足利義晴

足利義晴(あしかが よしはる) 1511~1550
○亀王丸 左馬頭 右大将 大納言 征夷大将軍
◇父:足利義澄 室:近衛尚通女 子:足利義輝、義昭、西山義辰
 将軍家足利氏一族。父義澄の逃亡先近江・九里備前守の館にて出生し、さらに播磨に逃れて赤松義村の下で養育される。管領細川高国が将軍義稙を阿波へ逐うと、高国に迎えられて上洛し、第12代将軍の座に就く。しかし、弟義維を擁する細川晴元三好元長らと対立し、1528年三好元長に逐われて近江・朽木稙綱を頼る。元長が本願寺教光らに攻められ自刃すると、晴元に擁されて帰洛したが、この晴元と対立して再び近江坂本に下り、将軍職を辞す。近江・穴太で没。再三近江に逃れ、むしろ在京期間の方が少なかったことから、“江州大樹”と呼ばれた。