3)「藤原不比等」について
 不比等は学校教育の場では余り出てこない人物である。父鎌足に比して影が薄い。ところが古代史の専門家筋ではこの人物こそ良い意味でも悪い意味でもその後の日本の基礎を造った人物である、という位置づけがされている人物である。戦後の古代史研究の中心人物の一人である。大宝律令・古事記、日本書紀編纂・聖武天皇・光明子・藤原四家誕生などに直接関与し、その後の日本の政治を牛耳ることになる藤原氏支配体制の礎を造った人物こそ、鎌足ではなく不比等であるというのが現在の通説である。
不比等に関する文献は膨大量ある。筆者は高島正人「藤原不比等」(吉川弘文館)を主に参考にしてその他色々な不比等論を参考にした。
藤氏家伝にも不比等伝があったようだが、現在まで伝わっていない。不比等のことは日本書紀には僅かしか記事がない。797年に成立した続日本紀(697-791の公的記録)には色々記事がある。これらの記事だけでは不十分なので、前後の諸情報を基に筆者創作の関連年表を作成した。前述したこととも一部重複するが、この年表に沿って不比等について論述したい。
①不比等の誕生に関する謎については前述したので省略する。誕生年658年は史料により異なる。没年令からの逆算である。誕生地も諸説あるが鎌足の私邸だったとする説に従い藤原邸とした。鎌足晩年の男児誕生である。既に鎌足には娘婿「中臣意美麻呂」がおり、家督を継いでいたとの記事もある。不比等は幼少にして山背国山階の田辺史氏に預けられていたとされている。不比等は元々「史(ふひと)」と記され田辺史氏にちなんで名付けられたと尊卑分脈などには記されている。この頃鎌足の別邸が山階にあったと推定される。別邸の付近に663年には鎌足によって山階寺が創建されたという説もある。公式には669年鎌足の正室である鏡王女によって山階寺は創建されたとある。鎌足は淡海の私邸で没し、山階で荼毘にふされたとされており、相当以前から山階は鎌足・不比等に関係していた所である。
余談になるが不比等を養育した田辺史氏は山背国乙訓郡と関係ある氏族である。既稿「毛野氏考」の一節を下記に引用する。
ーーー大野東人に関連して、「田辺史難波」のことを述べておきたい。東人らと共に蝦夷征伐に活躍し東人の申し出でにより田辺史姓より750年上毛野君姓を賜った。従五位上。出羽守。とされている。一般的には「史姓」を有する氏族は概ね文筆に従事する渡来系といわれる氏族である。田辺史氏は西漢氏系に属する百済系渡来氏族である。これが何故皇別氏族である上毛野君姓を賜ったのか、古来議論されてきた。一般的には上毛野氏の系図に田辺史氏が婚姻か何かの関係で入り込んだのだとされている。
ところが筆者系図に示したように、上毛野竹葉瀬の流れから田辺氏が輩出されている。日本書紀の記事、新撰姓氏録でもこの系図にある「斯羅」が皇極朝(642-645)に田辺史姓を与えられているのである。「史」は文書を解する氏族に与えられた姓なので渡来系だけでなく与えられたものとも思われる。この流れに東人と同時代の田辺史難波がおり、この人物は元々上毛野氏の出なので、上毛野姓に復姓したと考えれば、特に渡来人系とは無関係であり、皇別氏族の姓が与えられても不思議ではない。
一方藤原不比等は田辺史大隈に養育されたとある。この田辺史氏は明らかに百済系渡来人とされている。これと上毛野君姓になった田辺史氏は関係あるのかないのか。筆者には分からない。
太田亮の姓氏大辞典にも色々な出自の田辺史氏があることは記されている。
但し太田氏は一部田辺史氏だけでなく総ての河内田辺史氏が上毛野姓を賜ったと解している。田辺史氏は漢系百済系渡来人とされており、田辺史難波のように上毛野氏との婚姻関係主従関係などがあり、これにより上毛野氏系図に入り込んだとしている。
