[6]八岐大蛇退治のおはなし(スサノオ伝説)

古事記万物創世のおはなし
五穀の誕生
さて、高天原を追放されたスサノヲは、ひとまず、出雲に向かいます。しかし、その道中でお腹を空かせたスサノヲは、『食物』の神、大宜都比売(オオゲツヒメ)に出会います。オオゲツヒメと言えば、神生みでヒノカグツチの前に生まれたあの神様です。そこで、スサノオはオオゲツヒメに何か食べ物はないかと尋ねます。

すると、オオゲツヒメは、スサノヲに、様々な食物を与えるのですが、次々から次へと出て来る食べ物に不審を抱いたスサノヲは、こっそり、その食事を用意をするオオゲツヒメの様子を見てしまいます。すると、オオゲツヒメは、鼻や口、尻などから食べ物を取り出し、それを調理して、スサノヲに差し出していました。これを知ったスサノヲは、そんな汚い物を食べさせたのかと激怒し、そのままオオゲツヒメを斬り殺してしまいました。

すると、オオゲツヒメの頭から蚕、目から稲、耳から粟、鼻から小豆、陰部から麦、尻から大豆が生まれました。これを高天原から見ていた神産巣日神(カミムスビ)は、この五穀を採取し、種として地上に授けたといいます。
これは、まさに五穀の誕生を意味し、汚物や死体から作物が生まれるという穀物の循環再生の連鎖を象徴した話として有名です。因に、「日本書紀」では、同様な話が、月読命保食神(うけもち)の話として登場します。このように神の死体から作物が誕生するという食物起源の話を一般に、ハイヌウェレ型神話と呼び、類似型の話は、世界的にも多く見られるようです。

	日本書紀との違い

このオオゲツヒメの亡骸から五穀が誕生するという逸話は、「日本書紀」の中でも見られるのですが、実は、その登場する神さまが大きく異なります。スサノオに変わる存在が、ツクヨミで、『穀物』の神さまは、オオゲツヒメの代わりに、保食神(ウケモチ)という神さまが登場します。そこでも同じように、ウケモチは食事のもてなしを口から出していたため、ツクヨミから「けがらわしい」と怒りを買い、ウケモチが剣で撃ち殺されてしてしまっている。

	
		上一宮大粟神社(かみいちのみやおおあわじんじゃ)

:宮崎県西臼杵郡高千穂町岩戸1073-1
上一宮大粟神社の社伝によれば、大宜都比売(オオゲツヒメ)が伊勢国丹生の郷(現在の三重県多気郡多気町丹生)から馬に乗ってこの阿波国に来て、この地に粟を広めたとされます。しかし、実際のところ、時代背景的に、この話がどの時代の話かはよく分かりません。一応、主祭神としても、オオゲツヒメを祀ります。

	

八岐大蛇退治のおはなし
その後、スサノヲは、先ず、出雲国(いずものくに)の肥河の畔(現在の斐伊川)に降臨を果たします。すると目の前に、とある老夫婦が、娘と一緒に泣いているのを目にしました。この老夫婦は、足名椎命(アシナヅチ)と手名椎命(テナヅチ)といい、娘は、櫛名田比売(クシナダヒメ)と言いました。スサノヲは、何事かあったのかとその老夫婦に尋ねると、老夫婦は、こう答えました。

「この近く(船通山)には、8つの頭と尾を持ち、体には、コケや木が生え、腹はタダレて、血を垂らした八岐大蛇(ヤマタノオロチ)という大蛇がいるんです。実は、私たちには、8柱もの娘たち(八稚女:やおとめ)がいたのですが、毎年、この大蛇に娘が食べられてしまい、今年もその時期が迫り、このままでは、最後の娘であるクシナダヒメも食べられてしまうのです。」とのことでした。

これを聞いたスサノヲは、老夫婦に、自らの出自(高天原から来たこと)を告げ、そのクシナダヒメを妻に差し出すことを条件に、八岐大蛇の退治を引き受けることにしました。スサノヲは、先ず、8つの生け垣を作り、老夫婦にその門ごとに強い酒、八塩折之酒(や しおおりのさけ)を満たした桶をを置くように指示をします。

