[16]イハレビコの東征のおはなし(初代天皇神武天皇伝説)

神武東征のおはなし
さて、古事記もいよいよ前半のハイライトへと向かって参ります。ここから物語は、ウガヤフキアエズの長子イツセと末弟のワカミケヌ(以後、イワレビコ)の話が中心となってまいります。

ある時、イワレビコは兄イツセに、『より良くこの葦原中国(天下)を治めるために、東方へ向かはないか』と提案をします。これを受けて、兄弟は東へと旅立つことになります。これが、かの有名な神武の東征です。一行は、次のようなルートを辿り、時間をかけながら、東側を目指していくことになります。

	

社伝によれば、宮崎神宮の鎮座地は、イワレビコが東征以前に造営した最初の宮があった場所としている。

	
	

社伝によれば、都農神社の鎮座地は、イワレビコ一行が、東征に向かう際に、祭祀を行った場所だとしている。

	

イワレビコの最初の皇后とされる吾平津昆売命(アヒラツヒメ)を祀り、イワレビコ一行の安全を願った場所と言われている。
[ルート1:大分県]
まず、日向の高千穂を出発し、北に進路を取ります。すると、豊国(ふこく)の宇佐という場所に辿り着きます。そこでは、宇沙都比古(ウサツヒコ)と宇沙都比売(ウサツヒメ)の二人が、一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)と呼ばれる仮宮を作り、食事を振る舞いました。

	

由緒書きによれば、「八幡総本社である宇佐神宮一帯は、神武天皇東遷の聖蹟」とされ、まず一行は椎根津彦命(しいねつひこのみこと)の先導によりこの「柁鼻」に上陸したと言います。このため、ご祭神もイワレビコの父にあたるウガヤフキアエズにつづき、兄イツセ・イワレビコの三柱の神々が祀られている。

	
	

宇佐神宮は、ご存知、八幡神社の総本社とされる由緒深い神社となるが、当社の境内に、この一柱騰宮があった場所と比定される騰隈(とうのくま)と呼ばれる土地があるという。しかし、この比定地とされる場所は、宇佐市内を中心に複数あり、その真偽は定かではないが、「日本書紀」によれば、宇佐の豪族 菟狭津彦(ウサツヒコ)菟狭津媛(ウサツヒメ)の御兄妹がその一柱騰宮(あしひとつあがりのみや)を造営し、大御饗(おおみあえ:食事)を奉りお迎えしたという。

	
	

妻垣神社は、こちらも同じく、一柱騰宮があった場所と比定される場所であり、宇佐神宮の境外摂社の一つでもある。その縁起においては、イワレビコ一行の勅命を受けて、天種子命(アマノタネコ)に、母后である玉依媛命(タマヨリビメ)を祀らせたとしている。この為、ご祭神には、玉依媛命を中心として、応神天皇、神功皇后などが祀られている。

	

[ルート2:福岡県]
そこから更に北上して、筑紫の岡田宮(おかだぐう)で1年過ごしました。そう、現在の福岡県北九州市です。
岡田宮は、北九州市に鎮座する古社で、神日本磐余彦命(カムヤマトイワレビコ)、つまり、神武天皇を主祭神に祀っている。かつては、ここにイワレビコが一年ほど逗留され、八所神を祀ったと伝えられるが、その起源は今ひとつ不明の上、あくまで、伝承候補地のひとつである。
[ルート3:広島県]
そして、いよいよ一行は、本土へ上陸します。先ず、最初に阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年間過ごします。こちらは、現在の広島県府中市あたりになります。

	

多家神社は、多祁理宮の跡地に創建された神社とも伝えられており、祭神には、やはり、神武天皇を祀り、共に、安芸津彦命と称される安芸国の開祖神が祀られている。式内の名神大社に列している。

	

[ルート4:岡山県]
続いて、今度は、吉備国の高島宮(たかしまぐう)で8年過ごします。こちらは、現在の岡山県玉野市あたりとなり、日本書紀では、その滞在年数を3年間としています。こうして、長い年月をかけて東方に移動してきた一行も、これより数々の苦難に見舞われます。
高島神社は、岡山市内を中心に複数確認できる高島宮の比定社となる。中でも、岡山市南区の高島神社と同市中区の高島神社が最も有力視されており、御祭神には、やはり神武天皇が祀られていると考えられている。
[ルート5:大阪府]
先ず、一行が浪速(なにわ)の渡(現在の大阪湾)を過ぎ、白肩津(しらかたのつ)(現在の東大阪市付近)に停泊していると、そこには、登美(とみ)(現在の奈良市)の豪族であった長髄彦(ナガスネヒコ)が軍勢を率いて攻めてきました。この戦で、兄イツセは、ナガスネヒコの矢を手に受け、負傷してしまいます。そして、イツセは、「我々は、日の神の子なのに、日に向かって(東を向いて)戦ったのが良くなかった。今度は、太陽を背にして(西を向いて)戦うことにしよう」とその敗因を述べました。この為、一行は、敵の東方に回り込むために、大きく南側に進路を取り、迂回することを決めました。

