金沢光信

金沢光信

生歿年:不詳(推定一四六二~?)
父:金沢家信(嫡子)

 右京亮。津軽大浦氏の祖。
 家臣大曲和泉守によって救出され、親族の久慈、九戸氏を頼って落ち延びた。兄弟の存在は信健以外不明だが、光信は家信の嫡子として下久慈の屋敷で育った。
 不遇であった青年期を経て、三〇歳を過ぎて南部本宗(小笠原南部氏で久慈氏に比定)から津軽四郡(津軽郡は四つの私郡から構成される)のうち鼻和郡を与えられた。当時、津軽に於いて領有権を争っていた安藤氏の排斥を実現した八戸南部政経は安藤氏の津軽奪還の兵に手を焼いていたため、封土を失っていた光信に白羽の矢が立ったと考えられる。
 西浜方面から津軽四郡へ派兵してくる安藤氏に対し、延徳三年(一四九一)、光信は赤石川上流に種里城を築き安藤氏撃退の拠点とし、翌明応元年(一四九二)、赤石川河口の赤石村と種里村の中間にある日照田村の小丘を利用して赤石城を築き、実弟信建を城主とした。

 金沢氏を復興した光信は南部党の一つとして機能したのであって、八戸南部氏の家臣ではなかったと解釈すると金沢氏の独立運動は非常に理解しやすい。

 金沢氏の独立性を示す問題として光信の嗣子問題がある。光信には当時実子がなく、後継者がなかった。そこで、新庄信春の次子を養子とするのであるが、この新庄信春、藤崎城番は三年交代であったのだが、頑強に拒否し主家を梃子摺らせていた。これを気に入った光信は是非にと信春の次子夫婦を大浦城へ招き養嗣子としたのである。大浦城は五代村の古館であったのを養嗣子の為にわざわざ改修したものだという。