蘇我馬子

蘇我馬子

そがの うまこ

別:
嶋大臣(しまのおおおみ)
父:
蘇我稲目
室:
物部守屋の妹
子:
蘇我蝦夷
蘇我倉麻呂(蘇我倉山田石川麻呂の父)

蘇我馬子は、飛鳥時代の豪族。父蘇我稲目(そがのいなめ)の後をついで敏達天皇の時大臣となり仏教を深く信仰し物部守屋と対立。587年には物部氏を滅ぼした。崇峻天皇を暗殺し推古天皇天皇とするなど政治を欲しいままにしていた人物。
聖徳太子が摂政となると息女の刀自古郎女を皇子に嫁がせその政治に協力したが、亡くなると再び実権を握り横暴な振る舞いが多くなる。葛城県(かつらぎのあがた)を求めるなどして推古天皇と対立するなど次第に孤立することとなる。
有名な石舞台古墳は、蘇我馬子の墓ではないかといわれている。

陵墓
   陵名:石舞台古墳、形状:上円下方墳であったという、場所:奈良県明日香村

略歴 (06世紀)
569 父曽我の稲目死去
572-壬辰-敏達01年04月 敏達天皇により大臣に任ぜられる。
574-甲午-敏達03年10月09日 吉備国に派遣され屯倉を拡張、田部を増やす
575-乙未-敏達04年02月01日 帰郷し、屯倉などについて報告
584-甲辰-敏達13年09月 百済よりもたらされた仏像2体を請い受け深く信仰をはじめる。
585-乙巳-敏達14年02月24日 病気となる。この年疫病が流行している。
585-乙巳-敏達14年03月01日 敏達天皇は物部弓削守屋大連らの排仏の訴えを受け「仏法をやめよ」との詔。
物部弓削守屋大連は自ら赴き、寺や仏像を焼く。焼き残った仏像を集めて難波の堀江に捨てさせた。
585-乙巳-敏達14年06月 自分の病気平癒のため自分だけ仏法をすることを許され、寺院を造り仏像を迎え入れ供養する。
585-乙巳-敏達14年08月15日 敏達天皇崩御。物部守屋との仲はいっそう険悪となる。
587-丁未-用明02年04月09日 用明天皇崩御
587-丁未-用明02年06月07日 崇峻天皇擁立のため炊屋姫尊(推古天皇)を奉じて佐伯連丹経手、土師連磐村、的臣真噛に「穴穂部皇子と宅部皇子を殺せ」と命じる。その日のうちに穴穂部皇子は殺される。
587-丁未-用明02年06月08日 宅部皇子が殺される(宅部皇子は宣化天皇の皇子ではあるが王位継承には関係なかったようです。穴穂部とあまりにも仲が良すぎたのが原因か?)
587-丁未-用明02年07月 物部守屋を滅ぼそうと軍勢を派遣する。筆頭は蘇我馬子、泊瀬部や竹田皇子、厩戸皇子など。
587-丁未-用明02年08月02日 崇峻天皇即位
588-戊申-崇峻01年 飛鳥衣縫造(あすかのきぬぬいのみやつこ)の樹葉の家を壊し、初めて法興寺(ほうこうじ)をつくり、この地を真神原(まかみのはら)と名付けた。
592-壬子-崇峻05年10月04日 崇峻天皇が、奉られた猪を指差し「いつの日かこの猪の顎を斬るように憎いとことの人を斬りたいものだ」と言ったことを聞く。
592-壬子-崇峻05年11月03日 東漢直駒に命じて崇峻天皇を暗殺させ、その日のうちに倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ) 葬る。
614-甲戌-推古22年08月 病気となる
620-庚辰-推古28年12月01日 聖徳太子らとともに『天皇記』『国記』を編纂
621-辛巳-推古29年02月05日 聖徳太子が薨去
624-甲申-推古32年10月01日 葛城の県を払い下げるよう推古天皇に要請するが断られる
626-丙戌-推古34年05月20日 永眠。桃原墓に葬られる。年齢は76歳だと思われる。 (現在の奈良県明日香村石舞台が馬子の墓だといわれている)


蘇我稲目━━━蘇我馬子━┳━蘇我蝦夷
            ┗━蘇我倉麻呂