	

同社の境内には、「神武天皇御東征孔舎衛坂古戦場」と刻まれた碑が建てられている。この碑は昭和15年に建立されたものとなるが、これはかつて同地が、この古事記の言う白肩津付近であったとし、ナガスネヒコが兄イツセに負傷を負わせたのが同地であるとしている。

	

[ルート6:和歌山県]
しかし、一行は、体勢を立て直すところまできたものの、紀国の男之水門(みなと)に到着したあたりで、傷が悪化していた兄イツセは、「卑しい敵に傷つけられて死んでしまうのか」と無念の言葉を残し、叫び声を上げて死んでしまいました。この為、これ以降は、イワレビコ唯一人が軍を率いていくことになります。

	

当地は、五瀬命が男之水門(雄湊)で雄叫びをあげて崩御された、まさに、その場所と比定されており、境内には、「神武天皇聖蹟男水門顕彰碑」という石碑が建立されている。

	
	

こちら竈山神社は、御祭神に、兄イツセを祀っている。古事記によれば、紀伊国竈山に墓が作られたとしているが、当地がまさしく、その竈山の地であるとし、墓が作られてすぐ近くに同社が建立されたとしている。

	

ヤタガラスのおはなし
その後、一行は紀伊半島を大きく迂回し、熊野に到着をしました。すると、突然、大きな熊が現れ、姿を消したかと思うと、途端に一行は、悪しき神の息吹に当たって意識を失い、倒れ込んでしまいました。あわや全滅かと思われたところでしたが、この時、熊野の高倉下(タカクラジ)が太刀を持って現れるのでした。

そして、タカクラジは、その太刀を使って悪しき神の息吹をなぎ祓い、一行を救出します。意識を取り戻したイワレビコは、タカクラジよりその太刀を受け取りました。すると、熊野にいた荒ぶる神は逃げ去っていきました。そこで、イワレビコは、タカクラジに、今までの経緯を尋ねてみたところ、こう話出しました。

ある日、タカクラジは寝ていたところ、その夢の中に、高天原の天照大神(アマテラス)と高木神(タカギノカミ)が現れました。高木神は、別名、高御産巣日神(タカミムスヒ)と言い、天地開闢の際に、三番目に現れた神で、世界創成の鍵を握る根源神のひとつであります。両神は、武の神、建御雷神(タケミカヅチ)を呼び出し、葦原中国(地上)にいる神の御子が窮地に陥っていることを伝え、支援を呼びかけたのです。 悪しき息吹

	イワレビコの軍勢が上陸した島!?

実は、紀州南端(和歌山県西牟婁郡すさみ町)に、『稲積島(いなづみじま)』という島がある。ここは、かつて、『イワレビコが東征の折に、食糧の稲をこの島に積み上げた島』と言われ、その名が付いていると言われている。
しかし、タケミカヅチは、かつて、自分が降臨し、国を平定した時に用いた太刀があるので、その太刀を授けましょうと返答しました。そして、タケミカヅチは、タカクラジの倉の屋根にこの太刀を落とすから、天津神の御子の元に届けよとの命をタカクラジに授けました。翌朝、目を覚ましたタカクラジは、実際に、倉の屋根に太刀があったので、お告げに従い、馳せ参じたと伝えるのでした。そして、この太刀こそ、ミカフツ神、または、フツノミタマと言い、現在、石上神宮に鎮座していると言われてます。

	
	石上神宮は、上記の通り、葦原中国平定に使用された剣の魂を祀っている。当初は、物部氏の祖、宇摩志麻治命(ウマシマジ)により宮中で祀られていたが、崇神天皇7年(紀元前91年)に、勅命を受けて、物部氏の伊香色雄命(イカガシコメ)が現在地に遷し、「石上大神」として祀ったとされる。また、同社は、そんな言われも関係していてか、大和王権における武器庫の役割を果たしていたとされおり、この物部氏は、神武天皇の御魂をこの神剣をもって鎮める鎮魂儀礼をはかった鎮魂祭なるものを初めて行った氏族と言われている。因に、「日本書紀」で、神宮の呼称が使用されているのは、「伊勢神宮」とこの「石上神宮」のみとなっている。
	