一説では、前述の6代上毛野竹葉瀬らが仁徳朝に百済に派遣された時、その血族の一部が百済に残り後年日本に渡来(帰国)して河内国辺りに本拠を置き、これが皇極朝に田辺史姓を賜り、この流れが後に上毛野氏に復姓したのであるという。
ところで、山背国乙訓郡にも実は上毛野系田辺史氏が居住していた痕跡が残されている。更の町(ふけのまち)遺跡に田辺郷記載の木簡が見つかった。少なくとも奈良時代には乙訓郡に田辺郷なる地名があった。田辺史氏の寺だったとされる「鞆岡廃寺」が現長岡京市友岡にあった。ここでは「田辺史牟也毛」と記された線刻瓦がみつかっている。この瓦は乙訓地方最古の瓦とされている。素弁蓮華文軒丸瓦で7世紀前半のものとされている。
このことより「鞆岡廃寺」は、白鳳時代の寺院であり、皇極朝に「斯羅」なる人物が田辺史姓を賜り本拠地を大阪府柏原市田辺においた一族の一部がこの長岡京市にいたことの証拠とされている。
この寺は平安時代頃までは存在していたらしいが、詳しいことは分からない。とされている。長岡京市史には以上のように記されているが、この田辺史氏が上毛野氏であるとどうして認定したのかは、不明である。上記太田説に従えば、田辺史氏は総て上毛野氏だが。
ーーー以上である。 
この記事に登場する田辺史大隅が不比等を養育した人物である。そして壬申の乱の記事には近江側の副将軍として田辺小隅なる人物が記録されている。大隅と小隅とは何らかの血縁関係があったものとされ、これが後に不比等は天武側の敵勢力と見なされ天武朝では不遇であったとという説が生まれた。現在この説は通説とは思われないと筆者は判断している。
②674年頃不比等(16才)は通常の貴族と同じく大舎人として天武朝の朝廷に仕えたという説を採用した。これは確実な史料に基づく説ではない。当時の貴族の子息は16才前後で親の身分に応じた身分で朝廷に仕え始めるという慣例に従えばこうなる、という説である。日本書紀初出の689年の判官任官(従五位下?)という記事から逆算しても674年頃初任官(従六位下?)は無理ではないとするのである。
680年に長男武智麻呂が産まれていることからその前年に蘇我連子(611-664)の娘娼子と結婚したと推定。連子は斉明朝の大臣だったらしいが記録上はっきりしない蘇我氏の中では蔭の薄い人物である。しかし、主家は滅んだとはいえ大豪族蘇我氏の娘を妻とした不比等は、単なる中臣氏の男という扱いではなかったことが窺える。ちなみに娼子の伯父倉山田石川麻呂・赤兄・果安らは歴史上の有名人物である。不比等のその後の活動に陰に陽に関係したのである。
681年には次男房前が産まれた。この後娼子は没したとされている。三男宇合も娼子の子供であるとする説があるが、その生年は694年とされており(異説あり)、娼子の子供ではないとするのが現在の通説である。
娼子没後682年頃に不比等は賀茂君比売と再婚していると考えられている。この賀茂君は既稿「賀茂族考Ⅱ」を参照のこと。筆者調査ではこの比売の父は賀茂朝臣小黒麻呂である。(諸説ある) この比売との間に産まれたのが「宮子」である。この娘こそ不比等が天皇家に外戚として入るきっかけを造った重要人物である。
684年に八色の姓制度が発足したが不比等らは一様に中臣朝臣姓が与えられた。685年には中臣朝臣姓の者は総て藤原朝臣姓に改姓された。これは鎌足が藤原姓が与えられたことと関係していることは間違いない。ただし、本件に不比等が直接関与した形跡はない。③689年40天武天皇と41持統天皇の間に産まれ次期天皇候補であった草壁皇子(662-689)が急逝した。この死に臨み不比等に草壁皇子の子供である珂瑠(軽)皇子(42文武天皇)の後見役の証である黒作懸佩刀(くろつくりはけのたち)が手渡された、とされている。この刀は正倉院宝物帳にも記載があるが現在は残されてはいない。この辺りの日本書紀の記述は史実かどうかは判然としないが、この時には既に不比等が他の多くの皇族、豪族が存在した中で特別な存在になっていたことの証拠だとされているいる記事である。不比等32才の時である。
