内藤家(岩村田藩)

内藤家

内藤家 岩村田藩  下がり藤  1万5000石

信濃佐久郡岩村田(長野県佐久市 )
                 譜代 城主格(安政5年)

移封加減増履歴・元禄6年→武蔵赤松1万6000石・元禄16年→信濃岩村田1万6000石・同年→摂津河内の内・正徳元年→信濃岩村田1万5000石
江戸城詰席・菊之間 子爵 上屋敷・神田明神下
参勤・参府、帰国とも3月~9月の間、文化期の江戸御供数は58人(この内士分は13人)
人口・全領地1万4999人、家数2240件

                                    寛延元年(1748)現在

■藩祖正勝の祖父正吉の兄忠重は長男だったが、別家を興して鳥羽3万5000石の大名となっている。別家したのは父忠政が養子に迎えた清成(竹田宗仲の子)に家督を継がしたため。
忠政の家督を継いだ清成の家は高遠藩内藤家で、当家岩村田内藤家とともに明治維新を迎えるが、忠重の鳥羽藩内藤家は3代目の忠勝が宮津藩主永井尚長を刺殺し、切腹・除封となっている(尚長の祖父尚政へ清成の娘が嫁しているので、忠勝と尚長は縁戚関係にあった)。

忠重・正吉・正次の実父で清成の養父である内藤忠政は清正の子で、この清正の兄にあたるのが清長である。清長の長男は家長で延岡藩内藤家を興している。さらに、清長に養育された家康の異母弟といわれる信成が、興した家が村上藩内藤家となる。
以上の大名内藤一族の関係から、嫡流は延岡内藤家ということになる。内藤一族が三河松平氏に仕えるのは清長・清正の父内藤義清からである。

なお、刃傷から切腹・除封となった内藤忠勝の甥にあたるのが、元禄の刃傷事件を起こす浅野長矩。忠勝の姉が長矩の母という近縁関係にある。
忠勝が切腹・除封となった延宝8年(1680)、長矩は数えで14歳だった。父長友が早く亡くなったので長矩は9歳で藩主となっている。

また、忠勝が永井尚長へ向かってさらに刀を振り下ろそうとするところを、後ろから羽交い絞めに抱き止め刀を奪い取って、目付に引き渡したのが延岡内藤家の支藩・湯長谷藩内藤政亮であった。政亮にはこの功により2000石が加増されている。

藩祖・正勝(まさかつ)
内藤正季の長男 母は北条政房の娘
生没・寛永20年(1643)~元禄7年(1694)
祖父正吉の弟内藤正次の養子となり、寛文10年(1670)正次の家督を継ぎ、5000石を知行する
元禄6年(1693)書院番頭、留守居を歴任、この年に大坂定番となり、1万石を加増される
従五位下上野介
正室・内藤正次の娘
子女・2代正友

2代・正友(まさとも)
正勝長男 母は正室内藤正次の娘
生没・寛文3年(1663)~正徳元年(1711)
家督・元禄7年(1694)相続
従五位下式部少輔
正室・屋代忠位の娘(忠位は安房北条藩主、失政から除封されるも祖先の勲功によって旗本として存続)
継室・旗本稲垣重氏の娘
子女・3代正敬 正直(別家)

3代・正敬(まさゆき)
正友次男 母は某氏
生没・宝永2年(1705)~延享3年(1746)
家督・正徳元年(1711)相続
従五位下下総守
正室・庭瀬藩板倉重高の娘
子女・4代正弼 頼寛(高遠藩内藤頼由養子)

4代・正弼(まさすけ)
正敬長男 母は正室板倉重高の娘
生没・享保16年(1731)~明和7年(1770)
家督・延享3年(1746)相続
従五位下美濃守
正室・鞠山藩酒井忠香の娘
子女・5代正興

5代・正興(まさおき)
正弼次男 母は正室酒井忠香の娘
生没・宝暦6年(1756)~寛政4年(1792)
家督・明和7年(1770)相続
従五位下志摩守
正室・白河藩阿部正敏の娘
子女・女子→6代正国室 養子正国(6代)

6代・正国(まさくに)
山形藩水野忠鼎の四男 母は某氏
生没・安永2年(1773)~享和2年(1802)
家督・寛政4年(1792)相続
従五位下美濃守
正室・正興の娘
子女・養子正縄(7代)

7代・正縄(まさつな)
山形藩水野忠光の三男 母は某氏 
生没・寛政7年(1795)~万延元年(1860)
家督・享和3年(1803)相続
従五位下豊後守
正室・岩槻藩大岡忠正の娘
子女・正義 正厚(今尾藩竹腰正富養子)
信民(村上藩内藤信思養子)
女子→松前藩松前徳広

○正義(まさよし)
正縄長男 母は某氏
生没・文政4年(1821)~安政元年(1854)
正室・磐城平藩安藤信由の娘
子女・8代正誠 信勇(磐城平藩安藤信民養子)
女子→小泉藩片桐貞照室

8代・正誠(まさのぶ)
正義長男 母は某氏
生没・弘化2年(1845)~明治13年(1880)
家督・万延元年(1860)相続
従五位下志摩守
明治10年(1877)隠居
正室・なし