		こうして、イワレビコは、タカクラジから真相を聞くと、高木神の声が響き渡りました。そして、「荒ぶる神がひしめくこの場所からは、奥には入ってはなりません。八咫烏(ヤタガラス)を遣わすので、その導きに従いなさい」というメッセージを耳にしました。すると、ほどなくして、ヤタガラスが現れたため、一行は、そのヤタガラスの導き通り、その後を付いていくことにしました。因に、ヤタガラスは、三本足のカラスとして知られ、今では、熊野信仰のシンボルマークとして知られています。

一行は、ヤタガラスに続き、吉野川の河上に到着します。すると、河で魚を獲っている者がおりました。その名を尋ねると、その者は、「この土地の長であり、贄持の子(ニエモツノコ)と申します」と答えました。そして、一行が更に進むと、今度は、泉の中から尾の生えた者が現れ、同じく名を尋ねると、同じく「この土地の長であり、井氷鹿(イヒカ)と申します」と答えました。更に、山の中に入って行くと、また尾の生えた者が現れ、同様にその名を尋ねると、「この土地の長で、石押分の子(イワオシワクノコ)と申します」と答えたと言います。

これは、等しくいずれの者ともその名を聞くやり取りのみが残っているのですが、これは、一説には、一行が現地の首長たちを屈服させていった流れであるとしています。そして、そこで言われている三つの者とは、ニエモツノコが、阿陀の鵜飼の祖を示し、イヒカが、吉野の首の祖、イワオシワクノコが、吉野の国巣の祖であるとしています。こうして、一行は、熊野の土豪たちを帰順させ、宇陀(うだ)に辿り着くのでした。

	

八咫烏神社は、八咫烏の真相を探る上で、ひとつの大きな手がかりを持つ神社と言える。同社では、建角身命という地元の豪族を、その姿から八咫烏と称えられたとしており、この宇陀という場所も、神武天皇が八咫烏に導かれた最終地と考えれば、いろいろな点で符号するところもあり、非常に興味深いところである。

	
	八咫烏(ヤタガラス)とは一体何なのだろうか。

サッカー日本代表のエンブレムにも使用されているヤタガラス。その意味は勿論、熊野信仰のシンボルマークである。そんなヤタガラスは、当然のことながら、この神武東征における逸話を起源にしている。その実態は多くの謎に包まれているが、古来、中国では、三足烏(さんそくう)と呼ばれる伝説上の生き物の存在が伝えられており、「太陽」を象徴とするものだと考えられてきたという。この為、一説には、これは、太陽の黒点を意味するともされ、その真偽は別にせよ、日の御子たるイワレビコを導くという点では、こうした起源に何かしらの影響を受けている可能性は否定できない。因に、三種の神器のひとつ、八咫鏡も同じく、「八咫」という言葉を用いるが、これは、「大きい」という言葉の意味ともされている。

また、ヤタガラスは、代表的な「御先(ミサキ)」のひとつでもあると言われる。「ミサキ」とは、神が現れる予兆や使いの役割を果たす存在とされ、イワレビコを導いた役割は、まさに「ミサキ」そのものであると言える。最近では、この「ミサキ」という言葉は耳慣れないが、、昔は、憑き物という意味にも用いられ、体調不良など一種の予感として現れる兆候にも用いられた。例えば、寂しい道を歩いている最中の突然の悪寒や頭痛がするのはミサキのためといわれ、山口県萩市六島町では脳溢血で倒れた人を同様に「ミサキ風にあたった」と言っていたという。

そう考えると、イワレビコ一行が、「悪しき神のいぶきにあたった」という表現もこれに近い感じがしないでもないが、熊野という地は、太陽の黄泉返る場所。最も日の出に近い場所である。日の出を拝み、そこに現れたミサキ、ヤタガラス。真相は不明だが、イワレビコ一行の復活を告げる場所としては、最適な地であり、組み合わせであるということが出来る。更には、『山城国風土記』・『新撰姓氏録』・『古語拾遺』などによれば、ヤタガラスは賀茂氏の祖、加茂建角身命(カモタケツノミ)の化身であったという指摘を残している。つまり、ヤタガラスとは、山城国葛野(かどの)の鴨氏の祖先であるという指摘である。そう考えると、イワレビコの元に遣わされた援軍ともとれなくもないが、果たして、真相は如何に。
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