686年から690年まで41持統天皇は称制をとり、690年に正式に即位されたのである。持統天皇(645-703)と不比等の関係が特別であったことは、古来から言われてきたことである。持統天皇は38天智天皇と蘇我倉山田石川麻呂娘「遠智姫」との間に産まれた。不比等とは13才ほど年上である。不比等の妻は蘇我倉山田石川麻呂の姪である。即ち持統から見れば年は逆転しているが 娼子は大叔母である。また不比等は持統の父天智天皇が最も信頼した内臣「鎌足」の子供である。しかも天智妃であった鏡王女の子供である。一説では天智の落胤である。そうであるならば、腹違いの姉弟である。
その上、子供の頃から田辺史氏の元で勉学の道に励み、和漢の書物に通じ聡明であった不比等を持統天皇が見逃す訳がない。絶対的に信頼出来る臣下として689年以前から自分の身近に置いていたことは容易に想像される。
40天武天皇には多数の皇子がいた。しかし、持統から見ればそれらは総て敵であり、皇統を維持する大義名分からすれば、正統なのは皇后の子供である草壁皇子であり、その子供である 珂瑠(軽)皇子こそ天皇になるに相応しい血脈であると考えたのである。後に「不改常典」という天智天皇が定めたとされる皇位継承の原則を定めたみたいなものが天皇即位の詔などに登場(初出は元明天皇の時)するが、その背景にはこの持統天皇の不退転の思想があったとされている。
この持統天皇の思いを蔭から支え良き相談相手になったのが不比等であったとされている。694年に長年かかって建設された藤原京に都が遷都された。
④697年に42文武天皇(683-707)が即位した。持統天皇が後見役となり譲位したのである。そして不比等は上述の自分の娘宮子(683?-754)を文武天皇妃として入内させたのである。文武には正式な皇后がいなかった。678年文武天皇は詔を出して藤原朝臣姓の氏族に対し不比等及びその子供以外の者は元の中臣朝臣姓に復姓させたのである。即ち鎌足の血脈を嗣ぐのは不比等一人であるとし、その血脈のみ藤原朝臣姓を名乗ることを許すとしたのである。鎌足の婿養子である意美麻呂も中臣姓に戻されたのである。不比等はこの当時未だ議政官には名を連ねていないが、実質的には既にトップの実権を握っていた可能性大とされている。上記の黒作懸佩刀を天武天皇に渡し15才の天皇の補佐役として持統上皇と一緒になって朝廷を仕切っていたと考えられている。不比等41才頃。この藤原朝臣姓問題は、不比等の企んだこととされている。これには幾つかの深い意味があったとされている。イ)一族を分割することにより朝廷内の主要なポストをそれぞれが確保するチャンスを増やした。(当時は主要ポストは一氏族で一人しか付けなかった)ロ)中臣氏は祭祀氏族としてその地位を確保し、藤原氏は政治を行う氏族として専念出来るようにした。ハ)中臣鎌足の功績を藤原氏が独占引き継ぐ形を認めさせた。
などである。当時不比等は中臣氏の氏長ではなかったが、実質的にはそれ以上の地位と実権を有しており、この一族全体に及ぶ大改革をやってのけたのである。
これぞ後の大藤原氏誕生の瞬間だったのである。その意味で不比等こそ初代藤原氏である。持統天皇の不比等に対する信頼がいかに大きかったかの証明でもある。勿論父天智天皇が鎌足に示した感謝の気持ちを汲んでの処置だったとも言える。しかし、この藤原氏が後年
日本の朝廷政治を牛耳る大豪族に成長するとは想像だにしなかったであろう。
