中山家

中山家 羽林家 旧家 外様       200石

藤原氏北家師実流花山院庶流 侯爵

居所・石薬師通北側(京都市上京区)

平安末期に創設。

21代愛親は老中松平定信と閑院宮典仁親王の尊号問題で対峙したことで知られる。

24代忠能は王政復古の功で賞典禄1500石を下賜されている。彼の妻は随筆集「甲子夜話」の著者松浦静山の12女愛子で、二人の間に生まれた慶子は明治天皇の生母となっている。

14代・親綱(ちかつな)

13代中山孝親の子 母は五辻諸仲の娘

生没・天文13年(1544)~慶長3年(1598)

正二位権大納言

正室・白川雅業の娘

子女・15代慶親 為親(今城家家祖)

親子→後陽成天皇典侍

女子→今出川季持室



15代・慶親(よしちか)

親綱の子 母は正室白川雅業の娘

生没・永禄9年(1566)~元和4年(1618)

従二位権大納言

正室・有馬則頼の娘(則頼は当時三田藩主、久留米藩藩祖豊氏の父)

子女・16代元親



16代・元親(もとちか)

慶親の子 母は正室有馬則頼の娘 

生没・文禄2年(1593)~寛永16年(1639)

正三位権大納言

正室・不詳

子女・17代英親



17代・英親(ひでちか)

元親の子 母は別所氏

生没・寛永4年(1627)~延宝2年(1674)

正二位権大納言

正室・不詳

子女・養子篤親(18代)



18代・篤親(あつちか)

正親町実豊の子 母は某氏

生没・明暦2年(1656)~享保元年(1716)

従一位権大納言

正室・不詳

子女・19代兼親 定綱 孝廉 

重孝(庭田重条養子) 女子→柳原資堯室

19代・兼親(かねちか)

篤親の子 母は某氏

生没・貞享元年(1684)~享保19年(1734)

従一位准大臣

正室・庭田重条の娘

子女・20代栄親 実連(正親町公通養子)

20代・栄親(よしちか)

兼親の子 母は正室庭田重条の娘 

生没・宝永6年(1709)~明和8年(1771)

正二位権大納言

正室・勧修寺高顕の娘

子女・養子愛親(21代) 

愛徳(花山院長?養子) 

隆師(四条隆叙養子) 理子→光格天皇典侍

21代・愛親(なるちか)

正親町実連の子 母は某氏 

生没・寛保元年(1741)~文化11年(1814)

正二位権大納言、贈従一位

正室・今城定種の娘

子女・22代忠尹 韶有(英彦山座主孝宥養子)

公陳(河鰭実祐養子) 

女子→藤波寛忠室 績子→仁孝天皇大典侍

重基(庭田重能養子) 女子→今城定成室

女子 →野宮定静室

22代・忠尹(ただまさ)

愛親の子 母は正室今城定種の娘 

生没・宝暦6年(1756)~文化6年(1809)

正二位権大納言

正室・三条実顕の娘

子女・23代忠頼 

女子→大炊御門経久室

基茂(園基理養子)

23代・忠頼(ただより)

忠尹の子 母は正室三条実顕の娘 

生没・安永7年(1778)~文政8年(1825)

正二位権大納言

正室・正親町三条実同の娘

子女・24代忠能 忠徳 

女子→勘解由小路光宙室

基万(園基茂養子)

24代・忠能(ただやす)

忠頼の子 母は正室正親町三条実同の娘 

生没・文化6年(1809)~明治21年(1888)

正一位准大臣

正室・園基茂の養女(平戸藩松浦清の娘)

子女・25代忠愛(嫡子は孝麿) 

慶子→孝明天皇典侍(明治天皇生母)

公董(正親町実徳養子)

忠光(忠愛養子) 

勝任(安中藩板倉勝殷養子、後に離縁)

女子→庭田重胤養女

女子→田中藩本多正憲室

養女(正親町公董の娘)→正親町実正室


中山氏 ●枡形の内に月/虎杖/丹の字
●武蔵七党丹党後裔 
 

 中山氏は武蔵七党の一つ丹党の後裔と伝える。丹党は宣化天皇の後胤で、彦武王のときに多治比古姓を賜り、峯時のときから関東に居住、 その孫の武綱のときに秩父郡領になったといわれる。武綱の曾孫秩父基房には数人の男子があり、嫡子直時が勅使河原を、二男綱房は新里を、三男の成房は榛原を、四男の重光は小島を、そして経家が高麗五郎を名乗った。
 高麗五郎経家の次男家季は加治二郎を名乗り、元久二年(1205)六月、武蔵国二俣川において畠山重忠と戦って討死した。その子の加治豊後守家茂は亡父の菩提を弔うため円照寺を建立、以後、同寺が加治氏歴代の菩提寺となった。また、二男の助季は『吾妻鑑』『承久記』に散見し、仁治元年(1240)二月、鎌倉将軍頼経が上洛のとき随兵のひとりとして加わっている。この助季の子孫がのちに中山を領して、地名によって中山を名乗るようになったのだという。
 加治一族は鎌倉御家人となったが、その後、北条氏が執権として幕政を牛耳るようになると、その御内人として活動するようになったようだ。そして、来迎寺の板碑を建てた家茂の孫の加治泰家、嘉元三年(1305)に北条宗方の乱に与して討たれた加治光家とその叔父の助家、そして、『太平記』にあらわれる「加治二郎左衛門入道」ら加治の嫡流と思われる人物が断片的に史料にあらわれる。二郎左衛門入道は加治家貞のことであり、元弘三年(1333)、新田義貞が倒幕の挙兵をしたとき、小手指河原、分倍河原で新田軍を迎撃して討死した人物である。現在、加治二郎左衛門入道の供養板碑が円照寺に遺され、鎌倉幕府の陥落の日を伝えている。
 中山氏も加治一族として行動したであろうことは疑いないが、歴史に顕われるところはなく、助季以後の動向は明確ではない。