そして、クシナダヒメを隠すために、クシナダヒメを櫛(くし)の姿に変えて、自分の髪に挿しました。そして、八岐大蛇が来るのを待っていると、いよいよ、その大蛇が姿を現しました。それぞれの頭は、スサノヲが仕掛けた通りに、酒桶に頭を突っ込むと、そのままガブガブと酒を飲み出しました。すっかり酒を飲み干すと、大蛇は、そのまま酔っぱらい、その場で寝てしまいました。

すると、これを好機と見たスサノヲは、自ら十拳剣を引き抜き、大蛇に切り掛かり、無事、八岐大蛇を征伐したのでした。そして、八岐大蛇の尾を切り刻んだ時、なんと、十拳剣の刃が欠けてしまいました。これを不思議と思い、見てみると、そこに、太刀(たち)が現れ、スサノヲは、これをアマテラスに献上するのでした。

そして、この時の太刀こそ、後に三種の神器のひとつに加わる、草薙(くさなぎ)の剣となります。ただ、この草薙剣という呼称は、かなり先の話で、この時はまだ、ヤマタノオロチの頭上に雲気が掛かっていたために付けられた、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)と呼ばれておりました。

	
		八重垣神社(やえがきじんじゃ):島根県松江市佐草町227

八重垣神社は、スサノヲが八岐大蛇退治の時、クシナダヒメを佐久佐女の森(現境内、奥の院、鏡の池がある森)の大杉を中心に、八重垣を造って、避難した地と言われています。また、その後、暫く、両神が御夫婦生活を送った場所とも伝えられますが、両神が夫婦生活を送った地としては、次の須我神社が有名となります。

	
	
		宗形神社(むなかたじんじゃ) :岡山県赤磐市是里3235

宗形神社の西にある「血洗の瀧」は、(スサノオ)がヤマタノオロチを退治した後に、剣についた血を洗った滝だと言われております。境内に「瀧神社遥拝所」と書かれた石碑があり、血洗の瀧の遥拝と思われる場所があります。

	

国津神の時代へ
ここからは、少々補足になりますが、こちら八岐大蛇伝承から、古事記では、国津神の神々を中心としたストーリー、スサノヲからみて6代末裔にあたる大己貴命(オホナムチ)の話となります。その後のスサノヲの動向としては、そのオホナムチが、根の堅州国に向かった時に、、根の堅州国の王として、再び登場するだけで、詳細は、ほとんど分かっておりません。

一部、退治後、須賀の地に宮殿を建てて、アシナヅチを宮の首長に任じて、その宮を稲田宮主須賀之八耳神(いなだのみやぬしすがのやつみみのかみ)と名付けたとありますが、根の堅州国に向かうまでの詳しい動きは余り分かっていません。しかも、このオホナムチ誕生までの間には、かなりの数の神さまが誕生しており、中には、神社の中でもとりわけ有名な神様もこの時、誕生しておりますので、少しばかり、補足しておきたいと思います。
上図が、スサノヲから、オホナムチまでに至る、その家系全図となります。古事記を代表とした神話が、敬遠されがちな理由のひとつに、神さまの名前が分かりにくい、覚えにくいというのがありますが、もう一つ、その関係図が非常に分かりにくというものがあります。

特に、こちら国津神の系図では、スサノヲを中心に、第一妃として上げられるクシナダヒメが、山の神、大山津見神(オオヤマツミ)からみれば、孫神にあたるものの、第二妃となる神大市比売(カムオホイチヒメ)は、祖父神、大山津見神の娘神にあたります(叔母ですね)。

しかも、クシナダヒメとの間に生まれた自身の子、八島士奴美神(ヤシマジヌミ)は、今度は、祖父であり、父でもあるオオヤマツミの娘神と、夫婦関係になってしまうのです。これを見ただけでも、その関係は非常に複雑で、どこをどうみればいいのか分からなくなってしまうほど、複雑な構成となっています。

これは、後に登場するスサノヲのもう一柱の娘、須勢理毘売命(スセリビメ)が、6代先の子孫である大己貴命と夫婦となる場面でも同様です(時代的に合わない?)。そのため、常識的な見地から解釈をしていくと非常に訳が分からなくなってしまうので、ある種、神様を自然の要素として考え、自然現象が起こるその足し算、かけ算的なものかなとみていくとすんなり理解できることもあります。