⑤ 701年不比等は正三位大納言となった。その年大宝律令が制定されたがその実質的な責任者が不比等であったとされている。またこの年に文武天皇妃宮子に首皇子(後の聖武天皇)が誕生した。一方不比等は700年に美努王の妻であった県犬養三千代を妻として迎えている。(橘氏考参照)彼女との間に701年安宿媛(あすかひめ)が産まれた。後の光明皇后である。この頃までに不比等の主立った子供達は総て産まれたことになる。44才である。
702年末に持統上皇が崩御された。持統ー不比等体制がここで終了したのである。
しかし、この時不比等は既に次ぎの天皇候補筆頭の外戚となり、大納言となっており、名実共に朝廷政治のトップに立っていたとされている。
⑥707年文武天皇崩御。首皇子が余りに幼いので文武天皇の母親である43元明天皇が繋ぎの天皇として即位した。708年不比等は正二位右大臣となった。そして710年都は藤原京から平城京に遷都された。不比等が重要な役割を果たしたのは当然である。
不比等は鎌足が創建したとも言われる山背国山階にあった山階寺を一時藤原京に移していた(厩坂寺)が、この年さらに平城京内に移し、「興福寺」と改名した。藤原氏の氏寺として出発したがやがて官寺としての扱いを受けるようになった。
同じく春日大社は710年に藤原不比等によって常陸国鹿嶋から藤原氏氏神武甕槌命を春日の御蓋山に勧請し、春日神として祀ったのが創祀、とされている。現在公的には768年に北家藤原永手により創建とされている。
奈良公園の主要部分を占める春日大社・興福寺は不比等が藤原氏の氏神・氏寺としてこの頃に創建したのである。
⑦712年古事記編纂。これは元明天皇の711年の勅命により太安萬侶が稗田阿礼が天武天皇の命により暗誦していた帝紀・旧辞などを文章化し712年に元明天皇に提出したものであるとされている。しかしこのことが続日本紀などの公的な記録に残されていなかったため古来色々議論されてきた。既稿でも各所で本件について記してきたので詳述しないことにする。715年元明天皇が禅譲して娘である44元正天皇が即位した。首皇子は皇太子のままであった。この時首皇子は15才で未だ即位するには若すぎると判断されたらしい。716年橘三千代が産んだ不比等の娘「安宿媛」が首皇太子妃となった。不比等にとって血の繋がった孫と娘の結婚である。717年には次男房前が前例を破った形で参議に就任している。父子議政官となった初例である。
718年不比等の娘(長蛾子)婿である長屋王が不比等の後ろ盾を得た形で大納言となった。長屋王天武天皇の子供である高市皇子の子供である。この頃までは藤原不比等の力は厳然たるものであった。720年不比等は、平城京の私邸(現法華寺付近)で没した。墓所は談山神社である。
この年日本書紀が編纂された。これこそ日本に現存する最古の公式の日本の歴史書だとされているものである。これも既稿で各所で記してきたので詳述しないことにする。
戦後の記紀批判の中で記紀共にその内容には不比等・持統天皇の意向が強く反映されており、意図的に史実を著しく改竄・創作しているという説が有力視されてきた。筆者はこの件に関しては懐疑的であることを述べてきた。
神話部分・万世一系の天皇家に関する部分(系図問題も含む)・伊勢神宮関係・蘇我氏関係・神功皇后・倭武尊・武内宿禰・朝鮮半島との交流問題などがその主なものである。
文字の無かった時代の史実を忠実に再現することは至難なことである。ましてや後の世の子孫達に影響がある人物に関する記事は常に微妙な因子が働くものである。滅んでいった氏族・勝者となった天皇家、諸豪族とで扱い方が異なってくるのも洋の東西を問わず当たり前のことである。この観点に立った記紀批判、史実との乖離を究明することは非常に大切である。ところが戦後の記紀批判の中には、持統天皇藤原不比等に的を絞ったような記紀批判がされているきらいがある。諸悪の根源は不比等であるともいわれているのである。これは的を射た批判ではないと筆者は考えている。筆者は主に次のように推定している。
