南部家(盛岡藩)

南部家 盛岡藩 丸に向かい鶴  20万石格

陸奥岩手郡盛岡(岩手県盛岡市 )  外様 城主
正保城絵図・盛岡城
移封加減増履歴・陸奥盛岡10万石・寛文4年→8万石・天和3年→10万石・文化5年→20万石格
専売品&専売開始年・領内の全産物(弘化4年、産物会所・藩札会所による専売) 鉄(嘉永2年)
江戸城詰席・大広間 伯爵
上屋敷・外桜田、愛宕下三方小路
参勤・例年4月参府、享保6年幕府供人数制限令では10万石以上は、馬上10騎・足軽80人・中間人足140~150人と規定されたが、当家の供人数は江戸中期で500~600人、規定が改正された後期で300人ほど。江戸まで15日間の道中
人口・全領地総計35万8222人、この内男19万6612人、女1610人
盛岡城下町に限ると1万6909人、この内男9310人、女7599人 宝暦5年(1755)現在
当家の藩政改革はこちらを参照
南部家の祖は、新羅三郎源義光より6代の孫の南部光行である。初め甲州南部郷にあったが、源頼朝の奥州征伐以降は糠部郡三戸を本拠とした。
戦国末期には現在の青森県全域と岩手県東域を領していたが、藩祖利直の父信直の代に、青森県東域と岩手県のほぼ全域の10万石を領地とするよう豊臣秀吉に命じられている。
関ヶ原・大坂の陣では徳川方に属し、10万石の所領は安堵された。
藩祖・利直(としなお)
南部信直の長男 母は某氏
生没・天正4年(1576)~寛永9年(1632)
従四位下信濃守
家督・慶長4年(1599)相続
正室・蒲生氏郷の義妹(氏郷は会津92万石の国主、正室は織田信長の娘、氏郷没後に子秀行は宇都宮12万石へ減知移封、関ヶ原の戦いで家康方に与し会津60万石を与えられる、が、秀行を継いだ子忠郷に継嗣なく除封となるところ母が家康の娘であったため忠郷の弟忠知の相続が許され伊予松山24万石へ減知移封、が、忠知に継嗣なく蒲生氏は除封断絶となる)
子女・2代重直 女子→最上義俊室(出羽山形57万石の藩主だったが家中騒動から除封、名跡相続として近江大森1万石が与えられるも、さらに5000石減知となり旗本[交代寄合]として存続する)、その後に離縁
重信(重直養子、3代) 直房(別家八戸藩藩祖)
2代・重直(しげなお)
利直長男 母は蒲生氏郷の義妹
生没・慶長11年(1606)~寛文4年(1664)
家督・寛永9年(1632)相続
継嗣を定めずに死没したため無嗣除封の危機に陥るも、古来からの名家により、弟の重信に8万石、直房に2万石を分け与えることになる
従五位下山城守
正室・水口藩加藤嘉明の娘
子女・養子勝直(佐倉藩藩祖堀田正俊の弟) 
養子重信(3代)

3代・重信(しげのぶ)
藩祖利直の五男 母は某氏
生没・元和2年(1616)~元禄5年(1692)
家督・寛文4年(1664)相続
従四位下大膳大夫
正室・家臣玉山秀久の娘
子女・4代行信 女子→鳥取藩池田綱清室
女子→播磨山崎藩本多忠英室、後に有馬豊祐室(豊祐は筑後松崎藩主だったが親類大名家の家中騒動を相談されたにも拘らず放置したため除封)
政信(別家) 勝信(別家)
通信(八戸藩南部直政養子)
4代・行信(ゆきのぶ)
重信長男 母は某氏
生没・寛永19年(1642)~元禄15年(1702)
家督・元禄5年(1692)相続
従四位下信濃守
正室・長門府中藩毛利光広の娘
子女・女子→郡上藩青山幸督室 
女子→丹後田辺藩牧野英成室 
女子→八戸藩南部直政室
女子→豊後佐伯藩毛利高久室 5代信恩 
利幹(信恩養子、6代) 
女子→福岡藩黒田宣政室
5代・信恩(のぶおき)
行信三男 母は某氏 
生没・延宝6年(1678)~宝永4年(1707)
家督・元禄15年(1702)相続
従五位下備前守
正室・長門府中藩毛利綱元の娘
子女・女子→高槻藩永井直期室 
養子利幹(6代) 利視(利幹養子、7代)

