金沢家光

金沢家光
生歿年:?~一四六八(一四七〇?)
父・久慈則信南部家行?
子・大浦光信金沢家信

 右京亮。金沢南部氏当主。元信か。
 応永三十四年(一四二七)二月、南部屋形(則信?家行?)が久慈領主久慈小四郎安倍久国を滅ぼし、下久慈城主となったという。その後、仙北城主となる。家光は南部屋形の三男と言う。
 家光は永享六年(一四三四)十月二十三日、家光は右京亮に補任(『津軽一統志』付巻収録「金沢家光任右京亮口宣案」)された。この頃家督したと考えられる。則信(家行か?)が歿した為か。

 金沢氏は羽州仙北金沢城に拠った南部信濃守の後裔と考えられ、南部信濃守は小笠原党であったという。九戸氏も小笠原党であると言われ、久慈領主であったという伝承と符合する。また、九戸氏の官途左京亮も奇妙に一致する。

 家光は文明二年(一四七〇)七月、秋田一揆にて戦死したともいう。また、応仁二年(一四六八)までに仙北の金沢氏は払拭されたとも言われる。

津軽家