a.神話のようなものは相当長年月の間をかけて醸成されたものである。例えそれが為政者にとって都合の良いように創作されたとしてもである。持統ー不比等だけの力でどうこうできるものではない。
b.系図の類も同じである。勝手にどこかをいじくると必ずどこかに矛盾が発生する。色々な氏族が複雑に絡み合っており、それぞれが独自の祖先伝承を持っていたのであるから朝廷といえども勝手に創作は出来ない。但し、記紀編纂の際にある程度の整合性はとったことは間違いないであろう。
c.天皇家の万世一系思想は持統天皇時代に急に出来たものではない。天皇家の血筋は他の氏族とは異なるものであるという思想は相当以前からあったものと推定される。少なくとも聖徳太子時代にはほぼ確立された思想であろう。
d.神功皇后・武内宿禰・倭武尊など架空的臭いが濃いとされる人物についても持統時代に急に思いついた創作人物とは思えない。日本各地に残されている神社・伝承などが712年以降に誕生したものばかりとは思えない。系図も非常に複雑に色々な氏族に関与している。これらが総て712年以降にそれぞれの氏族が自分らの祖先と結びつけて創作したとも思えない。これらの人物も何かの史実を反映して色々修飾・合体がされ長期間かけて醸成されたものと考えられる。持統時代にある程度の整合化はしたかも知れないが全くの創作・改竄ではないであろう。
e.朝鮮半島との交流問題は、当時の複雑な国際問題を反映していると判断する。新羅・百済問題は半島の問題であるが、日本の天皇家をはじめ諸豪族に陰に陽に大きな影を落としていたのである。それ程渡来人の有する先進的な技術・文化が日本の発展に寄与し、影響力があったのである。同時にそれらの国との交流をどうするかは権力者の頭を痛めた問題だったのである。さらに日本列島と朝鮮半島の力の誇示にも関係していたのであろう。
これを持統天皇・不比等に責任を持たせることはナンセンスである。
f.伊勢神宮問題は既稿「度会氏・荒木田氏考」で色々述べたので省略。
g.最後に蘇我氏問題がある。これは持統天皇にとっても不比等にとっても、その他蘇我氏を含む諸豪族にも日本書紀編纂当時、直接関係者が沢山現存していたのである。今で言えば明治末から大正時代位の昔の話である。史実と感情論を分けて考えれば、編纂当時の朝廷のエリートが日本書紀のような記述をしたことは頷ける範囲だと思う。何も持統天皇・不比等の意向を反映しているなんて批判する程のものでは無い。当時の貴族達も許容したものと容易に推定出来るのである。歴史書なんて所詮そんなものである。現在の歴史学者はそうであってはならないと思う。
筆者は記紀の記述が史実と乖離している箇所があることを否定したり、記紀批判をその意味ですることを否定する気持ちは全くない。むしろ今後も古代史の真実解明には積極的にするべきだと思っている。
勿論中臣氏又は不比等が中臣氏に直接関係するような例えば天児屋根命などを神話などでより引き立たせるように修飾したり遠い先祖を有力諸豪族と並び立てたりなどするように編纂者に指示した可能性は否定出来ない。他の豪族も似たような飾り立てを要望した形跡があるとされている。
 以上が筆者の記紀批判における持統天皇・不比等観である。彼等が当時一番力を入れたのは目の前の政治だったであろう。記紀の個々の内容にまで深く関与する余裕はなかったと判断している。記紀の内容によって目の前の政治が変わるなんて考えていなかったと推定する。結果論的に言えば記紀のその後に果たした役割は非常に大きかったかも知れないが、そこまで彼等が考えたかどうかは甚だ疑問である。
