蠣崎家
蠣崎家 家臣団
蠣崎義広 (1479~1545年 67歳没)
蠣崎光広の子。蠣崎季広の父。新三郎、若狭守、民部大輔、良広。ある夜、賊の夜襲を察知し弓で数名を射殺す。義広は弓に優れ、常に三人張の弓を引いたという武人である。家督を季広に譲ってからも腕は衰えず、享禄三年五月二十五日、大雨の夜に賊が居城州崎を攻めようと橋を渡ると、義広はその音の方角に矢を放つ。夜明けとともに賊をあらためると、矢は賊の左肩から右脇を貫き、その後ろにある岸に刺さっていたという。天文十四年八月十九日、六十七歳没。法名「宗全」。
蠣崎舜広 (?~?)
蠣崎季広の長男。父より先に没す。
蠣崎元広 (?~?)
蠣崎季広の次男。明石季衡の養子となる。
随良 (?~?)
蠣崎季広の四男。出家した。
蠣崎正広 (?~?)
蠣崎季広の五男。
蠣崎長広 (?~?)
蠣崎季広の六男。
蠣崎定広 (?~?)
蠣崎季広の七男。
蠣崎包広 (?~?)
蠣崎季広の八男。兄季広の家臣となる。
蠣崎吉広 (?~?)
蠣崎季広の九男。別家を興した。
蠣崎仲広 (?~?)
蠣崎季広の十男。兄季広の家臣となる。
蠣崎守広 (?~?)
蠣崎季広の十一男。兄季広の家臣となる。
蠣崎員広 (?~?)
蠣崎季広の十二男。兄季広の家臣となる。
蠣崎利広 (?~?)
蠣崎季広の十三男。兄正広の養子となった。季広には他に十三人の娘がおり、十人が家臣に嫁いだ。
松前盛広 (1571~1608年 38歳没)
蠣崎慶広の長男。松房丸、甚五郎、若狭守、守広。慶長元年、家康に拝謁。翌年二月二十八日、松前に戻る際に虎皮五枚、黄金五十両を賜る。父は慶長四年十一月七日、大坂西ノ丸にて姓を松前に改めた。慶長九年正月二十七日、諸国からの商船は蝦夷との交易を行う際には全て松前家の許しが必要となった。これを破ったりアイヌ人に不当な扱いをすれば厳罰に処されることとなった。慶長十三年正月二十一日、松前にて父より先に没す。三十八歳。法名「宗園」。
松前公広 (1594~1641年 48歳没)
松前盛広の長男。甚五郎、志摩守、茂広、武広。慶長十八年十一月九日、秀忠に拝謁。元和三年、祖父の遺領を継ぐ。六年、松前産出の砂金百両を献上。これにより封内の金山を賜る。寛永十七年六月十三日、大地震により戸勝から亀田に至るまで海水で溢れ、七百名余が溺死。百艘余の舟が壊れるという大惨事が起きている。火災による灰は十五日午刻まで空を覆い、昼でも闇夜のようだったと言う。寛永十八年七月八日、四十八歳没。法名「宗愚」。
松前忠広 (?~?)
松前慶広の次男。武蔵丸、甚平次、隼人正。元和元年五月、大坂夏の陣に参戦。慶広の三男は長門守利広である。
松前由広 (?~1614年)
松前慶広の四男。慶長十九年十二月二十六日、豊臣秀頼に通じたとして慶広は家臣工藤祐種に討たせた。
松前満広 (?~?)
松前慶広の八男。松前慶広には他に二女があり、長女は喜庭直信と離婚した後、津軽信建と再婚した。
【付記】
蠣崎氏は奥州仕置に際し、アイヌを率いて出陣。九戸政実と争った。アイヌの容貌は深目長髭であり、毒矢を使用したと言う。
【北海道の源義経伝説】
蝦夷のタイルベシベに源義経が居住したという伝説がある。これは黄金山と和人の呼ぶ山である。ピポクチャシの崖の窪みには、義経が馬で駆け上った蹄の跡と言う伝説がある。また、義経はこのチャシ(アイヌの城)に居住したと言う。
【アイヌとの交易】
アイヌとの交易には蝦夷俵が用いられた。蝦夷俵は通常の俵の半分しか米が入らぬ二斗入俵であった。この蝦夷俵一俵と干鮭百本が交換された。これだけでも割に合わないが、寛文年間頃には七、八升しか米を入れない商人が増加。それに対し、干鮭は百四十本が必要となった。アイヌと日本人との交易は略奪貿易の要素が強まった。鮭は天然の産物として豊富に捕れたかもしれないが、それでも不満が増加したことは言うまでもない。さらには大津波、砂金生産により生活環境を乱され、アイヌは蜂起を決意。寛永二年、世田内のアイヌが蜂起。寛文九年、シャクシャインの蜂起が起こった。徳川二百六十年は太平の世であったとされるが、蝦夷はアイヌとの関係悪化、さらには露西亜の脅威という問題が付きまとった。
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