6代・利幹(としもと)
4代行信の四男 母は某氏 
生没・元禄2年(1689)~享保10年(1725)
家督・宝永4年(1707)相続
従五位下大膳亮
正室・蜂須賀隆長の養女(隆長は阿波富田藩2代藩主、富田藩は3代続いた後に本家併合・廃藩)
子女・養子利視(7代) 利雄(7代利視養子)

7代・利視(としみ)
5代信恩の三男 母は某氏 
生没・宝永5年(1708)~宝暦2年(1752)
家督・享保10年(1725)相続
従四位下大膳大夫
正室・高田藩榊原政邦の娘
子女・養子利雄(8代) 
女子→丹後田辺藩牧野惟成室 
利正(利雄養子、9代)

8代・利雄(としかつ)
6代利幹の次男 母は某氏
生没・享保10年(1725)~安永8年(1779)
家督・宝暦2年(1752)相続
従四位下大膳大夫
正室・加賀藩前田吉徳の養女
子女・利謹(嫡子を辞退) 養子利正(9代)
女子→熊本新田藩細川利庸室

9代・利正(としまさ)
7代利視の七男 母は某氏
生没・宝暦2年(1752)~天明4年(1784)
家督・安永3年(1774)利雄の養子となり、安永9年(1780)相続
正室・一門南部信起の娘
子女・女子→彦根藩井伊直中室 10代利敬
女子→高崎藩松平輝延室
10代・利敬(としのり)
利正次男 母は某氏
生没・安永8年(1779)~文政3年(1820
家督・天明4年(1784)相続
正室・広島藩浅野重晟の娘
子女・養女(高崎藩松平輝延の娘)
養子利用(11代・前) 
養子利用(11代・後)
11代・前・利用(としもち)
一門南部信丞の長男 母は某氏 
生没・文化4年(1807)~文政4年(1821)
家督・文政3年(1820)相続
正室・なし
子女・なし
11代・後・利用(としもち)
一門南部信浄の三男 母は某氏
生没・享和3年(1803)~文政8年(1825)
家督・文政4年(1821)利用の急死により身代わりとして参府、そのまま相続
正室・加賀藩前田斉広?の娘
子女・養子利済(12代)

12代・利済(としただ)
8代利雄の子利謹の次男 母は某氏 
生没・寛政9年(1797)~安政2年(1855)
家督・文政8年(1825)相続
従四位下信濃守
嘉永元年(1848)隠居
正室・10代利敬の養女
継室・家老楢山隆冀の妹
子女・13代利義 利剛(利義養子、14代) 
謹敦(盛岡新田藩南部信誉養子)

13代・利義(としとも)
利済長男 母は某氏  
生没・文政6年(1823)~明治21年(1888)
家督・嘉永元年(1848)相続
正四位甲斐守
嘉永2年(1849)隠居
正室・彦根藩井伊直亮の娘
子女・養子利剛(14代)
14代・利剛(としひさ)
利済次男 母は某氏  
生没・文政9年(1826)~明治29年(1896)
家督・嘉永2年(1849)相続
奥羽列藩同盟に参加していたため、明治元年(1868)隠居を命ぜられ領地を収公される
正三位美濃守
正室・水戸藩徳川斉昭の娘
子女・女子→華頂宮博経親王室 15代利恭
英麿(大隈重信養子) 
信方(盛岡新田藩南部信民養子) 
女子→肥前小城藩鍋島直虎室
15代・利恭(としゆき)
利剛長男 母は某氏 
生没・安政2年(1855)~明治36年(1903)
家督・明治元年(1868)相続、陸前白石13万石が新たに与えられ、明治2年(1869)版籍奉還後に盛岡へ復す
従二位甲斐守
正室・宇和島藩伊達宗城の娘
継室・新田藩溝口直溥の娘
継室・浅野懋昭の娘(広島藩13代長勲の妹)