戦後の一部の歴史家は逆説的にいえば、この二人の人物を過大に英雄視し過ぎているような感じがするのである。
⑧不比等は若い頃は父鎌足と同じように持統天皇らの内臣的存在だったと思われる。しかし、娘宮子を文武天皇の妃にして、彼女が首皇子を産んだ頃から即ち大宝律令制定と期を同じくして大きく変貌していったように見える。天武天皇が親政を敷かれて後、所謂古代豪族と言われる旧勢力の力は著しく低下していった。それに反比例する形で不比等が力を得てきた。そして遂に不比等は天皇家の外戚となったのである。これは蘇我氏が歩んできた道と酷似してきたのである。蘇我氏は滅んだ。不比等はそのことを知り過ぎている。
ここから先が蘇我氏とはどのように違ってくるのであろうか。
 
6-3-4)藤原四家誕生、光明子について
藤原不比等には4人の男児が生まれた。長男「武智麻呂」次男「房前」三男「宇合」四男「麻呂」である。武智麻呂は平城京の南に居を構えたので「南家」、房前は武智麻呂の居の北に居を構えたので「北家」、宇合は式部卿であったので「式家」、麻呂は左京大夫であったので「京家」と呼ばれるようになった。この四家を総称して藤原四家という。
不比等の時と異なりこの4兄弟は父不比等が権力の座にいる間に官途につき、共に年齢に応じ猛烈なスピードで出世をした。武智麻呂と房前は1年違いであるがその地位はシーソーゲームをやるように進み、最初に参議になったのは弟の房前で37才であった。
長男武智麻呂は721年長屋王が右大臣になった時、中納言となり、724年聖武天皇即位の時房前と同時に正三位となった。729年の長屋王の変で活躍し、大納言になった。734年には右大臣その後正二位左大臣にまでなった。一方兄より先に参議になった房前はその後伸び悩み737年正三位民部卿で死去。三男宇合は母がはっきりしない。724年に式部卿となり、731年に参議になった。四男の麻呂もこの時参議兵部卿になった。なんとこの時藤原氏から4人も議政官に任じられていたのである。他の氏族では考えられないことが起こっていたのである。日本の歴史上前代未聞の事態が起こったのである。
これが可能となった最大の原因は、藤原氏聖武天皇の外戚であり、皇后は4兄弟の妹にあたるからであった。即ち天皇家にとって最大の支援者が藤原氏になっていたのである。
筆者はそれだけではないと判断している。イ.天武朝になった時から天皇家中心の皇親政治に変わった。このことにより有力な既存古代豪族の政治的立場が著しく低下した。
ロ.持統朝からの皇位継承問題に関わり反持統派の勢力が抑えられた。
ハ.新勢力は文武・聖武天皇に妃を出した氏族に限られており、そのトップに藤原不比等がいた。
ニ.その新勢力の中で不比等の子供達はそれぞれ能力及び実績が抜群で、新勢力他氏族の者達を凌駕していた。
ホ.従前のような各氏族バランスをとってその氏長が議政官になり国の政治を行っていれば旨くことが運ぶ、という情勢ではなくなった。真に実力、実績ある者がリーダーにならないと複雑な国の運営が不可能な状態になってきた。
などの政治状況の大きな変動が起きてきた背景があったのである。そのように旧勢力の力を削いだ張本人こそ不比等であるという説有力。
731年前後の動きを記すと、
720年不比等が亡くなると、後任の右大臣には不比等の娘婿である長屋王がなった。
彼は天武系の皇族の代表である。724年には左大臣となり聖武天皇が即位した。この頃になると藤原氏長屋王の関係が急速に悪化し、遂に729年「長屋王の変」により長屋王の一族は壊滅した。この変は長年我慢してきた天武天皇の子供・孫のアンチ持統派勢力と台頭してきた藤原勢力との戦いでもあったのである。
この最大の功労者が武智麻呂だったのである。これにより朝廷内に藤原氏に対抗出来る勢力が駆逐されたのである。