また、この系図に示されている神様ですが、木花知流比売命(コノハナチルヒメ)は、浅間神社でも有名な木花開耶媛命(コノハナサクヤビメ)に対して名付けられた神様とされ、コノハナサクヤビメが、花が咲くというイメージに対し、コノハナチルヒメは、花が散るといった可憐な、儚いイメージを持っているとされます。

そして、その夫となるヤシマジヌミは、国生みで誕生した大八洲をすべて知る神、いわゆる日本の国土を知る神という言い方が出来るようです。これは、神様の漢字からその意味を類推する考え方となりますが、これが、必ずしも、本来の意図であったかどうかは定かではありません。

ただ、これらの系譜の中でも、宇迦之御魂神(ウカノミタマ)は、稲荷神社を代表とする神様として有名ですし、大年神(オオトシノカミ)は、正月を祝う際に、おもてなしをする神様として、特に有名で、両神とも、農業を司り、五穀豊穣を祈る際には、非常によく見られる神様となります。

この両神をきっかけとして、全体像を見た場合、山の神であるオオヤマツミを筆頭に、大地の神であるオホナムチに至る過程をみると、実は、全体として、自然形成、あるいは、その移ろいを示しているのではないかという気もしますが、これもひとつの推論として、ご紹介しておきます。

	
		須我神社(すがじんじゃ):島根県雲南市大東町須賀260

須我神社は、スサノヲが八岐大蛇を退治した後、クシナダヒメとともに住む土地を探し、当地に来たところ「気分がすがすがしくなった」として「須賀(須我)」と命名し、そこに宮殿を建てて鎮まったと伝えられています。そして、この時、日本で初めての宮殿が建てられた地とされ、「日本初之宮(にほんはつのみや)」とも呼ばれています。

	
	
		須佐神社(すさじんじゃ):島根県出雲市佐田町須佐730

須佐神社は、スサノオが、各地を開拓した後に当地に来て最後の開拓をし、「この国は良い国だから、自分の名前は岩木ではなく土地につけよう」と言って「須佐」と命名し、自らの御魂を鎮めた地とされています。しかし、この後、根の堅州国に向かうスサノヲにとって、いつの時代の話かは定かではありませんが、最終的にスサノヲの魂が落ち着いた場所と言われ射るのが、この須佐神社となります。

	
	
		石上布都魂神社(いそのかみふつみたま):岡山県赤磐市石上字風呂谷1448

石上神宮(いそのかみじんぐう):奈良県天理市布留町384
こちら両社は、十拳剣(とかのつるぎ)にまつわる神社として有名で、最初、石上布都魂神社に祀られていたものが、市川臣命が勅を奉じて、石上神宮に移されたとしています。石上布都魂神社では、当初、布都御魂(フツノミタマ)を祀っておりましたが、明治以降に、スサノヲに変わりました。石上神宮では、そのまま布都御魂大神(フツノミタマノオオカミ)などが祀られております。

	
	
		多倍神社(たべじんじゃ):島根県出雲市佐田町反邊1064

多倍神社は、スサノヲが、八俣大蛇を退治した剣の御神霊を祀っていると伝えられており(こちらも十拳剣を意味するのでしょうか?)、いつの時代の話かは不明ですが、スサノヲが、鬼退治をしたという伝承も伝えている神社になります。かつては、須佐神社の境内社のひとつではありましたが、明治に独立を果たし、現在に至ります。

	
	埼玉県民のルーツは、島根県民?

実は、現、埼玉県にあたる武蔵国と出雲は非常に深い関係があると言われています。その代表が、さいたま市大宮区にみられる大宮氷川神社などですが、氷川神社の氷川とは、このスサノヲが、最初に出雲の地に降臨した肥河の畔、つまり、現在の斐伊川から来ているとされ、斐伊神社はまさに、大宮氷川神社のルーツと目されております。また、埼玉県毛呂山町に鎮座する出雲伊波比神社(いずもいわいじんじゃ)は、かつて出雲から人が移り住んで来た名残を強く残す地として有名ですし、武蔵の国造りの面々も出雲国出身者などとも言われています。
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