北条氏麾下に属す

 中山氏の系図をみれば、戦国時代の当主は勘解由家仲(一説に家勝)で、家仲は山内上杉氏に属していたようだ。天文十四年(1545)、山内上杉氏が扇谷上杉氏・古河公方と連合して北条方の河越城を攻撃したとき、中山氏も山内上杉氏に属して出陣した。翌年、北条氏康の計略によって山内上杉氏らの連合軍が敗れると、北条氏康に属するようになった。以後、北条氏に従って各地に転戦した。
 その後、北条氏康の二男氏照が八王子城主となると、家仲の子勘解由家範は重臣のひとりとして氏照を支えた。永禄十一年(1568)、武田信玄麾下の小山田信茂の軍勢が相模国に侵攻してきた。このとき、家範は氏照に迎撃を命じられて、横地吉信らとともに出陣、武田軍と激戦を展開したという。
 天正十八年(1580)、豊臣秀吉の小田原征伐が開始された。八王子城主北条氏照は主戦派の中心であり、兵四千を率いて小田原本城に籠城した。一方、城主不在の八王子城は城代の横地監物を主将として、狩野 一庵、大石信濃守、金子家重、近藤助実、そして中山家範らが守備についていた。六月二十三日、前田利家上杉景勝らが指揮する豊臣方北方軍が攻撃を開始した。家範、狩野一庵らはよく防戦し奮戦したが、衆寡敵せず、城は半日の戦いで落城した。城代の横地監物は敗兵をまとめて、平山氏の守る檜原城に落ちていった。家範らは城を枕に討死し、妻子一族も戦死あるいは自害した。
 家範の子照守も北条氏照に仕えていたが、小田原の役に際しては、氏照に従って小田原城に籠城したようだ。そして、小田原落城後、世を隠れて加治に閑居した。ところが、八王子城における家範の忠死を感じていた家康に召し出され、弟信吉とともに徳川氏に仕えることになった。

徳川氏に仕える

 慶長五年(1600)、関ヶ原の役にあたって照守は、中山道に道をとった徳川別働軍を率いる徳川秀忠に属した。この秀忠軍の前に立ち塞がったのが、西軍に属して上田城に拠った真田昌幸であった。秀忠は一気に上田城を揉み潰そうとしたが、昌幸の巧みな用兵に翻弄され、ついに関ヶ原の合戦に間に合わなかったことはよく知られている。 この上田城の戦いにおいて、照守は朝倉宣政・太田吉正・鎮目惟明・辻久正・戸田重利・御子神 典膳らとともに奮戦、「上田七本槍」または「真田表七本槍」と称されて讃えられた。しかし、現実には軍令違反の上に敗戦でもあり、のちに照守は秀忠から閑居を命じられた。ほどなく赦免された照守は、大坂の陣にも供奉、元和の大坂陣には御使番を務めた。そして、累禄して三千五百石の知行に至った。子孫は旗本中山氏として続いた。
 一方、照守とともに徳川家に仕えた弟の信吉の方は、慶長十二年(1607)、家康の命を受けて水戸頼房の付家老となり、常陸松岡に二万六千石を領した。子孫は水戸藩家老職を世襲し、明治後男爵となった。
 ところで、照守の曾孫直邦が大名となった。直邦は外祖父黒田広綱に養われ、広綱の家を継いで黒田を称した。常陸の下館、上州沼田の城主を経て、久留里三万石を領するに至った。養家の黒田氏は橘姓で家紋は「木瓜」であったが、直邦が家を継いでからは、中山家の紋である「枡形の内に月」を替紋にしている。一つの家において、家紋が増えていく過程が知られる話である。

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歴代当主 [編集]~



1. 中山忠親(1131年-1195年)

2. 中山兼宗(1163年-1242年)

3. 中山忠定(1188年-1256年)

4. 中山基雅(?-?)

5. 中山家親(?-?)

6. 中山定宗(1317年-1371年)

7. 中山親雅(1353年-1402年)

8. 中山満親(1371年-1421年)

9. 中山定親(1401年-1459年)

10. 中山親通(1426年-1462年)

11. 中山宣親(1458年-1517年)

12. 中山康親(1485年-1538年)

13. 中山孝親(1513年-1578年)

14. 中山親綱(1544年-1598年)

15. 中山慶親(1567年-1618年)

16. 中山元親(1594年-1639年)

17. 中山英親(1627年-1674年)

18. 中山篤親(1657年-1716年、正親町実豊子)

19. 中山兼親(1685年-1734年)

20. 中山栄親(1709年-1771年)

21. 中山愛親(1741年-1814年、栄親弟正親町実連子)

22. 中山忠尹(1756年-1809年)

23. 中山忠頼(1778年-1825年)

24. 中山忠能(1809年-1888年)

25. 中山忠愛(1832年-1882年)

26. 中山孝麿(1853年-1919年)

27. 中山輔親(1894年-1980年)

28. 中山忠敬