しかし、この藤原4兄弟全盛時代は737年の天然痘の大流行という天災であっけなく終わったのである。4兄弟揃って死んだのである。
武智麻呂:58才(子供:男4名、女3名) 房前:57才(子供:男8名、女3名)
宇合:44才(子供:男7名、女1名) 麻呂:43才(子供:男3名、女2名)
であった。
藤原一族にとっては大打撃であった。
ここで満を持して登場してきたのが、不比等の後妻である橘三千代とその前夫美努王との間に産まれ、45聖武天皇皇后光明子の義理の兄に当たる「橘諸兄」である。738年諸兄は右大臣となった。743年諸兄は左大臣になる。749年に聖武天皇は譲位し、光明皇后の娘が46孝謙天皇として即位。この女性天皇藤原氏の血脈である。
752年東大寺廬舎那仏開眼法会。この年に聖武天皇の母宮子が没。755年諸兄失脚。756年聖武上皇崩御。
757年橘諸兄が没。諸兄の息子奈良麻呂(母は不比等の娘)は、光明皇后、孝謙天皇の寵愛を受けて台頭してきた藤原南家の仲麻呂らを朝廷から排除することを狙って乱を起こす(奈良麻呂の乱)が失敗に終わる。
758年には藤原氏とは血脈的には繋がらないが、藤原武智麻呂の次男仲麻呂(恵美押勝)の支援を受けて47淳仁天皇即位。仲麻呂は右大臣となる。760年光明皇后没。
光明子の藤原氏盛り立てに果たした役割は非常に大きかったものと判断している。特に不比等没後の彼女の藤原4兄弟への配慮、四兄弟没後のそれらの子供等への影響力は想像以上のものがあったと推定される。光明子の政治力は749年の紫微中台設置問題で代表されるように通常の皇后とは訳が違うのである。
これで不比等の子供の代までの主要人物を概観したことになる。上記したように藤原四家は当主が一時に亡くなるという一大災難に見舞われるが、これで滅亡するような氏族ではなかったのである。
上記したようにそれぞれに男児が沢山おり、これらがその後の藤原氏をさらに発展させるのである。即ち不比等・四家誕生により大豪族藤原氏の基盤が築かれていたといえる。
 
7)まとめ(筆者主張)
①本稿では33推古天皇朝の614年鎌足誕生から47淳仁天皇朝の760年光明皇后没までの約150年の間に大古代豪族「藤原氏」がどのようにして誕生し、その礎がどのようにして築かれたかを論じた。
②元祖中臣鎌足は、神祇氏族中臣氏の嫡流であったが、その殻を脱し、自分より遙かに若い天皇家のエリート中大兄皇子に自分の夢を託し、645年の大化の改新を皮切りに次々に国政改革に内臣(天皇家の大番頭的存在)として活躍した。但し、リーダーとしてではなく、常に番頭であった。その結果中大兄皇子は天智天皇となり669年鎌足の死にあたり大臣の位(古代豪族中臣氏では考えられない地位である)と藤原の姓を鎌足に賜った。これが藤原氏誕生の原点であることは史実である。しかし、この時点では後の大藤原氏に発展する片鱗は無かったと筆者は判断している。
③鎌足の次男不比等が公的記録(日本書紀)に初登場するのは689年で持統称制の時である。鎌足死後20年後のことである。この時31才で従五位下くらいの位についたのである。親の七光りがあったとする説と天武朝では壬申の乱の影響でそれまでは不遇であったが持統朝になり日の目を見たのであるとの説がある。筆者は不比等は壬申の乱の影響を余り受けなくて親が既に死没してからの官途についたのであるからこんなものであろうと推定している。勿論鎌足の七光りはそれなりに受けていたと判断している。
④持統朝になってからの不比等は、初期は、父鎌足と似た活躍をした。天皇家の安定化護持である。それには律令制度の確立が不可欠と判断し、大宝律令の編纂制度化の実質的なリーダーとなったことは間違いないと判断する。
