雄略天皇

籠もよ み籠もち ふくしもよ みぶくし持ち この丘に 菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ やまとの国は おしなべて 吾こそををれ しきなべて 吾こそませ 我こそは 告らめ 家をも名をも
作者の第21代雄略天皇は允恭天皇の第5皇子で、安康天皇の同母弟。
気性が激しいため天下の人々には「大悪天皇」との謗りを受けていたようだ。安康天皇が眉輪王に刺殺された後、王位につくため兄の坂合黒彦皇子、八釣白彦皇子をもその黒幕として殺害。時期天皇の有力候補だった市辺押磐皇子を狩に誘い出し射殺して即位。
平群、大伴、物部の軍事力をがバックに武力と政略結婚により各地の豪族達を従え、強大な地方政権を持っていた吉備しき
昭和53年に稲荷山古墳(埼玉県行田)出土の鉄剣の銘文「獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)」はこの雄略天皇のことだといわれている
                     
名前 第21代 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう) 大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけ)
                     
親族 父親 允恭天皇(いんぎょうてんのう)
  母親 忍坂大中姫命(おしさかのおおなかつひめ)
  皇后 草香幡梭姫皇女 (くさかはたひひめ)
  妃 葛城韓媛 ---子=白髪武広国押稚日本根子尊(清寧天皇
吉備上道稚媛
春日和珥童女君
                     
皇居 泊瀬朝倉宮(はつせのあさくら)
奈良県桜井市黒埼にある白山神社に冒頭紹介した万葉の歌碑がある。この白山神社あたりからその東にある天の森一帯が泊瀬朝倉宮があった場所だと云われている。
ただ、現在も残る「泊瀬(はつせ)(初瀬)」と呼ばれる地名はもう少しだけ東に入った長谷寺や慈恩寺あたりのことをいう。
略歴(5世紀)
418-戊午-允恭07年12月 生誕
453-癸巳-允恭42年01月14日 父帝允恭天皇(いんぎょうてんのう)崩御
456-丙申-安康03年08月09日 兄安康天皇が眉輪王によって刺殺され崩御。
知らせを受けた雄略は自分の兄達を疑い、まず同母兄の八釣白彦皇子を斬り、続いて円大臣の家に逃げ込んだ同母兄の坂合黒彦皇子と眉輪王を家ごと焼き殺す。
真実のところは分からないが、あまりに対応が素早すぎるし、弁明の機会も与えられていないようだ。
雄略によって仕組まれた報復劇だったような気がして仕方がない。
456-丙申-安康03年10月01日 皇位を約束されていた従兄弟の市辺押磐皇子を巻狩に誘いだして射殺してしまう。押磐皇子の弟御馬皇子もこの月に伏兵に捕らえられ処刑されたとある。
456-丙申-安康03年11月13日 泊瀬朝倉宮で即位
457-丁酉-雄略01年03月03日 草香幡梭姫皇女 (くさかはたひひめ)を皇后とする
458-戊戌-雄略02年07月 百済の池津姫を宮中に入れようとしていたが、池津姫は石川楯(いしかわのたて)と通じてしまう。怒った雄略は夫婦の四肢を木に張りつけ桟敷の上で焼き殺させたという。
460-庚子-雄略04年02月 葛城山で狩
現人神の一事主尊と出会い一緒に狩をして轡を並べ馳せあった。言葉も恭しくまるで仙人に会ったかのようであったという。
460-庚子-雄略04年08月18日 吉野宮へ行幸
狩をしていて弓を構えているとき虻が飛んできて雄略の肘を噛んだ。そこへ蜻蛉が飛んできて虻を咥えて飛び去る。
雄略は蜻蛉を褒め、この地を蜻蛉野(あきつの)とした
461-辛丑-雄略05年02月 葛城山で狩
暴れる猪を射殺すよう命じたが臆病な舎人は恐れて木に登って逃げ、猪は雄略にむかってきた。弓で突き刺し踏み殺す。狩も終り、逃げた舎人を斬り殺そうとしたところを皇后に諌められる。
「国人はみな、陛下は狩をなさり、猪を好み給うというでしょう。これは良くないこと。いま陛下が舎人を斬られたら、たとえば陛下は狼に異なりません。」
雄略は「楽しいことだ。人はみな狩をして獲物を得るが自分は狩をして良い言葉を獲物として帰る」と言い「万歳(よろずよ)」と叫んで帰ったという。
462-壬寅-雄略06年02月04日 泊瀬の小野で遊ぶ
こもりくの はつせのやまは いでたちし よろしきやま わしりでの よろしきやまの こもりくの はつせのやまは あやにうらぐはし あやにうらぐはし
小野を名付けて道小野といった。
463-癸卯-雄略07年07月03日 「三輪山の神が見たい、捕らえてこい」と命じられた少子部連が大きな蛇を捕まえてきた。大蛇は雷のような音をたて雄略は殿中に隠れてしまう。(いままでの武勇伝に比べると少しおかしいが。)
大蛇は丘に放たれる。この丘を名付けて「雷(いかづち)」とした。
478-戊午-雄略22年01月01日 白髪武広国押稚日本根子尊(しらがたけひろくにおしわかやまとねこ)(清寧天皇)を皇太子とする。
479-己未-雄略23年07月01日 発病する
479-己未-雄略23年08月07日 崩御 62歳
480-庚申-清寧01年10月09日 丹比高鷲原陵(たじひのたかわしのはらのみささぎ)に葬られる