701年には正三位大納言となったのである。これは破格の昇進であることは間違いない。勿論その背景には42文武天皇の妃に自分の娘宮子を入内させ首皇子を出産したことも関係しているであろう。またそれに先だって698年には不比等及びその直系の者にしか藤原朝臣姓は名乗ってはならないとする文武天皇詔を賜るよう仕組んだのである。即ちこの時点で祭祀氏族中臣氏から政務氏族藤原氏の分離独立をはかったのである。
真の藤原氏はこの時誕生したのである。よって真の藤原氏初代は藤原不比等である。
この史実は一般的には余り知られていないことである。この頃からの不比等の動きは父鎌足とは明らかに異なることになる。即ち朝廷の実質的リーダーとして活躍するのである。
⑤702年に持統天皇が崩御し、これ以降の天皇家の護持は一手に不比等が担ったものと推定される。707年には文武天皇が若くして崩御。43元明天皇が不可解な不改常典を持ち出して即位した。勿論不比等がそれをバックアップしたことは間違いない。710年には平城京遷都が行われた。これでも不比等が重要な役割を演じたことは間違いない。
⑥715年には、また女性の44元正天皇が即位した。これにも不比等が関与。そして716年には自分の娘安宿媛が孫である文武の息子で皇太子であった首皇子の妃となったのである。ガチガチの血族結婚であり、不比等こそ最大の天皇家の支援者の地位を確保したのである。不比等は右大臣であったが左大臣または太政大臣になることを勧められたがこれを拒否したという記事も残されている。
⑦720年に不比等は正二位右大臣として死去した。この間に不比等は古事記・日本書紀などの修史事業にも深く関与し、日本の神話・歴史天皇家の都合の良いように(又は藤原氏の都合のよいように)改竄・修飾・創作をした張本人であるという説が戦後一部学者から出され多くの支持者もある。筆者はこの説には全面的には賛成出来ない。
⑧不比等の死後、不比等の子供等が4人も議政官となる時代がきた。729年の長屋王の変に勝った藤原氏勢力は光明皇后の後ろ盾もあり朝廷で並ぶ者無しになった。ところが737年の天然痘騒ぎで4人の息子達は挙って死没した。その後758年には橘奈良麻呂の変が起こった。長屋王にしても橘氏にしろ皇族出身であり藤原氏の台頭を快く思わぬ勢力であった。藤原4兄弟・その子供らはこれらを駆逐したのである。筆者はその背後に光明皇后がいたと推定している。即ち不比等亡き後のリーダーは光明皇后がなっていたのではなかろうか、と推定している。そして759年光明皇后は没した。
⑨何故不比等及びその子供らがこのように国を動かし朝廷を牛耳れるようになったのかは興味ある課題である。その最大の理由は、天武天皇がそれまでの豪族中心の政治を皇族中心の皇親政治に変革したことと、大宝律令制度の導入により、古代諸豪族の勢力が著しく低下したことにあると筆者は判断する。同時に不比等及び4人の息子及び光明皇后が並はずれた才能の持ち主だったと思わざるをえない。鎌足の子供であったから、不比等の子供だからそうなれたのであると単純には思えない。
藤原氏のことを38天智天皇から鎌足の死に臨んだ折に賜った言葉を引用して「積善の家」というらしい。藤原氏は代々この言葉を大切に護ってきたともいわれている。この場合、天皇家の皇統を安定的に護持することこそ「積善」と筆者は解釈した。これこそ嘗ての蘇我氏と根本的に異なる思想らしい。それを可能ならしめる氏族は藤原氏だけであるという思想がこの150年間のどこかで確実に藤原氏内部に誕生したものと思われる。その方法まで示したのは不比等であろう。天皇家を護持することこそ国家の安定にとって最も重要事項と考え、同時に藤原氏族を維持発展さすことの源と考えたのである。
⑪鎌足も不比等も公的な記録には殆ど詳しい記事が残されていない。しかし、間違いなく
この二人を原点として大豪族藤原氏が誕生したのである。